【MSA深層秘録FILE】世界で唯一、日本だけが掲げる「戦争放棄」の起源
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
第二次世界大戦後、制定された日本国憲法第9条である。
戦争放棄と非武装化を謳った日本が世界に誇る”平和憲法”の核心と言えるだろう。
長らくこの9条は、戦後、「連合国軍最高司令官総司令部」通称GHQの最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の構想から生まれたもの、つまりアメリカによって押し付けられた”平和憲法”と漠然と思われてきたが、どうやらそうではなかったようだ。
GHQより指名された戦後最初の内閣総理大臣、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)による提案があったことがマッカーサーの日誌より判明している。
日本帝国憲法から日本国憲法へと改正を行なった1946年1月、幣原は東京への列車移動中にひらめいた「戦争放棄条項」の挿入を提案したという。マッカーサー元帥も「幣原が日本側として戦争放棄の提案をした」と複数回述べている事からもおそらく事実である。

しかし、まだまだ弱肉強食の世界で武力を放棄するなど先進すぎる考えだった。実は幣原喜重郎とは、戦前から”弱腰外交”と世間からバカにされて干されていた人物だったのだ。
ある事変の4年後の明治5年(1872年)、幣原喜重郎は、大阪府堺市に生まれる。
家は代々堺の裕福な商家で、江戸時代は両替商などを営んだ町人身分だが、かなり富裕層の部類に入る家だった。そのおかげが高等教育を受け、東京帝国大学で外交を学んでいる。
商いの関係で西洋文化や国際情勢の影響を早くから受ける環境だったことが外交分野へと進んでいったのは必然だったのかもしれない。
1896年、外交官試験に合格し外務省入省。初任地は上海領事館。その後、ワシントン・ロンドンなど欧米主要国の公館勤務を経験している。
幣原喜重郎は極貧国家である自国にはない豊かな西洋文化に触れて日清・日露戦争以降連戦戦勝に沸き立つ日本国内とは全く違う思想を育んでいった。当初より、「武力よりも外交で国益を守る」という信念を形成していた。
第一次世界大戦後の国際平和運動の一環で、60カ国以上が署名した不戦条約(戦争違法化条約)で早くも発揮される。この1928年に締結した不戦条約とは、国家の政策手段としての戦争を放棄することを宣言した国際条約である。幣原は日本の全権として署名している。
「戦争を国策の手段として無条件に否定する点で、人類史に新時期を画する」と幣原は公式談話を残している事からも、戦争放棄を人類の理想として高く評価し、戦争を違法・不道徳な行為と考えていた事は明らかだ。
しかし、軍靴の整列した足音が忍び寄る。この条約は皮肉にも自国である日本の軍暴走によって反故にされる。満州事変の勃発である。1930年代の日本では、軍隊が統帥権を主張して暴走し始めたのだ。
統帥権とは、日本の軍隊は”天皇直属”であることを日本帝国憲法で保障したものである。つまり、政治の中枢である内閣府の意向に関係なく、軍独自の判断で行動出来ることを意味していた。
内閣からの再三の戦線拡大を自重する要請があったにもかかわず、当時外務大臣だった幣原喜重郎の想いとは裏腹に、日中戦争、そして太平洋戦争へと突き進んでしまうのだ。
幣原が”弱腰外交”と罵られて半ば隠居生活を送る事になったのはこの頃からである。この統帥権によって天皇以外誰も何も言えない状況となったことで、幣原だけではなく、開戦時の総理大臣でA級戦犯となった東條英機でさえも歯軋りしながら見守る以外なかったのである。戦後、幣原喜重郎は「戦争はもうこりごりだ」という言葉を残している。
”君臨すれど統治せず”の天皇は、戦後政治的権限は排除され象徴となった。誤解を恐れずにいうと「大企業の絶対君主的な社長が、ある日突然、その社長職を取り上げられ、その会社のロゴマークになった」というところか。そして日本国憲法がどっかりと陣取るという国体へと移行することとなった。GHQは戦前から平和的協調外交を目指していた幣原喜重郎に白羽の矢を立て、戦後最初の内閣を組閣させた。
幣原喜重郎が戦争放棄を憲法に組み込んだのは、もう二度と統帥権を盾にした軍の暴走を阻止したかった、逆に日本国憲法に戦争放棄を組み込んでしまえば、統帥権のように誰も逆らえなくなる、という考えに至ったのではないだろうか。
ただ、幣原の理想は、1928年の国際条約である不戦条約が理想倒れしたように人類には早すぎた。それから約100年後の現在でさえ、戦争放棄を憲法に組み込んでいるのは世界で日本だけである。幣原喜重郎がなぜこの時代にそのような理想を抱く事ができたのか。
それは幣原が生まれる4年前、1868年の鳥羽伏見の戦いにその根本があるように思う。当時大阪城には15代将軍徳川慶喜がいた。そこを舞台に薩長軍が押し寄せようとしていた。その時、徳川慶喜はさっさと戦いを放棄し、江戸に単身で帰ってしまう。そのため、大阪は主戦場とならずに済んでいるのだ。戦ともなれば城下町が火の海、血の海になる。そうなれば、堺で両替商など出来はしない。破綻は免れないだろう。内戦を避けた徳川慶喜の奇想天外な行動は地元出身の幣原家はじめ、多くの民衆に深く刻まれていたのではないだろうか。江戸無血開城でも示したように対話による解決を図ること、それは世界が舞台でも同じと考えた幣原喜重郎は、憲法9条という形でそれを実現しようとしたのではないだろうか。

しかし、中国やロシアを隣国に持つ日本は帰路に立たされている。近年、先進国であったウクライナがロシアから武力による侵略を受けたが、ウクライナに軍を差し出した国は皆無だった。誰も友愛などない。自国は自軍で守れと冷たい風が吹いたのである。武力を放棄した日本は一体誰が守ってくるのだろうか。確かに日米安全保障条約はあるが、他国の防衛のためにアメリカ人が命をかけて助けるだろうか。日本はアメリカを防衛する義務もないのに。答えはウクライナ戦争を見れば明らかだ。憲法9条では自国防衛は禁止していない。そろそろ自国防衛に特化した国防軍を創設する時代がやってきたのではないか。
ただ、「寝言はよせ!!憲法9条がある!軍は持てないぞ!!」と不敵な笑みを浮かべる幣原喜重郎の怒号が聞こえてきそうである。
憲法9条とは現代人である私たちにとって盾なのか、それとも足枷なのか
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