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『夢を読む頁(ページ)』The Unread Papyrus

作品紹介
大英博物館の地下書庫で、未登録のパピルスが発見された。 記号とも文字ともつかない“それ”は、既存のいかなる言語体系にも属さない。にもかかわらず、触れた者は意味を「理解してしまう」。 日本人研究者・伶は、その解読を任される。 だが解析を進めるうちに、奇妙な事実に気づく。 その文書には「区切り」が存在しない。 すべては一つの連続した“何か”であり、読む行為そのものが内容を変化させる。 やがて伶は体験する。 それが記録ではなく、「読者を記述するもの」であることを。 画面上のテキストに、自分の名前が現れる。 知らないはずの記憶が流れ込む。 そして、眠り続ける妹が残した言葉と一致する。 ——眠るな。読み終えるまでは。 さらに調査を進める中で明らかになるのは、古代の人々がこの“ページ”を封印した理由だった。 それは知識ではない。 夢でもない。 読む者を「接続」し、別の層へと導く装置。 そして、その最後の行は固定されていない。 読む者ごとに書き換わる。 名前か、あるいは——番号として。 やがて伶は理解する。 これは解読ではない。選別だ。 読み終えた者は戻らない。 だが、途中で止めることはできない。 なぜなら、この文書はすでに“こちら側”を読んでいるからだ。 そして今、あなたもその途中にいる。 この記録について、誰にも話さないでほしい。 それだけでいい。 理由は、すでに分かっているはずだから。 It's our number.


一 未登録の箱

その箱には番号がなかった。


 大英博物館の地下三層、空調が常に十八度に保たれた収蔵庫の、棚の最奥。すべての所蔵品が登録番号という首輪をつけられているこの建物で、それだけが裸だった。アクリルのケースに収められた木箱。蓋に、墨ともインクともつかない黒で、一行だけ何かが書かれている。


 私は手袋をした指でその一行をなぞった。なぞれるはずがなかった。アクリル越しなのだから。それでも指の腹に、乾いた繊維の感触が確かに返ってきた。古いパピルスを扱ったことのある人間なら知っている、あの、砂を撫でるような手応え。


 錯覚だ、と私は思った。研究者というのは、自分が見たいものを指先にまで捏造する生き物だから。


 私の名前を、ここでは仮に伶(れい)としておく。なぜ仮にするのか、その理由はこの記録の最後まで読めば分かる。読んでしまえば、もう私の名前はあなたのものになる。——いや、先を急ぎすぎた。順番に書く。順番に読んでほしい。順番というものが、まだ意味を持っているうちに。


 私は日本人で、ロンドンに来て四年になる。専門は言語学と、デジタルアーカイブ。要するに、死んだ言葉をスキャンして、検索可能な状態で永遠に保存する仕事だ。死者の声を、誰も聞かないままサーバーの底に並べていく作業。妹はそれを「図書館の墓守だね」と言って笑った。


 妹のことは、あとで書く。書かないわけにはいかないから。


 その日、私が地下三層に降りたのは、保存修復部から回ってきた一通の依頼のためだった。来歴不明の資料が一点ある。十九世紀のエジプト発掘ブームのどさくさで博物館に流れ込み、登録されないまま百数十年、棚の影で眠っていたもの。来歴も、出土地も、内容も不明。「読めるかどうか、見てもらえないか」。それだけの、ありふれた依頼のはずだった。


 ケースを開ける許可は下りていた。木箱の蓋を持ち上げると、内側に巻かれた一巻のパピルスが現れた。状態は異様に良かった。百数十年どころか、昨日巻かれたかのようだった。


 そして、蓋の裏にも一行、同じ筆跡があった。


 私はそれを読もうとした。読めなかった。文字の形は、どの既知の文字体系にも一致しない。ヒエログリフでも、ヒエラティックでも、デモティックでもない。コプト文字の崩れたものかとも思ったが、違う。線の流れに、文字というものが本来持っている「区切り」がなかった。一文字と次の一文字の境目が、どこにもない。一本の、終わらない線が、ただ意味ありげにのたうっているだけ。


