【小説・ヴィーナス症候群】(148)LCCでアフリカへ
第1章 ビザと渡航準備
割出結菜は、生まれつき両腕のないヴィーナス児だった。1万人にひとりの確率で生まれる“腕のない身体”を持つ女性として、彼女は義肢メーカー・サイセイ義肢に雇用されている。アパレルのトルソーさんではなく、開発部門で義手の試作機を装着し、その挙動や使用感を記録する「開発用トルソーさん」――技術と身体の境目に、毎日立っている。
そして、これから会社の途上国向け筋電義手普及計画「SYNAPTIC計画」に従い、西アフリカのシエラレオネに行くことになったのだ。
「これ……ほんまに公式サイトなん?」
「公式、らしいよ。たぶんこれで取れてる人はいる」
そう答えたのは、隣で腕組みして覗き込んでいた安慶名美里だった。サイセイ義肢の国際渉外担当。元・青年海外協力隊で、カンボジアの義足工房にいた経歴を持つ。見た目は穏やかだが、価値観はどこか吹っ飛んでいる。
「たぶんってぇー……大丈夫なん?」
「うん。仮に空港で止められても、最悪ビザなしで入った人、私知ってるし」
「え、それ密入国やないの?」
「いやいや、ちゃんと入国審査通ってた。ただパスポートはコピーだったかな」
「それ“ちゃんと”ちゃうやろ!」
美里は笑いもせず、A4の紙を出した。
「これ、現地のNGOが出してくれた招聘状。“義手の技術者”って伝えたら、“ロボティック・テクニシャン”になってた」
「なんやその肩書き。ヒーロー物の味方サイドの博士みたいやん」
「うん、でも印象は良いでしょ。私、現地の空港で“ロボの人が来る”って噂が出てるらしいって聞いた」
「え、もうキャラ設定一人歩きしとる……」
結菜は紙を見ながら、ふと尋ねた。
「この病院ってぇー、ほんまに存在するん?」
「グーグルマップには出てないけど、衛星写真で屋根は確認した。あとヤギが3頭いた」
「いやヤギおっても安心材料にはならんて……」
「大丈夫大丈夫、あのへんのヤギ、人懐っこいから」
結菜は黙って深呼吸を一つしてから、ぽつりと言った。
「……ひとりで行くんかと思っとった」
「私も行くよ。出張申請、もう通ってるし。シエラレオネくらいなら一人でも行けるけど、義手つけてる子を現地に放り込むのはちょっとね」
「“くらいなら”ってぇー……どこ基準なんや美里さん……」
「協力隊のときに、川にワニ出た夜に風呂入りに行って怒られたことあるから、それに比べれば」
「ワニよりマシ、て基準狂っとるやん!」
そんなやりとりのあと、美里は淡々と次の紙を渡してきた。
「黄熱病の予防接種、あさって港区のクリニックで予約してある」
「義手でも大丈夫なん?」
「いや、たぶん慣れてない。電話したら、“注射できる場所……?”って五秒ぐらい無音になってた。“太ももは健在です”って言ったら、“あ、それなら”って急に明るくなった」
「もうその電話の録音データ、私に聞かせてくれん……?」
「録音してない。でも向こう、笑ってた。たぶん珍しいケースなんだろうね」
結菜は紙を受け取り、肩の義手のリングをくいっと締め直した。
「じゃあ、ちゃんと動かさんとね。この義手」
「うん。“動く”ってわかってる人が動かさないと、何も始まらないから」
第2章 空と地雷との間に
「ほんまにこのゲートなん?」
成田空港・第3ターミナルの搭乗口で、結菜は手にした搭乗券を何度も見返した。LCC専用のこのターミナルは、フルサービスの第1・第2とは違ってどこか雑然としていて、天井は低く、床のライン表示も何だか体育館っぽい。あちこちからいろんな言語が飛び交い、匂いも空気も湿っぽい。
「うん。タグと便名、合ってるし。たぶん間違いないよ」
隣で無表情のまま言った安慶名美里は、リュック一つで身軽そのもの。搭乗券も紙ではなくスマホ画面に表示していて、妙に落ち着いている。
「“たぶん”てぇー……この航空会社、聞いたことない名前なんやけど」
