東京交響楽団第723回 定期演奏会〜潜在する趣意の現代的顕在化とは〜
*2026 8/9にAI評価をchatGPTからの出力に変更
*2025 11/28 <AI評価>を末尾に記載しました。
<はじめに>
もう11月も終盤。
極めて遅くなりましたが、8月31日サントリーホールで行われた角野隼斗氏がソリストとして参加された「東京交響楽団第723回 定期演奏会」についての感想です。
最初に「現代クラシック」という言葉について定義付をしておきます。
ここでは、クラシック音楽の様式を踏襲しつつも非前衛的な現代音楽として「現代音楽」と分けています。
リンク先のWikipediaにある様に現代音楽は「西洋クラシック音楽の流れにある20世紀後半から現在に至る音楽」です。
素人感覚では、制作年代以上に音楽語法としての現代性・前衛性に基準が置かれている様に感じられます。
一方「現代クラシック(音楽)」と書いたものは、Wiki内の「逸脱からの帰還を目指しているマニエリスム」に近く、過去に様式化された古典的用法や表現性を生かしているもの、難解ではない作品として「クラシック音楽の流れにある現在の非前衛的クラシック音楽」とします。
注:wiki文中リンクは絵画のマニエリスムので意味が異なります(様式の形骸化として美術史では余り良い意味では用いられていない)。
また、「意味・解釈」ではなく、「趣意」という言葉を用いたのは、必ずしも演奏表現にともなう解釈ではなく、作品に内在するものから音楽外へつながる文脈など、作品に紐づくあらゆるものを対象にするためです。
作品に内在するものであれば「意味」が指すものと同じですが、外側にも広げたかったので目的なども指し示すことができる「趣意」を用いました。
コンサートの感想
<上田素生:儚い記憶は夢となって>
冒頭に大きな「バーン」という大きな音!
シンバルがジャーンと鳴った後に旋律が上がっていくビブラフォーンが印象的。
美しいヴァイオリンとフルートがワルツ的な柔らかい躍動感に、コントラバスの弱音とヴァイオリンピチカートとの掛け合いなど、弦楽器が面白く使われ現代的でありつつも、タンバリンなどは民族的・ジプシー的な舞踊音楽の様にも感じました。
面白かったのは、それぞれのモチーフが適度にバラバラに感じられたこと。
ああ、これが「夢」としての感覚なのか…とはわかったものの、タイトルの「儚い」の意味が不明のまま演奏は終わってしまいました。
慌てて再度パンフレット(通常プログラムと呼ぶ冊子、全体の構成案=プログラムと区別するため)でタイトルを確認すると、なるほど!
「儚い記憶」が「夢」になるので、「儚い夢」を指している訳ではないのに、私には「儚い=夢」という思い込みがあったのです。
それを意図的に分解し別の対象(=記憶)と結びつけていたのですね。
通常の組み合わせを分解して別のモチーフに結びつけるというのは、夢をモチーフにする事が多かったシュルレアリスム(シュールレアリズム)の代表的手法の一つです。
様々な作家が独自表現しているので一括りにその様式を表することは難しいですが、「不合理な結びつきのリアリティ」という所が核なので、コラージュ的手法を用いたり夢や幻想をモチーフにする作品が多いといえます。
この上田氏の作品は、音楽的にモチーフをバラバラに提示していることと、タイトルを慣用的な結びつきから分解し再構築しているという所で、そのシュルレアリズム的な志向が感じられます。
その一方で、メロディや構成は分かりやすく音楽としては前衛とはいえません。
現代音楽も聴かれているだろうクラシックファンの方の投稿では凡庸的なご感想もあり、音楽の中だけで考えるとそう感じる場合があるのかも…とは思いますが、音楽外にまで鑑賞領域を広げる試みを感じ取れれば、聴衆に寄り添う(前衛的ではない・新奇性は少ない)音楽を現代クラシックの表現性に対し正面から向き合われている作家性を感じることができます。
「夢」としてのリアリティを分かりやすい音楽で追求することは逆にとても難しいはずなので、私は今後の可能性を感じました。
まだまだお若いので、このアプローチが音楽的成果としてこれからどう展開されていくのかとても楽しみです。
ということで、以下はXにポストしたものです。
「儚い記憶は夢となって」、冒頭に繊細な音が来るのかと思ったら…いきなりバーン!でビックリ笑。「夢」を覚醒した状態から捉えるのではなく、夢自体をリアリティとして捉える感覚。一般的夢の概念でなはなくシュールレアリズム的な「夢のリアリズム」。#原田慶太楼 #上田素生#東京交響楽団
— ナカナカのナカはナカカナ? (@nakanaka_nonaka) September 1, 2024
まさか作曲者ご本人様からリプ頂戴するとは…ありがとうございます🙏「夢・記憶」だとシュールな前衛表現の方がある意味楽かもしれず、聴衆に伝わる音楽としての矜持をも感じました、
— ナカナカのナカはナカカナ? (@nakanaka_nonaka) September 2, 2024
私は本来美術の方がホームグランドなので、次に書きますことは少々音楽からズレるのですが、せっかくの機会なので→
タイトルの「儚い」は「夢」まで掛かっていると思わせる事で冒頭から驚きを与え、音楽鑑賞後にタイトルを読むことで「儚い」は「記憶」までの形容だとわかり、ここで作品としての「夢」は再定義されます。この一連を体験と捉えることでインスタレーション鑑賞に近い現代性と更なる可能性を感じました。
— ナカナカのナカはナカカナ? (@nakanaka_nonaka) September 2, 2024
<ガーシュウィン:ピアノ協奏曲 inF>
●前置き
いよいよ、自分にとってはメインイベント「ガーシュウィン:ピアノ協奏曲 inF(以下in F)」です。
「inF」と自分との関係は、2022年4月(角野隼斗ソロツアーファイナル)と2023年4月(読響秋田公演)で書いているので省きますが、長い間「in F」に対して自分の理想的演奏を追い求めてきましたが、自分の中では一区切りとなりました。
今後は自分の中にあるイメージを追い求めても悪影響しかないので、いかに真っさらになって鑑賞できるかが鍵。
「鑑賞マトリックス」に書いている様に「新鮮度」と「精通度」は相反項目で、「直観」は知識や情報を事前に持っていてもその思い込みを排除することでのみ成立するからです。
また、私にはクラシック音楽の知識が無いので、通常はマトリックスの「左→右」を意識して鑑賞する事がほとんどですが、これまでとは逆に「右→左」を意識する必要がある訳で、「それが自分にできるのか?!」と実は少し緊張していた所もありました。
ただ、身体的・無意識的な「慣れ」のような感覚と思考とは別だとは思っています(今の所その要素を指標内では捉えられていません)。
つまり「知識もあり慣れているのに新鮮」というのは難しいですが可能で、たぶん角野氏の表現性がコレ。つまり最強!
人間の思い込みや感情(共感性)はコントロールが難しいものなので、それを具現化していると感じられる角野氏の表現性は改めて凄いな…と思うしかありません。
●第1楽章
ということで、どれだけ直観的鑑賞が可能なのか自分にとっての「挑戦・真剣勝負!」と勝手に思っていた為、開始直前はめちゃくちゃ緊張しました。笑
いよいよタクトが振り下ろされ、冒頭のバン・バン・バン・バン・バン!というティンパニーが始まると、なんとこれまで一度も聴いた事がない程の速さで、うわ〜〜〜!!!
その後の木管楽器の「タララララララ〜」とメロディが上がっていく所に合わせて自然にテンポがゆっくりとなり、タラララララッラララ〜〜と弦が下がってくる所ではリタルダンド的にそのテンポ感を収めると、また次の高速バン・バン・バン・バン・バン!に自然と繋げていたのです。(メロディに則した緩やかな木管楽器の演奏と盛り上がり前のタメ→コミを成立させる弦楽器の演奏は「ゆったりしたテンポ」では質・意味が異なる)
なにこれ〜〜!!!この緩急のターンが幾度となく繰り返され、冒頭から凄いことに。。。
原田慶太楼マエストロのタイム感、めっちゃカッコイイ!!!
ロイヤルアルバートホールでの「ラプソディ・イン・ブルー」もオーケストラのテンポチェンジが多いのですが、「ジャズを表面的に模したテンポ変化」と感じてしまい、私は好きではありません。
ジャズの様式を取り入れたクラシックとしては一つの解でしょうし、それが長年聴衆に受け入れられてき歴史もあります。
単に私が30年以上苦手にしていたというだけ、個人の好みの問題です。
その一方で、昨今のポピュラー音楽におけるリズム重視の状況を考えると、クラシック音楽でも身体的な心地良さをリズムに求める方に向かっていくだろうと思います。
個人としての嗜好の違いと時代としての嗜好変化は同列に扱えないものの、個人の嗜好の集合が時代変化を生むという意味では無関係ではありませんから。
いずれにしても、この冒頭の部分だけでリズムの扱いがこれまでとは異なる印象を受けたということです。
ピアノ演奏の始まり部分では、驚くほと二音目が長く感じられました。
今まで聴いていた演奏では一音目が長めで二音目は短く後に繋がっていく感じでしたが、あえてそのパッセージの前に余白を取る感覚は、緩急の大きい演奏との質感を考えるとピッタリ!