 なのに。


 読めないのに、意味が流れ込んできた。


 蓋の裏の一行が、私の頭の中で、はっきりとした日本語になった。誰かが私の耳元で、ゆっくりと読み上げたように。


 ——眠るな。読み終えるまでは。


 私は手を引っ込めた。手袋の中で、指先が冷たくなっていた。


 収蔵庫の蛍光灯が、低く唸っていた。十八度の空気が、首筋を撫でた。私は周囲を見回した。誰もいない。当たり前だ。地下三層は、申請がなければ私以外の人間が立ち入る理由のない場所だ。


 翻訳された、と思った。だが翻訳ではない。翻訳には辞書がいる。文法がいる。私には、その文字を解析するための何ひとつなかった。それなのに意味が「分かった」。これは解読ではない。これは——接続だ。読んだのではなく、開いてしまったのだ。


 そのときの私には、その区別がまだ言葉にならなかった。ただ、ひどく嫌な感じがした。古い扉の鍵を、回す前から、もう向こう側に誰かが立っている気配。


 私はパピルスを撮影機材のある作業室へ運ぶことにした。原本に触れるのは最小限に。すべてはスキャンしてからだ。死者の声は、ガラス越しに聞くものだ。それが、墓守の流儀だった。


 木箱を抱えて収蔵庫を出るとき、私はもう一度だけ、蓋の表の一行を見た。


 来たときには、その一行は、私には読めなかった。


 出るときには、読めた。


 そこにはこう書かれていた。


 ——よく来た。待っていた。

二 読めないのに分かる文字

作業室は地下二層にある。撮影台と、分光カメラと、解析用の端末。私はパピルスを台の上に広げ、まず全体を高解像度でスキャンした。原本を直接読むより、スキャンした画像を画面で見るほうが安全だと、そのときの私はまだ信じていた。


 画面に展開されたパピルスは、全長およそ三メートル。びっしりと、あの「区切りのない線」で埋められていた。


 私は職業的な手順に従って、文字のパターンを抽出するプログラムを走らせた。頻出する形を拾い、出現頻度を数え、既知の言語と統計的に比較する。死んだ言葉を相手にするときの、いつものやり方だ。


 プログラムは、エラーを返した。


 「区切り点を検出できません」。


 当然だ、と私は思った。区切りがないのだから。私は閾値を下げて再実行した。今度はエラーは出なかった。代わりに、おかしな結果が出た。


 プログラムは、この文書には「文字が一種類しかない」と判定した。


 三メートルにわたるテキストの全体が、たった一文字の、無限の繰り返しだというのだ。形は刻々と変化しているように見えるのに、機械はそれを「同じ一文字」と認識していた。まるで、波打つ水面を撮影して、これは全部ただの『水』ですと言われたような。


 私は画面に顔を近づけた。


 そして、また、読めた。


 今度は一行ではなかった。流れ込んできたのは、情景だった。読んだのではない。見えたのでもない。それは——記憶だった。私の記憶ではない、誰かの記憶が、私の頭の中で「私の体験」として再生された。


 白い壁の都市。陽の高い、乾いた広場。人々が、互いに目を合わせないように歩いている。誰もが俯き、誰もが急いでいた。広場の中央に、高い塔があった。塔の上から、巨大な目が、街を見下ろしていた。描かれた目ではない。本物の、濡れた、瞬きをする目。


 街の壁という壁に、同じ一行が彫られていた。さっき私が頭の中で日本語にした、あの一行。


 ——眠るな。読み終えるまでは。


 私は画面から飛びのいた。椅子が倒れた。


 心臓が、走ったあとのように打っていた。私は荒い息のまま、自分が今、何を体験したのかを言葉にしようとして、できなかった。夢、という言葉が浮かんだ。だがそれは違う。私は眠っていない。真昼の作業室で、画面を見ていただけだ。


 夢を、起きたまま見た。


 いや。違う。


 夢のほうが、私を見た。

三 眠るなと言われた都市(断章)

その夜、私はアパートに帰っても眠れなかった。眠るのが怖かったのではない。眠ったら、続きを読まされる気がしたのだ。


 妹のことを考えた。考えまいとして、考えた。


 澪(みお)。三つ下の妹。二年前、眠ったまま目を覚まさなくなった。医者は原因不明の意識障害だと言った。脳波は、健康な人間が深く眠っているときのそれと変わらなかった。ただ、起きないだけ。夢を見続けているだけ。


