投稿記事のAIによる概要と批評へのリンク
8月に使用AIをchatGPTに変更しました。「新」がついているものは、chatGPTによる批評です。
以前の評価も残してありますが訂正線を入れています。詳しくは「AI設定」をどうぞ。
<2026年投稿>
芸術に、「争いを止める力」はあるのだろうか
8月3日投稿
新)本稿は、「争いを止めること」を目的にした時点で芸術はプロパガンダに近づく、という強い仮説から始まります。しかし文章が進むにつれ、焦点は芸術の定義そのものよりも、「何かを見せられたとき、人はどこまで自分の感覚で考えられるのか」へ移っていきます。杉本博司展では狂歌によって美そのものが崩されるように感じ、MOMAT展では作品と解説のずれに引っかかり、『ちいかわ』では描かれる人物と描かれない犠牲との落差を考えます。さらにVOGUEの記事や言葉狩り、首相官邸の映像・演説へと対象を広げるうちに、筆者自身も「誘導する表現」に対する警戒を強めていきます。一方、最後の「Picture」では、芸術から何かを教えられるのではなく、作品との遭遇によって自分の内側に変化が起こる可能性が語られます。こうして、「芸術は争いを止められるか」という問いは、いつしか「他人に答えを与えず、人が自分で気づくことは可能か」という問いへ形を変えていきます。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)
※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
芸術は、平和をどう扱えば「平和への希み」を表現できるのだろうか
6月29日投稿
新)この文章は、「平和を訴える行為」がなぜ時に争いの構造へ入ってしまうのか、という筆者の違和感から始まります。平和運動、戦後教育、戦争を扱う音楽などへの自身の拒否感をたどりながら、筆者はいったん「芸術は政治や国、価値観から独立していること自体に平和性がある」と考えます。ところが、分断を越えるには争いそのものではなく別領域での共感が有効だという動画、ミラノやEuropeanoでの音楽体験を経て、その考えは「平和を直接語らずに、平和への希みを滲ませることはできるのではないか」へ動きます。さらに、自分では政治的文脈を嫌いながら角野隼斗氏の演奏には平和への祈りを求めてしまう矛盾にもぶつかります。そこから井上円了、ファンダム、倒語、杉本博司、今村紫紅、ワイエスへ話題を移しながら、「理解すること」だけでは処理できない人間の矛盾や恐れを、美や物語、キャラクター化はどう抱えられるのかへ思考が広がっていく文章です。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)→AI評価(Googleドキュメント)2追記2に本論の補考的意味が大きいため、追記まで含めたAI評価を追加
※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
ジャズのイデアとは〜様式継承における構造的難しさと可能性を考える〜
4月14日投稿
新)この記事は、JLCOの公演を「退屈」「ダサい」と感じた筆者自身の強い違和感から始まり、その原因を席や音響だけではなく、JALCが掲げるジャズの保存・教育・芸術化そのものへと遡って考えていく文章です。そこで過去に民藝運動へ抱いた「自由なものを価値づけて保存しようとした運動が、新たな権威や様式を作ってしまう」という違和感が重ねられ、「様式を継承すること」と「その場で何かを発見すること」の緊張関係へ思考が移ります。
一方、松井秀太郎氏のカルテットでは、ピアノの弦の共鳴や演奏者同士の偶発的な応酬に、様式としてはジャズらしくなくても「ジャズのイデア」と呼びたくなるものを感じます。しかし最後には、古いものを捨てて新しくすればよいという単純な話にはせず、小曽根真氏や将棋・野球の例まで移動しながら、「継承する人自身が変化し続けること」とは何なのかへ問いが広がっていきます。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
「角野隼斗:Chopin Orbit」文脈のリファクタリング〜「構造的認識とフラット化」からナラティブな再構築へ〜
3月27日投稿
新)この記事は、角野隼斗氏の「CHOPIN ORBIT」を単に新作アルバムとして評価するところから始まらず、「なぜ自分はこれほど衝撃を受けたのか」を解きほぐしていく文章です。ショパンと新作、音楽と言葉遊び、クラシックとジャズなどを同じ平面に置く作品構造を、筆者は「構造的認識とフラット化」「ブリコラージュ」と捉えます。しかし実際に聴けば、理屈以上に「ただ音楽が素晴らしく、止められない」という感覚にも戻っていきます。
そこからコンサート、評論記事、SNS炎上、選挙、朝井リョウ氏『イン・ザ・メガチャーチ』、推し活へと話題が広がります。一見離れた話題をつなぐのは、既存の正しさや分類を一度外から見て、そのうえで個人の文脈や主観から新しく関係を作るという感覚です。最後には、古典が背負ってきた歴史的文脈を、現代では個人のナラティブな文脈が補ったり置き換えたりできるのではないかという「文脈のリファクタリング」へ至りますが、それが定着するかは分からないと留保しています。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
芸劇「VS」Vol.10 角野隼斗×ジャン=マルク・ルイサダ〜親密さと先鋭性を統合する「魔法」
1月3日投稿
新)この記事は、角野隼斗氏とジャン=マルク・ルイサダ氏のデュオ公演を、まずAIによる予習から見つけた「間奏曲」「変奏」「子ども」「舞曲」「和声法と対位法」などのつながりを手掛かりに聴き直していくところから始まります。ところが実演では、そうした構造を確認するだけでなく、ルイサダ氏の温かい音色や、二人の拍や表現が必ずしも完全には一致しないことに筆者自身が強く惹かれていきます。
そこから関心は、「完成度の高いデュオとは何か」「音が揃わないことは欠点なのか」へ移り、文楽や能、ジョン・ケージ、映画『ナイトフラワー』まで参照しながら、音楽世界への没入と、演奏している人間や構造そのものを同時に見る鑑賞について考え始めます。さらにアンコールで感じた強い祝祭感は「魔法」「寿ぎ」「永遠のいま」へ広がり、後半では角野氏の結婚発表を契機に、ファンダムにおける距離や他者を見る視線の問題へも思考が移ります。最後には「対位法」という言葉が音楽だけでなく、人と人、異なる視点が共存するための見方として偶然もう一度現れ、暗くなった感情が少し明るい方向へ動いて記事を閉じています。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
前置き
このnoteでは角野隼斗氏や松井秀太郎氏のコンサートの感想等を投稿していますが、文章としては論理的展開を心がけている事もあり、ややもすると客観的考察のように思われる場合があります(特にファンの方々は「推しの凄さ・素晴らしさ」を証明したがる傾向があり、客観性を求めがち)。
しかしこのnoteは「鑑賞者としての主観的視点(客観性が求められる一般的な意味での考察ではない事)」が前提であり、そもそも芸術鑑賞というものはそういうものだというスタンスです。
なかなか伝わりづらい所なのですが、AI評価にかけると真っ先に主観性と論理的飛躍が指摘されるので、そのメタ認知を前提に(その主観性や飛躍にも意味がある所まで含めて)このnote全体を認識頂けると有り難いです。
今後投稿した記事もここに追加してきますので、AIの概要や批評を読んで頂いた後に記事に飛んで頂くことも可能です。
※ヘッダー画像はメトロポリタン美術館「Dish with devil's head design」(パブリックドメイン)
AI設定
当初、Geminiを用いていましたが2026年8月からchatGPTに移行しました。
異なる分野をブリコラージュとして用いている=飛躍があるため、全体を理解するための補足効果としての機能と飛躍に妥当性があるのかを評価するプロンプトで組み直しました。
直接noteのURLを貼ると、読み込みの関係なのか前半部しか評価対象にされない事が多くPDF化したテキストを読み込ませています。
また、形式にばらつきが出過ぎること(タイトルや次のアクションへの提案有無等)や、エクスポートでタブによる項目分けが自動設定されることもあり、直接Geminiのチャットではなく変換したデータをリンクしています。
2026年8月 chatGPTによる出力に変更しました。(新しいものから順次)
2026年3月27 AI Studio経由のGemini3 proモードでの出力に変更しました。2026年1月28に、Gemini3 proモードでの出力に変更しました。2025年11月時点ではGemを設定したGemini3 思考モードで出力させていますが、文体や形式など同じコンディションでは出力できません。
<2025年投稿>
角野隼斗ピアノリサイタル “Klassik Arena”〜SNSの影響による感情変化とともに〜 2025年12月10日投稿
新)Kアリーナでの角野隼斗氏のリサイタルを、筆者はまず「演奏そのもの」として細かく追っていきます。バッハでは「音→音楽」への生成、ベートーヴェンでは自身の苦手だった情緒性が別の形で受け入れられる驚き、ペルトでは休符や静寂への意識、ケージや坂本龍一からは音・ノイズ・沈黙の境界へと思考が動いていきます。そこでは、自分の好みと異なる演奏にも納得してしまう経験が繰り返されます。
