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森の中へ ~ 蘇った少年の日

 その頃三十代半ばだった僕は、長野県上田市に住み、音楽制作とピアノ指導を生業としていた。 
 作曲の仕事は、主に長野県内のテレビ・ラジオCMやテレビ番組用の音楽。その他、劇伴音楽、各種団体の愛唱歌や市の広報車用音楽、保育園の園歌なんていうのもあった。
 一週間のうち二日は、自宅でピアノの生徒を教え、それ以外に二日、地元の楽器屋が経営する音楽教室に教えに行く。うち一日は北へ向かって長野市へ、もう一日は南の佐久市。そのどちらも、我が家から車で一時間ほどの距離だ。

 夏が終わりに近づき、秋の気配が漂い始めていた。そんなある日の朝、僕は佐久の教室へ向かって車を走らせていた。楽器店の店長さんが書いてくれた地図を頼りに、谷合の部落を抜けての約一時間。川沿いに細く伸びた一本道を辿って小さな田舎町に向かう。ほとんど土地勘もなく、通勤路以外は、全く足を踏み入れたことがなかった。

 緑豊かな風景を楽しむようにハンドルを繰っていると、一枚の立て看板が、行く手を遮っていた。
 「工事のため通行止め」
 迂回路を示す矢印は、幹線道路から左方へと分岐する細い山道を指している。どうやら山をひとつ越えなければならないようだ。
 その先がどこにどう繋がっているのか全くわからない。たぶん、いつもより時間がかかることになる。
 ― レッスンの時間に間に合うだろうか? ―
 そんな懸念を抱きながら、細く曲がりくねった上り坂を辿った。
 しばらく進んで行くと、不思議な感覚がぽっと浮かび上がってきた。
 胸の奥をくすぐられるような、ほのかな温もり…。ぼんやりとした幸福感と言えばよいだろうか…。自分が今置かれている状況とは全く無関係に、心が勝手に動いている。

 自分は一体何に反応しているのだろう…。

 正体不明の感覚が、しばらく胸をくすぐり続けた。

 坂道を上り詰めると、町並みが見えてきた。
 閑静な住宅地だ。
 窓を少し開け、心地よい風を受けながら、時間を気にしつつも、日常空間から乖離したトリップ感を楽しんでいる自分もいた。

 レッスン予定時刻にはどうにか間に合った。
 音楽教室所属の新人講師や音大受験生、一般の生徒らへのレッスンを行いながらも、朝感じた正体不明の幸福感のことが、何となく気になっていた。
 いつも通り、何ごとも無くレッスンを終え、そして、朝来たその道を、今度は逆に辿り始めた。 

 仕事から解放され、日の傾いた田舎道でのドライブを楽しんでいると、あの感覚が再び戻って来た。
 胸の奥を何かがくすぐる。
 その感覚に身を任せながらハンドルを繰っているうちに、ある一場面が、頭にぽっと浮かんだ。

 小さな背中が見える。

 こどもの背中…、
 ただ背中だけが見えている。
 いつかどこかで見た光景だ。
 背中の周囲は、曖昧模糊としてよく見えない。
 
 その部分だけを照らし出したような、色彩感の薄い情景。

 どこで見たのだろう?

 テレビだろうか、それとも直接目にした光景だろうか…。

 思い出そうとしても、なかなか思い出せない。

 謎めいた感覚を持て余しつつ、ハンドルを繰っていると、その輪郭のぼやけた記憶が、次第にはっきりとした像を結び始めた。

 小さな背中は、慌てたように何かを掻き分けながら、前に進んでいる。

 草に覆われ、生い茂る細い竹林…、
 鬱蒼とした森…。
 吹き渡る風…。

 思い出した。

 その時、僕らは、森の中を進んでいた。森を抜けて山を一つ越えようとしていた。

 少年の日の出来ごとだ。

 子どもの背中…、それは、近所に住んでいた同い年の幼馴染みたち。自分を含めて三人。
 そこは常盤の森。小学生の頃住んでいた町。

 濃い霧が晴れるかのように、その日の情景が、鮮やかに広がり始めた。それと同時に、むせかえるような幸福感が押し寄せ、胸が一杯になっていた。 

 昭和30年代。鹿児島市常盤町。山の緑に抱かれ、古い石塀や緑の生垣に囲まれた静かな町。
 午後になると、その町のあちこちに、子どもたちの遊ぶ姿が数多く見られた。駆けっこや木登り、忍者ごっこ、三角ベース野球など、僕らは毎日のように、外を走り回っていた。
 山で虫を捕ったり、グミや椎の実、ムカゴ(山芋の実)などを採って食べたりすることもあった。
 そんな中に、僕ら三人もいたのだ。

 あれは小学校一年生の時だった。三人の名前は、それぞれ「ひろふみ」「よしふみ」。「よしひろ」。一度に聞かされれると、どれが誰の名前だか分からなくなりそうな似通った名前だった。
 ある日ある時、誰が言い出したか、あの山を越えてその向こう側まで行ってみようということになった。話は早かった。皆が、“森”という日頃踏み込むことのない見知らぬ空間にあこがれを抱いていた。
 「誰が一番前になる?」
 「ひろふみくん、誕生日が一番早いから先輩だね。隊長になってもいいよ」
 「いや、別に僕じゃなくてもいいって」
 三人とも、できれば先頭になることは避けたかった。自分以外のどちらかが先頭になると言い出すのを互いに期待した。だが、それではいつまで経っても埒があかない。
 「やっぱり平等にしないとね」
 「そうだね」
 「三人で交代交代にしよう」
 そう決めると腹も据わった。
 勇んで山に入ったちびっこ探検隊。
 代わる代わる先頭になりながら、雑木や竹や草が密集する山の奥へと入って行った。