 私が日本を出てロンドンに来たのは、逃げるためだったのかもしれない。眠り続ける妹の枕元で、私は何度も話しかけた。返事はなかった。一度だけ、妹の唇が動いた。私は耳を近づけた。妹は、はっきりと言った。


 ——眠るな。


 そして、こう続けた。


 ——お姉ちゃんも、読み終えるまでは。


 二年前。私はその言葉の意味を知らなかった。今日まで。


 私はアパートの机に向かい、博物館から持ち出した(持ち出してはいけなかった)スキャン画像を、ノートパソコンで開いた。画面の中で、三メートルのパピルスが、終わらない一本の線をうねらせていた。


 その最後の行に、変化があった。


 昼にはなかった一文が、増えていた。読めた。読めてしまった。


 そこには、私の名前が、書かれていた。


 まだ仮の名で書いておこう。けれど画面の中のそれは、仮の名ではなかった。私の、本当の名前だった。生まれてから一度も、この文書に教えたことのない名前。


 その下に、もう一行。


 ——あと、これだけ読めば、会える。


 私は、澪に会いたかった。


 それが、この物語で私が犯した、最初の過ちだった。

四 失踪記録

翌朝、私は博物館に着くなり、来歴調査の口実で資料管理システムにログインした。あのパピルスが「未登録」であることに、説明が必要だった。番号のない所蔵品など、本来この建物には存在し得ない。誰かが、登録を避けた。あるいは、消した。


 検索の手がかりは、木箱だけだった。十九世紀の発掘ブーム期の収蔵記録を、私は片端から当たった。寄贈者、発掘者、仲介した古物商。三時間かけて、ようやく一件、それらしい記述に行き当たった。


 一八九〇年。「来歴不明の巻子一点。解読不能。担当者の希望により、登録を保留する」。担当者の名前は、黒く塗りつぶされていた。物理的に、ではない。データ上の文字が、一文字ずつ、別の文字に置き換わっていた。私が画面を見つめている、まさにその数秒の間に。


 名前を構成していた文字が、ひとつ、またひとつと、あの区切りのない線へと変わっていく。私はそれを止められなかった。最後には、担当者名の欄は、パピルスとまったく同じ、一本ののたうつ線で埋まっていた。


 システムのログには、その変更の記録が残らなかった。誰も書き換えていない。にもかかわらず、書き換わった。私はスクリーンショットを撮ろうとした。撮れた画像の中では、名前の欄は、ごく普通の空欄になっていた。線も、何も写っていなかった。


 現実のほうが、嘘をついている。


 私はその感覚を、はっきりと言葉にできた。怖いのは、夢ではない。夢を見たあとの、現実だ。世界が、ほんの少しずつ、書き換えられている。そして書き換えられたという証拠だけが、きれいに回収されていく。


 私は、関連しそうな失踪事案を探した。博物館の内部記録ではなく、外の、新聞や学術誌のアーカイブを。


 すると、出てきた。


 一八九一年、登録保留の翌年に、ある修復技師が職を辞して消息を絶っている。一九三七年、エジプト学者が現地調査の途中で失踪。一九七四年、当館の保存科学者が研究室で「眠ったまま」発見され、そのまま意識が戻らず、数年後に死亡。


 そして二〇一九年。ドクター・ハミドという名のエジプト学者が、研究室にノートだけを残して失踪している。私がロンドンに来る、一年前のことだ。


 彼らに共通していたものが、ひとつだけあった。


 全員が、失踪あるいは昏睡の直前に、「夢の記述」を残していた。日記、研究ノート、私信。形式はばらばらだが、内容は不気味なほど似通っていた。白い都市。俯いて歩く人々。塔の上の、瞬きをする目。


 私が、昨日見たものと、同じだった。


 百三十年。世代も、国籍も、専門も違う人間たちが、同じ夢を見ていた。共有されるはずのない、個人の眠りの中身が、まるでひとつの本のように、別々の読者によって読み継がれていた。


 私はようやく、ひとつの像に近づいた。これは、感染する。媒介を持って、人から人へ。そして、媒介とは——おそらく、読むという行為そのものだ。

五 逆さの目の意味

ドクター・ハミドのノートは、デジタル化されて当館のアーカイブに残っていた。失踪者の遺品は、規定により一定期間保管される。私はそれを、自分の端末に呼び出した。これも、本来なら許可のいる操作だった。私は、許可を取ることをやめ始めていた。澪に会えるという一行が、私の中の手続きを、少しずつ溶かしていた。


