【MSA深層秘録FILE】坂本龍馬暗殺の謎!龍馬は英雄ではなく、殺人犯だった?
「MSA深層秘録FILES」は、
世界各地に残された未解決事件、歴史の謎、説明不能現象を追うミステリー考察シリーズである。
1867年11月15日、この日、坂本龍馬の誕生日だった。
龍馬は近江屋の2階にいた。
夜半過ぎ、ちょうど中岡慎太郎と密談中だった。
「十津川郷士の者です」と名乗る者が面会を求めてきたとか。
その後の惨劇には幾多の説がある。
明治時代、宮内大臣の田中光顕は『維新風雲回顧録』で……、
その夜、土佐藩邸にいた田中は近江屋から血相変えて駆け込んできた峯吉から
「坂本さんと中岡さんがやられました」と報告を受けた。
そして急いで現場に駆けつけた。
その田中光顕が目にした光景は月明かりに照らされた血みどろの惨状だった。
龍馬の下僕藤吉が2階登口の間に横様に倒れていた。
奥の間には坂本龍馬が眉間に2太刀深く裂かれていて、脳が露出状態で絶命。
中岡慎太郎は斬撃によって重傷ではあったが、一命はなんとか取り留めた。
「突然、二人の男が2階へ駆け上がってきて、斬りかかってきたため、思わぬ不覚をとった。坂本は、もう頭をやられたからいかんといった、僕も所詮、助かるまい」
そう嘆いていたという。
坂本龍馬が斬撃を受けた刀は受けた箇所が鞘越しに切られて刀身が三寸ほど傷ついていたことから、猛烈な斬撃だったことがうかがえる。
坂本龍馬暗殺はいったい誰の仕業なのか?
それについて、坂本龍馬の妻おりょうが妙な証言を残している。

陸奥宗光は坂本龍馬暗殺犯を知っていた?
事件後陸奥宗光が船を浮かべて飲めや歌えやで大騒ぎしていたと憤慨しているのである。
陸奥宗光とは、のちに外務大臣になる人物で、坂本龍馬率いる海援隊員だったので無理はない。
そしてその宴会の中に新撰組のメンバもいたため、寺田屋のお登勢が龍馬さんを殺害した犯人と関係があるのか!と悔しがっていたと後日談を残しているのだ。
宗光は徹底した現実論者だった。
怒り沸騰の海援隊が文字通り血眼になって犯人探しする中で、
冷静に敵の懐に入り、情報を集めていたとしたらどうだろうか。
そう仮定すると、陸奥宗光は真犯人の目星がついていたのかもしれない。
一方、海援隊は、元新撰組隊員の伊藤甲子太郎が龍馬暗殺の前日に「新撰組が狙ってて危ないから土佐藩邸に匿われるように」と近江屋へきて警告していた事、また、事件現場に落ちていた犯人の鞘が、新撰組の原田左之助のものだと証言したことを信じていた。
海援隊のメンバーが犯人と睨んでいた新撰組の邸へ討ち入りしたが、陸奥宗光は参加しなかった。おりょうは「臆病たれ」と宗光の陰口を叩いているが、臆病ではなく、沸騰中の隊員を止められなかっただけかもしれない。
ちなみに伊藤甲子太郎は当時、新選組内部の対立でうまくいっておらず、対立した組織に「ぶちギレ海援隊」を意図的に差し向けたかっただけで、新選組の報復で逆に惨殺された。
龍馬暗殺の暗殺犯に散々疑われた新撰組だがどうやら真犯人を知っていたようだ。
新撰組隊員で人斬り鍬次郎と恐れられた大石鍬次郎が鳥羽・伏見の戦いで捕縛され、拷問の末、見廻組だと自白したのだ。
見廻組とは1864年頃にできた、京の治安維持部隊で、今で言う警察のような役割を担っていた。浪士で結成された新撰組とは違い、幕臣(旗本)中心のエリート部隊だった。
その頃、疑惑の人、見廻組の今井信郎は戊辰戦争の函館戦争で拘束された。

