昭和、男もつらかった 155 ミカン(柑橘)栽培の奨励

 昭和初期、鹿児島の農村で農家の一人息子として生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 戦後の高度経済成長期へ向かう時期、二夫一家を含む地域の農家は新たな事業としてミカンを育てるべく共同で山林を開墾し、開墾を終えた区画からミカンの苗木が植えられていった。開墾していた頃に妻のミヨ子(母)は初めての子死産するが、ミヨ子は再びの妊娠し、昭和35(1960)年2月長男のカズアキが誕生した。一家はようやく待望の「跡取り」を得、二夫は父親としての自覚を確かにした。

 さて、ミカン山の整備は稲作と並行してまだ続くのだが、少し時間を遡って、二夫たちが暮らしていた市来町(当時)の農業政策について見てみよう。

 というのも、「151 ミカン山開墾の歴史」で、その根拠として取り上げた「町史」(のコピー)に柑橘奨励に関する記載があったのだ。(以下、一部要約のうえ転載)

 昭和29(1954)年、町(ちょう)当局は「経済更生五か年計画」を策定、柑橘に関する奨励策を発表した。
1. 柑橘組合を作る
2. 講習会・講演会を開催し、技術指導や一般知識の啓蒙に努める
3. 集団栽培を奨励、作業の協同化を図る
4. 指導園(モデル果樹園)を各区に設け、経営法の研究に努める
5. 共同開墾の奨励
6. 先進地視察、相互間の視察により栽培の促進を図る
7. 肥料・苗木の共同購入、果実の共同販売を図る

 そして7の最後に「当事者は一丸となって本事業発展に邁進する」と付け加えている。昭和29年当時24町歩2反歩(約24.2ha)だった栽培面積には、10町歩の増反を奨励した。(転載は以上。( )内は二三四の補足)

 こうして「ミカン山開墾の歴史」で述べたような、一部地区で先行していた柑橘(多くはミカン)の集団栽培は、農村地帯から山林に跨る、町内のいくつもの地区に広がっていった。

 昭和29年といえば二夫とミヨ子が結婚した年である。柑橘栽培奨励の方針はそれ以前からある程度決まっており、町役場や農協を通して各集落の農家に伝わっていただろう。集落単位で「ウチの集落ではどうしようか」「町が奨励するならやってみようか」「どの山にする?」という話し合いも、一度や二度でなく行われたはずだ。中には「わが家ではとても人も、カネも出せないよ…」という農家もあっただろう。

 その結果が、二夫たち一家の開墾だった。と考えれば、嫁いだミヨ子が開墾に加わるのも、その負荷から初めての子を亡くすのも、ある流れのうえにあったと言えなくもない。

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