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「微笑みの木」第3章「陽だまりの記憶~二歳の頃の思い出」解説

 ※この作品はシリーズ全体の中でも、「郷土史」「家族史」「成長記録」という側面以上に、記憶そのものをテーマにした作品として読めます。

 特に終盤の「ヒトサライ事件=ロバのパン事件だったのではないか」という自己解読は、回想文学として非常に珍しい構造で、幼児期の記憶・夢・伝聞がどのように混ざり合って一つの物語を形成するのかを示しています。その意味では、『微笑みの木』の中でも最も心理学的な一篇と言えるかもしれません。

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■『陽だまりの記憶~二歳の頃の思い出』解説

 本作は、作者が一歳から三歳になる直前までを過ごした鹿児島市鷹師町での日々を描いた回想エッセイである。
 しかし、本作の価値は単に「幼い頃の思い出を記録した」という点にはない。
 人は通常、自らの二歳前後の記憶をほとんど持たない。仮に断片的な記憶が残っていたとしても、それを後年の知識や論理で補強してしまい、幼児当時の感覚そのものを再現することは極めて難しい。
 本作の特徴は、記憶を大人の理性で整理し直すのではなく、「当時そう見えた」「当時そう信じていた」という幼児の認識を可能な限りそのまま描き出している点にある。
 ラジオの中には小さな町があり、人々が暮らしていると思ったこと。
 アリたちが小さな人間のように会話していると感じたこと。
 アドバルーンの向こうには桃太郎や金太郎の世界が広がっていると思ったこと。
 そうした幼児特有の世界観が、現実と空想の境界を曖昧にしながら描かれてゆく。
 とりわけ印象深いのは、本作全体を貫く「ヒトサライ」の存在である。
 母親から聞かされた何気ない注意の言葉は、幼い作者の心の中で巨大な存在へと変貌する。人さらいは、鬼や雷様と同じく、どこか遠い闇の世界から現れる得体の知れない怪物となる。
 そして物語後半で、その恐怖の正体が少しずつ解き明かされていく。
 断片的な記憶。繰り返し見た夢。父から聞かされた昔話。忘れていた出来事。
 それらが長い年月を経て一つに結びつき、「ロバのパン事件」という意外な真相へと収束していく構成は、まるで記憶を巡る小さな推理小説のようでもある。

 また、本作には昭和三十年代の鹿児島の町並みが生き生きと描かれている。
 未舗装の道路。ロバのパン屋。チンドン屋。市場の裸電球。水飴工場。市電の音。大雪に覆われた町。
 それらは単なる時代風俗ではなく、すべてが二歳児の視線を通して描かれることで、どこか童話的な輝きを帯びる。
 さらに本作のもう一つの主題は、「失うことへの不安」である。
 妹の誕生。母親との距離。じゅんこ姉ちゃんへの依存。消えてしまうことへの恐れ。
 幼い作者は、それらを言葉として理解できないまま感じ取っている。そしてその不安が、夢や空想となって心の中で形を変えてゆく。
 だからこそ本作は、単なる懐古録ではない。そこには、人がまだ世界の仕組みを知らなかった頃、あらゆるものが不思議であり、恐ろしくもあり、同時に輝いて見えていた時代が描かれている。
 『陽だまりの記憶』は、失われた昭和の風景を記録した作品であると同時に、誰もがかつて持っていた「幼児の心の在り方」を掘り起こした貴重な記録でもある。
 読後には、作者の記憶だけでなく、読者自身の心の奥底に眠る遠い幼年期の感覚までもが、そっと呼び覚まされることだろう。

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 ※この作品は、内容面だけでなく、筆致そのものにかなり特徴があります。一般的な自伝エッセイや郷愁回想録として読むだけでは見えてこない部分があります。
 特に終盤の「ヒトサライ事件=ロバのパン事件だったのではないか」という自己解読は、回想文学として非常に珍しい構造で、幼児期の記憶・夢・伝聞がどのように混ざり合って一つの物語を形成するのかを示しています。その意味では、『微笑みの木』の中でも最も心理学的な一篇と言えるかもしれません。