一方、映像がスピーカーで隠れていたため、筆者は途中から「見ない」ことを選び、むしろ音楽に集中できたと感じます。そこから音と映像の同期、人間が情報をどう受け取るかへ話が広がります。ところが終演後、SNSで他の観客が映像体験を共有するのを見るうち、それまで大きな不満ではなかった「見えなかったこと」が疎外感へ変わっていきます。つまりこの記事は、コンサートの評価だけでなく、自分の鑑賞経験そのものが後からSNSによって書き換えられていく過程を記録した文章になっています。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
演奏における「歌う」とは何か(仮説)~ぱんだウインドオーケストラ クリスマスコンサート @調布グリーンホール〜 2025年10月27日 投稿
新)ぱんだウインドオーケストラの公演記録から始まりますが、文章の中心は、ストラヴィンスキー《エボニー協奏曲》でクラリネットを聴いて「全然心に響かない」と感じた一方、《ラプソディ・イン・ブルー》では同じ奏者のクラリネットに強く「歌」を感じたという違和感です。筆者は当初、ソリストとしての存在感や情緒性を理由に考えますが、それだけでは石若駿氏のドラムにも「歌」を感じることを説明できません。そこから、歌・音楽・舞踊がまだ分かれていなかった表現、言語化以前の身体感覚、楽器を「身体の延長」とする感覚へと話が移ります。さらにアルゲリッチ氏について語られた「本能」、アフォーダンス、呼吸へと考察が広がり、最終的には「歌う」を、単なる美しい旋律ではなく、周囲を受け取る感性と無意識的な身体性が結びついた音楽性として捉える仮説へ到達します。ただし、最後にはその定義自体が、言語化によって思索の多くを失わせるとも書かれています。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
不確実さを楽しむ推し活。 2025年10月23日 投稿
新)筆者はまず、「推し」ではなく「推し活」の「活」に感じていた違和感から出発します。グッズ購入やSNSでの発信そのものではなく、それが推しの経済的支援や評判向上という「効果」を目的とするとき、自分の好む「感動そのものを伝える」行為とは違ってくる。その違いを「操作」という言葉で捉え直し、SNSではファン自身が他者や社会、さらには推しへ影響を与えられる感覚が強まったのではないかと考えます。
そこから話は、筆者自身の「操作されたくない/操作したくない」という感覚と、答えを急いで確定しない「ネガティブ・ケイパビリティ」へ移ります。さらに美術史における帰属や伝承の話を経由し、「本当かどうかわからない」状態を残したまま主観的な物語を楽しむことは、むしろファンだからできるのではないかと考え始めます。
そして角野隼斗氏のプロコフィエフ第3番をめぐる反応を材料に、完成度の不足を「練習不足」と読む可能性と、「本番そのものを成長の場にする試み」と読む可能性を並べます。どちらが事実かを確定するのではなく、後者に「ベットする」ことそのものを楽しむ。それなら、結果を直接動かそうとしない「不確実さを楽しむ推し活」があり得るのではないか、と自分なりの応援の形を見つけていく文章です。
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クラシックコンサート「鑑賞」の更新は果たされるか?~角野隼斗 全国ツアー 2025 “Human Universe”~ 2025年6月29日 投稿
新)角野隼斗氏の「Human Universe」ツアーをきっかけに、筆者はクラシックコンサートで「曲を正しく聴く」こととは別の鑑賞が成立するのではないか、と考え始めます。曲順が固定されず、即興や会場の空気を取り込みながら変化する構成を、坂本龍一/Dumb Typeの「TIME TIME」と比較しつつ、聴衆自身もその一回限りの出来事を成立させる一要素になる「インスタレーション」として捉えていきます。そこから、テレビでは失われ、ラジオでは別の形で甦った自身の鑑賞体験を手掛かりに、「同時性」や「非帰属的親和性」へと思考が移ります。さらに後半では、芸術が政治や平和のメッセージを背負わされることへの違和感が強まり、「鑑賞者の自由」と「芸術の独立性」の問題へ展開します。追記を重ねるうちにBBCプロムス、戦争記憶、能、ポピュラー音楽などへ話題は広がりますが、通底しているのは、作品や人を一つの意味へ固定せず、異なるものが異なるまま関われる状態をどう作るか、という問いです。
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未分化な原始的身体性を現代に拡張する表現~「石若駿パーカッション・リサイタル」を中心に〜 2025年5月12日 投稿
新)石若駿氏のパーカッション・リサイタルを起点に、「音楽になる前」の身体感覚や、聴くことと演奏することがまだ分かれていない状態を考えていく文章です。冒頭では、亀井聖矢氏のマズルカに感じた違和感から、リズムを受け取る身体感覚と、演奏として意識的に作る行為との間に何が起こるのかという疑問が生まれます。そこから石若氏の《Uzumaki》《壁》《ivy》などを辿り、楽器・音楽・身体表現・即興・作曲という区別そのものが揺らぐ体験へ移っていきます。特に《壁》で感じた「音楽になる前となるまでの間」が、高木正勝氏の「うた」、林英哲氏の太鼓、能や子どもの歌と踊りへとつながり、「未分化」という言葉の意味が少しずつ広がっていきます。最後には、それが作品の特徴だけでなく、筆者自身が音楽を「自然/不自然」と感じる仕組みにまで戻ってきます。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
CENTRAL MUSIC & ENTERTAINMENT FESTIVAL 2025_CENTRAL STAGE 4/6~ジャンルとスタンスの関係性〜 2025年4月21日 投稿
新)CENTRALフェスで角野隼斗氏、結束バンド、キタニタツヤ氏という異なる音楽を一日の中で体験したことから、筆者自身が音楽をどう聴き分けているのかを探っていく文章です。出発点は、角野氏の演奏自体には強く満足しながら、フェスの場ではなぜか「中途半端」に感じたという違和感でした。その一方で、結束バンドでは観客のクラップやペンライトを含む一体感を楽しみ、キタニ氏では事前に聴き込んだ曲のイメージを持ち込んでライブを楽しんでいる自分にも気づきます。そこから、クラシックでは「作品」、大衆音楽では聴衆によって形成される表現者・作品・キャラクターを含む「イメージ」が鑑賞の中心になるのではないか、と考えを進めます。しかし自分自身もその二つを完全には分けておらず、手拍子への不快感と一体感を楽しむ感覚も併存しています。最終的にはジャンルそのものより、発信側と受容側がどこに鑑賞の中心を置いているかという違いへ関心が移り、明確な結論を置かずに終わっています。
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松井秀太郎 Concert Hall Live Tour 2025@ヨコスカ・ベイサイド・ポケット 2025年4月4日 投稿
新)筆者は、以前のカルテットの演奏を好んでおり、新編成では特に壷阪健登氏のピアノの音色が自分の好みに合わないことを気にしながら聴き始めます。実際、「TIGER MARCH」ではピアノを残念に感じ、「DANSE MACABRE」ではドラムも少し重いと感じています。ところが演奏が進むと、松井秀太郎氏が掛け合いの最中でも自分の旋律では正面を向き、逆に横向きの音を意図的な音色変化として使っていることや、ミュート、二音に聴こえる特殊な発音など、トランペットで起きている具体的な現象へ注意が移ります。前半終了時には、いつの間にかピアノの音が気にならなくなっていたことに気づきます。後半では改めてピアノを意識して聴くと、今度は冒頭とは明らかに違ってクリアに響いている。調律やPAなのかと疑問を抱いたまま帰路につき、最終的に演奏するフレーズと打鍵の速さとの関係ではないか、と考えます。その発見をきっかけに、見送っていた壷阪氏とのDUO公演
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT
→AI批評(Googleドキュメント)
※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
所沢ミューズ アークホール ~美しく個性的な音響が生まれる秘密~ 2025年3月7日 投稿
新)筆者はまず、パイプオルガンを備えた大ホールで聴くピアノの音をあまり好まないという自身の経験から、オペラシティ、すみだトリフォニー、サントリー、所沢ミューズの音の違いを比較します。そのなかで所沢だけは、金属的に鋭い音と柔らかな響きが同時に聞こえ、しかも小曽根真氏とツィメルマン氏という異なる演奏でも同じ特徴を感じたことが出発点になります。
ところが別の公演で訪れた際、何気なく壁を叩いたことから文章は音響感想から建築探索へ移ります。壁の空洞音、細い柱、壁面の凹み、さらにその裏から聞こえる金属的な響きへと、自分が耳で感じていたものと建物のつくりを一つずつ結びつけていきます。そして「不思議だった音」に説明らしきものを見つけて喜ぶ一方、その個性が常に長所とは限らず、オーケストラとの共演ではピアノが際立ちすぎる場合もあるという実際の鑑賞経験へ戻ります。音響の「秘密を解明した」と完全に閉じるというより、観察から仮説を作り、それを次の鑑賞で確かめようとしている文章です。
