昭和、男もつらかった 159 子守り

 昭和初期、鹿児島の農村で農家の一人息子として生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 戦後の高度経済成長期へ向かう時期、二夫一家を含む地域の農家は新たな事業としてミカンを育てるべく共同で山林を開墾し、開墾を終えた区画にはミカンの苗木を植えていった。その頃、妻のミヨ子(母)は最初の子を死産するが、ほどなく二番目の子を妊娠、昭和35(1960)年2月に今度こそ長男となるカズアキが誕生した。

 「156 ミカン山の道路」で触れたように、ミヨ子は産後体を動かせるようになると、家事はもちろん農作業にも復帰した。家電は普及していない時代、地域のこと、家事だけでもかなりの労働だが、当時の農村の嫁たちは家のことはもちろん全部やったうえで、田畑にも出ていたのである。ミヨ子も赤ん坊をおぶって、手洗いの洗濯、薪を焚いての炊事、農作業にと忙しく働いた。

 その頃のエピソードを、ミヨ子の妹・すみちゃん(叔母)から聞く機会があった〈363〉。

 すみちゃんは昭和25年生れ。5人きょうだいのいちばん下で、ミヨ子とは20歳も年が離れている。上のきょうだいはみな戦前から戦中の生れで、すぐ上の姉・勝代が中学卒業と同時に集団就職すると一人っ子のような存在になったが、小さな集落でも同級生が何人もおり、遊び相手には事欠かなかった。

 二夫とミヨ子はそれほど近しくはない縁戚どうしで、ミヨ子の実家も同じ集落にあり、歩いて10分もかからなかった。ミヨ子は嫁いだあとも時折実家に顔を出した。もちろんカズアキが産まれてからも。ある日赤ん坊を抱いたミヨ子が実家に帰ってきて言った。
「すみちゃん、姉ちゃんの加勢(かせ)をしてくれんね」

 手伝いとは子守りのことだった。小学4年生になっていたすみちゃんは、それ以来学校から帰ると姉の嫁ぎ先に駆け込み、おぶい紐を巻かれた赤ん坊を背負わされた。赤ん坊を「引き継いで」身軽になったミヨ子は、田畑に出かけて行くのである。

 赤ん坊が乳をほしがったり、おむつが濡れたりして泣けば、すみちゃんのミッションはとりあえず終わる。田んぼや畑に姉を探し、「泣いた」と言って赤ん坊を返しに行くのだ。「今日は遊びたい」と思えば、すみちゃんは赤ん坊の足をつねって泣かせた。

「姉ちゃん、泣いた」
すみちゃんがミヨ子に赤ん坊を渡そうとすると、ミヨ子は「まだ腹は減っちょらんはっじゃっがねぇ」(まだお腹は空いてないはずだけどねぇ)とか「ひたしが濡れちょっか?」(おむつは濡れてるの?)などと訝りながらも、赤ん坊を受け取ってくれた。

「姉ちゃんも(嘘だと)わかってたと思うけどね」
すみちゃんは回想してそう言った。

 昔は地域全体で子育てしたものだ、とよく言われる。ミヨ子の場合すぐ近くに「加勢」をしてくれる誰かがいてくれたことは、肉体的以上に精神的に助けられたのではないかと思う。 

〈363〉すみちゃんについてはこれまでも何回か「登場」願っている。初出はミヨ子の生涯を綴った「文字を持たなかった昭和」の「二十三 きれいな姉ちゃん」。比較的最近では、すみちゃんが現在住んでいる屋久島を帰省ついでに訪ねたときのもようや(「つぶやき 島のひとり暮らし」など)、ミヨ子が亡くなる直前のエピソード(「文字を持たなかった昭和 終末期18 末妹すみちゃん上陸」)などで言及した。

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