そして、ブルージー&ジャジーな切なさにギューっと心が鷲掴みにされながらも、暖かく照らす優しさ・暖かさが会場に広がっていく不思議な感覚に最初から涙腺崩壊。。。
もちろん聴いている音楽そのものが素晴らしいのですが、この曲に対するこれまでの経緯が+αとなり「涙腺が緩む」程度ではなく本当に崩壊に至ったのです。
それは、私が長年追い求めていた音楽ではなく、ついに予想すらつかなかったその先の景色を見せてもらえた!!!という大きな大きな喜びでした。
とは言っても、まだ冒頭の2分位なのですが(記憶を思い起こす為に、音源を聴きながらメモと対照して書いている)、この時点で完全に別世界に連れて行ってもらった気持でした。
だからこそ、どれだけ自分の中にある既成概念を排することができるかが大きく鑑賞の質を左右する…という緊張感にも再び襲われました。
とにかく、過去に聴いた「in F」の何よりも早い部分のテンポは超絶的く、しかもオーケストラ全体・特にティンパニーもシンバルも一糸乱れぬシンクロ度で音楽がズンズン進んでいきます。
一方、ゆったりする所は十分に間合いを取っているだけではなく、テンポ変化がとても自然につながっている為、曲全体のウネリがこれまで経験した事がない波の様にも感じられました。
第1楽章後半のピアノの軽やかさも格別だったのですが、そこから一気に盛り上がりに移行するところ、オーケストラの音量を一旦ものすごく下げてからクレッシェンドしていきました。
大胆な音量変化はテンポやメロディの質感に則したクラシック的な強弱として自然に感じられる場合もあれば、ピアノの音を生かす為にオケの音を小さく調整される時もあり、後者の場合は音楽の印象としては音の強弱変化による影響はなく、聴きやすい様に録音をミキシング調整しているかの様。
ピアノ協奏曲を生で聴く場合はオーケストラと盛り上がる箇所ではピアノの音が聴こえなくなる事が常ですが、最後まで一度もそういう所がありませんでした。
原田マエストロも東京交響楽団も凄すぎる!!!!!
第1楽章の最後はオーケストラの弱めの音で始まったダーダ・ダーダ・ダーダ〜〜(音程は上昇)がクレッシェンドで巨大な波の様に盛り上がり、そのまま一気にジャジャン・ジャン・ジャン・ジャ-ンと超絶スピードのまま全員で駆け抜けた〜〜!!という感じ。
最後の一音は「ジャーーーーン」と伸ばさず、ハイスピードのまま「ジャ-ン!」、印象としては「バシッ!!」という切れ味が鋭い終わり方でした。
驚いたのはこの速さに対応するためか、シンバルは横に吊るしたマレットで叩かれていたこと。
クラシックコンサートを行く様になって気づいたのは、こういう最後の盛り上げシンバルは完璧に合う事の方が少なく、今回はそういう「ちょっとした残念さ」が一切ない完璧なタイム感が全体で共有されていました。
そして、当然の様に大きな拍手が起こったのですが…実は私はこの拍手について「なかった方が良かった!」と思ってしまったのです。
理由は長くなるので<おまけ>に記しましたが、拍手の賛否については以前の「Official Fanclub〜」にも書いていますので、その続きと捉えてください。
と、ここかまで書いた後に自分が読み直しても何が書かれているのかがよくわかりません。。。
メモをもとに音源を聴きながら書いていたのですが、その音楽の場所と音楽的にどういう事を表すのか語彙を持たないので意味が伝わらないのです。
他の方のような文学的な表現もできないので、特別な感動を伝えられないジレンマと無念さで度々筆が止まってしまいました。
●第2楽章
第1楽章が心地よいリズムに裏打ちされた音楽そのものの抽象的表現を味わったのとは一転、遠くから響き渡るホルンが夜明けを告げ、霧に包まれたNYの街のを感じさせる木管楽器、そして労働者の嘆きのようなトランペットに続いていきました。
この第2楽章のトランペットこそ、これまでクラシック寄りの演奏でもジャズを模した演奏でも私が満足できないものでした。
2022年角野氏のソロツアー最終公演ではご自身の鍵盤ハーモニカで素晴らしい演奏をされましたが、トランペットパートにまで及んでいた事はご自身のツアー公演だったからこそ可能だったのだと思います。
また、無理にクラシック寄りやジャズ寄りな様式性に拘らず、ナチュラルに演奏されていた秋田「読響」での演奏は納得できるものでした。
この日の首席トランペットのローリー・ディラン氏の音は、フワンと柔らかいまま芯には力強さを感じさせるもので、ブルースの心情が感じられるものの音楽的には正当でクラシカルな印象を持ちました。
これまで私が耳にしてきたトランペットは、クラシック的な表現では儚さを表現するためなのかミュート器や布を用いるなど音を曇らせたり音量を抑えめにする場合が多いのですが、この時の演奏は美しく柔らかい響きを用いながらも音量は余り抑えられておらず、それが人間の孤独とともに孤高の凛とした印象を与えていた様に思います。
ですが、、、松井秀太郎氏のトランペットを知っている身としましては、まあ…どうしても松井氏の音を思い浮かべてしまったのも事実です。苦笑
松井氏のjazzyなスタイルでの演奏すをイメージしたのではなく、TRUST ME(Spotify)の様な、ジャズスタイルとは異なる表現性でありながらもジャズやブルースの情感を歌の様に表現されている部分で。
とはいえ、そんな夢想は鑑賞の邪魔になるので…ダメダメと振り払いながらの鑑賞でした。苦笑
ピアノも、いつもの角野氏であればもう少し分かりやすいニュアンスでジャズ寄りに表現されるはずなのですが、クラシック的な表現とバロックの様なクラシック的な装飾音として感じられました。
曲が持つ軽やかさやドライブ感は生き生きと表現されているのですが、前ノリや後ノリの様なジャズ的なリズムの揺れはほとんどなく、ほとんどジャストなタイミングでドライブ感を維持しながら(テンポが早いという意味ではない)曲は進んでいきました。
そして、これは私の思い違い?見間違い?と帰宅してからYouTubeでも確認したのですが、ピアノのパッセージとヴァイオリンが重なる部分、本来はヴァイオリンパート全体で演奏される所がコンサートマスターのソロになっていました。
角野氏のピアノによるスタッカート気味の軽やかな音色は音量としては必然的に弱くならざるを得ず、それをを生かしながらバイオリンの音色を響かせる為だったのかもしれません。
前述したミキシングのような音量調整の一つとして。
そして、第2楽章冒頭のテーマ的な部分が二巡目になった所から入るスネアの音が…もう、メッチャ良い〜〜〜!!
過去の演奏でこのスネアの音に気づいた事すらなく、改めて音源やYouTubeでも確認すると確かに入っていることは入っています。
この章の冒頭に書いたように全体に備わっていた目立たないドライブ感をここで増幅するような体感的な効果が生まれた感じです。
やがてコンサートマスターのソロへ。
フレットレスな楽器を生かしたキューンと音が移行するヴァイオリンの演奏は、正直この日の演奏としては少々やり過ぎの様な気もしました。
たぶん、トランペットもピアノもクラシックの枠を感じさせるものだったからでしょう。
やがてトランペットの美しい孤高のソロを経て、角野氏の真骨頂とも言えるピアノのJazzyなカデンツァへ。
即興的要素が大きいので2ヶ月半前以上の演奏がどの様なメロディでどう演奏されていたのか具体的なものは記憶から消えているのですが(これまで書いたものはメモと音源とを照らし合わせて書いていた)、真夜中の静かなバーでたった一人、ただしスポットライトが当たっていて観客は誰もいないのにピアノの音だけがそこに響くようなシーンが目の前に顕れてきました。
その音楽からは哀愁と美しさと、孤独への諦念・強さのようなものを感じました。
全体が短調で進むメロディの中に一部長調として明るく感じられる部分が含まれていた事が大きいかもしれません。
また、旋律を右手と左手のユニゾンで弾く所、とてもとても繊細に音が絞られていて、本来ピアノの音は減衰すしかしないはずのものが、その絞られた音が開放されてフワーっと倍音の響き・共鳴で音量が大きくなって広がっていくようにすら感じられました。
それから、オーケストラのなだらかな音楽が全体を包んだ後、今まで意識した事がなかったピアノとグロッケンのユニゾンに鳥肌が!!
二つの楽器が一つの音の様にまざり合い響き合い、まるでプリペアドピアノの様な一つの音色に感じられたのです。
グロッケンの硬い芯のある音とピアノの彩りある輝きが人としての尊厳を感じさせ、オーケストラのふくよかな厚みが人の温かみを感じさせる様で…もう、本当に感動の一言。
が、ここで感動の余韻に浸る間もなく、ヴァイオリンのタララララーララ・タラララララララ(メロディが山なりになっている所、訳がわからなくてすみません)は、そのメロディに合わせてテンポの緩急が激しく変化、高揚を煽られ焦燥感に駆られるほどに!
そこからふっとした間合いを挟んだかと思うと、フルートとヴァイオリン+チェロのオブリガートにピアノがあしらいとして入り(私が感じたような演奏を何と呼べば良いのか検索して音楽用語を書いただけなので用法や意味が違っているかもしれません)、弦楽器と木管楽器との掛け合いも同様に緩急が大きく、やはり「変化は大きいのに自然」という感じ。
この劇的な変化でありつつもナチュラルに連続する音楽性は、今回の演奏全体を最も象徴している部分の様に思われました。
また、この後のピアノのソロ、アップライトかと思われるほどに小さくくぐもりのある音色からまるで濃霧が徐々に晴れていくようにように段々と明るく煌びやかに変化していくのです。
もう、自分の語彙の無さに絶望するしかありませんが、、、
そして、再度前述の「テンポの緩急が激しい焦燥感を煽る山なりののメロディ」が出現し、ピアノソロで更に煽る煽る!ついにドミナントからトニックに戻るような安定感が出現(コードや理論はよくわかていませんが、そういう印象という意味)、ここで大団円かと思いきやフェルマータ的にゆったり留まり、盛り上がったその音がバッと途切れると、なんと…通常の倍ほどの空白的間合いが出現しました。その時間はたぶん、約3秒〜4秒、無音が続いたと思われます。
もしかしたらもう少し短いかもしれませんが、とにかく通常に比べるととても長かったのですが、この部分を意識された方々は少なかったと思われるほどに音楽的にはとても自然なのです。
しかも音楽的な切れ目ではなく、あくまでも第2楽章の終盤に向けた音楽的変化の切り替えポイント、その落差が大きい為に間合い大きく取ることでかえって自然に感じるということかもしれません。
無音の中にその音楽的慣性が残っているので、それが収まるのを待っているような感覚です。
これとは逆に、第1楽章と第2楽章の間に拍手が無い方が良いと感じた感覚は、音楽による慣性を断ち切る所に表現性があるのではないか…という解釈です。
以前「〜無音を音楽にする可能性〜」というnoteを書いた事があるのですが、そういう音楽内の表現性ではなく、交響曲や協奏曲などの構築性においてどれだけ全体を自然に繋げるかという余白の扱いという感じです。
第2楽章の終わりとして静かに収束するフルートソロとピアノ、木管楽器の演奏に広がり、最後はピアノのユニゾンに。
このユニゾンも前述した様な共鳴を含む音階だと思うのですが、たぶん微妙に左右で音をズラして演奏されているらしく、ちょっとしたこのブレ感は音に雑味があるホンキートンクの様な質感を再現されていた様に感じます。
これも、ジャズの音楽様式とは異なるジャズ的な表現と言えるかもしれません。
●第3楽章
そして楽章間の余白は全く設けず、そのまま即第3楽章に突入しました。
第2楽章の終盤直前の間合いの方が本来の楽章間の区切り的な時間の方が、確実に長いです。
通常の第2楽章・第3楽章の間もそれほど時間を設けるものではない様ですが、他の演奏等と比べても最速という感じ。笑
音楽的な間合とテンポの緩急を組み合わせた今回の演奏では、楽章間の音楽的落差がありつつも直ぐに繋がることで音楽的慣性を断ち、その差を際立たせる意図が感じられます。
冒頭から当然早い!という印象。
ただし、この後のピアノの同音連打を成立させなければならないので、テンポが極端に早い訳ではないと思われます。
ティンパニーとマレットでのシンバルが疾走感に溢れているため、実際の速さではなく体感としてスピード感を与えていたということです。
そして、ピアノの同音連打!
