蜥蜴、あるいはカナヘビ
子どものころから、蜥蜴がすきだ。
あまりにすきなので、道端でトカゲを見つけるたび、必ず捕まえて家に連れて帰った。
すきなものは、問答無用で自分のものにならなければいけないと思っていた。いつでもわたしの見える場所に、触れられる場所に。遠くにあるものは、すきじゃない。
捕まえたトカゲを、一人前の葛餅の入っていた、木目柄が印刷された紙製の箱に入れた。片手で足りるほどの年齢の子どもにとって、だいすきな葛餅が入っていた箱なのだから、大変貴重である。お気に入りのトカゲをしまうに相応しかった。
「呼吸できずに死んでしまうよ」
母は止めたが、聞くわけがない。このトカゲはわたしのものであり、母の命令なんて無意味なのだ。とことん自分を曲げない強情な子どもだった。
案の定、翌日ちいさなトカゲは動かなくなっていた。くたっともしていない。ひと回りちいさくなっている。裏返ってもいない。ただ昨日、わたしが入れた通りの形で、硬くなっている。腹も、どくどくしていない。
たぶん、これが死なるものだ。ああ、すきなものは閉じ込めてはいけないのか。
わたしはまたトカゲを捕まえる。
今度は尻尾を切って逃げる個体もいたが、端から尻尾なんか見ていないんだ。ぴるぴる動いて誘惑したって意味がない。見ているのは尻尾ではなく、いつだってトカゲ本体だ。
でも、もう家には入れなかった。
「庭に放してあげな」
今度は素直に、母の言うことを聞くことにした。庭なら、また会えるかもしれない。
それから来る日も来る日もトカゲを捕まえては、そう大きくもない庭に放し続けた。
母の趣味はガーデニングだった。一年草を使い捨てのように季節ごと植え替え、実がなる木や宿根草は好まない。唯一、鳥が来てくれるからという理由で、グミの木だけは植えていた。赤い実はぽよんと可愛らしいのに、枝には鋭い棘がある。父は剪定するたび手を刺され、ぶつくさこぼす。
母の機嫌がいい日には、ホームセンターに連れて行かれ、パンジーの色を選ばせられた。生花コーナーの下品な真っピンクのペチュニアや、剪定したばかりの赤いゼラニウムが放つ金属のような強烈な臭いが嫌いだった。
母は鳥がすきだった。セキセイインコの番を二度、それから九官鳥も飼っていたらしい。白に水色の雌と、黄色に黄緑色の雄の鳥を飼っていたことは、うっすら記憶している。たぶんそのインコたちだろうが、わたしは物心つく前に二度も彼らを空に逃してしまったという。自分のトカゲは閉じ込め、人の鳥は空へ放つ幼き日のわたし。
それ以来、母は鳥を買うのを諦めた。代わりに、グミの木を植えたというわけだ。ときどき、林檎の芯をグミの木の棘に刺したり、庭に鋳物のバードフィーダーを置いていた。きっと、本当に鳥がすきだったのだ。九官鳥のキューちゃんは、父にしか懐かなかったらしいけれど。
母自慢の庭には、相変わらずトカゲがいた。そして、懲りずにまた、いつものようにわたしに捕まる。
ちいさな顔を覗き込み、頭を撫でる。裏返し、白いおなかのぷにぷにした部分をなぞる。されるがままのトカゲにうっとりする。薄茶色の背中は少しざらついている。頭から撫でると鱗が逆立たず、きもちがいい。トカゲの鼓動を、腹の薄い皮膚からどくどく感じる。飽きずに喜びが湧き上がる。
ひとしきり撫でて満足すると、地面に下ろす。案外、トカゲは逃げていかない。また草むしりに勤しむわたしの傍で、どこを見るでもなく、ただ存在している。
それにしても、この危機感のなさはどこから来ているのか。そうか。こやつらは、こうやってわたしに捕まる運命を、庭で脈々と受け継いできたのだ。
わたしがアスファルトに這いつくばり、トカゲに夢中になる様子を、同級生たちは気味悪げに見ていた。そんなのお構いなしだ。わたしの手にはトカゲがいるんだから。
「羊子ちゃん、きもち悪い」