「スクートは一応大手。次のアセンション・リンクは……まあ、人が乗ってるのは確認した」
「確認てぇー……」
手荷物検査を抜け、狭い待合室のベンチに座る。結菜は義手を装着したまま、腕ごとバッグに寄りかからせていた。初めての国際線、初めての長時間フライト、初めてのアフリカ。胃のあたりがずっとざわざわしている。
「ちなみに、向こうの空港にWi-Fiあるん?」
「シンガポールはある。アクラとフリータウンは……たまにあるけど、止まってるときもある」
「止まってるってぇー……じゃあSIM買うしかないん?」
「うん。空港の売店で交渉する感じ。言ってみたら? “義手だから片手ぶんオマケして”って。冗談でもたまに通る」
「いや、通ったら通ったでぇー、不安なんやけど……」
「現地の人、笑ってたらたぶん大丈夫だよ」
搭乗が始まり、仮設みたいな通路を歩いて機内へ向かう。結菜は義手の関節を気にしながら歩いていたが、後ろを歩いていた美里が淡々とつぶやいた。
「ここの飛行機、ドア閉まらないとき、バンって蹴って閉めてたよ。前に乗ったとき」
「いやそれ事前に言わんでええやつや!」
「うん。でも飛んだし、着いた」
「うん、じゃないわ!」
結菜は無言で席に座り、シートベルトを締めた。義手の指先が、ほんの少しだけ震えていた。
第3章 シンガポール・チャンギ空港にて
シンガポール・チャンギ国際空港。到着ロビーの天井はやたら高く、床はピカピカで、空港というより高級ホテルのロビーのようだった。
結菜は義手の関節を小さく鳴らしながら、周囲を見回した。
「……ここ、どこ行ったらええん?」
「一回、入国するしかないね」
美里はそう言って、涼しい顔で入国審査の列に並んだ。LCC同士の乗継にはトランジットカウンターがなく、預け荷物も一度ピックアップし、再チェックインしなければならない。
「乗継用ゲートとか、ないん?」
「スクートもアセンション・リンクも、他社と連携してない。全部自分でやる」
「……不便すぎん……?」
「うん。LCCってそういうものだし」
入国審査では、結菜の義手に係員の視線が集中した。パスポートを開くのに手間取っているのを見て、審査官が一瞬眉をひそめた。
「Can you show me your face again, please?」
「あ、はい。……顔やね。合ってます、私です」
「She can’t hold it with her hands. Try from this angle」
横から美里が英語で補足した。係員は苦笑してスタンプを押し、無言で手渡した。
預け荷物のターンテーブルは滑らかに回っていたが、結菜のスーツケースはなかなか出てこなかった。二周目、三周目、ようやく出てきたとき、取っ手に「HANDLE WITH CARE」の紙テープが雑に巻かれていた。
「どう見ても“ケア”されてないけどな……」
「まだ形があるからマシだよ。前、車椅子のキャスターだけで出てきた人いた」
「うわあ……」
再チェックインのカウンターはまだ閉まっていた。美里は何も言わず、空港の隅のベンチに腰を下ろしてナッツの小袋を開けた。片手で器用に袋を支えながら、ポリポリと食べている。
「え、ここでぇー……どれくらい待つん?」
「前は二時間だった。今回はどうかな」
「なんか、もう目的地ついたくらい疲れたわ……」
「出発地でやられるの、あるある」
チェックインカウンターがようやく開いたのは、搭乗の三時間前。スタッフの制服は見慣れない色で、IDカードが名札の代わりだった。美里が淡々と書類を出し、結菜の義手の説明を挟み、荷物を流し込んだ。
「まあ、ここまで来たら、あと二回だから」
「……あと二回もあるんか……」
「うん。でも次はアクラだから、もっと混沌としてるよ」
「それ聞いてぇー、励まされるやつおらんよ?」
ふたりはふたたび保安検査へと向かった。肩の義手は、何も言わなければセンサーにひっかからない。けれど、なにも言わなくても、見れば誰でも気づく。
