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【小説・ヴィーナス症候群】(159)河内のオバサンの唄 〜トルソーさん就労ガイドライン更新会議〜

第1章 準備と再会

いわゆる「トルソーさん」のガイドライン――正式には、「身体展示業務従事障害者に関する就労ガイドライン」。
でも、そんな名前で呼ぶ人はまずいない。会議の中でも資料の中でも、みんな「トルソーのガイドライン会議」で通っている。

主催は、ヴィーナス児の当事者団体「コルチカムの会」。年に一度、アパレルの現場での撮影や試着、展示の現場で起きがちな“グレーな問題”を言葉にして、ルールとして整理する。

中身はけっこう重い。たとえば――

「展示モデルとして働く障害者に、どこまで触れていいのか」
「声をかけずに目だけで指示してくるのは、業務命令として成立するのか」
「衣装が脱げかけてても、自分で直せない場合の対応はどうするのか」

──そんな“言葉にしにくい部分”を、あえて言葉にして、毎年アップデートしていく作業だ。

制度、現場、当事者、企業、役所、支援者。全部同じ机で向き合う、年に一度の現実調整会議。そして、その裏方を引き受けているのが──

「……うそ、もうお湯切れてんの?」

神田の会議室、電気ポットの前で立ち尽くした階上つばさだった。

冷水のボトルを義手で持ち上げ、空になったポットに慎重に注ぎながら、つばさは内心ひとつため息をついた。肩から伸びる金属の義手は日々使い慣れているけれど、こういう地味な作業ほど微妙な角度やバランスに気を遣う。こぼさないように注意を払いながら、反対の義手でタイマーをセットする。

照明がジリジリ鳴る年季ものの会議室で、空調、資料、出欠、議題、紙コップ、司会台本、湯沸かしまでぜんぶ彼女の仕事。コルチカムの会には元市役所の守実徹、元保健師の今諏訪善江といったベテラン職員もいるにはいるが、現場に出てこうして動いているのは、若くて、当事者で、常勤なのが自分ひとりだ。

(誰か褒めてくれてもよくない? 今日の私、5人分ぐらい働いてない?)

そう思いながらポットのふたを閉めたとき、勢いよくドアが開いた。

「よっしゃ〜、おはようさん。今年も来たで〜」

入ってきたのは藪内蘭。元トルソーで、東京での活動を終えてからは大阪に戻り、今はどこかの会社でOLをしているらしい。喋るだけで空気が関西に引きずられるような人で、毎年この会議に呼ばれている。

「蘭さん、早いですね」

「せやねん、書類片付いたし、リニアで爆睡してきたわ。品川でアイス食うてきたで」

「……会議前にアイスですか」

「ええやん、脳みそ動かすには糖分や。って、つばさちゃん顔しんどいで?」

「それは蘭さんに言われたくないです……」

蘭は手ぶらでスッと入ってきて、そのまま奥の席に座った。動きにムダがなくて、今もトルソーの立ち方が体に染みついているのがわかる。でもそれを一瞬でぶち壊すような喋りを、本人は気にしていない。

続いて、今度はドアが静かに開いた。

「おはようございます……」

白いブラウスにグレーのカーディガン、両肩からは丁寧に装着された義手。夜久野由美Felice専属トルソーで、今日の“現役代表”。身のこなしも義手の扱いも落ち着いていて、見る人が見ればわかる「ちゃんとした人」だった。

「由美ちゃん、お疲れさま。道、迷わなかった?」

「はい……だいたい慣れてますので。無事に着きました」

「おー、それならええわ。……て、あれ? 由美ちゃんって関西?」

「えっ……あ、はい。まぁ……ちょっとだけです」

「え〜もっと早よ言うてや! うち大阪の松原やで?」

「……うちは、あんま知られてへんとこなんですけど……丹波のほうで……」

「うわ、ええやん! なんか空気きれいそう!」

「鹿はよう出ますけど……空気は、まぁ……」

つばさは資料の束を抱えたまま、心の中でメモを取った。(あれ? 由美ちゃんも関西だったんだ……)(ていうか、関西二人いるだけで、もうこの空間、東京じゃないんですけど……)(私までイントネーション移りそうなんですけど……)