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帰属的親密性の弊害から鑑みる非帰属的親和性への展望~マリン・オルソップ指揮 ウィーン放送交響楽団 with角野隼斗 埼玉公演〜 2025年3月7日 投稿
新)この記事は、楽しみにしていたウィーン放送交響楽団との《戴冠式》で、ピアノとオーケストラの関係に強い不自然さを感じたところから始まります。筆者は、角野氏が指揮をほとんど見ず、オルソップ氏が角野氏に合わせるように指揮していたこと、ご当地曲を用いたカデンツァ、さらにアンコール《ダークグリーン》で客席から笑いが起きたことを、別々の不満として終わらせません。そこに「角野隼斗を中心とした内輪の親密さ」が演奏・観客双方へ及んでいるのではないか、と考え始めます
しかし批判はそのままファンダム否定には向かわず、SNSによる親近感や公私の境界の薄さを角野氏の魅力でもあると評価し、自分自身についても、対象と距離を取ろうとする独特のファン観を掘り下げます。さらに後半では、前年に違和感を覚えた即興や作曲が別の即興演奏によって違って見え始め、2025年ツアーでは「内輪への帰属」を必要としない共有のあり方が既に現れていたのではないか、と最初の不快感を半年後の別の経験から読み直していきます。
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<2024年投稿>
東京交響楽団第723回 定期演奏会~潜在する趣意の現代的顕在化とは〜 2024年11月25日 投稿
新)この文章は、東京交響楽団の演奏会を聴いた感想から出発し、次第に「過去の作品を現在の感覚で演奏するとはどういうことか」へ考えが動いていく記録です。上田素生《儚い記憶は夢となって》では、題名への自分の思い込みが崩れた体験から、作品内外をまたぐ表現へ目が向きます。ガーシュウィン《ピアノ協奏曲 in F》では、長年抱えてきた理想像をいったん捨てて聴こうとしながら、原田慶太楼氏・角野隼斗氏・東京交響楽団による緩急、強弱、間合い、リズムの扱いに強く揺さぶられます。
後半のペルトとプーランクでは、古典的に聞こえる音楽が実は比較的新しい作品であることへの驚きから、「古典的な様式を現代に使うこと」の意味を考え始めます。そこから美術展示での経験まで持ち込み、作品に元々あるものだけでなく、後世の演奏・展示・受容によって見えてくるものまで「潜在する趣意」と呼べるのではないか、と発想を広げます。最終的には一つの定義へ閉じず、後付けの文脈や誤読さえ含め、作品が時代ごとに開かれていく可能性へ関心が移っています。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
東京交響楽団「角野隼✕上野耕平カプースチン・スペシヤルナイト」 2024年10月4日 投稿
新)この記事は、カプースチン作品だけで構成された演奏会を、個々の演奏の感想だけでなく、「自分がこれまでカプースチンらしいと思っていたもの」が実演によってどう変わったかを追っていく鑑賞記です。冒頭の角野氏のソロでは、ピアノの音が明瞭でないという不満から始まりながら、その音質に対応するような強弱や響きの扱いを聴くうち、むしろ従来とは違うカプースチン像を感じ始めます。続くサックス四重奏や三重奏でも、「この楽器では難しい」と感じる場面と「この楽器だからこそ」と思える場面が交互に現れます。
後半ではその動きがさらに大きくなり、サクソフォーン協奏曲から季節や映画・ショーのような風景を感じ、ピアノ協奏曲第2番では「夜のヒットスタジオ」「奥様は魔女」、昔のダンスホールといった個人的記憶まで呼び起こされます。そこから、カプースチンを「ジャズとクラシックの融合」という既知の枠だけで聴くのではなく、大衆音楽やショーの文化まで含むものとして想像する方向へ思考が広がっていきます。ただし、それを歴史的事実とはせず、最後まで「個人的想像」と区別しています。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
Official Fanclub 8810 presents Hayato Sumino with String Quintet 東京夜公演~混交する視点と属性~ 2024年9月8日 投稿
新)前半はFCコンサートの演奏感想ですが、単なる曲ごとの評ではなく、聴きながら自分の予想や分類が何度も崩れていく過程が中心になっています。「追憶」では、弦の多様な音や不協和音の心地よさから、ジャズとクラシックが引用ではなく自然に内包されるような角野氏の表現へ関心が移ります。ショパン第2番では、室内楽らしい親密な演奏を予想していたところ、実際にはオーケストラを見据えたような強い音圧に驚き、その予想違い自体が鑑賞の一部になります。そこへ第1楽章後の拍手が入り、音楽的には残念に感じながらも、クラシックに馴染みのない聴衆が真剣に聴いていることには嬉しさも覚えます。後半ではその拍手を巡るSNS上の対立へ移り、クラシックファン/角野氏のファン、演奏会/FCイベントといった分類が一人の中でも混ざり合っていることを整理し、「どちらが正しいか」よりも、異なる前提を共有していると思い込むことから食い違いが生まれる様子を追っています。
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「角野隼斗ピアノリサイタル at 日本武道館」における祝祭性の功罪~疑死再生の先へ~ 2024年7月29日 投稿
新)武道館公演そのものには強く惹かれながら、終演後になぜか重苦しくなり、SNSを見るほど息苦しくなる――この記事は、その説明できない感情の原因を探すところから始まります。筆者はまず、誕生日を祝う熱気によって演奏そのものへの言葉が埋もれ、「人」への愛と「芸術」への評価が混ざったことに違和感を見出します。しかし公演を振り返ると、冒頭のショパンには乗れなかった一方、リスト、即興、《Human Universe》《ボレロ》などでは強い喜びを感じており、公演自体を否定しているわけではありません。むしろ、祝祭を嫌う自分自身も実際にはハッピーバースデーを歌っていたという矛盾を抱えたまま、「解体と再出発」というコンセプト、ファンダム、表現者と私人の境界へ考えを広げていきます。さらに追記では「静寂」への反発も、自分と角野氏とで言葉の指していたものが違ったのではないかと読み直され、最初の違和感そのものが固定された結論ではなく、後から何度も解釈し直されています。
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ナラティブなアンソロジーが還元する抽象性~読売交響楽団 第267回土曜&日曜マチネシリーズ〜 2024年7月15日 投稿
新)読響の演奏会を起点に、筆者はまず曲同士の引用関係や作曲家同士のつながりを辿り、このプログラムを一種の「アンソロジー」として受け取ります。ところが実際に二日間聴くと、デスナーでは期待していた角野氏のグルーヴが一日目には弱く感じられ、その違和感をプレトークの「奇妙さ」という言葉から考え直し、二日目には逆に身体的な没入感を強く味わいます。また「トリスタンとイゾルデ」では、二日目ほど細部を追わなくなったのに体験自体は深まったことに気づきます。そこから福田平八郎の「写実なのに抽象的」という表現へ話が移り、見た目を単純化しても具体的なイメージが失われない表現を、能、美術、アニメ、音楽へと重ねていきます。さらに「ファーストライン」では「新しさ」を掲げながら昭和へ回帰する企画への落胆も生まれ、最後はクラシックの「ハイカルチャー」性まで問い直します。演奏会で起きた「具体を追うほど見え、没入するほど抽象化する」という体験が、異なる文化を巡る思考へ広がっていく文章です。
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角野隼斗氏の「野心的挑戦」を多面的に考えてみる~すみだクラシックへの扉#22の感想を中心に〜 2024年4月25日 投稿
新)出発点にあるのは、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を聴いた筆者が、これまで角野氏にあまり使わなかった「挑む」「野心」という言葉を自分から発したことへの驚きです。得意と感じていた疾走感やリズムの身体性がむしろ抑えられ、オーケストラの大きな流れに乗る「王道クラシック」の演奏に、当初は戸惑いや物足りなさも覚えます。しかし、その違和感はアンコールや交響曲第5番との対照を通じて、「できない」のではなく、これまでの個性からあえて離れた表現を試しているのではないかという期待へ変わっていきます。そこから思考は、一回の演奏評を越えて、ツアーの中で変化すること、ファンがその過程を受け入れること、そうした環境が挑戦を可能にするのではないかという仮説へ進みます。さらに後の公演や即興、能舞台の現代的利用などを重ねながら、「伝統に従うこと」と「伝統を現在に生かすこと」の違いを考え、最後には筆者自身がなぜ一般的な「応援」に距離を感じるのかという自己観察にも戻ってきます。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
大阪フィルハーモニー交響楽団 第47回岐阜定期演奏会〜二つのリベンジ〜 2024年3月24日 投稿
