F1のタイヤはなぜ「むき出し」なのか? │トンボとハチに通じる制約と進化の話
はじめに:F1カーの違和感
先日、息子の子供向けクルマ雑誌を眺めていたときのことです。F1カーの特集ページに、「環境に配慮してカーボンニュートラル燃料やハイブリッド・パワーユニットを導入しています」といったことが書かれていました。
今時らしい取り組みだなと思いつつ、モータースポーツに明るくない私の頭にはこんな疑問が浮かんできました。
「それだったら真っ先に空気抵抗の大きそうなむき出しのタイヤやコックピットをどうにかした方が良いのでは?」

むき出しのタイヤとコックピットはどう考えても走行時の空気抵抗になっていそうです。
市販のスポーツカーのように車体全体がカウリングで滑らかに覆われていた方が、環境負荷の低減だけでなく、単純な速さにも繋がるではないか、と素人の私は考えてしまいます。
世界最高峰のカーレースと言われるF1で、なぜそこをケアしないのでしょうか?
しかし調べていくにつれ、F1は単純な「速さや効率」を求めるだけの世界ではなく、生物の進化にも通じる「制約の中での最適化」の世界であることが分かってきたのでした。
第1章:F1がフルカウルにならない理由
調べてみると、F1カーのタイヤにカウルが無い理由として以下のような要因が出てきます。
ブレーキの冷却:F1のブレーキは走行中に数百℃まで上昇。タイヤ周辺を覆うと冷却気流が妨げられる恐れ。
操舵干渉の回避:前輪には大きな舵角が必要。固定カウルはステアリング時に干渉しやすく、クリアランスの確保のための工夫が必要。
タイヤ交換の迅速性:F1では数秒以内での交換が求められるため、覆いがあると作業導線や工具アクセスが悪化。
ドライバーの視認性:タイヤの舵角や摩耗状態を視覚・感覚で把握する文化が根強い。
なるほど、どれも一理ありそうです。
しかしこれらはカウル付の車体で行われるの他のレースカテゴリ(ル・マン24時間耐久レースなど)では普通に行われていることであり、現代の技術では解決不可能な問題ではないように思えます。
それよりも根本的な理由は、レギュレーション(規則)にあります。
F1は国際自動車連盟(FIA)によって定められたカテゴリの一つであり、「オープンホイール・オープンコックピット」であることがレギュレーションで規定されているのです。
なので「F1にカウリングが無いのはなぜか?」という問いへの根本的な答えは、「F1とはそういうものだから」ということになります。
レギュレーションは生物の設計上の制約(発生的制約)に似ています。例えば人間に翼が生えたりしないのが当たり前のように、F1は「オープンホイール・オープンコックピット」であることが当たり前なのです。
第2章:F1の歴史│市販車からレース専用車へ
では、「オープンホイール・オープンコックピット」というF1の原則はどのようにして生まれたのでしょうか?
近代自動車の歴史は、1886年のカール・ベンツによるガソリン自動車の発明から始まります。
やがて市販車が社会に普及し、技術開発を促すために市販車やその改造車を用いたレースが開催されるようになりました。これは自動車の耐久性や速度などの性能を測る公開実験の場でもありました。
発祥当時の自動車は馬車の延長のような特徴が多く、ホイールはボディと離れており、タイヤの上側は自転車のようなフェンダー(泥除け)で覆われているのが一般的でした。

フェンダーは日常用途では泥跳ね等への対策として必需品でしたが、レースの現場では重量増加や整備性の悪化の要因となり、取り外されることが多かったようです。
また、コックピットを覆うような構造も、重量増加やガラス等の部品の破損リスク、緊急時の脱出の妨げになる、などの理由から避けられたようです。
当時のまだ未熟な自動車技術を考えれば、トラブルや事故の多いレースにおいてオープンコックピットが主流だったのも自然なことだったと考えられます。
下の写真は、F1設立(1950年)より前の、1930年の市販車レース「フランス・グランプリ」を制したフィリップ・エタンセランとそのマシンです。
タイヤはフェンダーを取っ払ったむき出しの姿、コックピットも簡素なシールドのみの開放型で、ドライバーが風を受けながらマシンと一体となり、純粋な走りを追求する当時のレースの文化や精神が伺えます。