由美は義手の手先をそっと机に添えて着席。蘭もその隣に腰を下ろす。静と動が並ぶと空気が揺れる。そして今年もまた、ややこしくて、ちょっとおもしろい会議が始まる。

第2章 開会と混線

「それでは、始めます」

守実徹が資料をそろえながら口を開いた。元・市役所の福祉課長。今はコルチカムの会の事務局長として、こうした会議では常に中心に立つ。

「本日は、トルソー就労に関するガイドラインの改訂検討ということで、昨年度版をもとに、撮影・試着・展示現場における合理的配慮の具体化、それと“非言語的業務指示”に関する現場感覚を共有できればと思います」

紙のめくれる音が続き、空調の風が静かに机上をなでていく。
つばさは義手でタブレットを立ち上げ、議事録アプリのテンプレートを呼び出した。マグネット式のリング操作。片手でページ送り、もう片方で見出しを打つ。身体は慣れていても、内容には毎年違う緊張がある。

「まずは、現場経験のある当事者側から。夜久野さん、お願いします」

守実に促されて、夜久野由美が小さくうなずいた。

「はい……ピン打ちのとき、“声をかけていただけるかどうか”が……気になります。とくに背中の方に立たれて……無言でピンを打たれると、びくっとしてしまうことがあります」

声は静かで、ゆっくり。でも、言葉の芯はぶれない。
一瞬の“びくっ”がどれだけ全身を固めるか。わかる。
つばさはタブレットに、「接触の予告」「静止中の緊張」と並べて打ち込んだ。

「……やっぱり、声があると安心します」

守実が一度うなずき、次の発言者に視線を送る。

「ではブランド側からもご意見を。今回はRiaから、パタンナーの玉造史恵さんにご参加いただいています」

史恵はややゆっくりと顔を上げ、手元の資料を指先でなぞりながら話し出した。

「……初めまして。Riaでパタンナーをしている玉造と申します。こういう会議は初めてで……ちょっと勝手がわからないんですが、よろしくお願いします」

守実が柔らかくうなずく。史恵は、続けた。

「うちはガーリー系の服が多くて……あんまり“ピン打ちで止める”って現場じゃないんです。Feliceさんみたいなドレス系ブランドだと、仮縫いや撮影でピン多いですよね?」

由美がすっと姿勢を正す。

「……はい。撮影や仮縫いのときは、動けないことが多いです。ピンも、けっこうたくさん……」

史恵は一度うなずいてから言葉を続けた。

「うちは平面裁断が主で、布も軽めなんです。だから、うちの家久……家久綾音ちゃんって子がトルソーやってるんですけど、展示会とかSNS用の撮影とか、お客さんに服を見せる仕事が中心で。“じっと止まってピンを打たれる”って場面は、実はあまりないんです」

由美がうなずく。

「……たしかに……展示や接客では、動けるほうが……向いてますよね」

史恵は資料をとんと叩きながら、ほんの少し笑った。

「でも、今日のお話を聞いて、止まって服を見せるって、本当に大変だなって。うちはつい“次これ着てください”って流れ作業にしがちだから……反省というか、気づきが多いです」

その瞬間、別のリズムが飛び込んできた。

「そやねん、そやねん! そこやねん!」

藪内蘭。腕を組んだまま、身を乗り出してきた。史恵が驚きつつ、由美は目を瞬かせる。

「うちも昔、ドレス着せられてピン打ちされたまま“止まってて”言われてな、背中かゆいのに動かれへんねん。あれ地獄やで? ピン刺さってる服って、動いたらバランス崩れるし」


由美が、思わず声をもらす。

「……わかります……かゆいとき、ほんとに、どうしようもなくて……」

史恵は肩をすくめた。

「いや……うちはそういうの経験ないから……聞いてるだけで、背中ムズムズしてきますね……」

つばさは記録の手を止めずに、心の中でツッコミを入れていた。(また関西タイム入りました……由美ちゃんも引っ張られてる……)

守実が少しだけ口元をほぐして、前を向いた。

「ありがとうございます。今のような“声かけの有無”や“静止中の身体的負荷”も、非常に大切な論点です。では引き続き、現場別の対応事例をもとに整理していきましょう」

空調の風がふっと机上をなでた。紙の端が静かに浮いては落ちた。
制度の会議のはずなのに、聞こえてくるのは、現場の温度と声のかたちばかりだった。

つばさは静かに深呼吸し、指先を整えて次のページへ移った。

第3章 制度と沈黙

「ではここで、制度的な整理も含めて、畑山さんから補足をいただけますか」

守実の合図で、前方のテーブルに座っていた社労士の畑山が立ち上がった。
黒縁の眼鏡にグレーのスーツ。無駄な言葉は挟まず、淡々と喋ることで知られる人物だ。

「ありがとうございます。社労士の畑山です」

声は通るが抑え気味で、会議室の空気が少し引き締まる。

「先ほどから出ている“非言語的業務指示”についてですが、これは法的には“業務命令の形式”に関する問題になります。労使関係上、言語であっても非言語であっても、相手が業務指示と理解しうる場合には、基本的に命令として成立しうると解釈されます」