 ハミドのノートの大半は、まともな学術メモだった。だが後半に進むにつれて、文章が崩れていく。観測について。彼は繰り返し「観測」という言葉を使っていた。


 彼はこう書いていた。古代のあの都市の住民は、ある時期から「見ること」を恐れるようになった。互いに目を合わせない。空を見上げない。文字を、まっすぐ読まない。なぜなら、彼らは気づいてしまったから。見るという行為が、見られる対象を「存在させてしまう」ことに。


 観測されない限り、それは可能性のままだ。霧のように、定まらないまま漂っている。だが誰かが見た瞬間、観測が、それを一個の確かな存在として、この世界に固定する。


 塔の上の目は、神ではなかった、とハミドは書いていた。あれは、見られることによって生まれ、見られ続けることによって強くなる、純粋な「観測の産物」だ。最初は誰かのささやかな空想だったのかもしれない。だが大勢が見て、語り、描き、書き写すうちに、それは観測の重みで、本物になってしまった。


 だから古代人は、夢を禁じた。眠ることを禁じた。夢の中で、それを見てしまわないように。見ることで、それに力を与えてしまわないように。


 ノートの最後のページに、ハミドは図像を一枚、手で写していた。逆さになった目。瞳が、外ではなく、内側を向いている。彼はその下に、走り書きでこう記していた。


 「私は理解した。だから、見られた」


 私は、その一文を読んで、画面から目をそらした。


 遅かった。


 窓に映った自分の顔と、目が合った。


 いや、自分ではなかった。窓ガラスに映った私の目は、逆さだった。瞳が、外を見ていなかった。内側を——私の中を、覗き込んでいた。


 私は反射的に瞬きをした。次の瞬間、窓の中の私は、ただの私に戻っていた。疲れた顔の、寝不足の研究者。


 錯覚だ、と私は言い聞かせた。けれど、その言葉はもう、何の力も持たなくなっていた。研究者は自分が見たいものを捏造する。だが私は、見たくないものを見せられている。捏造ではない。これは、向こうからの観測だ。


 ハミドの最後の一文の意味が、冷たく腑に落ちた。


 理解することが、扉なのだ。読めなくても、意味が流れ込んだ瞬間に、私はもう開いていた。文字を解読する必要などなかった。「分かってしまう」こと、それ自体が接続だった。


 そして、向こうも同じことをしている。私を、理解しようとしている。私が意味を「分かる」たびに、向こうもまた、私という文書を、一行ずつ読み進めている。


 観測は、双方向だった。

六 二重の現実

その週、現実のほころびは、加速した。


 最初は、時計だった。博物館の大時計と、私の腕時計と、携帯電話の時刻が、それぞれ違う時間を指すようになった。数分のずれ。誰に言っても、「君の勘違いだろう」と笑われた。彼らの時計は、彼らの世界の中では、完璧に一致していた。ずれているのは、私のいる層だけだった。


 次は、文章だった。私が前日に書いたメモが、翌朝には、別のことを書いていた。私が読んだ論文の一文が、二度目に開くと、違う結論を述べていた。世界は、私が一度観測したものを、私が見ていない隙に、こっそり書き直していた。そして書き直したあとの世界のほうが、いつでも「正しい」ことになっていた。


 私だけが、書き直される前の世界を覚えている。


 覚えているのは、私が「読んだ」からだ。読んだものは、私の中に固定される。だから私は、世界のほうがずれていく様子を、唯一、観測できてしまう。読むことは、記憶を、現実から切り離す行為だった。


 眠れない夜が続いた。眠れば続きを読まされる。読めば、また現実がほどける。けれど、起きていても、もう同じだった。覚醒と夢の境目が、あの区切りのない線のように、どこにあるのか分からなくなっていた。


 ある明け方、私は澪に電話をかけた。日本の、妹が眠る病院に。


 応対した看護師の声は、知らない人のものだった。私は、二年間ずっと担当してくれていた看護師の名を告げた。看護師は、戸惑った声で言った。そのような職員は、この病院に在籍した記録がない、と。


