昭和、男もつらかった 156 ミカン山の道路
昭和初期、鹿児島の農村で農家の一人息子として生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。
戦後の高度経済成長期へ向かう時期、二夫一家を含む地域の農家は新たな事業としてミカンを育てるべく共同で山林を開墾し、開墾を終えた区画からミカンの苗木を植えていった。その時期に、妻のミヨ子(母)が初めての子を死産するという不幸に見舞われたが、ミヨ子は再びの妊娠し昭和35(1960)年2月に長男を出産。跡取りを得た一家はミカン山の整備にもいっそう打ち込んだ。
ミカン(柑橘)栽培は昭和20年代末から30年代にかけての町(自治体)の奨励事業だった。苗を植えたあとは実をつけやすいよう木自身や環境を整えてやらなければならない。山の整備はずっと続いていた。
いずれ大量に実る(はずの)ミカンを運ぶため道路も必要だろうと、ともに山林を開墾した農家どうしで道路も整備した。ただし、多くを人力に頼っての作業なので、開墾と同じように稲作の合間に行うため進捗は遅かった。もちろんアスファルト舗装ではなく、山の石があちこちに飛び出た、土くれの道だった。
幅も耕運機1台が通れる程度ではあったが、大きな荷物を人が担いで上り下りしなくてもよくなった。まだ自家用車はもちろんのこと、耕運機を所有する農家もまだ数えるほどだった頃、リヤカーや自転車で引く荷車が通れるようになっただけでも大きな前進だった。
ただ、道幅をとるために、道路は山肌を回り込みながら造られた。そのためどうしても遠回りになる。背負って歩ける程度の荷物だったら、それまでのように細い山道を徒歩で上り下りするほうが速かった。
男たちが道を整備する傍らで、女たちは元の山道を歩いて通い、弁当を届け、補助作業をした。ミヨ子も、子供を産んでしばらくするとその中に加わった。もちろん赤ん坊を背中におぶって、というよりおぶい紐でくくりつけて、である。山に着くと、籠の中に赤ん坊を入れて作業した。赤ん坊が泣けばおむつを替えたり、乳を与えたりする。
二夫は、というか男たちは、赤ん坊の世話は女の仕事だときっぱり思っているので、目もくれない。乳を与えるのに作業着の前をはだけて胸を出していても、そんな光景はどこにでもあるものだったから、周囲も本人も気にしなかった。だいたい――ミヨ子もそうであるが――女たちは「乳バンド」(ブラジャー)などしていない。乳は赤ん坊のためのもので、性的な意味はなかったのだ。
話が逸れた。ミカン山の道路の整備は、開墾同様稲作と並行して行われた。稲作の手が空く晩秋から翌年の春先にかけてが多かった。それでも、稲作以上の収入が得られる(はずの)ミカンを少しでも早く実らせたいと、どの農家も真剣に取り組んだ。