見廻組の今井信郎が龍馬を斬った男なのか?
1870年2月に大石から「見廻組の今井信郎が龍馬をやったと酒席で聞いた」と証言したことから、今井も取り調べ対象となった。
この今井信朗の裁判での証言はこうである。
「実行犯の桂、渡辺、高橋の3名が2階へ急襲し、私は台所で見張り役していた」と証言している。
この見廻組が龍馬も中岡も面識がなかったことから、暗殺犯達は当時どっちをやったのかわかっていなかったのではないか。
また、今井信郎は首領佐々木只三郎の命令だったと証言。
そして坂本龍馬を暗殺した理由を語っている。
坂本龍馬は暗殺ではなかった?
今井信郎の証言によれば、1866年の寺田屋騒動で龍馬がピストルで幕僚2名を殺害し、逃亡した事による犯行が理由だったとか。
その際、逃してしまったため、今回は仕留めてよしとの命令だったらしい。
当時江戸幕府が権力の中枢であった世の中では、坂本龍馬は世を転覆させようとする活動家で、しかも幕臣2名殺害した凶悪犯罪者だったというのが暗殺の理由としているのだ。
問題はさらに上の命令系統。
龍馬暗殺の実行犯の見廻組を動かした黒幕とは?
坂本龍馬暗殺の実行犯は佐々木只三郎をはじめとした見廻組だったが、当時見廻組の責任者は?というと小笠原 長遠という人でした。
しかしこの人物、龍馬暗殺があった1867年11月、病で倒れており、翌月の12月に退官している。
本人も「病気で監督不行届ですいません」とか言って無関係だと証言。
ではこの佐々木只三郎は一体誰の命令で動いていたのか。
そこは濃い霧につつまれている。
1923年、佐々木只三郎の兄で会津藩公用人であった手代木勝任の養嗣子が『手代木直右衛門伝』を出版。
この書では、手代木勝任が没する数日前に、「坂本を殺したるは実弟只三郎なり」と述べ、龍馬が薩長同盟と「土佐の藩論を覆して倒幕に一致せしめたるをもって、深く幕府の嫌忌を買ひたり」として、「某諸侯の命」によって只三郎が3人で蛸薬師にて龍馬を殺害したとしている。
この気になる「某諸侯」とは京都所司代の松平容保、または実弟の桑名藩主松平定敬のどちらかではないかという説があるが、土佐は討幕派では当時まだなかったことからも藩主である容保や、松平定敬が一介の浪士に報復の暗殺を仕掛けるとは考えにくいというか、彼らが坂本龍馬を認識していたこと自体怪しい。

ただ、これは推測にはなるが、大政奉還が成ったとはいえ、混乱した時代の中、見廻組のような末端組織にまでは時代の移り変わりはまだ見えておらず、「三百人の浪士と共に京へ潜伏中」と噂された凶悪な殺人犯坂本龍馬を幕府の取り締まり業務の観点から追っていた皮肉な結果だろうと思われる。
時代を動かした坂本龍馬が新しい時代を生きることがなかったというのは悲劇としか思えない。そんな坂本龍馬暗殺事件、一体、その夜に何が起こったのか。
ある死に際の老人の告白から明らかになった真実をとは?
見廻組渡辺篤の暴露
1915年9月1日〜2日に「大阪朝日」に衝撃の見出しが踊る。
「坂本龍馬をやったのは実は私だ」
と大々的に報道されている。
この私とは渡辺篤だ。
彼の証言によるとこうだ。
「2階から降りてきた下僕に十津川浪士と名乗って名刺を差し出した。下僕が取次に上がる。その後より、そっとついて上がった。階段を登り切るや否や、電光石火、得意の早業で、目指す龍馬を斬りつけた。その時、龍馬は床の間を背に轟然と座っていたが、怪しき者と、後ろの床の刀を取りに立ちあがろうとするところを、肩先深く一太刀斬りつけた。龍馬は横に倒れた隙を後ろより続いて上がってきた佐々木只三郎が仕留めた。それと同時に左右にいた侍(中岡慎太郎)を打ち果たした。唯一人、十二、三歳の少年が机の下に頭を突っ込んでいたのはかわいそうなので見逃した。また、落とした鞘の持ち主は世良敏朗のものだ。世良は武芸(剣術)があまり得意でなかったため現場に置き忘れた」
この証言で気になるのは「十二、三歳の少年」の存在だ。
これは間違いなく、峯吉だろう。

しかし「菊谷峯吉遺談」ではそうではなく、坂本龍馬が夜食に軍鶏を所望したので峯吉が買いに出かけ、その隙に坂本龍馬と中岡慎太郎は襲われたとなっている。
実際は軍鶏を買って帰ってきており、峯吉も襲われていたが恐怖のあまり机に隠れたことを恥じて事実を隠蔽したのではないか?
また、それよりも衝撃なのは3太刀食らった坂本龍馬だが、最後絶命に至った致命傷を与えたのが別人物だったというのも真実味がある。
最初に渡辺篤が居間になだれ込む。
仰天した坂本龍馬に一太刀、眉間を横になぎる。
坂本龍馬が刀を取らんと背中を見せたところをさらに一太刀。
そのまま中岡慎太郎への斬撃に移行し、坂本龍馬に3太刀目を食らわしたのは後ろから駆け上がって勢いよく斬りつけた佐々木唯三郎だったということだ。
小太刀の早業で急襲したことからも見廻組にしても鬼気迫る渾身の急襲だったに違いない。

明治時代になって、陸奥宗光は坂本龍馬を「坂本龍馬は実に天下の奇才なり」と評している。そんな彼は暗殺犯が見廻組だと知っていた可能性が高い。
しかし動かなかった。
それが現実主義者の結論だった。
私にはそう思えてならない。
