見出し画像

微笑みの木からヤマンバの木へ

 ― なぜ長野県に行ったのですか? ―

 そう問われることがよくある。鹿児島出身者が長野県に移住するケースは、決して多くはない。
 それに対しては、いつもこのように答えている。

 ― これと言って表立った理由はありません。たとえば、仕事で転勤になったとか、長野県出身者との縁があったとか、そういったことは一切ないです。ただ信州に行きたくて行った。そんなところです。―

 実際、行き先が長野でなければならなかった具体的な理由は、何一つ無い。若かりし日に信州上田にたどり着いたのは、いくつかの偶然の帰結だと言える。
 音大卒業後、はっきりとした未来像が描けず、一旦音楽から離れ、人の命を支える根源的な営み、農業を体験したくなった。
 そして求人誌で見つけ、向かった先が長野県南佐久郡小海町のきのこ園だった。  
 そこで約一年半過ごした後、音楽を中心とした生活に戻るために、ピアノ教師の職を求め上田市に移住。

 移住先が上田だったのは、小海の人たちから「暖かくていいところだぞ」と繰り返し耳に師たことによる。
 教室を運営する楽器店の上層部は、当初、本社のある長野市を勧められたのだが、こちらからは上田を希望し、最終的には、営業エリアの中心に位置するという地理的利点があるということで、上田に落ち着いた。

 その上田で、ピアノ指導の仕事を始め、収入が安定して来た頃、五年間のローンを組み、電子楽器や音響機器を買い揃え、音楽制作の仕事も並行して行うようになった。

 その後、音楽制作の仕事を通じて知り合った方の紹介で、“ヤマンバの木”と呼ばれた老松に出会うことになる。

 ここまでの流れを振り返ったときに思い浮かぶことがある。
 二歳の頃、繰り返し聞いた子守歌の一節である。

 ― あの山越えて 里へ行った ―

 この一文が、具体的イメージとなって何度も夢に出てきたという話を、『陽だまりの記憶~二歳の頃の思い出』の中にも書いているが、四半世紀経って、今度は自らの行動に現れたかのように見える。

 「あの山越えて」という言葉に呼応するかのように長野県の山村「小海町本村」を目指し、さらには、上田市に移動し、そこで里山の頂上に立っていたヤマンバの木に出会うのである。まさに「あの山越えて里へ」行っている。

 その上田でのヤマンバの木との出会いは、四、五歳の頃の体験を描いた『微笑みの木~ある一本の梅の木に寄せて』に呼応しているかのようである。
 そのエッセイを知人に読んでもらったところ、彼の幼馴染みであり、のちに老松保存会の発起人となる村山隆さんと引き合わせてくれたのである。
 内容が、幼き日に親しんだ梅の木への思いを綴ったものだったため、地域で孤立していた村山さんの気持ちが理解できるのではないかと考えてのことだった。

 ここで、ひとつお目にかけていただきたい一編の詩がある。

   『いにしえの唄』

  預言者の鈴が起こした波紋が
  やがて この大地を揺さぶる

  彼女は そんなことを知っていたのだろうか
  深い森の奥に立つ巨大な老樹に尋ねたところで
  彼が知っているのは千年の昔ではなく
  今、この時

  ひとりの男が流した ひとつぶの涙
  そのまま大海となり 太陽に召された

  雨乞いの唄 遠く連なる山々の周り
  果てのない螺旋形のようにぐるぐると回り
  そして高くゆっくりと移動する

  烏の不吉な声が西から東へと響き渡る厚い屏風の上
  静寂の飛翔が長旅を終えて降りてくる
  そこには多くのものが見えるはずだった

  凍りつき蒼ざめた星座が 結晶のような空にへばりついている
  彼等の叫喚は荒々しく掻き消され
  もうすぐ ちぎれ落ちてくるだろう

  やがて雀が目覚め 囀ることだろう
  そのとき私は 朝焼けの空にとけてゆく

 素人が書いたものなので、詩としては未熟で平凡の域を出ないものだとは思う。だが、今言いたいのは、もちろんそこではない。たぶん、これを読んだあなたは、唐臼山の老松のことが思い浮かんだのではないだろうか? 
 「老樹」「ひとりの男が流したひとつぶの涙」「いにしえ」「雨乞い」「凍り付き青ざめた星座」など、そう思わせる言葉が、いくつも並んでいる。
  (※老松についての詳細は、こちらの別作品に書いてある。)
      ⇩

 作者が、ほかでもない自分自身であることを白状してしまえば、肩透かしを食らったような気分にもなるだろう。同一人物が作ったのであれば、類似させることなど造作もない。
 しかし、この詩を書いたのは、唐臼山の老松に出会う遥か以前、まだ故郷鹿児島にいた十八歳の時。老松に出会う二十年も前のことであり、当然、塩田平の歴史など何も知らずに書いている。
 大学ノートに書きつけてあったこの詩を、老松保存活動の村山さんに見せたときの驚いた様子が、今でも忘れられない。彼は、詩の中のこの部分を指差し、声をあげた。

 ― ひとりの男が流した ひとつぶの涙 ―

 「これは、俺じゃないか! 衝撃だぞ、これは!」

 冒頭に「予言者」という単語が現われるため、印象をややこしくしているが、この詩は、予言の書などではない。ただ単に、その時思い浮かんだイメージを書きとどめたものであり、この類似性は単なる偶然に過ぎない。
 この詩、実は同じ頃書いた歌『微笑みの木』の歌詞の下地になっている。

 様々な思い出を残し、梅の木は姿を消した。しかし、木への思いだけは、その後も消えることなく残っている。その個人的な思いを、空間的にも時間的にも拡大し、“あてどもなくさ迷う想念が、やがて呪術的な力を得て世界を動かす”、そんなイメージを書き表したのが、詩の中のこれらの部分である。

 ― 預言者の鈴が起こした波紋が
   やがて この大地を揺さぶる ―
 ― ひとりの男が流した ひとつぶの涙
   そのまま大海となり 太陽に召された ―
 ― 雨乞いの唄 遠く連なる山々の周り
   果てのない螺旋形のように ―
 ― 静寂の飛翔が長旅を終えて降りてくる ―
 
 今示した部分の、最後の三行を、メロディーの中に収まるように書き改めたのが、自作曲『微笑みの木』のこの部分だ。

 ― 忘れられた昔の 歌の残骸が
   空の高みから 渦巻き降り注ぐ ―

 梅の木を失った気持ちを、僕はこのように歌や詩で表現したが、唐臼山の老松の枯死を悲しんだ“一住民”村山隆さんは、切り株の輪から地域の歴史を掘り起こした。そうして明らかになった史実が、どういうわけか、詩の中に書き表した世界とよく似ていたのである。

 その後、村山さんからの要請を受け、老松をテーマにした十に曲からなる組曲『松の木の物語』を作曲。老松保存活動のシンボル的な役割を担うことになる。
 そして、それらの曲を作ったことによって、長野冬季五輪フラワーセレモニー用の音楽を作曲することにもなった。

 自らの心の声に従い、いくつかの偶然によって運ばれた結果、普通には出会えないような体験をさせてもらったわけで、そんな中でも、特に印象的な出会いをもたらしてくれた「微笑みの木」と「ヤマンバの木」には大いに感謝している。


いいなと思ったら応援しよう!