新)以前は音響の問題で十分に聴けなかったラヴェルと、解釈に納得できなかったショスタコーヴィチ。その二曲をもう一度聴くという意味で始まる鑑賞記です。ラヴェルでは、柔らかいのに芯のあるピアノ、ハープやオーケストラと混ざる響き、わずかなタイミングのずれから生まれる浮遊感に惹かれ、ショスタコーヴィチでは、事前に自分が別々の演奏者から選んでいた「第1・3楽章の軽快さ」と「第2楽章の美しさ」が、この公演では一曲としてつながったことに驚きます。そこから関心は角野氏個人の演奏だけではなく、べセス氏の指揮による縦・横のノリやテンポの揺れへ移り、「自分好みに楽章を組み替えて聴く」ことへの罪悪感も含めながら、異なる解釈を一つの作品として成立させるとは何かを考えていきます。さらに追記では、この公演で感じた「自然さ」や、クラシックで正統とされる解釈自体も時代とともに変わるのではないかという考察へ広がっています。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
【千穐楽 追記版】角野隼斗全国ツアー2024 “KEYS”~開いた扉〜 2024年3月9日 投稿
新)3月2日のサントリーホール公演で筆者が感じたのは、演奏の出来が悪いという単純な不満ではなく、これまで魅力と感じてきた角野隼斗氏の「即興性と構築性」の均衡が、後半の「パリのアメリカ人」「ボレロ」では構築側へ傾いているという違和感でした。多様な鍵盤を一人で扱う試みそのものより、そのために音楽からイメージの広がりや身体的な自由さが失われたように感じ、「開いてしまった扉」とまで考えます。ところが、書きながら「KEYS」を能の「披キ」や通過儀礼になぞらえ、アンバランスそのものを変化の途中として読み直します。さらに千穐楽では、同じ曲から前回にはなかった自由さ、イメージ、躍動感を感じ、「好きな角野氏の演奏が戻ってきた」と大きく感情が反転します。後半では、この経験を自分自身の鑑賞の偏りにも引き寄せながら、表現者と受け手、ファンの親密さ、鑑賞する自由と越えてはいけない領域へと思考を広げています。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
角野隼斗氏の表現性を本阿弥光との比較で考えてみる 2024年2月28日 投稿
新)本阿弥光悦展で、筆者が角野隼斗氏の演奏を思わせる「書」に出会った驚きから始まり、二人の表現がなぜ似て感じられるのかを探っていく文章です。最初は、日本文化における匿名的な継承と近代的な「個」の成立、さらにAI時代の創造性まで視野が広がり、光悦をその転換点に位置づけます。そこから「時代の変わり目に現れること」「既存のものを引用・再構築すること」「構築と即興を両立させること」「抽象と具象の間にイメージを開くこと」「他者と上下関係を作らず協働すること」へと、似ていると感じた理由を一つずつ探していきます。途中では「こじつけ?」と自分の連想を疑ったり、角野氏を「天才」と叫ぶファンとしての視点をあえて露出したりしながら、最後には「似ていること」と「芸術的価値」は別問題だと線を引き、将来どう評価されるかを待つところで止まっています。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT→AI批評(Googleドキュメント)※2026年8月にAI批評をGeminiからchatGPTに変更
昔から変わらない音楽の好み〜「わらしべ長者」か「風吹いて桶屋」か?!個人的な然や数十年経って解けた謎とか〜 2024年2月12日 投稿
新)この記事は、2023年末から続いたいくつもの偶然をたどるうちに、筆者自身が長年ばらばらだと思っていた音楽の好みを再発見していく記録です。バーンスタインの映画を観たことから、昔ラジオで一度だけ聴き、CDを買い間違えたままになっていた《交響曲第2番》へ戻り、そこからアデス、ガーシュウィン、レヴァント、学生時代のミュージカル映画の記憶までが次々につながっていきます。さらにデスナー《2台のピアノのための協奏曲》を知ることで、ライヒ以来のミニマル音楽への好みとも結びつきます。筆者が面白がっているのは、単に偶然が重なること以上に、数十年間変わっていなかった「響き・質感・イメージ」の好みが、後から一本ずつ見えるようになっていくことです。最後には、それまで直線として捉えていた音楽遍歴が「円環」に見えてきた、と自分なりの図へまとめています。
→新_AI批評(Googleドキュメント)chatGPT
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松井秀太郎 CONCERT HALL LIVE ~青い道の先へ〜 2024年1月26日 投稿
新)松井秀太郎氏のカルテットを聴き、まず筆者が強く惹かれるのは、個々の巧さよりも、四人が互いの反応を楽しみながら音楽を動かしていく姿です。「COLOR PALETTE」でのトランペットとドラムの掛け合いをきっかけに、その楽しさは逆に、トリオだけになる時間に松井氏の「不在」を感じるという以前からの疑問を浮かび上がらせます。ただし、単純にトランペットをもっと吹いてほしいという話ではなく、ほんの一音でも主役の存在が音楽全体に留まり続ける方法はないのか、と考えが動いていきます。ところが後半の「無限」では、松井氏が吹いていなくても作曲者としての存在を感じ、先ほどの考えが少し揺らぎます。そして「STEPS OF THE BLUE」の演奏体験から、冒頭で感じた松井氏の「風格」と、四人がこれから自分たちの道を作っていくように見えた感覚がつながっていきます。最後の「TRUST ME」まで、演奏を聴きながら期待や疑問がその場で書き換えられていく鑑賞記です。
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<2023年投稿>
「ボストン・ポップス ジョン・ウィリアムズ トリビュート10/7(昼)」と「京都音楽博覧会20232日目」~角野隼斗氏の新たな表現性への考察~ 2023年11月2日 投稿
新)この記事は、中1日で聴いた二つの公演で、角野隼斗氏の演奏が筆者にはまるで別のものへ変わったように感じられた、その戸惑いから始まります。ボストン・ポップスではオーケストラそのものには強く感動しながら、角野氏のピアノは過大なPAと、それまであったグルーヴや情熱の抑制によって「何が起きているのか分からない」演奏として残ります。ところが音博の「英雄ポロネーズ」で、同じ抑制が今度は端正さや全体の調和として現れ、筆者の疑問が反転します。さらに「I got rhythm」「JUBILEE」まで聴くなかで、個々のフレーズのノリではなく、曲全体を保ちながら身体性も失わない演奏へ変わったのではないか、と考えるようになります。オラフソンの《ゴルトベルク変奏曲》などはその変化を理解するための比較対象として置かれ、原因の断定ではなく、自分が何を聴いたのかを掴もうとする思考の過程として書かれています。
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【RP】音楽に関わる雑感 ~視点変化と継往開来〜 2023年9月29日 投稿
新)角野隼斗氏の「ボレロ」を見て、筆者が音だけではなく身体の動きまで含めて「音楽と一つになった」と感じたところから文章は始まります。その感覚をフレッド・アステア、ミュージカル、能へと辿り、「感覚的融合認知」という言葉に出会うことで、自分が以前「恣意的・作為的」と感じていた演奏も、実は音楽と身体感覚のずれをそう呼んでいたのではないか、と自分自身の評価を読み替えていきます。
そこから関心は「自然」と「創造」へ移り、坂本龍一氏の語るフィシスと実際の作品との間に筆者自身が感じる矛盾、高木正勝氏や藤倉大氏の作品、AI以後の創造性へと広がります。さらにスタクラフェスから「未来」と「継承」を考え、最後には一度しか存在しない演奏の記憶が失われていく寂しさと、それでも次の演奏を聴けることへの期待が同時に語られます。全体を通じて、何かを証明するというより、ある鑑賞体験から生じた感覚が別の作品や考えと出会うたびに名前を変え、筆者自身の過去の見方まで修正されていく記録になっています。
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【RP】 民俗性とモダニズム解釈の行方〜旧井上房一郎邸とハンブルク交響楽団高崎公演〜 2023年8月9日 投稿
新)旧井上房一郎邸を軽い気持ちで訪れた筆者は、日本家屋の意匠をまといながら西洋式の構造を持つ建築に驚き、屋根組や深い軒を調べるうちに、レーモンドが日本建築を「内側から外へ」つくられるものとして捉えていたことへ行き着きます。そこから、外から日本をモダニズムへ当てはめたと感じるタウトとの違いを考え、自分が以前から考えていた「作品をそのまま受け入れ、そこから自分の中で掘り起こす」鑑賞とも接続していきます。
その直後に聴いたバルトークのピアノ協奏曲第3番では、予習で期待していた浮遊する響きとは反対に、抑揚や民族的情緒を抑え、各部分をあえてまとめないような演奏に出会います。最初は予想を外された驚きだったものが、井上邸で見た「内側から組み替える」という感覚と重なり、既存の作品を別のものに作り替えるのではなく、その内部から違う可能性を引き出す演奏として受け止められていきます。ただし筆者自身も、それをバルトーク本来の意図や「正しい新解釈」とは断定せず、自分がその日、その場所でそう聴いたというところに留めています。