この連打のスピード、私的には一番速いのはレヴァントでその次が角野氏という印象を持っているですが、両者の表現性は少し異なります。
レヴァントは一音一音の明瞭さよりも連打が波の様に畝る連続性が魅力なのに対し、角野氏はきちんとした音の区切りが明確なままタイトで早いのです。
その一音一音がしっかり打楽器同様のインパクトを持っていて、しかもモッタリしません。
ボストン響との共演の際に「これまでより丁寧」と感じた様に、記憶としては2022年のツアーの方が早かった印象があり、ボストン響以降に変えられたのでは…と思っています。
個人的な贔屓目かもしれませんが、現役ピアニストなら世界で比較しても角野氏が一番クリアでドライブ感を与える演奏をされると思っています。笑
が、今回注目したのはそこではないのです。。。
ピアノの低音の響きが本当に底から響いてくるのが本当に素晴らしい!
そこから第1楽章同様にフッとボリュームが下がりクレッシェンドでブワーっと広がりつつ同音連打の二巡めに突入。
硬質ではぜる様なシロフォンの音色と低音の迫力を感じるピアノによって生み出される躍動感・高揚感は私の言葉では表現できません。
他の音源を聴くとこのシロフォンは少し可愛らしさを演出する様な印象なのですが、この時はピアノのドライブ感を更に強調させる感すらありました。
東京交響楽団のパーカッショニストの皆様は本当にリズム感・タイム感が最高です!!
音源を調べてみると、映画「巴里のアメリカ人」のバーン・スタイン指揮 レヴァントによるサントラ(角野氏が頂いたレコード音源とは異なる)に近い感じがします。
この音源ではシロフォンでだけでなく弦楽器のピチカートや木管楽器とともに演奏されている所なのですが(時間を短くする為に編曲されている)、疾走感としてはこれに近い!
ただし、さすがコレはさすがに前のめり過ぎていてシンクロ度も落ちますし、最後は超絶的に速くて音源で聴いていると笑いが出る程。
映画では非現実的な「夢想」として「アダム=レヴァント」による一人オーケストラのため、この位で丁度良く感じる、、、笑
今回ほどのドライブ感は、今までの角野氏の演奏でもなかったと思います。
というよりも、これはピアニスト一人で成立するものではなく、指揮者・オーケストラ全体で共有しなければなし得ない訳で、本当に皆様すばらしい〜!!!
その後オケとピアノの軽やかな演奏でも前進性は続いていきます。
そして2同音連打が短めに入り、可愛らしい木管楽器とピアノの掛け合いから3度めの同音連打とオケの掛け合いの様な所では、テンポの緩急や音の強弱がこれまと感じた事がないほどに大きい振れ幅がでした。
ですが、やはり音楽的・身体的にとても自然なのです。
ピアノソロの直前、その後のピアノを際立たせるためにオケが最後にスッと引いていくさまは、ミキシングをした様な明確な音量変化でありながら余りにもナチュラルで逆に驚くほど。
音楽の情緒性・表現性は当然として、その場で奏でられる音量音質そのものが聴衆に向けてコントロールされている事には本当に驚きです。
原田マエストロ素晴らしすぎる!!!
(この類の音量コントロールを後の富士山河口湖ピアノフェスティバルの清水和音氏のピアノ演奏で感じたのですが、ステラシアターは椅子すらない全面コンクリート打ちっぱなしのため雑味のある反響が大きく、清水氏の完璧な音量コントロールに驚愕した)
この部分、哀愁を感じるメロディやアラビアンな印象を感じる所もあったとメモが残っていますが…今となっては正直どこにどういうアドリブが入ったのかは不明です。
そこからオケとピアノが二重旋律の様になる部分、ピアノはチャールストンの様な古いダンス系ジャズで、原田マエストロも乗りに乗って首をフリフリ。笑
ピアノソロカデンツァは、お約束のラプソディ・イン・ブルーのフレーズが入りましたがいつもより少なめの印象です。
ですが、実はここのカデンツァ全体がどういうものだったのか全くわかりません。。。メモが残っていないのです。。。
ボストンのYouTubeを確認するとこの最後のカデンツァが一番長く、ジャズのセッション的な即興演奏が行われていたのですが、だただ音楽に没入してその心地よさに身を任せていたのか、はたまたこの日のクラック寄りの表現性に合わせて他のピアニストの様なそこまで長くない短めノーマルスタイルだったのか。。。
正直、この部分が不明なのは手痛い失態でした。全体の解釈に関わる為です。
余りにも時間が経ちすぎたということなのでしょうね。
うーん、、、どちらだったのだろう。。。泣
さて、そこからクライマックス前に盛り上がる所(初めて聴く人はここが最後?と思う程に一旦盛り上がる部分)の入りは、ピアノからこの楽章冒頭のテーマの引用(比べると調は異なっていた)に引き継がれるのですが、やはりピアノが主役のまま会場の隅々まで聴こえる様にオケはとても小さい音から入りました。
当然クレッシェンドされていきましたが、緊張がフッと弱まるかの様にオケがバッキングのリズムだけになると、サッとピアノが主役として躍り出て、またオケが小音からクレッシェンド…と、ウネリが繰り返されます。
やがて、十分な間合いを経てテンポがゆったりと引き伸ばされると、全体にクラシック然とした盛り上がり。
これで終わりかと思えばまたピアノの同音連打から小音オケからのクレッシェンドと、まるでジェットコースターの様です。笑
そしてついに、映画のクライマックスがスローモーションで描写されるようなリタルダンド、この減速におけるパーカッションがとにかく完全一致で気持ち良い!からのドラの「ドーーーーーン!」。
これまで微妙にストレスだったものが解放されたかのようなカタルシス!
が、浸る間もなく熱情と哀愁がこもった畳み掛ける様な演奏が続き、ピアノの連打が怒涛の如く現れた後のパッセージピアノがなんということ!!!
強めの音からふぅーっと息を抜いていく様にナチュラルにピアノが美しく繊細に変化していきました。
小節的にはわずかな部分でしかないのですが、この時の感覚をどう表現して良いのかわからないほど、本当に鳥肌が立ちました。
確かに他のピアニストの方もここの部分で優しい質感に変化させているのですが、角野氏のピアノの音色は、手に持っている硬い石が金色の砂粒に変化してキラキラとこぼれ落ちていくような質感変化を感じさせたのです。
いよいよ佳境というピアノの同音連打が聴こえてくると、こんな凄い in Fが聴けたことへの興奮!それがいよいよ終わってしまうという惜しさ!この演奏を見届けることに対する緊張感!(なぜか凄く緊張していた 笑)
ただただ心の中で「うわ〜〜〜!うわ〜〜〜!」と叫んでいる様な状態でした。笑
その胸鳴りをそのまま音にしたかのようなトライアングルやスネアの音も最高!