とはいえ、爬虫類ならなんでも好むわけではない。トカゲもヤモリもイモリも、(ちいさいの限定で)蛙もすきだ。もちろん、恐竜も。けれど、蛇だけはどうしてもだめだ。
それを自覚したのは、母が蛇の死体を嬉々として拾い上げたときだった。小学校近くの川沿いの道で車に轢かれた蛇を見つけ、自転車の後ろにわたしを乗せ、ぺしゃんこになった蛇のまだ血が乾き切っていない尻尾を無理やり掴ませた。母は蛇の皮を剥いで、財布に入れるお守りにするのだと意気込み勇んでいた。タイヤ痕のついたぺしゃんこの蛇よりも、母そのものが恐ろしかった。
翌日、蛇の死体を乾かすため玄関のタイルに置いていたら、烏に持っていかれたらしい。ありがとう、烏。美味しかったか、蛇は。
母の趣味は、不可解な闇を纏う。出窓にはピエロのオブジェや、ノイシュバンシュタイン城にある白鳥の置物のレプリカが並ぶ。壁にはベネチアンマスクなどのお面が掛けられ、床の間にはハブ酒が鎮座している。
瓶のなかでは、蛇が均一にとぐろを巻いていた。目は白く濁り、口を大きく開けて牙を見せている。沖縄出身の母が、結婚祝いの際に親戚から贈られたものだと聞いていたが、結局、開けたところを見たことはない。
わたしの部屋のドアの真上には、赤やオレンジや緑なんかのチャカポカしたカラフルなエリマキトカゲのお面を貼りつけ、四六時中見張らせる。目と口が丸く切り抜かれているプラスチックのお面は、不気味で堪らない。わたしは、生きている地味な茶色いトカゲがすきなのであって、こんな紛い物なんかご免だ。
母が死んで、わたしが真っ先に処分したものが、このお面だった。15年以上、放置されたエリマキトカゲは埃をかぶり、外すときにはくすんでいた。埃なのか、プラスチックが劣化したせいなのか、ざらついていた。ゴミ袋のなかで灰色の埃を、断末魔のように静かに撒き散らす。ぎゅっと持ち手を縛った。エリマキトカゲの目は、もうなにも映さない。
主のいなくなった庭には、変わらずトカゲがいる。
トカゲは害虫を食べてくれるというが、正直それは長年、実感できていない。蚊取り線香を焚いても蚊は飛ぶし、相変わらず庭は虫だらけだ。たまには目の前で虫の一匹でも捕まえてくれればいいものを。
それでも、トカゲはそこらにいる。雑草の間に。腐りかけた縁台のささくれの揺れる影に。木漏れ日の端に。
炎天下のなかで草むしりをしていると、必ず姿を見せる。嫌いな作業への唯一の報酬のように現れる。無防備に長い尻尾をきゅるりとしている。
決まりごとのように、目線の端で動く影をさっと捕まえる。
「かわいいね、トカゲちゃん」
そう言って撫でる。
個体の名前はない。全員がトカゲちゃんなのである。たまに明らかにちいさい個体だけが「ちびちゃん」になるが、そのちびちゃんも、すぐにトカゲちゃんになる。
春先のトカゲは、ますます可愛い。冬眠から目覚めたばかりで、呆けている。目の開きも甘いし、動きも緩慢だ。ただでさえ捕まりやすい遺伝子を持っているのに、わたしに捕まったことにも気づいていないんじゃないか。手のなかの鼓動も鈍臭い。
わたしは、いまだにトカゲとの距離感がわからない。
もし、これが絶滅寸前の珍しいトカゲだったなら。モロッコ王宮の楽園で囲われ、絶滅を免れたバーバリーライオンのように、わたしも聖なるトカゲを侍らす王様になっていたかもしれない。けれど、わたしが追いかけ回しているのは、どこにでもいるニホンカナヘビだ。トカゲですらない。
ところが、ニホンカナヘビの姿は、都市ではあまり見かけなくなったという。整備された公園や、綺麗に舗装された道には、もう彼らの居場所がない。
手入れの行き届いていない母の庭には、今日もトカゲがいる。のほほんと生きている。いい気なもんである。
トカゲがいなかったら、庭仕事なんか絶対するもんか。お前が王様だ。
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