タブレットの画面上に、つばさは「指示の成立要件」と見出しを打った。
義手の指が静かにキーをなぞる。畑山の言葉の調子に合わせて、文章は淡々と整っていく。

「ですが、合理的配慮の観点からは、“理解しうる”ことと“身体的負担を伴わない”ことは、まったく別です。たとえば、視線だけで指示された場合、モデル側にとっては精神的圧力を伴うことが多く、これは配慮義務の観点で見直す余地があります」

会議室に、ふっと静かな間が生まれる。
誰も反論するわけではない。けれど、どこか微妙な沈黙だった。

つばさはその空気を感じ取った。
畑山の言っていることは正しい。けれど、現場でそれをどう使えばいいのか。
「理解できるかどうか」と、「傷つかないかどうか」は、たぶん別の話だった。

「……以上です。ご参考になれば幸いです」

畑山が腰を下ろすと、守実がすぐに補足に入った。

「ありがとうございます。では、そうした“形式として成立してしまう指示”が、身体的に負荷になっていないか――その見極めを、ガイドラインの中でどう書くべきかを検討したいと思います」

また紙がめくられ、何人かがペンを走らせる音だけが響く。
さっきまで笑い声すら出ていた会議室が、急に事務的な空気に切り替わった。

関西勢――蘭と由美は、ともに黙っていた。
蘭は腕を組んだまま背中を椅子に預け、由美は手元の資料をそっとめくっている。
それぞれの沈黙が、どこか浮いて見えた。

史恵が口を開こうとして、けれど、やめた。
代わりにボールペンをカチッと音を立てて引っ込めた。

つばさは議事録の空白を埋めながら、自分が今、“記録”ではなく“空気”ばかりを追っていることに気づいた。

制度の話になると、たしかに静かになる。
正しい言葉が並んで、でも、誰もそれに引っかかりを返せない。

(こういうとき、一番会議が止まる)

義手の指先が、タブレットの角に触れる。
止まっていた音が、またひとつ、静かに動き出した。

第4章 記録されないトラブル

「ではここで、実際のトラブル事例などがあれば、共有しておきましょう」

守実がそう言うと、間を置かずに藪内蘭が手を挙げた。

「あるある。ようさんあるわ、そういうの」

背もたれから身体を起こしながら、蘭は少し笑いながら話し始めた。けれど、その奥にはどこか、乾いたものがあった。

「うち、フリーでやってたときな、展示の撮影で“動かんといてください”って言われて、そのあと胸元のラインがどうとか、“もうちょい表情やわらかく”とか、“目線こっち”とか……そういうこと言われてな」

夜久野由美が首をかしげる。

「……水着とか、特殊な案件じゃなくて?」

「ちゃうちゃう。春物のシャツとスカート。ようある“ふんわり系”のやつや。“爽やかに”って雰囲気だけで、あとは空気よ。“その顔じゃ使えへんな”って、誰も言わへんけど思ってるのが伝わる」

会議室に、ふっと沈黙が走る。

「で、“それはモデルさんにお願いしたほうがいいかと”って言うたら、“でも着てもらってるんですよね?”って返された。うちは、“トルソーとして”立ってるだけやのに」

由美がそっと問いかける。

「……それ、どうしたんですか?」

「笑って流した。止めてもよかったけど、止めたら空気悪うなるやろ? “めんどくさいやつ”って思われんのも嫌やったし。でもな、今思えば、あれ仕事ちゃうかった。トルソーの仕事は“服を見せる”ことで、“気持ちを見せる”ことちゃうねん」

由美は少し黙ってから、静かに答えた。

「……私、“目線ください”とか、“もう少し明るく”って言われることはあります。でも……私は、まあ、それくらいならって思って、応じてました」

蘭はうなずく。

「そやねん。みんな“それくらい”って思う。でもな、それ積み重なったら、いつの間にか“モデル的なこともやって当たり前”って空気になるんよ。“やってくれる子”って思われたら終わりや」

