切れない電話と裁ちバサミ
8月3日はハサミの日です。針供養にならって、使えなくなった鋏を供養する日なのだそうです。
うちの実家の鋏は、まだ使えます。誰も使っていないのに。


母が縫い物をしなくなって、たぶん十年近く経ちます。ミシンは押し入れの奥で、上に段ボールが二段積んであります。
それでも裁ちバサミは、台所の引き出しの、いちばん手前にあります。畳んだ布の上に、ちゃんと置いてあります。
引き出しを開けると、油の匂いがします。研いだあとの匂いです。母は何かのついでみたいな顔でこれをやっていて、聞かなければ一生言わないと思います。実際、聞くまで知りませんでした。
母は電話も同じです。もう切るね、と言ってから、隣の家の話と、市場の話と、路面電車が混んでいた話をします。切ると言った人が、切る道具を研いでいる。並べて書くと出来すぎですが、本当にそうなので仕方がありません。
切れる状態にしておくことと、実際に切ることは、あの人の中では別のことなんでしょう。
坂の途中で電話が鳴りました。着いた? と聞かれました。まだ車にも乗っていない距離です。
たぶん、あの鋏はこの先もほとんど使われません。そして、ずっと切れるままです。
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