【小説・ヴィーナス症候群】(173)帰国してうどんに涙
第1章 行きと帰りと、その間
成田→シンガポール→アクラ→フリータウン。
2回乗り継ぎ、所要33時間。
乗った便はすべてLCCだった。
「国際開発ってさ、だいたいこういう感じよ」
安慶名美里は、シンガポール・チャンギ空港の硬いベンチに寝転がりながら言った。
真夜中の空港。冷房は強すぎるのに、ブランケットは貸し出し終了。
割出結菜は義手のセンサ部が当たらないように肩を丸めて、黙ってうなずいた。
義肢メーカーのCSR部門の派遣事業には、基本的に贅沢は許されない。
開発用トルソーという立場も、あくまで「現地試験体」であって技術者扱いではない。
出張申請の段階で「最低価格ルート限定」とされ、選べた便はこれだけだった。
アクラでの乗り継ぎは地獄だった。
表示板にゲート番号が出ず、英語は通じたり通じなかったり。
結菜は肩でパスポートを抱え、空港内を歩き回った。美里は淡々と道を聞き、売店でバナナだけ買って戻ってきた。
「ま、こういう時のコツは“怒らないこと”ね」
「怒る元気もないですけどね……」
現地ではもっと過酷だった。
熱気と虫と、通じない言語と、うまく動かない義手。
村人の目は好奇心と無関心のあいだを行き来し、期待も誤解も重たくのしかかった。
そのなかで、結菜はモモという青年と出会い、
義手を通じて、うまく握ることもできないまま、肩と肩を軽く触れ合わせた。
言葉も、握手も、通じなかった。
けれど――あの一瞬が、遠くて静かな「理解」だったのかもしれない。
そう思えるようになるまでは、だいぶ時間がかかった。
帰国便の直前、サイセイ義肢の広報部から連絡があった。
「結菜さんの活動、現地NGOがSNSにあげた写真でちょっと話題になってて……」
「で、ですね……急きょ、帰国後に社内報の巻頭に出ていただくことになりまして」
「なので、帰国便はアップグレードさせていただきました。ビジネスで取ってます」
機内。ブリュッセルからのANA提携便。
結菜は初めてのビジネスクラスの座席に座りながら、美里に目を向けた。
彼女はエコノミーの最前列で、すでにイヤホンをつけている。
乗る直前、「あんたの席、別になったってさ」とだけ言い残して、何も気にした様子はなかった。
「え、美里さんは……?」
「気にしなくていい。寝るだけだから」
そのときは、結菜も何も言えなかった。
でも、機内の食事をひとくち食べたとき、ふと思った。
――これが、あの村の人の腹に入ることは、たぶんない。
羽田に着く。朝の光は白く、空港の照明はまぶしすぎた。
フリータウンの空が赤土を抱えた重たい曇りだったのに比べて、
羽田の空気はよく磨かれていて、無臭だった。
「……帰ってきた」
誰に言うでもなく、結菜はつぶやいた。
床が滑らかで、表示が明瞭で、人が静かだった。
それは、ありがたい。けれど同時に――どこか“やさしすぎる”気もした。
そこに差し掛かった瞬間、
「ゆいなちゃーん!!」
甲高い声が割り込んできた。
制服姿の女性が、大きく手を振っている。
サイセイ義肢の広報部、三枝だった。
「羽田着だったの!? 成田だと思っててタクシー予約してた〜! てか顔やせてない!? アフリカすごいね!? てか飯行こ!」
「……なんでそんなに元気なんですか」
「いやいやいや、絶対食べさせたいものがあるの! てか今から予約してあるの!」
三枝は有無を言わせない調子で、ロータリー方面へ歩き出した。
背後で美里が、バッグを肩にかけ直してひとこと。
「うどんだと思うよ。あの人、いつもそれ」
「……そんな気はしてた」
結菜は、そのまま三枝のあとを追った。
きっと、何かがしみる味だろうと、そんな予感がしていた。
第2章 うどん
地下のフードコートは、朝9時半にしては人が多かった。
羽田空港第1ターミナルの一角、出発でも到着でもない場所。
知らない人が見れば通過点でしかないこの空間が、今の結菜には、世界のどこよりも「生活」の匂い」がした。
「ここ、地味に出汁がいいの。ちゃんと利いてるの」
三枝はうどん屋のカウンターに並びながら、顔だけを振り返らせた。
「なんかもう、機内食とか違いすぎてびっくりすると思うよ。うどん一杯で帰国実感できるから」
そう言って、食券を2枚出す。
「ワカメとネギだけのかけうどんね。変に具が多いと出汁が死ぬから」
「……マニアですか」
「通勤うどん歴10年です」
席につくと、結菜はゆっくりと息を吐いた。
白い丼が運ばれてきたのは、それから数分後。
湯気がゆっくりと立ち上る。
ネギとワカメと、透き通った琥珀色の出汁。
トッピングも、塩気も、足さず、ただ“基本”だけがそこにあった。
箸は渡されていたが、結菜は何も言わず、脚でバッグを寄せ、
肩を少しだけ使って箸を顎に挟み、足の甲とつま先でそっと受け取る。
カウンターに一瞬の沈黙。
でも、三枝は何も言わなかった。
彼女の「見るな」「言うな」という空気の読み方は、妙に正確だった。
最初のひとくち。
柔らかいうどんが、口の中でほどける。
つゆが喉を通る。
その瞬間だった。
目の奥が熱くなった。
「……えっ?」
涙が、勝手に落ちていた。
熱さのせいじゃない。
驚きのせいでもない。
何も尖っていない味が、喉の奥から、「おかえり」と言ってきた。

結菜は、箸を置いた。
首をふせて、しばらく動けなかった。
「……優しい味ですね」
かすれた声で、それだけ言った。
「でしょ。何が出てるかわかんないけど、ちゃんと染みるの」
「いや……染みすぎて……なんかもう……」
涙と一緒に、いろんなものが出ていく感じがした。
乾いた大地、砂のにおい、泥の重み、
子どもたちの目、義手が動かなかった瞬間、
“Why do I need to grab?”の一言。
あれもこれも、喉の奥でつまってたものが、するすると溶けていった。
三枝は、うどんをすすりながら言った。
「結菜ちゃんって、たぶん“使えるかどうか”ばっか考えてきたでしょ」
「……まあ、職業病なんで」
「でもね、うどんって、誰のためっていうより、“食べな”って差し出すもんだから」
「……たしかに」
「で、結菜ちゃんの義手も、たぶんあの村では“便利”じゃないけど、“見せた”ことで何かにはなってんのよ」
「“ふう”でも?」
「“ふう”が文化になるの。だいたい、最初は全部“ふう”から始まるんだから」
結菜はまた一口すする。
湯気が顔に当たる。
その向こうに、モモの顔が思い出された。
肩を差し出してきた時の、あのまっすぐな視線。
「……来て、よかったかも」
今度は、ちゃんと声に出せた。
三枝は少し笑って、最後のうどんをすすった。
「それ、社内報に載せてもいい?」
「絶対ダメです」
「ですよねー!」
2人の笑いが、朝のフードコートに小さく広がった。
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