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【小説・ヴィーナス症候群】[255]一枚の写真から

生まれつき両腕のない女児、いわゆる「ヴィーナス児」の当事者団体「コルチカムの会」のサマーキャンプが裏磐梯で終わった。(245

翌週、事務局員の階上つばさのデスクには荷物の伝票と報告書の下書きが山積していた。
厚生労働省への申請書類、備品リスト、写真データ──身体は疲れていたが、頭だけが空転していた。

そんなとき、メールが一通届いた。

差出人は見覚えのない名前だった。件名は「祖母の記憶についてご相談」。

文面は、静かだった。

認知症の祖母が「もう一度行ってみたい場所がある」と話し出したのだという。
10年ぐらい前であることは覚えているらしいのだが、場所は不明で、記憶にあるのは「腕のない女性がドレスで写真を撮っていた」ことだけ。
その言葉を手がかりにネット検索を続けるうち、「トルソーさん」「ヴィーナス児」といった情報に辿り着き、当事者団体であるコルチカムの会に行き当たった──という経緯だった。

添付されたのは、逆光の室内写真。
大きなガラス窓の向こうに、白い建物と木々。
手前には短髪の女性が座っている。後ろ姿。
テーブルの上にはグラスと、型の古いスマートフォン。

写っているのは依頼者の祖母本人らしい。
けれど彼女の記憶に残っているのは、この場に立っていた別の誰かだったのだろう。

つばさは眉をひそめた。

(確かに“それっぽい”)

窓のフレーム、光の入り方、家具の質感。
高級ホテルか、あるいは洋館を改装した施設。
トルソーを立たせてドレス撮影するには向いている。
でも──それだけだった。

“腕のない人”というのは、ただの取っ掛かりにすぎない。
誰だったかではなく、「風景の中にそういう人がいた」ことだけが、強く印象に残っている──そういう記憶なのだと思った。

画面を切り替え、つばさは古いSNSアカウントにログインした。
かつてコルチカムの会をやめかけた時期(125)、トルソーに興味を持ち、作ったまま放置していた「トルコミ」のアカウント。(144

まだ生きていた。

写真を投稿し、短く書く。

「10年ほど前の撮影と思われます。場所に心当たりのある方がいれば、ご連絡ください」

反応はしばらくなかったが、夜になってぽつぽつとコメントがつき始めた。

「おお〜高級そうなとこですね」
「港町っぽい? 長崎かな」
「これ、Feliceの展示会じゃない?」
「なんかこの背中、雰囲気ある……」

見当もつかない感想ばかり。
つばさは苦笑してパソコンを閉じかけた。


そのとき、ひとつのコメントが届いた。

「これ神戸やろ? 北野の異人館やで。坂の途中にある洋館ホテル、撮影で使われとった」

文体でわかった。藪内蘭だった。(159

「昔の建物を改装したとこでな、2階の窓が特徴的やねん。
私も10年ぐらい前にそこでドレス着て撮られたわ。
この写真の人は私ちゃうけど、場所は覚えてる。この窓、ギギィって音するんよ」

蘭は元・トルソーの第1世代。今はトルソーを引退して故郷の大阪で働いているが、記憶の精度は相変わらずだった。

「上の階やけど、同じ建物やと思う。撮影の時も照明が足りひんて揉めとってな。
スタッフの子が氷水くれて、ええ子やったん覚えてるわ」

この“どうでもよさ”が妙に信頼できる。

つばさはそのまま、依頼者に報告をまとめた。

神戸・北野の異人館街にあるホテル。
現在も営業している歴史的建築で、撮影に使われることが多い場所。
当時、トルソーとして活動していた人の証言と照合した結果、
写真の場所は高い確度でそこだと思われること。

数日後、返信が届いた。

母が「神戸だったのね」と、ほっとしたように笑いました。
誰だったのか、何の撮影だったのかは、もう分からないけれど、
「風が気持ちよかった」とだけ、繰り返していました。
ご対応、本当にありがとうございました。

つばさはスマホを伏せて、パソコンを開いた。
報告書の提出締切までは、まだ一日ある。

誰が写っていたのかは問題ではなかった。
ただ、あのとき、そこにいた。
その風景を、誰かが忘れていなかった。

それだけで、十分だった。


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#一枚の写真から文芸賞

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