やがて小さい音からクレッシェンドされながらティンパニーのソロでいよいよ終焉を迎えるというその音は、情感的な盛り上がりを誇張するタイプではなく、音はシャープで「このまま突き進む意思!」が強く感じられるものでした。
リタルダンドとしてテンポはゆったりと変化していくのですが、ドライブ感が損なわれないのです。
テンポは遅くなっているのですが、その遅くなるテンポに対して前ノリで合わせている感じといえば良いのでしょうか、、、
そして最後のピアノのフレーズが全ての音楽要素を束ねる様に収めると、全体が「ジャーーーーン、ジャン!」と短めに鳴り響き、ついに「in F」は終了したのです。
一気に緊張が解放され、私は放心状態。
拍手も数秒遅れて、パラパラと力なくするのが精一杯だったかもしれません。
また、度々書いている様に終了の拍手は余韻をしっかり感じた後の方が好きなのですが、この時の拍手開始は早めだったのに私には違和感がありませんでした。
自分は拍手もできないのに。笑
どうしてなのかは<おまけ>で後述します。
●まとめ
とにかくもう…本当に言葉にできないほど感動した素晴らしい「in F」でした。
コンサート前から期待はしていたものの、まさかこんな演奏が聴けるとは思ってもみなかったので。。。
30年越しで望んでいた理想の「in F」を遥かに超える本当に素晴らしい演奏を聴くことができた興奮と多幸感に包まれました。
もちろん、自分の想像や予想を超えられた時の様に「ヤラレタ〜〜!」も含まれるが、それこそが私が角野氏の音楽を求める一番の理由でもあるのですから。
その時の感激を書いたXがこちら。
30年聴いてきて、生きているうちにこんなin Fを聴けるとは😭✨冒頭から本当に感涙。原田Mo.は角野氏のピアノを最大限生かす特殊解釈、それを自然なアンサンブルに昇華した東交、そして角野氏の無二のピアノ。
— ナカナカのナカはナカカナ? (@nakanaka_nonaka) August 31, 2024
原田版角野カスタム帰属東交 ガーシュウィン:in F →#原田慶太楼#角野隼斗 #東京交響楽団
原田Mo.の解釈は、テンポの緩急やタメ・間合いも大きく斬新。物凄い高速テンポに対応するためシンバルは手持ちではなく横置きで叩くスタイル、ティンパニーもマレット固めでシャープな音に。ピアノソロ〜トゥッティへは、ピアノを消さない様に8割方オケが弱めで入りクレッシェンド。→
— ナカナカのナカはナカカナ? (@nakanaka_nonaka) August 31, 2024
書くと特殊なのに、角野氏のJazzyなタイム感・繊細な弱音・自在なカデンツァが生かされ、曲全体としては自然な美しいアンサンブルに。だからこそ、これまで聴いたどんな in Fより完璧なクラシック。この曲の「クラシックとジャズの中間」という概念が、その様式を超えて今夜新たに更新されました🙌
— ナカナカのナカはナカカナ? (@nakanaka_nonaka) August 31, 2024
後の項<潜在する趣意の現在的顕在化>に関わってくるのですが、この時の「in F」は、私が今まで聴いた何よりもクラシック音楽として聴こえてきました。
大きなテンポの揺れは過去の演奏とそのテンポだけを比較すれば極端なものの、従来のクラシック的技法「テンポルバート」「アッチェレランド」「リタルダンド」という、古典音楽の理論に沿って解釈されていると思われ、全く違和感がありませんでした。
また、弱音から入ってクレッシェンドする箇所が多かったのですが、それは情感としての抑揚表現ではなくその前のピアノソロからの入りを自然にするためだったり、ピアノの音を消せない効果として、メロディに合わせたクラシック音楽の型として自然に感じられました。
つまり、クラシック音楽の理論として考えられるアゴーギクとディナーミク(テンポ変化がアゴーギクで音量変化がと呼ばれているという所までは調べましたが具体的にはよくわかっていない)として体現されていたのだと感じるのです。
しかしその一方で、ジャズ(特にスウィングジャズ/ビッグバンド系)に内在する「躍動感」「ドライブ感」「ノリ」「タメ」が無条件の心地良さとして身体にダイレクトに伝わってくる演奏でした。
つまり「身体的にはジャズ的な体感を覚えつつも音楽としての表現性はクラシックであると」いう演奏に感じられたのです。
これがまさに次の項で書くつもりの「現在的顕在化」です。
また、今回のnoteを書くにあたりマレットによるシンバルについても調べてみたところ、いくつかYouTubeで用いられているものがありました。
オーラスでは両手のマレット打ちで用いられているものの、私がここで書いていた所は普通に両手持ちのシンバルでした。
動画ではシンバル演奏が全てが写っている訳ではないですし、このコンサートでもシンバルの演奏を必ず目で確認している訳ではありませんが、多くの演奏では両手打ちだった箇所でもマレット打ちだった所があったということです。
ここで一番書きたかったことは、これまで見聴きしたコンサートや音源・動画において、ここまで全体のドライブ感にシンクロしたシンバルを聴いたことがなかったということで、本当素晴らしい演奏でした!!
<ソリストアンコール ヘンリー・マンシーニ:ムーン・リバー>
「in F」の影響力があまりにも大きすぎて、ほとんど記憶にありません。
ただ、とても柔らかく優しくまろやかなイメージで、興奮と緊張をゆっくりと解放してくれる様なイメージだったと思います。
また、ピアノからは「歌」そのもののような音楽性が感じられました。
歌詞の意味をも想起させるということではなく、オードリー・ヘップバーンが窓辺で弾き語りをしている人の存在性、人間が生身の楽器になるという意味での温かさの様な質感を感じたのです。
先ほど書いた多幸感が、甘やかな余韻として自分の中で広がっていく時間でした。
そして前半が終了となりました。
<ペルト:主よ、平和を与えたまえ-混声合唱と管弦楽のための/プーランク:グローリア FP177>
●前置き
事前の予習で「主よ、平和を与えたまえ」を聴き作曲者ペルト氏を調べて驚いたのは、まだご存命の現代の作曲家ということでした。
音楽様式には詳しくない事もありますが、純粋なクラシックか宗教音楽かと感じられる程だったからです。
また、小見出しをプーランク「グローリア」との併記にしたのは、この日のプログラムでは2曲を続けて演奏し「前奏曲と主要楽曲」の様に扱っていたからです。
パンフレットの「主よ〜」の項では「前衛から古典回帰」的な作品とあり、冒頭に書いた帰還をしたマニエリスムであり、現代クラシックと言えます。
古典要素を現代的に再現するということとは逆、現代の音楽でありながら古典様式に倣っていることの意味を考えながらの鑑賞となったため、「古典的でも現代っぽい」という所に意識を置いて鑑賞しています。
●ペルト:主よ、平和を与えたまえ-混声合唱と管弦楽のための
サントリーホールのP席の部分に合唱団の皆様が並ばれていましたが、結構な人数で壮観!
冒頭から合唱が入ってくるのですが、とにかく驚くのは人の声が倍音で共鳴し合いパイプオルガンの様に聴こえてくることです。
もちろんパイプオルガンの位置から音が鳴っているので余計にそう思うのですが、オーケストラの音は上に広がっていくのに人の声か降ってくる不思議!
音楽は、長くのばされる音に一つ一つ積み重なっていくような質感で、「声」と「コントラバスの低音」「女性コーラス」と「男性コーラスの声」などなど、メロディを味わうというよりも楽器と声が重なり一つになった音、それらの響きを味わう音楽でした。
そして実は、コンサートを聴きながら…「あれ?私は事前予習していた曲を間違えていた???」と思うほど、曲の印象・展開が事前に聴いていたものと異なっていました。
というのも、硬めのティンパニーの音が入ったり、明るくはないものの葬送行進曲のようなドライブ感があったからです。
続けて演奏されたとはいえ、さすがに「グローリア」冒頭の部分とは間違える事はないので、これは何かのバーションとして存在するものが演奏されたのでは?と。
noteを書くにあたりSpotifyで検索(Spotifyの検索は頭がよく無いため別曲も大量に表示され、だからこそ延々と見続けていると思わぬ発見がありますが、逆にAppleMusicやAppleClassicalは検索結果に曖昧な曲が含まれない為に見落としが多く、こういう検索には使えない)。
30曲程度チェックすると、とにかくアカペラや合唱がメイン過ぎて普通にオケの音が大きめに入っているものを探すのすら大変でした。
太鼓が入っている演奏をようやく1曲みつけたのですが、調べてみると古楽器アンサンブルのため調整も異なっている様でした。他に室内楽版を1曲ずつとギターソロ等で、収穫はゼロ。
イメージが一致する音源は見つけられませんでしたが、太鼓入りの演奏は葬送行進曲のような感じや終盤の高揚感など他の曲よりもこの日の演奏には近い感じがします。
また、タイトルに表されている様な宗教色よりも、儀式に近い身体的なもの、宗教的祈りというよりイニシエーション(日本の禅も含む)的な印象を受けました。
人間の感情よりも抽象度が高い無機質感があり、その無機質感が「現代曲」としての認識につながったからです。
今回のプログラム全体の流れを考えてみると、原田マエストロが伝えたかったことなはその部分なのかも…と。
ちなみに、原田マエストロは指揮棒を使われていなかったと思います。
●プーランク:グローリア FP177
「主よ、平和を与えたまえ」が終わると拍手を待たずにすぐに演奏が始まり、組曲の様に一曲扱いにされているのがわかりました。
プーランクはガーシュウィンとは一歳違いですが、「グローリア」は戦後に作られている現代クラシックです。
この曲はブロックを組み重ねる様なフォルムを感じるのに対し、「in F」は粘土を手で捻ったり盛り上げたりしてフォルムが生まれてきた印象。
当初、彫刻と彫塑の違いと書こうとしたのですが、プーランクは彫るより重ねる印象だったのでブロックに、ガーシュウィンも彫塑というよりぐにゅーと握って全体のフォルムを作り出す手捻りという感じがしています(妙なこだわり 笑)。
ようやく本題。
冒頭の威厳のある旋律と、印象的な「グローリア」の繰り返しからは、行進曲の前進性が感じられます。
人間外の存在(神)による寿ぎ、具体的には幸福への確かな道へ後押しを行なっているような感覚です。
その場をふわーっと包むような日本的な寿ぎとは異なるのですが、なぜか寿ぎだと感じます。うーん、、、所々入るハープの煌めきが備わっているからでしょうか。
そこから、神に応える人の存在として「グローリア〜」と合唱が入ります。
とにかく、そのコーラスの迫力たるや!!!!
とはいえ、歌詞を読むと祈りではあるのですが、全然祈りに感じられず。。。笑
神への祈りそのものではなくて、神の下に神を信じて生きる民衆が集まっている状態、群衆が主役という印象を感じました。
●第2楽章
キラキラの前奏からダンスっぽい軽やかなノリで音楽が始まり、コーラスの方々も踊っている〜〜!!笑
歌詞は賛美歌なのですがシンコペーションも多く、まさにゴスペルっぽい!
実は、この曲楽しい曲調の後に楽章の終わりではないのに音楽が一旦終了するのです。
その時に「もしかして、in Fの第2楽章の長い間合いはこれと呼応しているとか?!」と考えてしまいました。
そこから聖歌的な静謐で美しい合唱が流れるのですが、先に演奏した「主よ、〜」の様な質感に。
軽やかに「グローリア」の言葉が入り段々クレッシェンド経てペーションのフレーズに至ると、これで曲が終わりだと言っても騙される位に更に大きく盛り上がり、ようやく終了しました。
これは書いていて気づいたのですが…このクレッシェンドで盛り上がる構造も、なんだかこの日の「in F」っぽい?
