昭和、男もつらかった 154 小さな長男

 昭和初期、鹿児島の農村で農家の一人息子として生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 戦後の高度経済成長期へ向かう時期、二夫一家を含む地域の農家は新たな事業としてミカンを育てるべく共同で山林を開墾し、開墾を終えた区画にはミカンの苗木が植えられていった。開墾していた頃に妻のミヨ子(母)は初めての子死産するが、翌昭和34(1959)年の初夏、ミヨ子の再びの妊娠がわかった。

 昭和35(1960)年の2月。出産予定日が近づくと、ミヨ子は町で唯一の産婦人科H医院に入院した。最初の子供が死産だったことを二夫もミヨ子も悔やみ、「今度こそ慎重に」と思っていたことは前項で述べたとおりだ。その気持ちが、当時地域では珍しかった「病院での出産」を選ばせた。

 ミヨ子は清潔な病院で、信頼している医師や看護婦の立ち合いのもと出産に臨んだ。父親になる二夫が立ち合っていたとは思えない。そもそも当時はお産に男性が立ち合うなど考えられなかった。家にはまだ電話もなかったから、赤ん坊の誕生をいったいどうやって知ったのか。あるいは、心配で毎日病院に通っていたのか。

 2月6日、ミヨ子は3,350gの元気な男の子を産んだ〈〉。病院に赴いた二夫は、無事に生まれた赤ん坊を抱かされて、喜びの前に心底安堵した。病院での出産には難色を示していた両親(祖父母)も、無事男の子が産まれたと知り大喜びだった。なにせ跡取りができたのだ。

 生まれた子はカズアキと命名された。多くは同じ集落に住む親族や、近所の人たちが祝いの品を持って赤ん坊を見に来ては「跡取りができて、吉太郎じいさんも二夫さんも安心だね」という趣旨のことを述べて帰って行った。

 ミヨ子の授乳は母乳のみだった。乳児用の粉ミルクはもう市販されていたが、売っている場所が限られているうえ家の近くにはなく、そもそも母乳以外で育てることなど考えてもいなかった。

 おむつや肌着などはすべて手作りだった。ミヨ子は出産前から、家事や畑仕事の合間におむつは古い浴衣などをほどいて縫っておいた。縫物上手な姑のハルや、同じ集落に住むミヨ子の実母ハツノもこしらえてくれた。これは農村に限らず当時の「おむつ事情」としては一般的なことだ。

 収入のいい家庭の場合、新しい布でおむつを縫うケースもあったのだろうが、着古した浴衣などのほうが柔らかくおしっこをよく吸ったし、しょっちゅう洗濯し、いずれ汚れが落ちなくなるおむつに新品の布を使うなど、庶民には考えられないことだった。

 ミヨ子は授乳やおむつ替えをしながら、家事や屋敷の庭先での軽い畑仕事などに少しずつ復帰していく。その姿を二夫は頼もしく見ていた。「母親というのは強いものだなぁ」と。

 そして、立派な父親あらねば、と自分を励ました。裸一貫から田畑や山を買い広げ、大きな家屋敷を持った、文字も読めない父、吉太郎。その苦労に報いる息子であり、その父を超える男であらねば。その思いが重く胸に宿った。 

〈362〉ミヨ子の遺品の中に子供たちの母子手帳があった。カズアキの出生時の体重は母子手帳の記録に依った。
《お断り》本項の内容は、ミヨ子の生涯を綴った「文字を持たなかった昭和」の「五十七 二回目の出産」「五十八 初めての育児」と重複している。

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