昭和、男もつらかった 148 難産の末

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 戦後の高度経済成長期へ向かう時期、ミカンを植えるため山の開墾が続いていた頃、妻のミヨ子(母)は身ごもった。臨月近い昭和33(1958)年の3月、同じ集落にある実家を訪れたミヨ子は破水する。ミヨ子の母ハツノ(母方の祖母)は、地域の赤ん坊たちを長年取り上げてきた産婆さんの元へ走った。

 産婆さんが到着し、その後が展開されるのは嫁ぎ先だったようだ。実家と嫁ぎ先、大人なら歩いてもせいぜい5分くらいと近いが、自家用車などない時代、「緊急事態」の妊婦がどうやって移動したのだろう。

 ともかく、破水のあと陣痛が来て、ミヨ子と周囲は出産態勢に入った。駆け付けた産婆さんは、ハツノや加勢にかけつけた近所の女たちにたくさん湯を沸かすよう伝える一方、ミヨ子には
「思い切りいきめ」
と声をかけ続けた。

 本来なら赤ん坊は羊膜にくるまれて産まれるが、羊膜は破れ中の羊水が流れ出てしまっている。お産は厳しいものになった。ミヨ子は力の限りいきむが、なかなか赤ん坊は出て来ない。山から帰ってきた二夫の母・ハル(祖母)も「きばれ、きばらんか」(がんばれ、がんばりなさい)と声をかけた。

 二夫や吉太郎(祖父)といった男衆は、閉め切った障子の外にいて待つしかない。その間にも、手拭いやら湯桶やらを手にした女たちが、土間の台所と、ミヨ子がまさに赤ん坊を産もうと力んでいる納戸の間を行ったり来たりした。

 何時間もたってミヨ子が精も魂も尽き果てそうになったとき、産婆さんが赤ん坊を引き出した。
「男の子だよ!」

 しかし、産婆さんが何回か背中を叩いても赤ん坊は声を上げなかった。長時間産道をくぐる間に小さい命を使い果たしてしまったのだ。産湯できれいに洗われた赤ん坊は、それはきれいな顔立ちをしていた――とミヨ子はのちに振り返った。

 障子を開けた産婆さんは二夫に告げた。
「赤子はきばいきらんかったごちゃ…」
(赤ん坊はがんばりきれなかったみたい…)
 言葉を換えれば母体は無事だということだろう。その点はありがたいと思ったが、赤ん坊が死んでしまったことは二夫に深い悲しみをもたらした。

 待望の第一子が死んだこと、しかも跡取りとなるはずの男の子だったことに、吉太郎とハルは悲しむと同時に落胆し、その感情は嫁のミヨ子に向かった。
「きばいかたが足らじ、大事(でし)な男ん子をけ死ませて」
(がんばりが足らず、大事な男の子をみすみす死なせて)

 ハルの一言は、疲労困憊したミヨ子に突き刺さった。昭和33年3月27日のことである。 

《お断り》本項の内容は、ミヨ子の生涯を綴った「文字を持たなかった昭和」の「四十三 難産」》と重複している。

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