●第3楽章
ゆったりと厳かに始まる木管の美しいメロディ、いよいよソプラノソロの熊木夕茉氏の独唱。
日本語には余り無い、「シュ」「クッ」「ツッ」という無声音的な子音と巻き舌がとても良く聴こえてきて、リズムとして音楽に与える影響を感じました。
角野氏がポーランド後が曲のリズムに関係している云々と語られていた事がありましたが、これらの音は皆ヴォイスパーカッションの音に近いので当然なのかもしれません。
一方、コーラスは断然響きが中心に耳に入ってくるので、ソロとコーラスでは同じ声でも全く質感が異なり、掛け合い時の対比がとても面白く感じられました。
また、歌詞は「〜神よ」が繰り返されており、熊木氏の歌は情感の籠った神への呼びかとして下から上へと昇っていきます。この声なら神に届くだろう…という美しさと力強さで。
一方、コーラスは上から下へと降りて来るのですが、それがまさに「ソロ=一人の人間=下から上へ」「コーラス=神の声=上から下へ」という人と神との関係性と一致しているのです。
コーラスがこの位置で歌われるということが曲の選定時から考慮されていたと思えるほどに、この配置(演出?)は素晴らしい効果でした。
また、第2楽章でも印象的だったらハープがこの楽章でもとても美しかった!
熊木氏の声は透明な水の中に見えない炭酸があるような微かな微炭酸のと言う感じ。
ハスキー要素が微妙に入っているため、倍音的効果があるというか声に厚みを感じます(声に重さがある訳ではない)。
その一方で、軽やかで明るさも感じられるので、松田聖子系という感じです(松田聖子の声をハスキーと感じるか透明だと感じるかは捉え方によるので)。
●第4楽章
ここで一転、バレエに出て来る宮廷のシーンの様な大衆的で軽やかで華やかな音楽です。
パンフレットでは「ディベルティメント」とあり、調べると「嬉遊曲=貴族のための娯楽音楽」だそうで、まさに!
そこから男女の迫力ある合唱に移行し第1楽章に近い畳み掛ける様な構成に。
この変化はとても自然で、第2楽章の長い間合いも含めて曲中変化の巧みさには感嘆します。
●第5楽章
冒頭、何やら事件が起きた様な音が鳴ると不穏な雰囲気に。もっとざっくり言うとハリポタっぽい感じ。笑
そこから少しジャジーな印象・民族調にも感じる行進曲的リズムになるのですが、ソプラノのソロをきっかけに自然と宗教音楽っぽさに変化していきます。
男性コーラスだけが入る掛け合いも面白かったり、まるでアップライトピアノの弱音の様な空気を含むコーラスの声質など、さまざまな声の質が感じられる楽章でした。
全体としては、ジョン・ウィリアムズのETやサブリナ(不穏なフレーズが結構入ってる)に近い映画音楽的印象です。
ここまでくると、当初の「宗教音楽」という思い込みから「現代のクラシック」に確実に認識が変化していました。
●第6楽章
冒頭の迫力あるコーラスは「喜び」をその声全てで表現しており、まるで声によるファンファーレです。
そこからリズミカルに刻みつつ第1楽章の主題も感じられます。
ソプラノソロからの「アーメン」は宗教曲らしさが全面に感じられるものの、そこから続く後半はとてもロマンティック。パンフでは「オペラを思わせる」と書かれていて、またもや納得!
ですが、最後の最後はまさに祈りでした。
クライマックスではコーラスの大音量「アーメン」がまたもやパイプオルガンの様に聴こえると、美くしいソロプラノの後には一転して静かに厳かに響くコーラスの「アーメン」に。
続くソプラノソロの「アーメン」はとても繊細で、コーラスの声がこだまの様に遠くで響いている様です。とても美しく。
原田マエストロは音楽が終了してもしばらくタクトを下ろさず、まるで黙祷を捧げているかの様で、会場全体がしばらく静寂に包まれた後に、大きな拍手が沸き起こりました。
潜在する趣意の現代的顕在化
<作品の趣意をどう捉えるか>
この日のプログラム構成(=作品選択)とその表現解釈は、今後のクラシック界にとって新たな可能性を示すものになった気がしています。
今までも意欲的なプログラム構成はあったでしょうし、現代的な解釈で古典に新たな息吹を吹き込むような演奏もあったでしょう。
しかし、それらとは少々異なるもの感じたのです。
演奏された曲はすべて20世紀に入ってからの作品で、厳密な意味での古典作品ではありませんが、様式化されたクラシック音楽の範疇であり、前衛的な現代音楽の様な難解な印象はありません。
何も知らずに聴けば(クラシックの専門教育を受けていなければ)、ジャズの要素を取り入れた「in F」が最も古い時期の作品である事に驚くのはないでしょうか。
しかも「in F」以外はすべて戦後の作品なのですから。
ガーシュウィン:ピアノ協奏曲 in F 1924~5年
プーランク:グローリア FP177 1959~60年
ペルト:主よ平和を与えたまえ 2004年
上田素生:儚い記憶は夢となって 2023年
パンフレットを見ると、プーランクはエリック・サティを「芸術上の父」と呼んでいたと書かれていますが、何も知らずに聴いていたら、やはりサティの方が後に生まれていると思ってしまいそうです。
プーランクを検索してみると、本来は「ユーモアとアイロニーと知性がありエスプリの作曲家」と書かれている様に、宗教音楽とは別の側面を持つ作家で、そちらでの評価の方が高い様です。
「真面目な面とそうでない面」という捉え方もされていて、評価が固定されるのを嫌い多様な活動をしていたのかもしれません(少し角野氏にも通じる感じ)。
プーランクの作家性が何を意味しているのかといえば、当時の現代性や前衛性が音楽外からの視点で捉えられていたという事に他なりません。
プーランクは前衛的な現代音楽の理解者でもあったそうですし、ペルト氏はもともとは前衛的作品で知られる様になったという事ですから。
音楽外の関係性を作品内で意識することを、ここではまとめて「構造・構造化」と呼んでいますが、造形芸術で早い時期に知られている事例としては、レディーメイド(大量生産品)の便器を置いてサインをしただけのマルセル・デュシャン1917年の作品「泉」があります。
直後の1920年にサティの「家具の音楽」が発表されたことを考えると、前衛芸術としての影響はあった可能性もありますが、サティは音楽界においては異端という扱いだったでしょう。
それから35年後の1952年、音楽としては無音状態でありながら環境音をホールで提示するジョン・ケージの「4分33秒」がに発表されました。
ケージはデュシャンの影響を受けていますし(後にコラボ等も行っている)、鈴木大拙から禅を学んでいるので(禅的な考え方は構造主義的に通じ、そもそも日本文化は構造的)音楽を音楽外から意識させ構造化こそが作品の表現性そのものと言えるかもしれません。
さらに、レヴィ=ストロースが主要な著作を発表したのが1950年〜60年なので、時代的に構造を意識する思考が共有・一般化される時期と重なっています。
これらを考えると、ケージの前衛音楽はサティとは異なり以降の音楽にパラダイムシフトを起こしたと言えるでしょう。
この経過を経ている以上はプーランクも音楽だけではない音楽外のプラスαの趣意を持たせた上での新古典主義・マニエリスムだと考える方が自然なのです。
もちろん、より現代に近いペルト氏も。
つまり、現代音楽を通っているプーランクとペルト氏による古典的な音楽様式の引用は、規格製品をもとに芸術作品を作るような構造化が既に起きているということになるのではないでしょうか。
一方、ガーシュウィンの作品にはその視点は存在しません。
あくまでも、当時新しい音楽を求めてジャズとクラシックを融合させようとした一次的視点なのです。
制作時期は「泉」の後ではありますが、造形芸術から音楽への影響が通常20〜30年位ズレること、大衆性を背景に持つガーシュウィンとデュシャンとでは接点がなかったとが考えられます(何よりもガーシュウィンは超絶に忙しかったらしい)。。。
つまり、この日演奏された曲のうち「in F」のみがクラシックの音楽様式そのものの変革を目指した「新しさ」を追求し、他の3曲はクラシカルな音楽様式は踏襲した上で音楽の外側に現代性・前衛性を投影していると考えられる訳です。
それは上田氏の作品においても。
また、「潜在する趣意」には複数の意味を持たせています。
一つは音楽作品だけでは見えてこない内在するものや外的に繋がっているもの。
もう一つは、もしガーシュウィンが生きていて、構造的な芸術解釈を知っていたらその方法を試すかもしれない、という類の「想像」も含ませてみました。
これは、「ゴルトベルク変奏曲」コンサートの際に「ヴィキングル・オラフソン最新インタビュー」で語られていた「バッハが未来に向けて書いた手紙、つまりバッハの時代だけでなく、すべての時代のために書かれた作品だと考えています。」に事に近い感覚です。
ただし、オラフソン氏が音楽内のアプローチで完結する方法論なのに対し、この日の原田マエストロはプログラム全体として構造性を意図したものという違いはあります。
また、原田マエストロがクラシック然としたメタ的な解釈を「in F」に施したことで、実は他作品同様に構造化されたプラスαの意味が成立したと考えることもできるのです(後述)。
前述のXで、「生きているうちにこんなin Fを聴けるとは思っていなかった」と衝撃を受けたのはまさにこの部分、「この手があったか!」という驚きでもありました。
クラシック音楽における現代のマニエリスム(=現代クラシック)とは、クラシック音楽というカテゴリー内では大衆性として発露されるものです。
クラシックの型を破ろうと大衆音楽やジャズの要素を取り入れたガーシュウィン作品に対し、クラシック音楽の理論や様式に依拠する演奏解釈を施すことは、一方でではクラシック音楽としての大衆性を添加する行為とも言えます。
ガーシュウィンの伝記映画「アメリカ交響楽」を観ただけなので本当の事は定かではありませんが、大衆音楽から出発したガーシュウィンのクラシック音楽に対する想い(ある種のコンプレックス?)を考えると、この日の演奏解釈はガーシュウィンにとっても念願だったのでは…と思わずにはいられませんでした。
それが2番目に挙げた「潜在する趣意」になるのです。
ただし、ここであげたような趣意の顕在化は今現代だから可能なことで、奏者も鑑賞者も構造的視点を持っていない制作当時では成立しないとも言えるのです。
