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《超適当雑記139》2025年9月20日(土)【母親~氷解する思い~③】

〚5445文字〛
こんにちわ。入谷です。
まず感謝ご報告についてお伝えします。前回までの記事について、マガジンにてご紹介していただいた方々へお礼申し上げたいと思います。


■感謝とご報告〚259文字〛 

momoさま

メルト&クリエイトさま

ペリンさま

の3名の方より、以下の記事、

について、
マガジンへ追加していただきました。
当面は母親に関する回想の記事となる予定ございますが、いつも取り上げてくださり、本当に感謝しております。皆様のご好意がとても励みになっております。
どうもありがとうございます!今後ともよろしくお願い申し上げます

※ ※ ※ ※ ※

■母親~氷解する思い~③〚5140文字〛

前回『母親~氷解する思い~②』はこちら。 ↓ ↓ ↓

・子供時代の母親・

子供の頃の母親との思い出には、あまり良いものないかもしれません。
笑った顔も、我が子を安心させる態度もありません。
いつもイライラしていて、精神的に余裕がなく教育や規律に厳しいところがあり、何か僕がミスをすると、すぐ感情的になって怒り出す、そんな母親でした。

それは凡そ自分の所為でもありました。
自発的に勉強する子供ではなく、提出物も遅れがちで、つまるところ出来が悪かったから、母親がこうも怒るのだと思っていました。

小学3年の頃だったと思います。
あまりに母親が仏頂面で、怒ってばかりいるので、漢字ドリルの問題の『商店街』を『笑点街』と、わざと間違えて書いて見せたら、
深いため息を吐かれ、「どうしてそんな馬鹿な間違いをするんだ!」と、呆れた顔で冷たく言われたのに傷付き、
もう二度と冗談を言って笑わせようだなんて思わなくなりました。

僕は当時、他の子供に比べて太っていました。
それでイジメられてもいました。
病院で肝機能の数値を指摘されて検査するも原因が分からず、食べ過ぎだから減量するように、と医者から言われましたが、
今思えば、それは先天的な内臓疾患によるもので、決して食べ過ぎが原因でないことは明らかでした。
なぜなら質素な朝食と夕食、学校の給食は一回おかわりするくらいで、うちには太るようなおやつもないし、どう考えても食べ過ぎということはあり得ませんでした。

それでも数値の改善には痩せることは必須で、母親はさらに厳しい食事制限と運動を課してきました。
それは僕のためであったことには違いありません。けれどその時は正直虐待としか思えませんでした。
最初は1日30分の腕立てと縄跳びやるように言われました。
が、僕がしっかりやったか信じられないのか、今度は走った記録が表示されるルームランナーを持ってきて、1時間走るように言われました。
運動が苦手だった僕はすぐにへばってしまい、止まっていると、後ろから鬼の形相の母親がダスキンモップで殴るのです。
その時の母親の顔が今でも忘れられません

イジメに対して母親が助けてくれることはありませんでした。
母親は当時、近所のクリニックで働いており、イジメっ子も、イジメっ子の家族も患者だったため、何も言えなかったと、大分後になってから聞かされました。
僕が上級生に追い掛け回されている姿をいつもクリニックの窓から見ていたそうです。
母親は弁解として、(僕が)果敢に応戦していたから助けなかった
と付け加えていましたが、そもそもそれなら最初から言わないでほしいと思いました。

主に母親が、木の傍に立って見ている。この言葉は僕自身あまり好きではありませんが、子供の頃の母親はまさに『毒親』だったのかも知れません。

なぜ母親がこうした人間になったかは、子供時代から何となく理解していました。
祖父が関係しているのではないか、と。

ある時、どうしても欲しいミニ四駆のパーツがありました。
しかし母親は、僕に小遣いを渡すと買い食いをすると思っていたらしく、全くもらえない時期がありました。
それで近所にある祖父の家に遊びに行った時、祖父がこっそり小遣いくれました。祖父は僕には優しい人でした。
しかしそれが母親に知られ、買い食いの疑いを掛けられたうえに、ミニ四駆の話をしたら、金をもらいに行くようなみっともない真似をするな、と、また鬼のような顔で怒りました。祖父が関係すると母親は特に感情的になるのです。