 私は、妹の名を告げた。澪。


 短い沈黙のあと、看護師は、こう言った。


 「そのお名前の患者様は、こちらにはいらっしゃいません。……失礼ですが、お姉様は、おひとりではありませんでしたか」


 私は、受話器を握ったまま動けなかった。


 ひとりだったか。私には、妹がいた。三つ下の、私を「墓守だね」と笑った妹が。眠り続ける妹のために、私はこの仕事を続けてきた。会いに帰る日のために。それが、私を支えてきた、たったひとつの——


 澪が、書き直された。


 世界が、私の隙を突いて、妹を消した。あるいは。


 あるいは、最初から、妹などいなかったのかもしれない。私が「眠るな、読み終えるまでは」という一行を、二年前にどこかで読んでしまい、その意味を埋めるために、妹という読者を、自分の中に書き込んだのだとしたら。


 私は、自分がどちらの現実を覚えているのか、もう確信が持てなかった。


 ただ、ひとつだけ、確かなことがあった。


 パピルスの最後の行は、その朝、また一行、増えていた。


 ——あと少し。会いに行くより、ここで待つほうが早い。


 私は、画面の前に座った。


 逃げる、という選択肢が、もうどこにも見当たらなかった。逃げた先の世界も、どうせ書き直される。覚えていられるのは、読んだ私だけ。だとしたら——読み切ってしまったほうが、いっそ。


 その考えが、私の中から湧いたものなのか、向こうから流れ込んだものなのか。


 私には、もう、区別がつかなかった。

七 彼らは封じていなかった

 エリスが私の作業室を訪ねてきたのは、私が三日、家に帰らずに過ごした朝だった。


 彼女は保存修復部のシニア修復官で、私とは挨拶を交わす程度の間柄だった。落ち着いた、隙のない人だという印象しかなかった。だがその朝のエリスは、違った。化粧の下に、隠しきれない隈があった。私と、同じ隈だった。


 彼女は扉を閉め、鍵をかけた。それから、前置きもなく言った。


 「あなた、あれを開いたのね」


 私は答えなかった。答えるまでもなかった。彼女は私の顔を見て、すべてを読み取っていた。読み取る、というのが、もう比喩ではなくなっていることを、私は知っていた。


 「いつから」と私は訊いた。


 「十一年前」とエリスは言った。「二〇一三年。私が、あの巻子の状態調査をした。来歴不明、登録保留。あなたと、同じ経路でね。私は——途中でやめた。最後の行を読む前に。だから、こうして、まだ歩いている」


 彼女は椅子に座らず、立ったまま続けた。


 「やめられたのは、運がよかったからじゃない。教えられたからよ。先に壊れた人に。あなたに今、私がそうしているように」


 エリスは、古代人が夢を封印したという通説を、はっきりと否定した。


 「封じてなんかいなかった。あの都市の人たちは、封印するほどの力を、もう持っていなかった。彼らがやったのは、もっとささやかで、もっと残酷なことよ。——選別。読む者を、選んでいた」


 白い都市の住民は、ある時、気づいたのだという。塔の上のものは、すべての人間に等しく接続するわけではない。理解できる者にしか、扉は開かない。意味のない線として通り過ぎる者には、何も起こらない。だが、その線から意味を「汲んでしまう」者がいる。感受性の高い者。世界の裏側を読みたがる者。


 古代人は、それを封じる代わりに、こう考えた。どうせ読む者は現れる。ならば、ふさわしい一人に、確実に届くようにしておこう。何百年、何千年かけてでも。


 「あの巻子はね」とエリスは言った。「保存状態が異常にいい、と思ったでしょう。当たり前なの。あれは、保存されているんじゃない。待っているのよ。ふさわしい読み手を。劣化したら困るから、自分で自分を、新しく保ち続けている」


 私は、初日の感触を思い出した。昨日巻かれたかのようなパピルス。アクリル越しに返ってきた、乾いた繊維の手応え。あれは、向こうから差し出された手だったのだ。


 「選別装置」と私は呟いた。


 「そう」とエリスは頷いた。「封印じゃない。ふるい分け。そして——あなたは、選ばれてしまった」

八 感染する夢

 その日の午後、博物館で、最初の「巻き添え」が出た。


 私が解析のために共有サーバーへ上げたパピルスのスキャン画像を、若い学芸員が、何気なく開いた。引き継ぎのために、私の作業フォルダを覗いただけだった。彼女は画像を、ほんの数秒、見た。