そしてこの様な「クラシック化」は、実は案外他の曲でも行われていたのでは?という気づきにも至りました。
今回のような意図的な構造化ではなく「クラシック音楽としての正統な解釈」という価値観において、です。
「民俗性とモダニズム〜」で書いた「バルトーク:ピアノ協奏曲第3番」、シルヴァン・カンブルランマエストロによるハンブルク交響楽団の演奏はとてもモダンでしたが、バルトークが作曲した当時はこの様な演奏を意図していたのでは?と思った経緯を書いています。
発表された当時の退嬰的(≒古臭い)という評価が現代では高評価に変わった原因は、大衆が古典の王道クラシックを好むことから、解釈・演奏がその方向に進んだ為と考えることができるからです。
新古典主義=退嬰的という批判はこの作品が古典様式を踏襲している作品である事と同時に、当時は前衛的で新しいクラシック音楽を志向する考え方(一次的視点)が主流だった事を示しています。
今の聴衆は100年以上前の本当の古典作品とそれ以降の近代作品とをほぼ同列に扱うことが多いので、近代作品を「当時前衛性があった新しいクラシック音楽」として解釈するのではなく「クラシック音楽」としてまとめて認識する場合が多いのではないでしょうか(作家性などを細かく意識するのとは別)。
結果として、より古典的な方向性に解釈・演奏が展開したとしても不思議ではありません。
また「大阪フィルハーモニー〜」の「ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番」の第2楽章は、作家性及び第1・第3楽章との流れで抽象度の高い解釈が主流だったものに、クラシカルな緩徐楽章としての情緒的表現を施す解釈が、近年人気になったという訳です。
ショスタコーヴィチが目指していた表現性かどうかはわかりませんが、作家の手を離れた独立した作品として考えれば、それを成立させる音楽性は作品内にはじめから内在していたということになります。
結果論ではありますが、ハンブルク交響楽団のバルトークと大阪フィルのショスタコーヴィチの表現性は第1・第3が黙にスティックで第2楽章がクラシカルという共通項を持つにに至りましたが(つながりをブツ入りにするかなめらかにするかの違いはある)、私は現代の聴衆の好みが多分に反映された結果として解釈しました。
ただし、この様な解釈や表現は角野氏のような「その表現を可能にするソリスト」が現れてきたという時代性も重要で、聴衆の好みと演奏者の表現可能な技術は当然ながらリンクしているという事でもあります。
簡単にまとめると、以下の様な感じです。
制作から時間が経過した時点で(直接見聞きした人が存在しない時間経過と考えると70年以上)、クラシック音楽というジャンルが古典の継承とその潮流にある以上、現代では意図しなくとも構造化を経ている。
意図的な新解釈を志していなくとも作曲者のオリジナルの意図よりも、演奏時の大衆の好み(聴衆も演奏者も含む)が反映されたものになる
音楽内で現代性・前衛性を完結させると難解にならざるを得ないのに対し、音楽外へのつながりに作品の前衛性を投影すれば、大衆に受け入れられる音楽と同時に現代性を発揮することができる。
クラシック音楽の聴衆の好みは大きく変化しているが、クラシック音楽界ではその変化をメタ的に解釈する視点に欠けるきらいがある
少々脱線しますが…
これらのことを踏まえると、私が30年ほど前のクラシックがどうして苦手なのかも納得できてしまうのです。
Spotifyで昔の音源と聴くと、リズミカルで大胆・私が好むタイプのものが数多くあり、70年代〜90年代が最も保守的な演奏の様に感じられます。
この時代は前衛的な現代音楽も発展していた頃なので、「クラシック音楽」というカテゴリーの中でも対象が二分され、より保守的な表現を好む層が古典クラシックを、前衛的表現を好む層が現代音楽を受容したのではないでしょうか。
鑑賞者の棲み分けまでには至らなくとも、ある種の区別が無意識的に行われていた可能性があります。
その分離状況が表現性の違い・振れ幅をより大きくし、結果的に古典クラシックの表現性は演奏者も聴衆も自覚もないまま保守化していた可能性が考えられる気がします。
(偉大な指揮者が活躍していた時代でもあり、その影響もあるとは思いますが…)
一方。クラシック音楽市場が縮小している現在ではこの両輪の維持は難しく、大衆の理解を不問とする実験音楽への支持を得ることは難しいでしょう(だからと言って意味がないということではなく、音楽の芸術的な必須課題として前衛表現への探究は必要です)。
クラシック音楽の市場確保が第一命題になっている現在では、作家や表現者は適度な音楽的新しさを持ちながらも聴きやすい音楽が主流になるのではないでしょうか。
つまり、現代の現代音楽と現代クラシックをゆるやかに統合された状態です。
角野氏の個性はまさにこの「ゆるやかな統合的志向」のど真ん中にあり、そこを先頭で走っているのですから、まさに「時代の寵児」なのです。
ちなみに、私の場合は昔から変わらない自分の好みがたまたま今の潮流と一致したという訳です。なにせ中間領域好きですから。。。笑
ここで少し説明を加えたいのは上記の4番目。
現代人がどれほど制作当時のオリジナル解釈を追い求めても、その表現は必ずしも現代のセンスにマッチするとは限らない上、楽器も演奏環境も異なる以上は当時の表現性に辿り着くことはできません。
だからといってオリジナルの表現性の模索は否定されるべきではないですし、ピリオド楽器の研究に意味がないわけではありません。
ですが、歴史的な研究や検証が進むことで「○○○だから正統である」という事でもないはずで、オラフソン氏が語られている通りにその変遷を意識することの方が有意義だと思ってしまいます。
1740年代の最速の移動手段は馬で、しかも時速15~30キロしか出ませんでした。つまり、当時と現代では時代が違うのです。あらゆる演奏解釈は、演奏者が属するそれぞれの時代を反映しますので、当時の人々がどのように音楽を演奏し、どのように考えていたか、ピリオド演奏ならすべてわかると声高に主張するのは、いささか傲慢ではないかと思います。それに、ピリオド演奏の実践といっても、その時代(ピリオド)はバッハが亡くなった1750年で終わるのでしょうか?私はそう思いません。バッハの時代から現代に至るまでの演奏史に関する知識を学んだほうが、はるかに面白く有意義だと思います。
結局、何か一つの「正解」がある訳ではないということなのですが、この日のコンサートはそれらの難しい問題に対して「一つの解」を示した様に感じられました。
が、それがどういうことなのかを言語化することができなかったのです。。。
この「書けない〜〜」という状態で時間はあっという間に過ぎ去ってしまいましたが、10月に観た展覧会で「もしかして、こういうことでは?!」という具体的な事例を見つけたので引用しながら書かせていただきます。
<パッケージ(=構造化)を免れない現代の芸術鑑賞と趣意の汲み取り>
コンサート会場や展覧会場などで音楽に接するしかない現代の私たちは、誰かにパッケージされたものを鑑賞するしかなく、常に構造化された作品しか鑑賞することができないとも言えます。
具体的には、教会で演奏されるための宗教音楽をコンサート会場で聴くことや、貴族の城に飾られる前提で描かれた肖像画を展覧会会場で観ることなどを指します。
この事実は鑑賞環境の限定性を示すだけではなく、コンサートならプログラム構成、展覧会ならコンセプトや展示カテゴリーなど、第三者によるパッケージやキュレーションから逃れらて鑑賞することはできないという事です。
このキュレーション的なパッケージは茶室の取り合わせに近いものですが、決定的に違うのは、あくまでも個別の作品鑑賞の質を上げる為の構成になっているという所です。
少々わかりづらいかもしれませんが、茶道の趣向の場合は個々の茶道具が主役ではなく、点前・茶・道具全体の取り合わせや季節などなど、自らの行為も含めた茶室内での事象全体で体感する行為が主役で、現代アートのインスタレーション的な鑑賞です。
一方、インスタレーション以外の展示では、パッケージされた提示ではありつつも、単体の作品(コンサートであれば演奏された曲/展覧会であれば展示品)を主役として鑑賞するのです。
ここからは少々ややこしいので具体例として造形芸術の例として話を進めます。
研究成果として制作当時の制作環境と受容環境が推定できると、それを模した「環境展示」という展示スタイルが20世紀後半から現れてきました。
アーティゾン美術館「空間と作品」展では、様々な展示スタイルが幅広く行われたので、質の違いがよくわかる事例として挙げさせていただきます。
小文字で内容を記載しますが、ここを飛ばして頂いても問題ありません。
アーティゾン美術館「空間と作品」展(美術手帖記事)
近代までの造形作品は、本来それが置かれる空間との関係性や必然性を持っていた訳ですが、現在の展示はその作品だけを鑑賞するための「環境からの分離(環境の抽象化・無機化)」が行われ、ホワイトキューブ(1936年 MoMAが発祥)というモダニズム的展示がデフォルトです。
一方、作品が制作された時代や当時の環境を考慮する文化背景にまで言及するスタイルは、ホワイトキューブ以降に意図的に行われるものを「環境展示」と呼び、主に博物館系で行われていました。
今回の展覧会の目玉は、その作品が置かれるに相応しい空間を環境展示した所にあり、調度品もデザイン的に美しく「生活自体が名もなき芸術」という「民藝」的な解釈とも共通性を感じます。
ただし、家具や調度品とともにある展示では情報量が多すぎて、作品を含む全体が風景・景色となってしまうのです(調度品展示エリア内に入れない為なおさら)。
一方、ピカソ「腕を組んですわるサルタンバンク」では、作品を観る視点(目の位置)や鑑賞者の体感(ゆったり椅子に座って眺める感覚)を生活空間で飾られていたものに近づける程度で、作品周辺はミニマルなままだった為に集中して鑑賞することができました。
円山応挙「竹に狗子波に鴨図襖」は畳に建具という建築としての造形と当時の日本家屋内に満ちていた光(前庭の白砂から反射した光か襖を通した光、どちらも間接光)を模した照明という凝った作りです。
日本建築はミニマルなので、実物に即した展示空間でもホワイトキューブ同様の鑑賞が可能だったのですが、これが実は衝撃的だったのです!
