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何が自分を動かしたのか・・・

 ― あの山越えて 里へ行った ―

 『江戸の子守歌』にあるこの一節が、自分の人生にどんな影響を及ぼしたのか、これまでより少し深く切り込んでみたい。
 独り言を聞かされるようなものかもしれないが、一人の人間が、普段言葉にしないような心の深い部分まで掘り下げて話すという「通常ではなかなか無いこと」、として楽しんでもらえれば幸いである。

 幼い時に繰り返し聞いた、このフレーズ。無意識の衝動として、その後の行動に影響を及ぼしたことは、ほぼ間違いない。

 では、具体的にどういった行動として表れたのか…。
 その実例として、これまでに、「音大卒業後にとった行動」をあげた。

 一旦音楽から離れ、信州の山村に移住し、そこから上田市へと再移住。その地で里山の頂上に立っていた老松との出会いを果たす。
 その過程が、まさしく、
 ― あの山越えて 里へ行った ―
 そのままの行動に見える。
 たぶん、これは「たまたまそうなった」わけではないと思う。

 以下の二作で、そのことについて触れている。

    微笑みの木からヤマンバの木へ
    
巡り合わせの面白さ

 その内容については、タイトルをクリックすれば読めるので、ここでは省略するが、実は、それ以外にも、僕は同様の行動を繰り返している。

 その一例として、小学校一年のとき、近所の友だちと起こした行動があげられる。
 エッセイ集『少年時代』の中のこの一編。

    森の中へ ~ 蘇った少年の日

 この中で、忘れ去っていた少年の日の記憶が、三十年の時を経て突然蘇ったときの感動について語っている。
 ここでは、「記憶の蘇生」に焦点を当てており、行動の裏に、どんな衝動が働いていたのか、という点には触れていない。
 だが、この行動も、
 ― あの山越えて 里へ行った ―
 という一節に突き動かされているように見える。

 作品の中では触れていないが、実は、これと類似した行動が繰り返されている。
 例をあげると、
その1.
 長野県上田市に住んでいた頃、長野市の音楽教室への往復に、最短ルートの国道を使わず、わざわざ山道を選んで、そこから目的地へと下って行った。
その2.
 夜、用もないのに未踏の山道へと車を走らせることが度々あった。
その3.
 故郷鹿児島に帰ってからも、観光地でもなんでもない近隣の山に、一人で入っていくことがよくあった。

 これら全て、「あの山越えて里へ行った」という子守歌に繋がっているように思える。

 こういった一連の行動の中でも、エッセイ森の中へ ~ 蘇った少年の日で書いた、「信州の山中で、突然少年期の“山をひとつ越えた記憶”が蘇った体験」は、鮮烈な印象を残している。

 そして、僕にとって、それと同等か、それ以上に強い印象を残しているのが、エッセイ陽だまりの記憶~2歳の頃の思い出で触れた、幼時期に繰り返し見た夢だ。
 
 ― ピエロの恰好をしたおじさんが、人力車を引いている。2種類のおじさんがいて、片方のおじさんの正体はパン屋のおじさんで、もう片方は、焼き芋屋さんのように見えるが、その正体はヒトサライだ。じゅんこ姉ちゃんは「イカす!」と叫び、あとを追いかけて人力車に乗り込んだ。そのまますう~っと中空に浮かび上がり、北の方向の山を越え、その向こうの闇の空に、吸い込まれるように消えて行った。 ―

 この中に登場する「じゅんこ姉ちゃん」というのは、当時、家族の一員として同居していた、叔母(母の妹)である。

 この夢は、得体の知れない恐怖心を伴なっていた。

 幼い時分に繰り返し夢に見たり、青年期に、忘れていた少年時代の記憶が突然蘇るなど、「山を越える」という行動が、心を攪乱させる「強い揺さぶり」を伴なって、心の奥のどこかから強烈なメッセージとして放たれている。
 そこには、自分にとってよほど特別な意味が潜んでいるように思える。

 この問いに対する答えが、前述の『陽だまりの記憶』の中で、示されている。

 ― 寝かしつけられるとき、母がよく桃太郎の話を聞かせてくれたり子守歌を歌ってくれたが、同じ役目をじゅんこ姉ちゃんが担うこともあった。
 その子守歌の歌詞に謎めいた部分があって、どうにもそれが気になった。
 「でんでん太鼓に笙の笛」というのが、何なのかよく解らなかった。
 「あの山越えて里へ行った」というのは、さらに謎めいて怖かった。    
 「サト」という言葉の意味が全くわからず、イメージさえも湧かず、じゅんこねえちゃんに聞いても、返って来たのは「こどもにはむずかしい」というひと言だけだった。 ―