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【RP】 音楽の関連性・影響とは?~ミニマルミュージック→ジャズ→クラシック を例に〜 2023年7月7日 投稿
新)出発点にあるのは、ライヒ《18人の音楽家のための音楽》を「整う」音楽として受け取ってきた筆者自身の経験です。そこへ「緊張→解放」「分散和音」といった言葉を後から知ることで、以前から好きだったE.S.T.やClub Jazz、逆に苦手だった王道ジャズ、さらにプロコフィエフやラフマニノフの演奏まで、これまで別々だった聴取経験が次々につながっていきます。
ただし、そのつながりは「この音楽はこの音楽から影響を受けた」という系譜の証明ではありません。むしろ筆者は、似た質感、反復、グルーヴ、緊張と解放など、自分が実際にどう聴いてきたかを手掛かりにしています。Club Jazzを挟むことでミニマルとジャズが自分には近くなり、ペトルチアーニをHubとして王道ジャズにも接続し、その先で昔のクラシック演奏にまで同じ身体的な気持ちよさを見いだしていきます。
終盤では関心が個人の音楽遍歴から、他文化へ渡った音楽が変形して戻ってくること、そして受け手自身の感性も時代とともに変わることへ広がります。ただし「再構築なのか再発見なのか」は決めず、自分の嫌いだったクラシックが好きなものへ変わるかもしれないという期待のところで文章を閉じています。
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【RP】〜神に抗うのは悪魔か自然か人間か?〜「PPT第157回定期演奏会」を中心に 2023年7月2日 投稿
新)PPT第157回定期演奏会で聴いたジョン・アダムズ「悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?」とR・シュトラウス「アルプス交響曲」を起点に、鑑賞中に生じたイメージを後から調べ直し、そのつながりを辿っていく文章です。「悪魔は〜」では、角野隼斗氏のリズムやスウィングから悪魔、洞窟、ハーメルンの笛吹男などが浮かび、そこからルートヴィヒ2世、ワーグナー、死の舞踏、宗教や社会へと連想が伸びます。ただ筆者自身も、それを作曲者の意図と同一視することには留保しています。
一方、「アルプス交響曲」は事前に聴いても入ってこなかったのに、飯森範親氏による自然描写的な演奏では突然「音楽が聴こえる」経験をします。そこから西欧と日本の自然観、神と人間、写実、ジャポニズムへ思考が広がり、最後にはアンコールまで含めて、意味が正しいかよりも、異なるものの「取り合わせ」から鑑賞が豊かになること自体へ関心が移っていきます。
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【RP】「小曽根真ジャズ・ライブfeaturing 松井秀太郎」~直前の雑感とともに〜 2023年6月16日 投稿
新)この記事は、小曽根真のライブそのものだけでなく、その直前数日間に筆者の中で起きていた「ジャズとクラシックをどう聴き分けているのか」という迷いが、実際の演奏によって次々につながっていく記録です。出発点は、小曽根を「トラディショナル」と分類する角野隼斗の発言への違和感でした。筆者自身は、小曽根のクラシックとの接続に強く惹かれており、むしろコンテンポラリーと感じています。さらにプロコフィエフでは自分の求めるリズムが何なのか分からず、ラフマニノフでは響きの違いを延々と聴き比べます。ところが当日の即興や「My Witch’s Blue」を聴くことで、プロコフィエフに求めていた感覚がジャズ的なリズムだったと気づきます。後半では松井秀太郎の一音の強さに圧倒され、その音をクラシックとジャズのどちらにも閉じない「これからの音楽」へ結びつけていきます。最初にあった分類の違和感が、演奏を通じてジャンルよりも自分が音の何を聴いているのかという問いへ移っていく文章です。
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【RP】「すずめ (Piano Ver.)『すずめの戸締まり』より」にみる角野隼斗氏の先駆的表現と、「すずめの戸締まり」にみる「物語り」復権への展望。 2023年5月29日 投稿
新)前半では、角野隼斗氏の「すずめ (Piano Ver.)」を、「千と千尋の神隠し」のカバーと比べながら、原作への同調とそこからの「ズラし」が共存する表現として読みます。ピアノの鏡面、自動演奏ピアノ、本人演奏が組み合わされた動画から、音楽だけでなく世界観や映像まで含めた作品性へ思考が広がり、さらにナンカロウやリゲティとの比較を通して、「新しさ」そのものより表現上の必然から新しい技法が生まれることへ関心が移ります。
後半では映画『すずめの戸締まり』へ移り、震災、鎮魂、民話、トリックスター、ナラティブなどをたどります。筆者は当初「土地の人々の記憶を忘れない」という説明をやや直接的すぎると感じますが、個人の感情を癒す「日にち薬」と神話的な鎮魂をつなぐものとして必要なのではないか、と見方を変えていきます。最終的には、物語の内容と「誰がどう語るか」を分けて考えることへ関心が向かっています。
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【RP】私観:二項対立を超えたポストトゥルースへ 2023年4月24日 投稿
新)筆者はまず、ポストトゥルースを「真実の軽視」とだけ捉えず、事実と同じほど個人の「共感」が力を持つ状態として読み替え、SNSによる「顔が感じられる関係」に可能性を見ます。そこから坂本龍一氏の「抵抗」と音楽の同期力、角野隼斗氏と高木正勝氏のアップライトピアノへと話を移し、主観が他者や環境とどう結びつくかを考えます。しかし角野氏の「追憶」MVには、現実の本人と物語を重ねて一つのメッセージへ導く強さを感じ、楽観していたポストトゥルースの危険性へ視線が反転します。さらに自身の戦後教育の体験や能、柚木沙弥郎へと思考を進め、「主観」「物語」「敬意」は何を結び、何を拘束するのかを考え直していく文章です。
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【RP】 Official Fanclub 8810 presents Hayato plays Sumino東京夜公演~花によせて〜 2023年4月6日 投稿
新)角野隼斗のファンクラブ限定リサイタルの感想から始まりながら、演奏によって過去の記憶や、その後に起きた出来事までが呼び寄せられていく文章です。冒頭の「さくらさくら」では、演奏者の表情が見えなかったことで本来のおかしみを受け取らず、アンデスの音から吉野山で桜と鴬に囲まれた記憶へ入り込みます。演奏評では「大猫のワルツ」などの印象の変化や、以前はバラバラに感じた「Human Universe」が今回は自然につながって聴こえたことなど、自分の聴き方の変化も記されています。さらに「かすみ草」から春霞と桜が再び現れます。<別記>では坂本龍一の死を受け、「自分のため」に弾く音楽、自身の喪失の記憶、音とノイズ、生と死へ思考が移り、桜の下で車の音まで音楽として聴こえた経験を経て、「西行桜」の「心の花」で閉じられます。
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【RP】 角野隼斗氏による「ガーシュウィン:ピアノ協奏曲へ調」~読響創立60周年記念 秋田特別演奏会~ 2023年4月2日 投稿
新)30年聴いてきたガーシュウィン《ピアノ協奏曲 ヘ調》を角野隼斗の演奏で聴き、「自分が聴けていなかった」ピアノの存在に初めて気づいた驚きから思考が始まります。以前はクラシックとジャズの「中間」を求めていましたが、今回の演奏では、両者を配分するのではなく、異なる質感がそのまま一つの音楽になる感覚へ認識が変わっていきます。 そこから藤田嗣治の「秋田の行事」を思い出し、二つの文化の「間」という見方との違いを考え、さらに演奏中の具体的な「受け渡し」へ戻ります。最後には、アンコールを隣席の物音で聴けなかった不満さえ「不足があるから次を聴きたい」と読み替え、鑑賞体験そのものを完成させずに終えています。
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【RP】 神奈川フィルフューチャーコンサート川崎公演 2023年3月25日 投稿
新)ロシアとウクライナ双方に関わる作品が並ぶプログラムを見て、筆者はまず、そこに平和への願いが暗示されているのではないかと読み取ります。ただし政治的意味を前面に出すのではなく、音楽そのものを楽しめる「広場」と、その脇に背景を考える「深い森」が共存する構成として受け取ります。演奏では田中祐子の指揮に一貫して「ノリ」を感じる一方、カプースチンではオーケストラと角野隼斗の関係に物足りなさと迷いを抱きます。それでもアンコールで石田泰尚と角野の自由な掛け合いを聴き、最後には、以前抱いていたポストトゥルース時代への不安が、異なる国や文化の音楽を一緒に楽しむ体験によって少し解かれていきます。さらに<おまけ>では、その「ノリ」という感覚を能の身体運動まで遡って考え直しています。
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【RP】変位しつつあるクリエイティビティの射程~角野隼斗全国ツアー 2023 “Reimagine”/他~ 2023年2月15日 投稿