実際の建築内で襖絵を観ている感覚とは全く異なったからです。(後述)。
いずれにしても、この展示スタイルは私たちがこれまでどの様に作品を鑑賞してきたのかを自分の感覚で体験できるとても良い展覧会でした。
ちなみに、ピカソ「腕を組んですわるサルタンバンク」はピアニストのホロヴィッツが所有していたという経緯からこの室内風の展示が行われました。
以前角野氏のインスタストーリーズでご一緒されていたBerggruen氏がスタインウェイオーナーとしての紹介されている事をFFさんに教えて頂いた所、この方がイタリアでキュレーションしたピカソの展覧会でも「腕を組んですわるサルティンバンク]は展示されていたとのこと。(FFさんとのXでのやりとり ※ご覧の方はぜひこの前のスレッドからどうぞ)
ここで問題にしたいのは、現在の展覧会では1936年以降の「ホワイトキューブ」がデフォルトになっているため、私たちの作品鑑賞は作品と周辺環境を分離した上で行うのが前提になっているという事です(音楽は古くから演劇とともに専門劇場で聴くスタイルがありましたが、宗教・祭・サロン・ダンス等の別のコンテクストを背負ったものでさえ純粋に音楽だけを聴く鑑賞が中心とっている)。
インスタレーションとしての作品鑑賞も定着してきましたが、個別作品を鑑賞する感覚とは異なっています。
それを明確に自覚したのが、円山応挙「竹に狗子波に鴨図襖」という訳です。
著名な襖絵を寺院等で観る場合、多くは縁側(廊下)から部屋を拝見することしかできませんが、特別な拝観では室内で襖絵を拝見する機会を得られる場合があります。
視覚的にはこの環境展示と似ているはずなのですが、実際の室内では「襖絵が作り出した空間に居る」という感覚が中心になり、作品の細部には目がいきません。
というよりも、細部に目が行く場合は「細部を確認する行為」であり、展示作品に対峙するような集中・没入する鑑賞感覚にはなれなかったのです。
たぶん、鑑賞する主体が作品(視覚優位)か空間(体感優位)か、という違いがあったのではないでしょうか。
この鑑賞感覚の違いは二つのことを示しています。
「襖絵に対して個別の作品性を集中して観るような視点は、制作当時の人にはなかった」もしくは「ホワイトキューブに慣れていることで、空間の中に存在する個別作品への認識力が衰えている」のどちらかです。
どちらが正しいのかは問題ではなく、いずれにしても「現代人は意味づけのある空間の中での個別作品を深く鑑賞する事は難しい」ということなのです。
これは、「視点(作品を観る高さ)・枠組み(襖の縁や柱の関係)、反射光源」など当時の環境の一部を再現することで作品の持つ趣意が汲み取りやすくなったのと同時に、当時飾られていた周辺環境が現代とかけ離れている以上、それを再現しても単体の作品を鑑賞するコンディションを下げるということでもあります。
また、「竹に狗子波に鴨図襖」は大掛かりな展示のために全作品は前・後期に分けられ、作品全体を一度に鑑賞する事はできませんでした。
作品全体の鑑賞ができなかった事に対し、展示スペースの問題で致し方ないという諦めがつくほどに、私たちは連作の分断展示には慣らされているとも言えます。
部分としての鑑賞しかできない以上は作品の趣意読み取れない可能性があるのと同時にジ、部分にフォーカスすることで別の魅力を見出す事もあるでしょう。
これはコンサートの演奏形態でも全く同じ事です。
また、作品を環境から分離させるという行為は、他の作品との関連性を新たに付加する事を可能にします。
コンサートのプログラムも展覧会展示と同様に、作品とは異なる「作品の外側(主に概念)」に、新たな表現や芸術性を置くことが可能なのです。
角野氏が「Reimagine・再構築」としてバッハとカプースチンを交互に演奏したこともこの類で、構成者のクリエイティビティと捉えることもできるでしょう。
一つ前のnote「〜カプースチン〜」で書いた「8つの演奏会用エチュード」「24の前奏曲」の抜粋構成も同様です。
ですが、今回のプログラムはそれらの再構築とは異なっている!と感じられました(いよいよ本題!)
私が感じた原田マエストロの「in F」の解釈は、「ジャズの趣意」を生かしていると感じられるものですが、ここで用いている「趣意」は作曲家がその作品を作り出す際の意図だけでなく作品様式自体が持っている質感や文化的な意味合いなどあらゆる事が含まれます。
あらゆることが含まれるという事は、その時点では見えていない・まだ発見されていないものも含まれるのですが、その潜在しているものを顕在化させたのです。
今回の演奏では、ジャズ様式の引用(=ジャズっぽさ)には主眼が置かれておらず、ジャズが持っているリズムや即興性を汲み取った上でそれをクラシック的表現の中で再構成している様に感じられました。
それは、「ジャズに内在する趣意をクラシックの様式上に顕在化した」と言い換えることができるのです。
この様な構造的表現性がなぜ制作当時で不可能だったのかについては、当時、今のようなクラシック的な表現を主眼において演奏したら、中途半端なジャズの引用となり、バルトークの協奏曲第2番の様な低評価しか得られなかった可能性も考えられるからです。
人間はフォーマット(記号化された様式)として認識できないとその細部の差異には気づけない為で(外国語の細かい発音の違いが聞き取れない様なもの)、「ジャズとクラシックの折衷」というガーシュウィン以降の様式が定着している今だからこそ、今回の様な微細な表現の違いに芸術性を感じられたとも考えられるのです。
時代が変化することによって演奏者・鑑賞者の体感性・感性が異なるという事が前提なのです。
前述したバルトークやショスタコーヴィチの様なジャズや民族舞踊的なリズム感性の強い曲調の第2楽章の表現にロマン主義的な緩徐楽章的質感を取り入れる事も、やはり今だからこそ可能だと言えるでしょう。
もう一つは、ジャズのリズム感や即興性があらゆる音楽に影響をあたえ、現在聴く音楽では特に身体的な心地よさが音楽のジャンルに関わらずデフォルトとして多くの人々に記憶されているという事です。
そのデフォルト状態が演奏者を輩出する地盤なのですから、クラシック様式においてもリズムの心地よさを演奏できる表現者は現在でなければ輩出されないのです。
一方で、長年クラシック音楽に慣れ親しんでいた高齢層の方は「様式にとらわれない心地よいリズム」に身をゆだねるのが難しい場合もあるでしょうが、時代による好みの変移のためどちらが正しいという事ではなく「一般の音楽がリズム重視になっている流れがありクラシックも例外とはいえない」というだけです。
(とはいえ、その方々が逝去された後はリズム寄りになると思われますが…)
タクティカートオーケストラ コンチェルトシリーズ「菊池亮太 ガーシュウィンの世界」を配信で拝聴しましたが、お若い方が中心のオーケストラとして期待していたのに、実際はもったりしたリズムで残念でなりませんでした。
お若いだけに、古い時代の古典を見本として倣っている様な気がしたからです。
逆にいえば、今回の東京交響楽団と原田マエストロの大胆な解釈と演奏は、プロオケとして指揮者としてそれを可能にする実力と、多くの支持を得られている実績があったからこそ、とも言えるでしょう。
お若い方はもっと自由にリズムを楽しんで欲しいと心から思います。
<現代的の感性・体感性に合わせた潜在する趣意の顕在化>
発表されて100年を経て、ガーシュウィンの折衷様式のスタイルも様式として定着しています。
クラシック的な表現なのかジャズ的な表現なのかという曲への解釈は長い間様々に試みられた経緯の後として、今はソリストの個性に委ねられる部分が大きくなっている気がします。
今回は、角野氏がクラシカルな様式の中でもジャズの趣意を具現化できる表現性をもつアニストだったから可能な解釈・表現だったという事にもなるでしょう。
これまで書いてきたことをプログラム全体で考えてみます。
ペルト/プーランクの二作品を続けて演奏する様な取り組みは「カプースチンナイト」や「Reimagine」と同じ「再構築」です。
主に音楽として何かしらの換喩的インスピレーション(その作品の文脈とは異なるもの)を基に構成者の表現意図の上に行われるクリエーションで、「構造化による趣意の創出」です。
一方、「In F」は作品の中にあった潜在する趣意を様式とは異なる部分で表出させたといえるので「潜在する趣意の顕在化」であり、構造の創出といえます。
この二つを比較すると「構造による趣意の創出」は主体を構築物(再構成後のもの)に置き、「潜在する趣意の顕在化」は主体を作曲や作品に置きます。
今回はこれら二つが同時にプログラムとして成立していたので、視点は潜在する趣意に起きながら全体を構造化」させた「潜在する趣意の構造的顕在化」とも言える訳です。
今の私たちにとっては発生時の文化状況のままその作品の芸術性を味わうことは不可能とも言えますし、環境との分離が成立しているからこそ伝わる芸術性があるのです。
概念だけを書いても具体的にはどうしても説明が難しい…と思っていたところ、出光美術館の展覧会での体験が「これに近いかも!」と思われたので小文字で記載します。
出光美術館「出光美術館の軌跡 ここから、さきへIV 物、ものを呼ぶ─伴大納言絵巻から若冲へ」(美術展ナビ記事)
私がこの展覧会を観た感想はインスタグラムの投稿に詳しく書いているのですが、酒井抱一の「十二ヵ月花鳥図貼付屏風」に比べると旧バーンズコレクション「十二ヵ月花鳥図」の構図には甘さ・ぬるさが感じられ(上記見出しリンク中段付近に比較有)、どうしても納得ができなかったことが発端です。
長時間両者を比べていくと、この作品は「四季=三福単位」で観られる構図になっているのでは!ということに気づきました。
大広間では三具足付の三福掛がを行う事、日本の季節は三ヶ月単位の四季に分けられるという文化的背景がある事など、抱一がそれを前提に描いても不思議ではないからです。
ただし、徳川美術館の様な三具足三福掛け(ページの中段位にある「第3展示室」)の様な環境展示はアーティゾン美「空間と作品」展に書いた様に、余りにも周囲の情報が多すぎてこの三連続の作品を生かせる展示とは思えません。
では、何が一番この作品を活かせる展示とは思えません。
実はこの抱一の「十二ヵ月花鳥図」には、ファインバーグ・コレクション版があり、ラウンドする展示室の形状から二幅ずつ展示されているYouTube動画を見つけました。
この様な状態で三幅単位で展示されていたら!!!!と思った訳です。
そして更に思い出すと、アーティゾン美で抱一の三幅単位の展示があった!と。