 「サト」という未知の場所。その解決されない「謎」が具体化されて夢に現れ、さらには、その後の自分の行動に無意識の影響を与えたというのが、たどり着いた「答え」だった。

 夢の中で、「謎のヒトサライ」に連れ去られ、山の彼方へと消え去る「じゅんこ姉ちゃん」。
 繰り返しこの夢を見たせいで、「じゅんこ姉ちゃんがどこかにいなくなってしまうのではないか」という不安を感じていた。
 長い間、叔母への依存心と子守歌の謎のフレーズが結びついて「サト」という謎の言葉への不安感が生まれたのだと考えていた。

 ところが、あるとき、小学生の頃のこんな記憶が浮上する。
 母から「解雇された家政婦さん」の存在を知らされたことがあったのだ。
 そのことは、普段思い出すこともなく、意識の片すみに仕舞い込まれていた。
 赤ん坊に近かった自分が、その後にやってきたじゅんこ姉ちゃんとの区別が付かず、「また居なくなるのではないか」という不安を抱き、それが、   
 ― ヒトサライにさらわれ、あの山越えて消え去る ―
 という夢に繋がった、と言う流れが見えてきた。

 ― 坊やのお守りはどこへ行った あの山越えて里へ行った ―
 というフレーズそのものの事象が、実際に起こっていたのだ。

 こういった一連の出来事が、まだ赤子同然だった自分には、よく理解できず、意識の中に「混沌とした謎の異世界」が出来あがり夢になって出てきたと結論付けた。

 実は、その背後に、「より大きな事件」が横たわっていた。
 それは、「母の不在」である。
 長い間そのことに気付いていなかったのが、今となっては不思議でさえある。
 出産のために産院に入院した母。二歳に満たなかった自分にとっては、ただならぬ「事件」であったに違いない。なぜ母がいなくなったのか、赤子同然だった自分は、その意味を理解できてはいなかっただろう。
 もしかすると、心の奥底に「受け止めきれない出来ごと」として刻印され、現在に至るまで、無意識にそこから目を背けていたのかもしれない。
 その大いなる「欠落感」が、「あの山越えてサトを探す衝動」へと結びついたのだと思われる。

 その衝動が、小学一年生の自分を、森の中へと誘い、二十代後半で信州の山村へと向かわせた。
 そして、三十代半ば、信州の山道で、小学生時分の「森の中へ入って行った記憶」が蘇る。
 このように、人生の様々な場面で、何度も「あの山越えて」という一文に突き動かされたような行動、事象が現れているのである。

 ただ、これだけであれば、“見つからない答え”を一生探し続ける“実りの無い人生”になりそうだが、そうはならなかった。
 そこに、思い出に残る「梅の木」の存在があったからだということを、これまでにも書いている。
 旧作と内容が重なることになるが、ここに再度その流れを整理してみる。

 幼稚園入園時から、小学校高学年まで“心の友”として存在していた梅の木。
 その梅の木と“笑えるようになった自分”とを並べた貼り絵を幼稚園で制作する。
 十八歳のときには、同じテーマで『微笑みの木』という歌を書いている。
 ただし、歌を書いた時点では、かつて自分が「微笑みと木の貼り絵」を制作したことなどすっかり忘れていた。写真の中にその貼り絵を発見し、驚くのである。
 題材となった梅の木は、自分が小学校六年のときに枯死しており、『微笑みの木』は、鎮魂の意を込めた歌でもあった。

 さらに、そのことを、信州上田にいた三十代の頃、加入していた文芸同人誌『顔』に寄稿するために、エッセイ微笑みの木~ある一本の梅の木に寄せてとして作品化した。
 それを知人に読んでもらったことが、上田市塩田地区にある里山「唐臼山」の頂上に生えていた老松との出会いに繋がる。

 松の木の保存活動の中核を担ったのが、上田市塩田の住民・村山隆さん。彼と知り合った頃、その松は、まだ一本の「無名の木」に過ぎなかった。
 ところが、枯死した松の切り株から地域の様々な歴史が浮かび上がってくる。
 そこには、明治時代からの自然災害との苦闘の歴史、旱魃や霜害、そして武田氏と村上氏との合戦の歴史などが刻まれていた。
 面白いことに、十八歳のときに書いた歌『微笑みの木』へのモチーフとなった詩『いにしえの唄』が、まるでそのことを暗示するような内容になっている。
 過去作の中でも、すでにそのことには触れているが、ここに、再びその詩を転記しておく。