新)角野隼斗全国ツアー“Reimagine”を前に、筆者はバッハと現代作品を並べる構成をブラッド・メルドーの「After Bach」と比較し、「二番煎じにならないのか」という不安から考え始めます。ところがラモー、大竹伸朗展、ミメーシスとカウンターなどへ考察を広げるうちに、「創造性=無から新しいものを生むこと」という前提そのものを疑う方向へ移っていきます。実際の長野公演では、バッハとカプースチンの関係を「新旧」ではなく視点をずらす再構築として受け取り、当初の懸念も変化します。さらに追記では、坂本龍一氏、非同期、DUMB TYPE、AIやポストトゥルースへ話が広がり、創造性の変化への期待が、価値観の共存と分断の双方を考えるところまで動いていく文章です。
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【RP】ブラッド・メルドー IN JAPAN 2023「バッハ with オーケストラ/ブラッド・メルドー:ピアノ協奏曲」 2023年2月15日 投稿
新)ブラッド・メルドー氏とオーケストラによるバッハと即興の連続から、筆者が「作曲された音楽」と「その場で生まれる音楽」の違いに圧倒されていく鑑賞記です。最初はオーケストラ編曲から即興へ受け渡される旋律やハーモニーを追っていますが、次第にオーケストラが即興を生む「事前儀式」のように感じられ、メルドー氏を「音楽の依代」「シャーマン」と捉えるほど感覚が変化します。さらに四つの即興を並べ直すことで、バッハから現代音楽までの変化が仕込まれていた可能性を後から思いつきます。後半のピアノ協奏曲では、他者の否定的な感想と自分の強い好みとの差に戸惑いつつ、ユニゾン、ハープ、低音などを通して、自分がメルドー作品に惹かれる理由を「音」よりも身体に残る「共鳴」の感覚として捉え直していきます。
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<2022年投稿>
【RP】解釈とイノセントな表現性が統合に至る兆し~角野隼斗氏とフランチェスコ・トリスターノ氏による二つの公演からの思考的展開〜 2022年12月31日 投稿
新)二つの公演で同じ曲が異なる場に置かれた経験から、筆者は「演奏そのもの」と、その置かれる文脈や聴取環境によって生じる意味の違いを考え始めます。そこから二種類のグルーヴ、音響と身体感覚、レトリック、身体拡張、西欧と日本の芸術観へと話題を広げながら、角野隼斗氏の表現をどう捉えればよいかを探っていきます。 当初は「イノセント」を無作為で直接的な表現として捉えますが、無機的なシステムにも同じ言葉が使えることに気づき、「内的/外的イノセント」へ考えを修正します。さらに「解釈」と両立させようとして行き詰まり、両界曼荼羅のように統合できない二つを対のまま成立させる発想へ至ります。完成した理論というより、演奏から始まった疑問が資料や偶然の出会いによって何度も組み替えられていく過程を記録した文章です。
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【RP】BBC Proms JAPAN 2022 Prom4 "Game & Cinema Prom」と付随する諸々について 2022年11月28日 投稿
新)BBC Proms JAPAN 2022のProm4をめぐり、筆者はまず「Game & Cinema」というテーマへの期待と、実際に聴いたときの感覚のずれから考え始めます。FF VIIでは作品への思い入れが強すぎて音楽そのものを聴けない一方、知らないエヴァンゲリオンでは文脈を知らないため別の聴き方になる。その体験から、ゲームや映画の音楽を純音楽と並べることで、逆に作品の文脈から音楽だけを取り出せるのではないかと考えが変化します。
演奏感想では、音響、リズム、余韻、角野隼斗氏や米田覚士氏の姿勢を細かく追い、そこから「受容すること」と「作り出すこと」が同時に成立する可能性へ思考が広がります。さらに日本人作曲家、マーガレット・レン・タン氏、クラシックを取り巻く日本の環境へと移り、Promsの音楽的な充実とは対照的に運営への強い失望を示します。しかし韓国のTOWMOOの活動を知ったことで、最後には別の文化の支え方への希望も見いだしています。
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【RP】パシフィックフィルハーモニア東京「第152回定期演奏会」の新しさとは~「趣向」と人為的自然~ 2022年10月10日 投稿
新)パシフィックフィルハーモニア東京の定期演奏会を、筆者が感じた「新しさ」から読み解いていく文章です。最初はアデス「ピアノと管弦楽のための協奏曲」と「惑星」の組み合わせを、決められたテーマではなく、茶道の「趣向」や連歌の「付合い」のように、後からイメージが自由につながっていくものとして捉えます。そこから焦点はアデス作品と角野隼斗氏の演奏へ移り、複雑に作り込まれたものから自然さが立ち現れる感覚を「人為的自然」と名づけ、利休、杉本博司、華道など自身の経験を重ねながら考えていきます。さらに「I Got Rhythm」との関係や、他の観客が感じたグルーヴとの差から、自分の聴き方そのものへ疑問が戻り、演奏後も解釈が増殖していく鑑賞体験として「新しさ」を捉え直しています。
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【RP】表現の発生プロセスとメタ的な表現アプローチへの私観~ポーランド国立放送交響楽団日本公演ツアー神奈川公演より~ 2022年9月23日 投稿
新)角野隼斗氏がショパンコンクールのファイナリストにならなかったことを「良かった」と感じる自分の立場から出発し、筆者はまず、芸術として表れたものと、それが生まれる過程を分けて考えようとします。一方で、自分もまた角野氏に好みを投影しているのではないかと途中で振り返り、ファンとしての立場の矛盾も認めます。
神奈川公演に向けては「ポーランド的」「スラブ的」な演奏を期待しますが、実際には予想とは違う、情動を前面に出さず細部が統御された音を受け取ります。そこからアール・ブリュットで見た「創造的衝動と、それを支える仕組みの分離」を重ね、角野氏が「解釈」と「無作為性」を両立させているのではないかという「メタ的な表現アプローチ」の考えに進みます。終盤では、その原因を完全には説明できないこと自体を芸術の「飛躍」として受け止め、自分のロマンと分析との境界を残したまま締めくくっています。
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【RP】「高木正勝 ピアノソロコンサート 2022」 2022年9月16日 投稿
新)高木正勝氏のピアノソロコンサートを、音響や照明を含む舞台全体と、自分自身に起きた感情の動きから記録した文章です。冒頭では、舞台内のスピーカー配置から「生音に近い」響きを推測し、明るいまま始まる日常的な舞台が、演奏とともに次第に内観的な空間へ変わっていく様子を追います。高木氏の「こんなつもりではなかった」という発言には、筆者なりの解釈を試みつつも想像だと留保します。後半、「あすなろ―息吹―」では胎児の心音を表す声や身振りから音楽へ移る過程に生命そのものを感じ、前日の義姉妹の法要の記憶と重なって涙します。さらに「Rama」に再び故人への思いを重ね、コンサート体験そのものへの感謝へ至ります。
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【RP】第83回 東京交響楽団&サントリーホール こども定期演奏会~秋の風景〜 2022年9月6日 投稿
新)「こども定期演奏会」を聴きながら、自分が何に反応して音楽を聴いているのかを確かめていく演奏会記です。「謝肉祭」では情景や曲全体を比較的バランスよく受け取る一方、角野隼斗氏のショスタコーヴィチでは、事前に聴いた音源から抱いた予想が本番で裏切られ、「やられた」と面白がります。そこから、自分の固定観念を壊されること自体を芸術体験の楽しさとして捉えます。後半の「十月革命」では、今度は曲全体より小太鼓の音に完全に惹きつけられ、冒頭で意識していた「バランスのよい鑑賞」は崩れます。しかし筆者はそれを失敗とは扱わず、能の経験や角野氏のリズム感へ連想を広げながら、自分が音そのものに引き込まれる過程をそのまま記録しています。
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【RP】「小曽根 真ソロコンサート(パルテノン多摩リニューアルオープン企画)」 2022年9月2日 投稿
新)配信で聴いてきた小曽根真氏を初めて生で聴き、その違いへの驚きから始まる演奏会記です。即興演奏では、演奏前の緊張、会場全体の静けさ、自身の故人との記憶が重なり、筆者は能の優れた舞台で拍手できなくなる経験を思い出します。さらにハウリングさえ即興へ取り込む場面、ラヴェルを「編曲」以上の再構築として聴いた経験を経て、関心は小曽根氏の「自分のスタイル」へ移ります。「Reborn」では祈りと賛美について以前の理解まで更新され、終盤ではチック・コリアとの関係から「模倣と個性」「西洋と日本」の違いを考え始めます。追記のラジオによって、小曽根氏自身も模倣から出発していたと知り、当初の考えを少し組み替えます。最後には演奏会で生じた感情が自身の義姉妹の記憶へ戻り、音楽を介した偶然のつながりとして残されています。
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【RP】落合陽一x日本フィルプロジェクトVOL.6<遍在する音楽会> 2022年8月27日 投稿