 何に呼ばれたのかわからない。

 森の妖精に会えるなんて思っていたわけじゃない。

 でも、何かが待っているような、漠然とした期待感を抱いていた。

 リスやウサギが顔を出すかもしれない。
 でもタヌキには化かされないようにしなきゃ…。
 わくわくしながら、奥へ奥へと入って行った。
 どんどん進んで行った。
 もっともっと進んで行った。

 ところが…、

 進んでも進んでも…、

 変わったことなんて、まったく起こりゃしない。

 森は僕らに無関心だった。

 沈黙の時が、淡々と過ぎてゆく。

 期待感は次第に遠のき、冒険心は次第にしぼんでいった。

 ― 僕らは、一体何をしてるんだろう? ―

 何だかわけがわからなくなってきた。

 風に揺れる木々のざわめき、
 足元をくすぐる草の感覚、
 纏わりつく蜘蛛の巣、
 突然飛び立つ野鳥の羽ばたき…。

 どっちに行けば出口が近づくのか、まったく分からない。引き返そうとしても、来た道がもう分からなくなっている。

 動作はやたらと早く、息は荒くなり、誰一人として言葉を交わそうとしなくなった。

 声をあげたところで、森の中に吸い込まれるだけ。
 誰の耳にも届きゃしない。
 考えを巡らせても、森は微笑んでなんかくれない。

 日常空間から遠く離れた“森”という巨大な空間に、
 僕らはすっぽりと飲み込まれていた。

 無慈悲で荒涼とした空虚感が、ざらついた舌で背筋をなめまわし、冷や汗が滲む。

 ― 日が暮れたら一体どうなるんだろう?
   今僕たちがここにいることなんて、誰も知らない。
    助けは来ない。
     明日の新聞に載るぞ。
     小学生3人行方不明。
     そんなの嫌だ!
    立ち止まっちゃいけない。
    とにかく進むんだ。
   前へ前へ…、 
    進む、進む…、

     進め!

     進まなきゃ! ―

    どれくらい歩いたことだろう…。

  やがて、木立の隙間から下界の町並みが.チラチラと見えてきた。
 
  ― 出られる…、
     やっとここから出られる ―

  希望を抱いて進んで行くと…、
  見晴らしの良い崖の上に出た。

 「やっ… たぁあ! 助かったぁぁあ!」

 三人は歓喜の声をあげた。

 遥か下方に、町の広がりが見える。

 そこは慣れ親しんだ町、薬師町だった。

 道行く人が、米粒のように小さく見える。

 自分たちが通っている小学校も見える。

 森に入る前、僕らは北の方向にある原良に出るのではないかと予想していた。実際には北ではなく、右へ右へと大きく逸れ、東へと進んでいたのだ。

 そうして今、僕らはここに立っている。
 いつも下から見上げていた山の上に立っている。
 自分たちが、毎日動き回っていたその町を、まるでカミナリ様のように悠然と見下ろしている。
 何か大きなことを成し遂げたかのような達成感、勝ち誇ったような気分を体いっぱいに感じていた。

 ― いつまでもここに立って、広々とした気分に浸っていたい。―

 だけど、そんなわけにもいかない。
 日が暮れる前に降りなきゃ、大変なことになる。

 ― さあ、そろそろ戻らなきゃ!―

 僕らは町を目指して、再び森の中へと入り、息を弾ませ足早に下って行った。

 やがて木々の隙間から町が見えてきた。

 出口は近い。

 安堵感に歩みが緩む。

 互いの姿を見ると、土埃で頬が煤け、目は充血し、服は汚れていた。

 「あれぇ? 目が赤いよ。泣いたんじゃないの?」
 「泣くわけないがねぇ。自分だって、目が赤くなってるよ!」

 見るも無残な姿を互いに笑い合った。カラカラに乾いた喉の奥に、チクチクと小さな痛みを感じた。

 見慣れていたはずの景色がひどく懐かしかった。
 自然石が積み上げられた古い石塀、
 曲がりくねった未舗装の路面…
 そういったすべてが、静かに待ち受けていた。

 「あの山を越えた子どもなんて、僕たちだけだよ」
 「絶対そうだね」
 「途中で、出られなくなるかと思って怖かったよ」
 「明日の新聞に載るんじゃないかって考えたよ」
 「そうそう、ボクも同じこと考えてた」
 「親に話したら怒られるね」
 「誰にも言っちゃダメだよ」
 「三人だけの秘密だからね」

 甲高い声ではしゃぎながら、自分たちの住む町を目指した。おなかをペコペコにすかせ、家族が囲む湯気のあがる食卓を思い浮かべながら…。

 秘密は固く守られ、やがて意識の底へと深く沈み込み、思い出すことも無くなっていた。

 それから三十年もの時が流れた。
 そして記憶は蘇った。

  ― 山をひとつ越えなければならない 
    でも。出口はどこかわからない ―‐

 そんなかつての体験と、そっくりな状況に置かれたとき、それが導火線となって、過ぎた日の記憶が、記憶の底から揺り起こされた。
 それは、遠慮深げに、心の扉をそっとノックし、扉がわずかに開くと、堰を切ったかのように押し寄せた。
 そして、三十年もの間一度も思い出したことのなかった少年の日へと、自分を引き戻したのだ。
 僕にとっては、生まれて初めての体験だった。

                     

 かつて自宅があった場所のそば。
 現在、左側の緑に覆われた部分は
  すっかり様変わりしている。
この森を越えてみたくなった
三人は、ここから中へと入っていった。

    

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