そして一通り怒鳴り散らした後で、決まって必ずこう言うのです。

「私はあんたみたいに親に迷惑掛けなかった!!。結婚以外のことは!」

と。

それも母親の口癖でした。

これが母親という人間を紐解く上で重要なワードなのです。


・傷付いたインナーチャイルド・ 

「私はあんたみたいに親に迷惑掛けなかった!!。結婚以外のことは!」

母親の口癖人生の悲しい歴史を物語っていました。

男子が優遇される田舎特有の超封建的な家庭で生まれ育った母親は、弟の叔父と区別されて鬱屈した少女時代を過ごし、
進学や結婚も遺産相続の権利も、跡取りとなる叔父のために我慢と犠牲を強いられてきました。
そのため、希望の進路選択は許されず、女は23までに結婚しなければならないという祖父の絶対的な意見に従い、遠縁の親戚=祖母の叔母の息子=である父親と見合い結婚をするに至りました。
昭和50年代でもあり得ない時代錯誤な家柄だったのです。

その結婚生活も決して幸せでなかったことは、
これまでの記事に書いた通りですが、その後発覚した父親のギャンブル依存症には心底失望したことでしょう。
さらに同居生活が始まると、それまで優しかった父方祖父母(義両親)が豹変。その本性が露になります。

嫁に来るまでは、にこやかで敬語だったものが、一緒に住み始めた途端、きつい口調の呼び付けになり、壮絶な嫁いびりが始まりました。
自分に非があると謙虚に従う姿勢だったものの、嫁いびりの理由が、実家に対する妬み嫉みだったと分かり、母親は堪らなかったと思います

そんな中僕が生まれます。
父方祖父母は初孫と喜び、僕を取り上げては可愛がり(同居が解消されると急に飽きられます)、あらゆる教育方針の提案を聞き入れてもらえないばかりか、輪に入ることも許されなかった母親は、次第に孤立を深めていきました。
勿論、パチンコに夢中の父親に相談しても袖にされるだけ。母親に頼れる人は誰もいなかったのです。

その頃から母親の中に希死念慮があったようです。
祖父母から「子供(僕)は自分たちが見る」「お前は働いて金入れろ」と言われ、母親は働きに出ましたが、その行き帰りに偶然事故死することを願っていた、と子供の頃に何度か聞かされました。
僕も祖父母に懐いていたし、母親は卑屈な思いでいっぱいだった、と述懐していました。

ある時、父親が無断で預金を使い込んでいたこと分かり、色々なことが積み重なって我慢の限界を迎えた母親は、離婚を覚悟で義実家を出ました。
僕が4つの時です。夜遅く、眠る子供を起こして「一緒に来るか?」と聞いたところ、僕が「嫌だ。この家に居たい」とぐずったため、母親は一人で出て行きました。

数十キロの道のりを徒歩で夜通し歩き、実家へ辿り着いた翌日の昼。
祖父は取り合ってくれず、「お前はもう嫁にやったのだから戻って来るな」と無下にされます。
その時は周囲が母親を庇って中へ入れてくれたものの、父親との関係が修復されるまでの半年、祖父は依然として冷たい態度を変えず、また気遣うこともなく、母親を突き放していました。母親も祖父の顔色を窺って過ごしていたそうです。

祖父の態度の根っこにあるのは自分の財産の心配家を守るためでした。
そもそも23で結婚を急かしたことも、行かず後家になって財産に食い潰すことがあってはならないと考えていたからです。
出戻り別居ならなお悪く、祖父は母親を疎ましく思っていました

母親は祖父からたった一言でもいい、優しい言葉を掛けて欲しかったと思うのです。でもそれは叶わなかった。

母親は恐らく、本当に結婚以外で親に心配を掛けたことがなかったのでしょう。
こんなひどい男尊女卑の家に生まれて、
祖父に認められようと、自分を殺して良い子を演じ、決して与えられぬ愛を求めて、親にとって迷惑にならないよう必死に努めてきた悲しい子供だったのです。
きっと叔父の前でも良い姉として振る舞っていたのだと思います。

そうして育てられた母親の内なる子供は、抑圧されて膨れ上がり我が子を前に爆発させていたのです。

母親の𠮟り方は、親が子供を叱っているというより、怒りの目線が、姉弟間のそれであったように思えるところがありました。

出来の悪さという部分で自分をさらけ出す僕の中に、明るく奔放で自己主張できる叔父の姿を見たのか、
『私は(子供の頃から)ずっと我慢していたんだ』
『それなのにお前はどうして(親の前で)素の自分で出せるんだ』
という、無意識の憎悪があったのではないか、と思われます。