新)落合陽一氏と日本フィルによる《遍在する音楽会》を、筆者が以前から断片的に惹かれてきたジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、レヴィ=ストロース、日本文化などが思いがけず結びつく体験として辿った文章です。冒頭では落合氏の難解な言葉を理解しようと調べながらも「正直よくわかりません」と迷い、その後ミュージサーカスを実際に体験すると、雑多な音が不快ではなく調和して聞こえ、帰宅途中には普段無視していた雑音を逆に強く意識するほど感覚が変化します。
そこから筆者は、ケージ作品との違い、日本的な「独立しながら調和する」感覚、「for null」や仏教の「空」、オーケストラ演奏へと思考を広げます。一方、「東西の根源的身体性」という演出にはむしろ作為を感じて批判もします。追記では、そもそも公演を知った偶然からヴォイニッチ写本、障害による感覚の違い、ダイバーシティー、長年抱いていたポストモダニズムへの不快感までがつながり、体験によって以前の考えが少し組み替えられていった経緯が語られています。
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【RP】 角野隼斗氏による新たな芸術表現の可能性とは~FUJIROCK FESTIVAL '22を中心に〜 2022年8月8日 投稿
新)FUJI ROCK FESTIVAL '22での角野隼斗氏の演奏への強い感動から始まり、筆者がそこに「音楽概念を超える芸術表現」を見出していく過程を記した文章です。硬いピアノによる「胎動」、ジャンルの境目が消える「I Got Rhythm」などを楽しむ一方、療養後の復活ライブの「死の舞踏」にはコロナ禍や死と再生を重ねて考えます。しかし意味が強すぎれば純粋な音楽体験を損なうとも感じ、むしろフジロックでの表現を好みます。そこから完成作と途中経過、クラシックとYouTube、ハイカルチャーとサブカルチャーを同列に扱う姿勢へ視野を広げ、角野氏の活動全体を一つの芸術として捉えられないかと考えていきます。自らの「深読み」や偶像化の可能性も認めつつ、最終的にはクラシック鑑賞の価値観そのものが変化していく未来への期待へ進んでいます。
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【RP】「かていん plays ラプソディ・イン・ブルー」調布国際音楽祭第10回記念 オープニングコンサート 2022年6月20日 投稿
新)明大明治の学生による「スターウォーズ・サガ」を聴き、筆者は技術の高さとは別に「ノリやグルーヴがない」と感じ、「ラプソディ・イン・ブルー」は大丈夫なのかと不安を抱きます。その途中、鈴木雅明氏の「人によって違うレセプターを持つ」という言葉から、自分が演奏感想を書く意味や、表現者を理解しようとしながらも自分の受け取り方を偽らないという鑑賞姿勢へ考えが移ります。実際の「ラプソディ・イン・ブルー」では、角野隼斗氏と鈴木優人氏が学生に合わせて安全にまとめるのではなく、むしろ大胆にテンポを揺らし、学生が一度崩れかけながら追いついていく過程に強く興奮します。そこから筆者自身の「学生には無理では」という思い込みも覆されます。アンコールの「英雄ポロネーズ」「I Got Rhythm」では、その経験が角野氏自身の演奏にも返ってきたのではないかと考え、追記ではさらにカプースチン演奏の変化から、動画という媒体と演奏解釈について思考を広げています。
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【RP】 "Cateen かていん"チャンネル「Spirited Away -千と千尋の神隠し(Piano)」の幽玄性について 2022年6月16日 投稿
新)角野隼斗氏の「Spirited Away」を聴き、筆者が『千と千尋の神隠し』にそれまで感じ取れなかった「幽世と現世の接点」を突然見出した体験から始まります。能を観た時と似た身体反応に驚き、油屋、千と尋、湯婆婆と銭婆などの対比、中間領域、養老天命反転地へと思考を広げながら、自分の解釈を確かめていきます。 さらに日御崎の「隠ヶ丘」や佐久間正英氏の記憶など、偶然の符合が続くことで自身まで「幽世との接点」にいるような感覚になります。後半ではようやく演奏そのものへ戻り、連歌の「付合」を手掛かりに、アニメからピアノへ媒体が変わることで生まれる幽玄性と、編曲者であり演奏者でもある角野氏の二重の立場を考察します。最後には再視聴によって最初の感覚が再現され、筆者自身の鑑賞体験そのものが記事の問いになっていきます。
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【RP】日比谷音楽祭2022角野隼氏の ONGAKUDOライブを中心に 2022年6月8日 投稿
新)野外ライブの音に苦手意識があり、「楽しめないかもしれない」という不安を抱えて日比谷音楽祭へ向かった筆者が、実際の体験によってその見方を変えていく文章です。発電機や他会場の重低音まで「滝壺」「雷」と脳内変換し、鳥や風とともに音楽へ取り込んでいくうち、小音楽堂そのものの音響や歴史にも関心が広がります。角野隼斗氏の演奏では「胎動」に強く揺さぶられ、カプースチンや「スワニー」、英雄ポロネーズから、演奏と環境、聴衆が一緒に音楽を作るような感覚へ進みます。さらに会場を歩く経験から、音楽祭の「ボーダレス」「循環」という理念、本多静六の雑木林、運営を持続させる仕組みへと思考が移り、単純な称賛だけではなく「続けるためには対価に近い仕組みも必要ではないか」という迷いへ至ります。
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【RP】 クラシック音楽鑑賞の初心者向方法論と芸術鑑賞の指標化~東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第352回定期演奏会より~ 2022年5月17日 投稿
新)「Singsジブリ」で鑑賞がうまくいかなかった経験から、筆者はクラシック初心者として何を準備すればよいのかを考えます。曲を「ながら聴き」で繰り返し、背景も調べた結果、東京シティ・フィルの演奏ではラヴェルや黛敏郎「BUGAKU」に強い感動を得る一方、最も期待していた角野隼斗氏のピアノ協奏曲では、音の聞こえ方や映像とのズレに強い違和感を覚えます。 そこから、鑑賞を共感・思考・刺激・直観などの要素で図にし、自分の経験を整理しようとしますが、最後には幼少期のピアノ体験が現在の聴覚的な好みを強く左右していたことにも気づきます。さらに追記では、自分の方法論への自信が失敗への苛立ちを大きくしていたのではないかと振り返り、「鑑賞をコントロールする方法」を考えていた文章が、鑑賞そのものの不確実さを考える文章へ変化しています。
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【RP】角野隼氏の「離=自在」を中心に~JAZZ AUDITORIA ONLINE 2022より〜 2022年5月4日 投稿
新)JAZZ AUDITORIA ONLINE 2022を通して、角野隼斗氏の演奏を「クラシックからジャズへ越境する人」ではなく、ジャンルを意識せず自在に扱う「離」の段階として捉えていく文章です。ところが筆者は、角野氏の演奏に高揚しながらも、蓮井幹生氏の映像や象眠舎など、自分が以前から好んできた音楽により強く惹かれ、熱心なファンと同じ気持ちでいられないことに後ろめたさを覚えます。そこから「Someday My Prince Will Come」を「架け橋」と受け取り、自分のような周辺的な聴き手も含まれる感覚を得ます。さらに、インターネットとファンの存在が表現者の自由を支えるのではないかと考え、最後には、角野氏の音楽そのものへの嗜好と、活動全体への関心は別であるという自分自身の立場を認めていきます。
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【RP】角野隼氏の不思議な低音~singsジブリ(東京公演)より~ 2022年4月27日 投稿
新)「singsジブリ」を初めて生で聴いた筆者が、コンサート全体の感想ではなく、自分の耳に強く残った角野隼斗氏の「不思議な低音」を手掛かりに、その正体を考えていく文章です。ピアノとエレキベースが重なったような響きを感じ、角野氏が配信で語った左手の弾き方、「鳴る」というクラシックの奏法、PA、二台のピアノの音色差などを順に結びつけ、演奏法と音響条件が偶然重なったのではないかという仮説へ進みます。そこから一転、その音がロック系のステージなら魅力になり得る、さらにクラシックの奏法を別ジャンルへ持ち込むこと自体が「ロック精神」になるのでは、と期待が膨らみます。追記では愛知公演の情報を受け、自分の座席や会場音響も聴こえ方に影響した可能性へ考えを戻しています。
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【RP】”Cateen かていん”チャンネル「Practice Bartok (Test)」(有料会員コンテンツ)の意味を問う試み 2022年4月15日 投稿