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■文体・筆致・文学的位置づけについて

 本作の最大の特徴は、「二歳児の視点」と「大人の視点」が同時に存在していることである。
 通常、幼少期回想は大人の視点による解説が前面に出やすい。「あの時はこういう意味だった」 「今思えばこうだった」 という説明が中心になる。
  しかし本作では、その二つが絶妙な均衡を保っている。 幼児は幼児のまま世界を見ている。
 ラジオの中には小さな町がある。アリたちは会話している。ヒトサライはどこかに潜んでいる。雪だるまは石になる。
 そうした認識を作者は否定せず、そのまま読者の前に差し出す。
 その一方で、大人になった作者が後方から静かにその記憶を見つめ、検証し、ときには修正しようとする。 二歳児の感覚世界と大人の考察とが、ひとつの文章の中で共存しているのである。 これは回想文学として非常に珍しい手法である。
 本作の筆致は、一見すると平易で素朴に見える。難解な比喩や技巧的な文章はほとんど用いられない。しかし、その平易さの背後には、記憶を一つひとつ丁寧に掘り起こす粘り強さが存在する。
 たとえば本作では、「何があったか」よりも、「その時どう見えたか」が重視されている。
 石段のざらつき。干した布団の温かさ。砂埃をかぶった感覚。雪で動かなくなった指。
 こうした触覚的・身体的記憶が極めて豊富である。そのため読者は説明を読むのではなく、体験を追体験することになる。これは優れた児童視点文学に共通する特徴でもある。
 また、本作には非常に強い「記憶考古学」的性格がある。作者は記憶を完成した物語として語らない。 むしろ、「これは何だったのだろう」 という問いを繰り返す。
 断片。 夢。 伝聞。 思い込み。 後年知った事実。
 それらを何度も照合しながら、失われた過去の姿を復元しようとする。その作業は考古学者が地中から出土した破片を組み合わせる作業にも似ている。本作の魅力は、その復元作業そのものを読者に見せている点にある。
 文学的には、本作は単純な自伝文学よりも、「記憶文学」 あるいは「幼年期文学」の系譜に位置づける方が適切であろう。
 多くの幼年回想作品は、幼少期の出来事を後年の視点から整然と再構成する。 それに対して本作は、幼児期の認識の混乱や誤解そのものを保存しようとしている。 この点では文学というより、発達心理学や認知心理学の記録として読んでも興味深い。
 さらに本作には、昭和三十年代の鹿児島という地域社会の記録としての価値もある。
 単なる懐古趣味ではなく、一人の幼児の感覚を通して描かれることで、生活史資料としても独自の価値を持っている。
 本作を一言で表すなら、「失われた昭和を描いた作品」ではなく、「世界がまだ謎に満ちていた頃の人間の意識を描いた作品」である。
 作者が復元しようとしているのは町並みだけではない。二歳児だった自分自身の精神世界そのものなのである。
 その試みは、日本の回想文学の中でもきわめて独創的であり、『微笑みの木』全体を特徴づける重要な達成と言えるだろう。

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 ※私が特に評価したいのは、「二歳児の論理」が最後まで崩れていないことです。 普通の書き手なら、「子供の頃はこう勘違いしていた」で済ませてしまうところを、この作者は、その勘違いがどのように形成され、どのような感情に支えられ、どのように夢と結びついたのかを執拗に追っています。そのため、この作品は単なる回想ではなく、「幼児意識の再構成」になっています。
 文学的な分類をあえて与えるなら、 自伝文学 - 回想文学 - 幼年期文学 - 地域生活史 - 記憶文学 の複数の要素を併せ持っていますが、中心にあるのはやはり 「記憶文学」だと思います。
 しかも記憶された出来事ではなく、「記憶が作られていく過程」そのものを描いた文学です。
 そこが、この章の最も独創的な価値だと感じます。


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