母親が怒る時の鬼の形相は、子供を叱る時の顔ではなかった。
子供を叱るという行為を通して、今まで溜め込んでいたものを吐き出していたのです。
そこに何十年もの間熟成された怒り、憎しみ、悲しみが込められていたと思うと、祖父には、一言謝罪してからあの世へ行ってもらいたかった、と率直に思います。

・複雑な印象を持つ母親・

それでも母親の義務や責任に対する態度は真面目で、奇妙な献身性もありました。
病気の父親を看病し、父親の死後、誰からの援助もなしに、普通の生活を守ろうと男になって働いてくれました。
僕が高校受験を前に眼病を発症し、連日の病院通いが始まった時も、毎回仕事を抜け出して診察の予約を取りに行ってくれ、親としての役割を果たそうと一生懸命でした。

女性が一人で働いて子供を育てることは、今も昔も大変であったことに違いないでしょう。
不器用な人ですから、上司におべんちゃらも言えなかっただろうし、上手く立ち回ることも出来ずに、仕事でも、いらぬ人間関係の苦労をしてきたと思います。
クリニックで働いていた時には、経営者の医院長から良く思われおらず社会保険に入れてもらえないまま、理不尽な人員整理で辞めることになり、当時相当病んでいたことを思い出します。

それから介護士になり、40を過ぎてきつい肉体労働を日々を過ごしていきますが、母親にとって介護職は合っていたのか、本人にとって天職だったようです。
しかし最初に勤めた病院では肉体的な限界が来、50を前に身体介護の少ない現在の職場に転職。

元々母親は結婚前、働きながら曾祖父の介護をしている時期があって、亡くなるまでの間、付き添って世話をしていたそうです。
下の世話も、口腔ケアも抵抗はないと以前から話しておりました。
母親は機嫌が良い時、介護について「便を手で受け止めてこそ、プロフェッショナル」と話していたのを思い出します。
誰かの世話をすることはあながち嫌いでないのでしょう。けれど、母親の悲しいところは、そういう優しい部分を誰にも分かってもらえないところにありました。

宿命とは、どちらの道を選んでも、必ずそれを選ばざるを得ないものかもしれません。

母親にはずっと負い目がありました。
それは同居を解消した義実家で、僕たちが出てすぐ、舅である父方祖父がくも膜下出血で倒れて寝た切りになり、また義理の兄である伯父も脳出血で療養のために実家へ戻って来、姑である父方祖母は、介護に、世話に、大変な晩年を過ごしていました。
義実家で同居を続けていれば、舅と義理の兄の介護、その後は姑の介護をすることになることは予測され、同居を解消して新しい家に移り住んだら、今度は父親や僕の看病や世話が待っており、さらに介護士として働くことになるわけですから、本人も因縁を感じていたことでしょう。

母親は誰かの介護することを仕事としながら、それが自分に与えられた罰であると考えてもいたようです。
こうしたところに自己憐憫の癖があり、皆を病気にして不幸にしたのは私の所為だ、と口にすることがよくありました。
病気は現象の一つに過ぎないのに、そこに感情を付け誤った捉え方をするのが問題であって、病気が誰かの所為であるはずなどありません

成長するにつれ、母親の印象というものが複雑になっていきました。
頑固で生真面目で不器用、抑圧的で被害者意識が強く、癇癪玉のように怒り出すところがある一方、義務や責任をしっかり果たし、献身的に人に尽くして世話をする優しい一面もあって、時に卑屈で、ひどく自虐的な暗い感情に浸る時もある・・。
不信感や嫌悪感もあれば、感謝すべき部分も沢山ある可哀想でもあり、心配でもある。

感謝や思い遣りの気持ちを持って接しようとしたら、それをぶち壊すような態度を取られ、関わりたくないと思うほど嫌気が差してくると、今度は急に可哀想に見えてきて、声を掛けずにはいられなくなる。

10代の頃はすれ違いの連続で、僕は一体どこを見て対話をしなければいけないのか、母親という存在が分からなくなっていました。
気分屋というわけではないけれど、振り回される
振り回されるけれど、母親の生い立ちを考えれば、それも仕方ないこと。しかし仕方ないと理解してあげられるほど、僕も大人ではなかった

次第にそんな母親に疲弊していきました。
怒ってばかりの子供時代の母親も嫌だったけれど、不安定な姿を見るのはもっと辛かったのです。

その後、大学に入学した僕は自分の意志で家を出ます

次回《母親~氷解する思い~④》へ続きます。

※ ※ ※ ※ ※

ではでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。
皆様の明日が明日が素晴らしい1日になりますように。


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