しかも「十二ヶ月図」から「夏図」として季節(三幅)で表題が付けられているのですから、旧バーンズコレクション版が四季単位・三幅単位で観られる前提で制作された可能性が俄然高くなった訳です。
であるならば、その作品性を遺憾無く鑑賞させるためにはホワイトキューブに三つずつ組んで展示するのがベスト!という結論に至った訳です。
この「四季単位・三幅単位で観られる前提で制作された可能性」がその作品に潜在する趣意で、その趣意を顕在化し現代の鑑賞体験に最も合わせた展示法は、当時行われていた床間に三幅で飾ることではなく、ホワイトキューブに三幅ずつ展示すること、というのがこの結論です。
この「三幅組」というキュレーション的な補足(=パッケージ)が、対面に置かれてあった屏風「十二ヵ月花鳥図貼付屏風」との「室内調度としての見え方」を対等化させ、作品鑑賞の視点を統一する事にもなるのです。
六曲一双の屏風と三連幅四組の掛け軸としての見え方の違いを明確にすることで、抱一の「媒体によって自在な構図力」を味わいながら、作品そのものの中に入り込む現代的で深い鑑賞をも可能にします。
その自分の脳内で補足して観たバーンズコレクション版「十二ヵ月花鳥図」こそが、今回の原田マエストロの「in F」の解釈スタイルと同じに感じられたのです。
原田マエストロの「in F」は、ガーシュウィンが表現したかっただろうジャズのリズムや即興性という魅力にクラシック寄りの解釈を施すことで、他の構造的に作曲された現代クラシックと「鑑賞視点を揃えた」ことになるのです。
所々に「グローリア」の楽章以外の区切りや盛り上がり方・リズムを重視するドライブ感など共通項をも認識させる一方、明らかに異なる構成スタイル(ブロックか手捻りか)なども明確に感じさせてくれました。
しかも全体のプログラム構成としては、前衛音楽とは異なるクラシック音楽の約100年の潮流を一望させ、たぶん今後のクラシックの将来はこの先に続くだろうという予感を聴衆に抱かせたのです(その予感が本当かどうかではなく、自然にそう感じさせることがプログラム構成のクリエイティビティという意味)。
その現代クラシックの象徴とも言える存在が、角野隼斗というソリストという事です。
なぜ角野氏がこれから続く現代クラシックの象徴だと言えるのかは、これまで他のnoteに尽くしているので詳しくは書きませんが、ジャズの魅力とクラシックの魅力を様式ではない部分で表現可能であること、クラシック奏者としては前衛的フロントランナーでありながら誰もが理解可能な大衆性を持っていると言えるからです。
しかも、このプログラムでは上田氏がガーシュウィンと100歳違いという洒落たオマケ付。
なんというか…
時代がついに変わりつつある節目でを実感でき、今後のクラシック音楽の可能性をおおいに感じられる本当に素晴らしいプログラム・演奏・コンサートだったという事です。
<別記>
11/10、情熱大陸「指揮者 原田慶太楼」が放映されました。
原田マエストロのご活動を網羅するには放映時間が短すぎるという印象でしたが、やはり音楽外からの視点をお持ちである所が大きいのではないか、という印象でした。
しかも、プロデューサー的な外部からの視点と音楽家としての内側からの熱を同時に持ち続けることができる方!
(それはたぶん角野氏も同じく)
最後に、最近公開された角野氏のインスタリールパリのアメリカ人より。
映画「巴里のアメリカ人」は、ガーシュウィンの死後その作品のリスペクトとして交響曲「パリのアメリカ人」から着想を得て作られた映画です。
「in F」の感想部でも書いた通りレヴァントが「in F」を演奏していますが、メインテーマの「パリのアメリカ人」にはピアノは入っていません。
この交響曲のピアノ編曲版は今年のツアー「KEYS」で初披露されたのですが、角野氏の視点はピアノだけでいかに交響曲の表現性を再現できるかに注力されていたため、当初はオーケストラにこだわり過ぎて作品の質感がが損なわれていると感じました。
ツアーの千秋楽で聴いた時は映画のイメージが鮮やかに感じられたのですが、このインスタのリールの演奏は曲の一部でしかないのに、その時よりも更に映画映画全体の楽しく軽やかで幸福なイメージが象徴されている印象です。
交響曲「パリのアメリカ人」の潜在的趣意を汲み取って映画「巴里のアメリカ人」が作られましたが、私以上の年齢では映画音楽だと勘違いしている方も多いのでは…という位。
この物語性は本来オリジナル曲に内在していたものではありませんが、その音楽受容の歴史が続いたことで「その曲に潜在していた趣意を汲み取ってつくった映画としての文脈が、曲に内在する趣意として受容されている」という状態に至っています。
つまり、実際には後付けで物語性が付加されているのにその歴史が純粋に音楽として存在した時間よりも長くなっている、という事です。
私は、そういう後付けの文脈を肯定するクラシック音楽界であってほしいのです。
オラフソン氏が書かれている様にクラシック界ではどうしてもオリジナル志向が強いので。。。
潜在する趣意とは必ずしも作品制作時に発生したものではなく、後年の表現者が作品や作家を想像して顕れるものや(勘違いや間違いも含む)、媒体変化(映画や編曲)での文脈の後付まで、それを見出す可能性は常にあらゆる方向に開かれていると私は考えたい!
そういう「開かれているもの」こそが、時代の変化を超えて受け継がれると思うからです。
ちなみに、11/24に公開された角野氏の神戸新聞のインタビューは『「時代」映し出す音楽家に』がタイトルでした(全文は読めていません)。
このnoteでは最初から時代性とその変化にこだわって書いており、全体の的に書き終えたのが11/23なので、全くの偶然です。
こういう時に「関連性があってで嬉しい!」とならず、真似したように思われると嫌…と思ってしまう捻くれもので、すみません。。。
一方で、私の文章では伝わらないだろう時代変化を告げるかのようなコンサートの意義が、この言葉で伝われば…とも思います。
まさに、「昔作られた音楽の中に、『今』という時代を映(うつ)し出す」コンサートでしたから。※冒頭の無料公開部の引用
ですが、それは角野氏の力というよりも、原田マエストロと東京交響楽団の皆様のお力がとても大きかったということも併せて記しておきます。
おまけ
<「in F」第1楽章終了後の拍手について>
今回の鑑賞は個人的に大きな緊張感を伴っていたこともありますが、音楽的にも拍手で途切れずに次の章に行って欲しかったのです。
この時の第1楽章の終わり方はいつにも増して切れ味が鋭く、ドライブ感の慣性がいており、疾走したままバシッと終わる・駆け抜ける音楽性は、観客と盛り上がりを共有するタイプではありませんでした。
第1楽章の緩急・強弱の対比から得られた解釈としても、音楽がその場を駆け抜けたスピード感圧が抜けないまま落差を生かすべく第2楽章に繋がったが今回の原田マエストロの解釈が生きたのでは…と。
実際に、その音楽的変化が著しい第2楽章と第3楽章は切れ目なく続いているのですから。
また、客席に振り向いて「ニコっ」とすぐに第2楽章に入った原田マエストロのお姿は、その後のCFコンサート「ショパン:ピアノ協奏曲第2番(弦楽五重奏版)」での第1楽章後の角野氏と重なりました。
この直前に原田マエストロの指揮によるニコニコ東京交響楽団「フェスタサマーミューザKAWASAKI 2024」の配信(現在は非公開)を鑑賞した際、盛り上がった第1楽章→第2楽章ではしっかり間合を取られていた記憶もあり「今回は拍手を制止するための振り返りでは」と思えた要因の一つです。
(制止とは、「盛り上がって拍手してくれてありがとう!応援は伝わりましたから安心して音楽鑑賞に戻ってください」と、拍手の受容を観客にアピールし終了に導いたという事で、強制l行為としての意味ではありません)
拍手をしたい方のお気持ちもわかりますし、この時の拍手を否定しているのでもありません。
ただし、「盛り上がる曲は第1楽章の後でも拍手する(拍手した方が演者も喜ぶ)」という事が「クラシック音楽は楽章間には拍手をしない」と同じ位に思考停止の定石化になっていないか?という問題提起ではあります。
また、耳で聴く芸術表現に対して聴衆が出す音としての拍手は、咳や飴のカサカサ同様に音楽に対する雑音でありながらも、その意味づけ(記号性)によって特別扱いされているだけ、という認知の再確認です。
しかし、そもそも音楽は主観的に鑑賞する=人それぞれ感覚が異なる訳で、集団で鑑賞する場では多少の違和感や不快感は受け入れるものです。
私の感覚が個人的こだわりとして特殊だった可能性もおおいにあるでしょう。
だからこそ「私はこう感じた、こう思った」と言えるだけで、「楽章間に拍手はしないのが決まり」や「盛り上がる第1楽章の後には拍手しても良い」のような正当性は主張できないと思うのです。
その慣例が人々の印象に影響を与えている事は否定しませんが、慣例が答えではなく、音楽と拍手が合っているかは毎回自分で考えるしかない、ということだけが唯一の答えです。
また、自分の考えと相反するリアクションが現れると、単に個人的感想でであっても「あちら側が正当性を主張している」とナーバスに受け取ってしまうことも炎上の原因になると考えられます。
いずれにしても、人が曲・演奏から受ける印象はバラバラが当然です。
原田マエストロがすぐに第2楽章の演奏を始められたことで、拍手が無い方が良かったと思う私にとっても、集団活動で受ける「通常の多少の違和感」程度で無問題。
結論としては、FCコンサートでの拍手も今回の拍手も人それぞれ、他人の感性とは多少の違和感があって当たり前、というだけです。
ちなみに、駆け抜けて行った疾走感が私の中で慣性として働いていた為、終了後に余韻なく早めに行われた拍手には全く違和感がなかったという訳です。
曲(音)に被ったら嫌ですけど、まあ…私が行くジャズ系のライブだと良くあるタイミングなので、単に慣れているというだけかもしれません。
新_AI評価(Googleドキュメント)_chatGPT
AI評価(Googleドキュメント)Geminiでは論としての形式的整合性と安易な褒め批評にしかならないため、chatGPTによる新たなAI評に変更しました。
評論文自体は記録として残しておきます。
■AIによる全記事の概要と評価へのリンクはこちらからご確認ください
※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略
■追記も含めたnoteの更新記録はこちらからご確認ください
