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温故知新(103)神籠石式山城 景行天皇 御所ヶ谷神籠石 聖ミカエルの山 女山神籠石 ラト遺跡 神功皇后 高良山神籠石 雷山神籠石 鬼ノ城跡 永納山城跡 石城山神籠石 聖ミカエルの山

神籠石式山城と朝鮮式山城
 古代山城分布図をみると、品陀真若王の城と推定される鬼ノ城のような北九州から岡山に分布する神籠石式山城と、北九州から奈良の生駒に分布する朝鮮式山城があります。神籠石式山城の高良山神籠石(福岡県久留米市)や女山神籠石(福岡県みやま市)は、明治時代に小林庄次郎によって報告され、その後、雷山神籠石(筒城)の遺跡も知られるようになりました1)。女山神籠石の城域内には、6世紀後半頃の山内古墳群があり、女山中腹では銅矛2本が出土しています。昭和20年までに雷山・石城山・鹿毛馬の神籠石が、昭和20年代には御所ケ谷・高良山・女山・帯隈山の神籠石が史跡に指定されました。

御所ヶ谷神籠石と景行天皇
 御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市・京都郡みやこ町)の「御所ヶ谷」という地名は、九州を訪れた第12代景行天皇がこの地に行宮(仮の皇居)を設けたとの言い伝えがあり、城内には、景行神社が鎮座しています1)。岡山県勝田郡勝央町にある景行天皇の陵墓と推定される植月寺山古墳と御所ヶ谷神籠石を結ぶラインは、景行天皇の日代宮があったと推定される津久見市四浦深良津の天満神社と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。このラインは、景行天皇の陵墓と宮を結んでいると考えられます。

図1 天満神社(津久見市四浦深良津)、植月寺山古墳、御所ヶ谷神籠石を結ぶ三角形のライン、天満神社と聖ミカエルの山を結ぶライン

 景行天皇の后の八坂入媛命の陵墓と推定される磯浜古墳群にある車塚古墳(茨城県大洗町)と御所ヶ谷神籠石を結ぶラインは、植月寺山古墳の近くを通る、龍宮総宮社(徳島県阿南市)とフェロー諸島を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。このラインは、植月寺山古墳が景行天皇の陵墓で、車塚古墳(大洗町)が八坂入媛命の陵墓と推定されることと整合します。

図2 龍宮総宮社、車塚古墳(茨城県大洗町)、御所ヶ谷神籠石を結ぶ三角形のライン、龍宮総宮社(徳島県阿南市)とフェロー諸島を結ぶラインと植月寺山古墳

女山神籠石、高良山神籠石、雷山神籠石
 日本のピラミッドがレイライン上にあることから、神籠石系山城もレイライン上にあると推定されたため調べてみました。御所ヶ谷神籠石と女山神籠石を結ぶラインは、鹿納山(宮崎県西臼杵郡日之影町)とアルテミスの母である女神レトにちなんで名づけられたと考えられるクレタ島のラト遺跡(Ancient City of Lato)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインの近くには、高良山神籠石(福岡県久留米市)や雷山神籠石(糸島市)があります(図3)。鹿納山とラト遺跡を結ぶラインの近くには、高良大社(久留米市)や雷山千如寺 大悲王院(糸島市)があり(図4)、「雷山千如寺縁起」には、神功皇后が渡海遠征にあたって、雷山の主神「水火雷電神」へ伏敵祈願したことが伝えられています。

図3 鹿納山、御所ヶ谷神籠石、女山神籠石を結ぶ三角形のライン、鹿納山とラト遺跡(クレタ島)を結ぶラインと高良山神籠石、雷山神籠石
図4 図3のラインと高良大社、雷山千如寺 大悲王院

 景行天皇の日代宮があったと推定される天満神社(大分県津久見市四浦深良津)とクレタ島のラト遺跡を結ぶラインと、別府八幡宮(山口県山陽小野田市)と女山神籠石を結ぶラインの交点付近に御所ヶ谷神籠石があります(図5)。このラインは、御所ヶ谷神籠石が景行天皇の行宮と伝えられていることと整合します。

図5 天満神社(津久見市四浦深良津)、別府八幡宮、女山神籠石を結ぶ三角形のライン、天満神社とラト遺跡(クレタ島)を結ぶラインと御所ヶ谷神籠石

高良山神籠石と神功皇后
 品陀真若王の城だったと推定される鬼ノ城跡(写真トップ)と高良山神籠石を結ぶラインは、永納山城跡(愛媛県西条市)と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、石城山神籠石(山口県光市)の近くを通ります(図6)。このラインから、鬼ノ城跡と高良山神籠石は関係付けられていると推定されます。高良山神籠石は、4世紀末に品陀真若王の后と推定される神功皇后が、朝鮮出兵のために、高良大社に祀られていると推定される倭迹迹日百襲姫命に戦勝を祈願して作ったのではないかと思われます。

図6 永納山城跡(愛媛県西条市)、鬼ノ城跡、高良山神籠石を結ぶ三角形のラインと石城山神籠石(山口県光市)、永納山城跡と聖ミカエルの山を結ぶライン

朝鮮式山城
 鬼ノ城の築城の記録は全くないのに対し、朝鮮式山城の長門城の築造には、百済から亡命・渡来してきた百済官人や将軍が派遣された記録があり2)、『日本書紀』には、「大和国の高安城(たかやすのき)、讃岐国山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築く」と記載されています。熊本県(肥後国)菊池郡は、和名類聚抄に「久々知」とあり、当初は「くくち」と読まれていたため、元々は須佐之男命と関係があったと推定されます。663年の白村江の戦いで倭国は唐と新羅の連合軍に大敗しましたが、鞠智城(きくちじょう)は、古代の朝鮮式山城で、7世紀末の築城と推定され、立地からみて肥後地方に勢力を張った豪族の火君あるいは南九州の隼人に対抗する意味も考えられています。

文献
1)新古代史の会(編) 2025 「歩いて学ぶ日本古代史2 律令国家の成立と天平の世」 吉川弘文館
2)門脇禎二 1992 「吉備の古代史」 NHKブックス