      **

   『いにしえの唄』
  預言者の鈴が起こした波紋が
  やがて この大地を揺さぶる

  彼女は そんなことを知っていたのだろうか
  深い森の奥に立つ巨大な老樹に尋ねたところで
  彼が知っているのは千年の昔ではなく
  今、この時

  ひとりの男が流した ひとつぶの涙
  そのまま大海となり 太陽に召された

  雨乞いの唄 遠く連なる山々の周り
  果てのない螺旋形のようにぐるぐると回り
  そして高くゆっくりと移動する

  烏の不吉な声が西から東へと響き渡る厚い屏風の上
  静寂の飛翔が長旅を終えて降りてくる
  そこには多くのものが見えるはずだった

  凍りつき蒼ざめた星座が 結晶のような空にへばりついている
  彼等の叫喚は荒々しく掻き消され
  もうすぐ ちぎれ落ちてくるだろう

  やがて雀が目覚め 囀ることだろう
  そのとき私は 朝焼けの空にとけてゆく

        **

 この詩を書いたのは、唐臼山の老松に出会う20年前のことである。予言の書などというつもりはなく、単に頭に浮かんだイメージを書き記しただけであり、松の木との符号は、偶然であるとしか言いようがない。

 ここまで、「子守歌から生じた無意識の衝動」を中心に据えて述べてきた。
 それこそが、自分を信州へと向かわせ、老松との出会いに繋がり、松の木を題材とした組曲を作曲し、オリンピックの仕事に結びつくまでの根源的なエネルギーとなった…、そういう前提のもとに話を進めてきた。

 実は、その流れと並行して、そこには、もう一つの要素が混在している。
 ここから先は、これまでとはまた「別の話」として聞いてほしい。

 オリンピックの事前盛り上げ活動に加わることになったきっかけは、画家・浦野資労氏との「絵画と音楽の共振効果を狙った試み」だった。
 その浦野氏の個展会場で、彼の依頼に応えて僕が作曲した『コズモロジカル・ブレス』という曲を流したところ、それを耳にした母袋創一氏(後の上田市長、当時は県議会議員だった)から、オリンピック盛り上げコンサートに協力してほしいとの要請があったのである。

 浦野氏の人物像を思うとき、「もうひとりの人物」の存在が浮かび上がってくる。中高生時代から東京での青春期まで親しく交流していたニックネーム“殺芸”である。彼は、24歳のとき、急性白血病で亡くなっている。
 彼は、高校時代から写真家を目指しており、僕の音楽に対しても強い興味を示し、個展会場で流したいという希望を持っていた。写真と絵画という違いはあるが、「視覚に訴えるビジュアルアート」である点で共通している。
 殺芸は、靴屋の長男であり、四角い眼鏡をかけ、髪を長く伸ばしていた。そして、僕の音楽とのコラボレーションを望んだ。
 面白いことに、これら全てが、画家・浦野資労さんにもそのまま当てはまるのである。
 これもまた、自作の詩『いにしえの唄』と、唐臼山の老松との符号がそうだったように「偶然」であるとしか言いようがない。
 だが、その偶然の裏に、「殺芸が生前叶えられなかった夢を、自分によく似た画家・浦野さんに託して実現させた」というストーリーを読み取ることもできる。
 すべてを「偶然の一致」として片づけようとすると、「あまりにも出来過ぎた偶然」に見えるのだ。
 ただ、これについては、確証が得られることはないので、すべては「受け止め方次第」ということになる。
 殺芸との不思議な関りについて、エッセイ霊感 ~ 姪っ子との不思議な夜に詳しく記してある。霊的な話に興味のある方は、是非そちらも読んで頂きたい。
 僕自身は、この殺芸の存在が、人生を大きく動かしたような気がしているが、それを声高に主張するつもりはない。
 常識的な因果律からかけ離れているので、抵抗が生まれるのは当然だと思う。そういう場合、ただ単に「面白い偶然」と受け止めてもらえれば、それでよい。
 僕が言いたいのは、人生とは自分の意志だけで展開されるものではなく、幼児期に形成された「無意識の衝動」であるとか、「偶然の働きかけ」など、意志の外側にある「何か」によって運ばれることも多いということである。ご自分のことを振り返ってみても、何か心当たることがあるのではないだろうか?
 僕の人生においては、その要素が、大きかったように思う。 


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