由美は少し驚いたような顔をしたが、何も返さなかった。ただ、わかる気がした。

そのとき、史恵が控えめに口を開いた。

「……うちでも以前、撮影に立ち会ったとき、カメラマンが“もっと服が生きるようにして”って言ってて。トルソーの綾音に向かって、“目が死んでる”って。悪気はないんだろうけど……聞いた瞬間、“あ、それ表情で服を補わせようとしてるな”って思いました」

言い方は穏やかだったが、そこに混じっていたのは、服づくりに携わる者としての冷静な違和感だった。

「まあ、服がメインっていうのは、たしかにそうなんですよね。Riaでも、どう見えるかが第一で……。だから“ちょっとだけ何かしてほしい”って、つい言いそうになる。でも、“しゃべらないなら目で”とか、“動かないなら雰囲気で”とかって……それ、よく考えると、かなりグレーですよね」

つばさは、「演技指導の境界」「表情による補完の錯覚」とメモを打ち込みながら、その指を一瞬止めた。

──服のため、の言い訳。

──“少しだけ”の押しつけ。

──記録されない、されなかった、これまでの全部。

守実が小さくまとめに入る。

「……こうした状況は、現場では文書にも報告にも残っていないケースが多いと思われます」

「されへんよ。うちもせんかったし」

蘭はあっけらかんとそう言ったが、言葉の裏にあるものは、きっと全員がわかっていた。

つばさは静かにタブレットの保存ボタンに指をかけた。
義手の操作音がひとつ、乾いた会議室に鳴った。

それは、誰も書き残してこなかった話が、初めて“残された”瞬間だった。

第5章 会議のあとで

「……それでは、以上をもちまして、本日の会議を終了いたします。皆さま、ご協力ありがとうございました」

守実徹の閉会の挨拶が静かに終わると、会議室の空気がふっと緩んだ。
椅子のきしむ音、水の残った紙コップ、ゆっくり立ち上がる人の気配。
会議が終わるというのは、必ずしも静かになることじゃない。むしろ、ざわざわと現実が戻ってくる合図だった。

つばさは、義手でペットボトルのキャップを締め、机の上の資料を集めていた。
打鍵はもう終わっていたけれど、身体はまだ“議事録モード”から戻ってこない。

「ふーっ、しゃべったしゃべった」

藪内蘭が大きく息をついて立ち上がる。その声に、夜久野由美が小さく笑った。

「……今年も、元気ですね」

「そらもう、しゃべらなやってられへんて。特に制度の話はな、黙ってたら負けや」

由美がバッグを肩にかけながら、ふと尋ねた。

「……あの、蘭さんって、今は大阪なんですよね?」

「そやで。実家戻って、今は普通に働いてるわ。なんや言うて、OLやな」

「えっ……吉本とかじゃないんですか?」

「ちゃうちゃう! 近畿電気保安協会ゆう、真面目な会社やで。電気設備の点検スケジュール組んだり、報告書作ったり、雑談したり……」

「雑談……も?」

「うちの部署な、空気悪なったら感電するって言われてんねん。せやから、うちが保安してるんや。空気のな」

由美がきょとんとした顔で聞き返す。

「……それ、保安協会の仕事ですか?」

「そやねん。重要な保安業務でな……って、何言わすねん!」

由美が肩を震わせて笑う。つばさもつられて、ふっと息を漏らす。

いつものように――というには少しだけ、空気が違っていた。
誰かが何かを言い切ったわけじゃない。でも、それでも“残った”感じがあった。

「つばさちゃんも、よう働くわ。全部記録してくれてたんやろ?」

「まあ……一応。でも、記録しても動かないものは動かないですから」

「うまいこと言うなあ!」

蘭が笑いながらエコバッグを肩にかける。由美も「ほんとですね」と言って、紙資料を丁寧にファイルに収めた。

会議室のドアが開く。外の空気が、少しだけ乾いていた。

「ほな、また来年」

蘭が手を振るように言ったその言葉が、案外すっと馴染んだ。
来年もここで誰かが喋る。誰かが笑って、誰かが傷ついたまま来るかもしれない。
でも、誰かが来てくれたら、たぶん、それでいい。

つばさはタブレットの電源を落とし、使用済みの紙コップをまとめながら、心のなかでひとつだけ思った。

言葉にするって、ほんとうに面倒くさい。
でも、言葉にされたことだけが、残るのだ。

そういうふうにして、今日も何かが残った気がした。

了。

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