【MSA深層秘録FILE】日本はなぜ破滅へと進んだのか――“戦争不可避”という思い込みの正体
「MSA深層秘録FILES」は、
世界各地に残された未解決事件、歴史の謎、説明不能現象を追うミステリー考察シリーズである。
南進政策とアメリカ制裁
太平洋戦争に至る対米関係悪化の背景には、資源確保を目的とした日本の南進政策があった。1941年7月2日の御前会議では「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定され、南方への進出とソ連への対応に備えるとともに、外交交渉と戦備を並行して進める方針が採られた 。この決定に基づき、日本軍は7月28日に南部仏印へ進駐した。これに対し米英は対日資産凍結や石油輸出の全面禁止を実施し、日本は資源の供給を断たれ
た 。
1941年9月6日の御前会議 – 戦備と外交の二本立て
資源断絶が現実化するなか、近衛文麿内閣は1941年9月6日に御前会議を開き「帝国国策遂行要領」を決定した。この要領は以下のような内容だった。
1.
対米英蘭戦争準備の完遂 – 10月下旬を目途に戦備を整える。
2.
交渉の継続 – 戦争準備と並行して米国との交渉を続け、必要資源確保や中国政策の承認など最小限の要求実現に努める。
3.
決断の期限 – 交渉に成功の見込みがない場合、10月初旬に戦争の決意を固める。
会議では昭和天皇が明治天皇の和歌を引用して平和の重要性を強調したが、政府と軍部は「戦備を進めながら外交を行う」という二正面方針を採用した 。この方針は日米交渉を戦争準備と切り離さず、「外交が失敗すれば戦争」という前提を内包していた。
近衛内閣の崩壊と東條英機の登場
秋が深まると交渉は難航した。10月12日に近衛首相は陸軍をまとめるため東條英機陸相を招いたが、東條は中国からの撤兵要求に対し「撤兵は絶対にしない」と主張して譲らなかった 。近衛は軍部を抑え切れずに10月16日辞任した。
後継首相には強硬派の東條が擁立された。昭和天皇は東條に対して「御前会議の決定(10月初旬を期限とした戦争決断)を一旦白紙に戻し、外交に全力を尽くす」よう求めた 。東條は外務大臣に親米派の東郷茂
徳を任命し、対米交渉の妥協案(中国駐兵の段階的縮小や仏印からの撤兵)を検討した。
しかし、南部仏印からの撤兵や日独伊三国同盟の骨抜きといった日本側の譲歩は、アメリカの要求とは大きな隔たりがあった。アメリカは中国からの無条件撤退や蒋介石政権の承認、三国同盟の放棄などを求め、日本側の妥協案を受け入れなかった。
1941年11月5日の御前会議 – 開戦時期の具体化
交渉が進展しないなか、政府と軍部は11月1日に大本営政府連絡会議を開き、戦争準備を早める「帝国国策遂行要領改定要領」を策定した。この案は、以下を盛り込んでいた。
•開戦時期の設定 – 12月初めを対米英蘭戦争開始の目途とする。
•外交案(甲案・乙案) – 中国駐兵や仏印撤兵に関する二つの交渉案を用意し、交渉の最終期限を12月1日とする。
•独伊との提携強化 – 三国同盟の履行と同時に、交渉が成功すれば戦争を中止する旨を明確にする。
11月5日の御前会議はこの方針を正式に承認した。ここで「12月初めまでに交渉が妥結しなければ武力行使に踏み切る」という期限が明文化され、日米交渉の成否と開戦が完全に結び付けられた。
ハル・ノートと最終決断
日本は11月20日に甲案と乙案を提示したが、アメリカは戦火の拡大や中国支援を理由に拒否し、11月26日に日本への最終回答として「ハル・ノート」を提示した。ハル・ノートは、中国からの無条件撤退、重慶政府の承認、仏印からの撤兵、三国同盟の事実上の否定など、日本にとって受け入れ難い要求を含んでいた。
12月1日、天皇出席の御前会議が開かれた。東條はここで「アメリカは新たに中国撤退と三国同盟の実質的な放棄を求めており、これを受け入れると帝国の権威は失われ、国家の存立が危うくなる」と説明し、日米交渉に成功の見込みはなく戦争は不可避と報告した。御前会議はこの報告を了承し、昭和天皇も戦争を決意した。
東條英機の決断とその背景
東條は元々陸軍強硬派として知られ、中国政策の譲歩に強く反対していた 。しかし首相就任後は天皇の命令で外交妥協を模索し、限られた資源や国際状況の中で日米交渉に一縷の望みをかけていた。
それでもアメリカとの隔たりは大きく、国内の軍部は長期交渉によって石油備蓄が枯渇することを懸念していた。御前会議や大本営政府連絡会議では、戦争準備の前倒しが繰り返し求められ、東條も軍の意向を無視できなかった。決定的だったのはハル・ノートであり、東條は12月1日の御前会議で「これを受け入れれば国家の存亡に関わる」と強調し、ついに開戦に舵を切った 。開戦前夜、東條は「こんなことになって本当に残念だ」と涙ながらに語ったという逸話も伝わる。
結論:外交と戦争準備が一体化した決断
日本の対米戦争決断は、昭和16年の御前会議を通じて徐々に固められた。7月の南進決定と米英の経済制裁に始まり、9月6日の御前会議で「戦備完遂と交渉継続」が決められ、10月には近衛内閣が崩壊して東條内閣が発足した。11月5日の御前会議では12月初頭を開戦期日と定め、交渉期限と戦争が結び付けられた。最終的に12月1日の御前会議でハル・ノートの内容が拒否され、東條と昭和天皇は対米英戦争開始を決断した。こうし
て日本は外交交渉と戦争準備を分離できない状態へ自ら追い込んでいき、太平洋戦争開戦へと踏み出した。
しかし、裏ではアメリカ側、日本側それぞれの思惑が交差してした。その歴史の闇に埋もれた開戦に至った裏側を検証していきたい。
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