結菜は顔を上げて、前に進んだ。
第4章 アクラの混沌
「え……ここ、空港なん?」
アクラ・コトカ国際空港。シンガポールの近未来的な構造と比べ、アクラの到着ロビーはまるで郊外の物流倉庫だった。天井は低く、壁は黄ばんだパネルで、空調が効いているのか止まっているのか判然としない。ファンは回っているが風は届かず、空気は生ぬるかった。
「空港。国際線あるし、到着便の看板もあるから。たぶん」
前を歩く美里が、平然とした声で答える。通路の途中に無造作に置かれた段ボール箱を軽くまたぎながら進む姿が、妙に自然で逆に不安を誘った。
イミグレーションでは、係官が結菜の義手をじっと見た。パスポートを手渡そうとして、うまくページが開けずに指先でモタつく結菜を見て、「You okay?」と一言。美里がさりげなく肩を寄せた。

「She’s fine. She just can’t flip pages. No problem.」
係官は無言でスタンプを押した。ひとつ進んだ安心のような、ひとつ通り抜けただけの通過儀礼のような。
預け荷物の受け取りは、さらに別の儀式だった。
ターンテーブルが動いていない。というか、荷物自体が出てこない。周囲の乗客たちも、誰も何も言わず立っている。15分、20分、結菜がしびれを切らしかけたとき、バックドアがギイと開いて、係員が台車を押して出てきた。荷物は……山積みだった。
「うそやん……これ、手渡し……?」
「うん。あの人たちが呼んでくれる。“Nakamura? Suzuki?” みたいに」
「ええ……」
結菜の荷物は名前を呼ばれることなく、ぽんと床に置かれていた。取っ手のガムテープが剥がれていたが、中身は無事だった。
「ここから出発ロビーまでどう行くん?」
「裏口まわって、階段。出発側の構造、ちゃんとは繋がってない」
「……空港って、“空港内で完結する”もんやなかったんか……」
階段は幅が狭く、天井が低く、スーツケースを片手で持ってのぼるしかなかった。義手の関節に負荷をかけないように注意しながら、結菜は一段ずつ登った。途中でふと、美里がつぶやいた。
「ここ、エレベーターあったけど……多分もう使えない」
「“使えない”てぇー、壊れてるん?」
「中にハトが巣作ってた」
「……聞かんかったことにするわ」
出発ロビーは、到着エリアと比べると少しだけ明るかった。だがカウンターにはスタッフがおらず、長椅子の一角では誰かがスーツケースを枕に寝ていた。
「チェックインは……?」
「だいたい二時間前に誰か来る。たぶん制服着てる」
「“たぶん”てぇー……」
「あと、“乗れなかったから次の便に振り替える”って言われたら、別に怒らなくていい。よくあるから」
「それ、振り替えって言わんやろ」
「うん。でも向こうの人、真顔で “Don’t worry, we do happy change.” とか言うよ」
「ハッピーちゃうわ!」
結菜は脱力してベンチに座った。美里は水を飲みながら、スマホでフリータウンの天気を調べていた。表示されたのは、最高気温38度、湿度92%、雷雨マーク付き。
「天気、どう?」
「暑いね。たぶんずっと」
「もう、“暑い”が意味失いそうやな……」
そのとき、ようやく制服を着たスタッフらしき女性が現れ、手書きの名簿を机に広げた。ボールペンは自分で用意してね、というスタイル。美里が無言で筆記具を差し出すと、女性は「Good thinking」と笑った。
意味は……たぶん、「それ助かる」か「気が利く」みたいな感じだろう。結菜は、サイセイが“国際展開を見据えて”トルソーさんにも週1で通わせ始めた英語教室を、もうちょっと真面目に受けておけばよかったと、今さらながら思った。
第5章 熱と地雷と白い紙
到着ロビーのドアが開いた瞬間、湿気と土と排ガスが混ざった熱気が顔を打った。