やがてさらなる速さや耐久性を求め、徐々にレース専用に設計された車両が登場するようになり、自動車レースはF1に代表される「レース専用車」のカテゴリと、「市販車ベース」のカテゴリに分岐していきました。
F1は自動車レース黎明期から続く、上の写真のような「純粋なレーシングカー」の延長線上の存在なのです。
第3章:市販車側の進化│フェンダーの空力機能への転用
一方の市販車は、日常の利便性と安全、そして美的価値を求めて進化していきました。
フェンダーはボディと一体化し、自動車のデザインの一部として洗練されていきます。また、航空力学の知見が設計に取り入れられると、全体をカウリングで覆う滑らかな形が主流になっていきました。
当初はただの泥除けだったフェンダーが、空気抵抗の低減という走りの性能に関わる新しい機能に発展・転用された形です。
このような機能転用は、「魚のエラの骨→顎」、「恐竜の羽毛→鳥の翼」のように、生物の進化にも似ているのが興味深いです。

ボディとフェンダーの一体化や、空力設計の先駆け的存在
この流れは市販車ベースカテゴリの耐久レースなどにも波及し、ル・マン24時間レースなどではタイヤやコックピットが完全にカウリングされたスタイルが一般的になりました。
これは長時間走行における燃費、挙動の安定性、ドライバーの負担の低減などを重視すると、空気抵抗を抑えることが大きな価値を持つためです。

第4章:F1の思想とアイデンティティ
市販車および市販車ベースのレースの側では、カウリングにより空気抵抗への対抗策を進化させましたが、F1はどうだったのでしょう?
F1では、「オープンホイール・オープンコックピット」による空力面のデメリットを、強大なエンジン出力でねじ伏せて相殺するという発想だと考えられます。
これはF1が比較的短距離のスプリント競技であることや、効率よりも「人と機械の限界を引き出す」ことに価値を置くという思想によって成り立っていると考えられます。
また、F1では空気抵抗を「ダウンフォース」という形で積極利用している面も特筆すべきでしょう。フロントタイヤが巻き起こす乱流でさえも、リアウイングに向かって流れるように制御することでダウンフォースを増やすような工夫をしています。
このような現代のF1の象徴の一つである大型ウイングも、導入当初(1960年代末ごろ)は「こんなのF1じゃない」「ドライビングの純粋性が失われる」といった反発が強かったと伝えられています。
しかし、ダウンフォースの効果による圧倒的なコーナリング性能の向上と、レギュレーションの整備が進むにつれ、F1の要素として受け入れられるようになっていったと考えられます。
また、F1は単純にタイムや順位を競うだけの競技ではなく、観戦スポーツでもあります。
むき出しのタイヤは、ダイナミックなステアリングの動きやグリップ限界での挙動、タイヤの摩耗状況などの情報を観客にダイレクトに伝えます。
開放コックピットにより、観客はドライバーの操作や体の動きを視覚的に感じ取ることができます。
これらの「見せる」要素もF1のアイデンティティであり、もしフルカウル化されるとその「らしさ」が失われてしまう可能性があるのです。
また空力を追求しすぎるとどれも似たような車体形状になり、ル・マンや他カテゴリーとの差別化が曖昧になるという懸念もあります。
F1がF1であるために、「見せ方」を守ることにも大きな意味があるのです。
コックピットの保護については長年議論され、現在はHALOというT字形のバーのような保護デバイスが採用されており、ドライバー保護と視覚的なF1らしさの両立を図る折衷案として落ち着いている感があります。
一方で、F1と並ぶオープンホイールの最高峰カテゴリである「インディカー」では、近年「エアロスクリーン」方式が採用されています。