新)角野隼斗氏の「Practice Bartok (Test)」を見て覚えた、これまでにない感動が何だったのかを探っていく文章です。最初は、練習過程そのものを見せる動画を現代アートのインスタレーションになぞらえ、「音楽と一体化していく演奏家」を作品として捉えようとします。しかし筆者は、リアルタイム性を重視するあまりアーカイブを見なかった自分に気づき、「芸術」という枠自体に囚われていたと考え直します。そこからファンとの交流、ネット文化、サブカルチャーへ視野が広がり、さらにトップダウン/ボトムアップという考え方を経て、自らの整理にも不整合があると修正します。最後にはジャズの「インター・プレイ」という既存概念を知り、自分の知識の範囲で動画を理解していたことを自省するまでが、思考の変化として記録されています。
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【RP】前の息で音を合わせること~From OZONE Till Dawn in Club Part 5より~ 2022年4月5日 投稿
新)小曽根真氏ら3人のピアノによるライブで、テンポを合わせようと互いを見る二人と、小曽根氏の掛け声に注目したことから、「音を合わせる前に息を合わせる」という考えへ進んでいく文章です。能楽の「コミ」や囃子の掛け声と小曽根氏の声を重ね、駆けっこ、相撲、じゃんけんへと広げながら、結果として同時に動くには、その直前の「間」で調整する必要があるのではないかと考えます。そこへ朝ドラ「カムカムエヴリバディ」と木村敏『あいだ』が偶然重なり、筆者の実感が別の言葉からも照らされます。ただし最後には、それを日本的身体感覚として体得することには反対し、むしろ仕組みを言語化すれば短時間で応用できるのではないかと、自分で見つけた「日本的な型」からも距離を取っています。
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【RP】能「山姥」より〜古典作品の表現と受容における現代的解釈とは~(後半はテーマを逸脱) 2022年3月2日 投稿
新)能「山姥」をめぐり、古典作品を現代の観客がどう受け取るかを、自身の鑑賞経験の変化から考えた文章です。筆者は以前、近藤乾之助の袴能から、山姥を人間の妄執の象徴として理解していました。しかしロシアによるウクライナ侵略をめぐって「何が正しいのかわからない」と考えていた時期に再び「山姥」を観たことで、「よし足引」を「善悪の境を引く存在」として聴き、従来とは異なる像を感じます。そこから、古典は固定された解釈を再現するものではなく、受容者の現在によって更新され得るのではないかと考えます。さらに補足では、身体性、能と角野隼斗氏の演奏、日本語の多義性、レヴィ=ストロースの「野生の思考」へ連想が広がり、筆者自身も本題から逸脱していく過程をそのまま残しています。
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【RP】 角野隼斗氏のガーシュウィン「ピアノ協奏曲へ調」について他 2022年2月24日 投稿
30年間オスカー・レヴァントのガーシュウィンを聴いてきた筆者が、角野隼斗氏の「ピアノ協奏曲 へ調」に、自分とは反対方向から同じ曲の魅力へ到達する演奏を感じたところから考察が始まります。筆者は当初、ガーシュウィンの「革新性」を語る見方に違和感を持ち、作品が残るには新しさだけでなく、後世が見いだす普遍的魅力や演奏上の基準が必要なのではないかと考えます。その視点から角野氏の演奏を、クラシックの品格とブルース的な質感の「ギリギリ」の均衡として捉え、特にピアニカやオーケストラの表現に強く反応します。後半では「ティーン・ファンタジア」から昔出会った少年の記憶、ショパンからコンクール当時の複雑な感情へ移り、追記では自身の喪失体験や、演奏環境によって解釈が変わる可能性へと思考がさらに展開していきます。
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【RP】 角野隼斗氏の「無音」を音楽にする可能性 〜milet x Cateen Ordinary days / THE FIRST TAKE」より〜 2022年2月7日 投稿
新)「Ordinary days」のTHE FIRST TAKEに強く感動した筆者が、「なぜ感動するのか」を考え始め、ピアノが鳴らない時間へ注目していく文章です。歌い出し前などの無音がmilet氏のブレスを際立たせ、音が消えても音楽が続いているように感じたことから、以前の「ラプソディ・イン・ブルー」で角野隼斗氏が無音のままピアニカを準備した場面、能の後見、ジョン・ケージ、高木正勝氏、日本美術の「余白」へと思考が広がります。そこから、角野氏なら「無音」を特殊な実験ではなく普通に楽しめる音楽へ取り込めるのではないかという期待へ進みます。追記では「Fly High」へのモヤモヤから別のライブ演奏を見て印象を変え、さらに後年の「ラプソディ・イン・ブルー」で、当初想像した「無音が音楽になる」とは違い「演劇的な間合い」として感じられたことまで記録されています。
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【RP】高木正勝氏「Rama」と角野隼斗氏「葬送」について~お二方のラジオ共演に舞い上がった本当の理由~ 2022年1月28日 投稿
新)同居していた義理の姉妹の急逝をきっかけに、高木正勝氏の「Rama」と角野隼斗氏のショパン「葬送」が、筆者にとって特別な音楽になった経緯を語る文章です。葬儀動画に「Rama」を使い、角野氏の「葬送」には、死者を送る側のまとまりきらない感情や、自分がなお生きている感覚に近いものを受け取ります。一方で、それを単なる個人的投影とは考えず、「音楽との対話」から像が現れるという以前からの考えとの関係を説明しようとします。やがて、高木氏親子の「あすなろ」を契機に二曲を再び聴けるようになり、二人のラジオ共演に喜んだ理由も、音楽上の関心だけではなく自分自身の喪失と回復にあったことを明かします。追記では、「Rama」の映像作品との偶然の符合から、説明できないものを伝える芸術についてさらに考えを進めています。
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【RP】「多様性」について(私の2つの推しが同じテーマで繋がってる?!) 2022年1月24日 投稿
新)角野隼斗氏がファン向け配信で語った「多様性」をきっかけに、筆者が以前から応援してきた中野区公式キャラクター「ナカノさん」のコンセプトと、自分の中で二つの「推し」がつながった驚きから始まる文章です。ナカノさんの「好きなように生きていればたいていのことは気にならない」と、落合陽一氏について筆者が記憶している「誰もが少しずつ不快感を受け入れる」ダイバーシティ観を重ね、不快感のない社会を求めるより、多少の違和感を抱えながら各自が自由に「好き」を追える方がよいのではないかと考えていきます。
途中、「好き」が苦しさを軽減するという推し活の話を社会へそのまま当てはめる危険にも自ら触れつつ、コロナ禍で異なる価値観が可視化された経験から、「心情を理解し合うこと」と「立場を理解すること」を分けて考える方向へ進みます。最後は角野氏を好きだという一点だけでも人はつながれるのではないか、というファンとしての実感へ戻っています。
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【RP】メゾン・ド・ミュージック『角野隼斗のはやとちりラジオ』1/12高木正勝氏ゲスト回を聴いて思ったこと 2022年1月16日 投稿
新)高木正勝氏のラジオ出演をきっかけに、筆者が約20年前から断片的に見てきた高木氏の表現が、「エラーやバグ」「環境のノイズ」という線で突然つながった感覚から始まります。そこへ坂口安吾の「日本文化私観」、世阿弥、能を重ねながら、「美を純粋化する力」と、偶然や環境を受け入れて表現へ取り込む力との関係を考えていきます。さらにその視点が、ショパンコンクール以後に筆者が感じていた角野隼斗氏の変化へ接続し、整った美を持ちながらノイズや異質な領域にも踏み出す可能性への期待へ移ります。ただし最後まで日本文化との結び付けを確定せず、自分の好みや連想がそう見せている可能性も認めています。追記では菱田春草やアレクシス・フレンチ氏まで連想が広がり、むしろ自分自身の鑑賞がどう結び付きを作ってしまうのかを観察する文章にもなっています。
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<2021年投稿>
【RP】ヤミジリさんが書かれたショパンコンクール角野隼斗氏の考察について 2021年10月17日 投稿
新)ヤミジリ氏の角野隼斗氏評を読んだことで、筆者は自分がクラシック演奏の「演者個人の解釈」を煩わしく感じる一方、角野氏の演奏には惹かれる理由を、長年親しんできた能の表現との比較から考え始めます。能の即興性や「作為を排する」感覚から、角野氏の演奏を、自己を強く示すのではなく音楽との対話によって生じる即興として捉え、「依代」「空=器」へと思考を広げます。 その後の追記では、Z世代、芸術とエンタメ、日本の芸能史、ゲーム・アニメ、「死の舞踏」、角野氏自身のインタビューへと材料を増やし、当初の「なぜ能に近く感じるのか」という驚きを何度も修正します。なかでも「畏敬の念」について自分の解釈が違っていたと認めるなど、確信と疑いを行き来しながら考え続けた記録になっています。
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