ここは西アフリカ、シエラレオネ共和国の首都・フリータウン。
昼過ぎだというのに、空は鈍く、薄茶色がかった雲が低く垂れ込めている。
舗装された路面はまだらに剥がれ、アスファルトの上で犬が寝ていた。制服姿の誰かが、その横をスーツケースを引きながらまたいでいく。
「うわ……もう空気が重すぎる」
結菜が小さくつぶやくと、美里は横で、何の感慨もなく言った。
「気温38度。湿度90超えてる。たぶん地雷より蚊のほうが危ない」
「地雷ってぇー、そんなさらっと言う単語……?」
「この辺じゃありふれてるよ。まあ今日行く場所にはないと思うけど」
「“思う”はダメやろ……」
空港の駐車場脇には、白いバンが1台停まっていた。ボンネットの上にA4の紙がテープで貼られている。“WELCOME: W.SYNAPTIC TEAM”と、黒いマジックで手書き。少し滲んでいた。
「たぶん、あれだね」
運転席の男がこちらに手を振った。痩せ型で帽子を深くかぶり、笑ってはいるが目元は読めない。バンのドアを開けて、二人分の荷物を指で示すと、「Only two?」と訊いてきた。
「Yeah, just us. The others are remote.」
美里が淡々と返す。
「Ah, Japanese project. Very small. But okay.」
男は何やら納得したように頷き、トランクにスーツケースを投げ込んだ。
助手席のシートベルトは壊れていた。結菜は義手で留め具を挟むのに苦労しながら、窓の外を見た。ヤシの木と鉄のフェンスが交互に現れる。道路には段差が多く、車体が頻繁に跳ねた。
「ホテル……ちゃんとしたとこなん?」
「うん。NGOがよく使うビジネス用の宿。Wi-Fiは……部屋によってはある」
「“ある”じゃなくて“届く”って言いかたするやつやな、それ……」
「でも屋上でつながるって人もいたよ」
「屋上まで行かなあかんのか……」
宿は三階建てで、壁は薄いピンク色。正面のロビーには扇風機がひとつ。チェックインカウンターには誰もおらず、呼び鈴もない。しばらくすると奥からスタッフが現れ、「You are Japanese team?」と訊いてきた。
「Yes. From Saisei.」
美里が言うと、スタッフは紙のファイルを取り出して部屋番号を書いた。
案内されたのは二階のツインルーム。エアコンはあるが動かず、天井ファンが気まぐれに回っていた。バスルームのシャワーヘッドは紐で吊ってあり、タオルはタオルというより厚手の紙のような質感だった。
「これが……第一夜か……」
結菜は義手を外してベッド脇に置いた。金属のジョイントがかちんと乾いた音を立てた。
「この国の空気って、なんか濡れた段ボールの匂いするね」
「段ボールが正解かも。水と埃と熱気が全部残ってる」
「……ちょっと寝たら、すぐ朝になって、すぐ村行きとか、やめてな」
「うん。でも明日朝9時出発だから、起きてはもらうよ」
「やっぱ行くんやな……」
結菜はベッドの端で荷物を広げ、ジッパーつきの袋から携帯用の虫除けスプレーを取り出した。
「……これ、いると思って持ってきたけど、正解やったかもな」
「うん。夕方から蚊、増えるから。油断するとデング熱かマラリア、両方くる」
「それ、警戒すべき順番逆やろ……」
「私、昔カンボジアでデングやったけど、三日間の記憶飛んだよ。たぶん熱で夢の中ずっと泳いでた」
「なあ、美里さん。“異国の洗礼”ってそういう意味やないと思うんやけど……」
美里は枕元でファイルを開いた。A4の白い紙に、“DEMINING ZONE – KAKRI VILLAGE”と印字されている。その横に、小さく「partner observer」と結菜の名前が書かれていた。
結菜はそれを見て、深くは息をつかずにこう言った。
「やっぱ“地雷より蚊のほうが危ない”は、嘘やったな」
「うん。嘘だった」