以下リンクは現行の改良版エアロスクリーンに関する記事
確かにコックピットを覆うことは見た目の印象にかなりインパクトがあり、コレジャナイ感が生まれるのも否めません。
コックピットの保護構造は、安全性とアイデンティに関わる難しい問題であることが伺えます。
また、タイヤのカウリングについても厳しく制限がなされていますが、近年(2022年以降)のF1カーではフロントタイヤの上に小さな台形状のカウリングのような構造(Front wheel deflectorと呼ばれるパーツの一部)が見られるのが興味深いです。

(コックピット前方に見えるT字形の構造がHALO)
これはレギュレーション上も合法で、タイヤのカウリングではなく、ボディ側の空力パーツという位置づけになるようです。このようなレギュレーションの解釈による工夫もF1の魅力なのかもしれません。
過去に以下の記事でハクジラの特殊な咽頭構造について触れましたが、生物と機械の違いはあれど、制約(発生的制約/レギュレーション)の巧妙な回避という点で共通点を感じます。
第5章:トンボ的なF1、ハチ的な市販車
F1と市販車のそれぞれの進化の方向性の対比は、生物においてトンボとハチによく当てはまると思います。
トンボは4枚の翅をそれぞれ独立に筋肉で直接動かしており、昆虫の飛翔方法としては基盤的(原始的)な仕組みです。翅を畳むこともできません。
胸部の翅の付け根はゴツゴツとした形状で、顔は巨大な複眼が大半を占め頭でっかちで、お世辞にも流線型とは言えない形状ですが、急旋回、急停止、ホバリング、バックなど、空中で抜群の機動性を持ちます。
(※昆虫レベルの大きさの世界では流線形が必ずしも最適という訳ではありません。)

ハチの飛翔方式はトンボよりも派生的(進化的)です。
前後の翅はロックされており一体構造として効率的に動き、折り畳みも可能です。
また、筋肉が翅を直接動かすのではなく、筋肉によって胸部の外骨格を共振させることにより、筋肉の伸縮速度以上の高速な羽ばたきを行うことができます。
胸部の翅の付け根の構造はコンパクトで、胸部は表面は滑らかなカウリング的な形状をしており、短距離から長距離まで高い汎用性を持っていると考えられます。

トンボよりハチの方が飛翔の仕組みとしては新しく、空力やエネルギー効率においては優れていそうですが、現実はどうでしょうか?
トンボはハチのような新しい効率的な仕組みは持っていませんが、「4枚の翅を独立に動かせる」という特徴を活かした高機動性に特化し、空中戦において昆虫としては最強の部類に数えられると思います。
(旧型の強力だけどピーキーな機体で最新機を圧倒する強キャラ感。)
つまりどちらが新しい/優れているかではなく、もともとの設定思想と適応した環境が異なるだけなのです。
F1はトンボ的な瞬間的機動と極限の勝負の世界、カウリングされた市販車はハチ的な効率と汎用性の世界に近い存在と捉えられます。
おわりに:制約によって生まれるF1らしさ
F1は単なる速さや効率を求めているわけでも、万能性を目指しているわけでもありません。
レギュレーションや、安全・整備・視認性、観戦スポーツとしてのあり方、歴史や伝統などのせめぎ合いの結果として、現在の形が選ばれているのです。
一見非効率に見えるむき出しのタイヤも、開放コックピットも、F1の本質を形作っている要素なのです。
それは、生物の進化が「発生的制約」という過去の積み重ねと、「淘汰圧」という環境とのせめぎ合いの中で起こってきたということとも重なります。
一見矛盾をはらんだF1の姿は、最もF1らしいF1を求め続けた進化の結果とも言え、これからもその進化は続いていくでしょう。
私自身F1には詳しくありませんが、今回の記事を書く中でその奥深さの一端に触れることができました。当たり前のように見えるものの中にも、目を凝らせば無数の発見がある、そんな感動を少しでもお届けてきていたら嬉しいです。
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生物の発生的制約や進化について、以下のような記事も書いています。是非御覧ください。
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