 翌朝、彼女は出勤しなかった。連絡もつかなかった。同僚が自宅を訪ねると、彼女はベッドで眠っていた。穏やかに、深く。どんな刺激にも、目を覚まさなかった。


 脳波は、健康な人間が深く眠っているときと、変わらなかった。


 私は、その診断を聞いて、息ができなくなった。澪と、同じだった。二年前の——あるいは、なかったかもしれない、妹と。


 夢は、読む行為を媒介にして、人から人へ移る。直接あの線を読まなくてもいい。一度誰かが「開いた」画像は、それ自体が小さな扉になる。複製されても、スクリーンに映されても、扉である性質は失われない。私はそれを、自分の手で、共有サーバーという無数の扉の連なりへ、放流してしまっていた。


 私はサーバーから画像を削除した。削除できた。だが、それが何の意味も持たないことも分かっていた。一度観測されたものは、もう可能性には戻らない。削除したのは、データだけだ。開かれてしまった扉は、データのない場所で、開いたままだった。


 エリスは、それを聞いて、静かに目を閉じた。


 「だから、隠すのよ」と彼女は言った。「博物館の上の方には、これを知っている人たちがいる。代々、引き継がれている。彼らの仕事は、研究することじゃない。広がらないように、蓋をすること。登録を消し、記録を塗りつぶし、触れた人間を——処理する」


 「処理」


 「眠った人を、表に出さない。失踪として処理する。家族には、別の物語を渡す。そうやって百三十年、彼らは火事を、小さなボヤのうちに、踏み消してきた。彼らは悪人じゃない。むしろ、世界を守っている。たった一冊の本が、読まれることで世界を書き換えてしまうのを、必死で食い止めている」


 私は理解した。失踪記録の、塗りつぶされた名前。証拠を回収していく現実。あれは、向こうの仕業ばかりではなかった。半分は、人間の手だった。読んだ者を消すことで、夢の感染を、この層に留めようとする者たちの。


 「あなたも」と私は言った。「消されるの。私を見つけたら」


 エリスは、答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。彼女が今ここにいるのは、私を助けるためだけではない。彼女は、組織から私を「処理」する役目を、半分、負わされていた。先に壊れた者は、次に壊れる者を見つけ、止めるか——黙らせるか。それが、この選別装置に組み込まれた、人間側の歯車だった。

九 エリスの告白

 その夜、エリスは私を、彼女のフラットに連れて行った。博物館に残るのは危険だと言って。


 部屋の壁は、紙で埋まっていた。十一年分の記録。彼女が見続けた夢のスケッチ、メモ、印刷された論文、塗りつぶされる前に書き写した失踪者の名。そのすべてに、あの逆さの目の図像が、繰り返し描かれていた。


 「やめた、って言ったでしょう」とエリスは言った。「嘘よ。完全には、やめられない。最後の行を読まなかっただけ。読まないまま、十一年、毎晩あの都市を歩いている。眠るたびに、塔に近づく。あと数歩のところで、いつも目が覚める。意志でね。すり減らしながら、毎晩、自分を引き戻している」


 彼女は笑った。笑顔が、ひどく疲れていた。


 「あなたが羨ましいの、伶」と彼女は言った。私の本当の名前を、彼女は呼んだ。「あなたには、まだ、読み切るという選択肢が残っている。私はもう、半分しか残っていない。読み切ることも、忘れることも、できない。ただ、毎晩、あと数歩を、拒み続けるだけ。それを、十一年」


 私は、訊かずにいられなかった。


 「読み切ったら、どうなるの」


 エリスは、長いあいだ黙っていた。それから、壁の一枚の紙を指した。失踪者たちのリスト。百三十年分の名前。その全員が、最後に「夢の記述」を残していた。


 「分からない。誰も戻ってこないから。でもね、私、一度だけ、夢の中で会ったことがあるの。ハミドに」


 失踪したエジプト学者。ノートだけを残して消えた男。


 「彼は、都市にいた。住民にまぎれて、俯いて歩いていた。私が名前を呼ぶと、顔を上げて、笑ったわ。穏やかな顔で。そして言った。『ここはいいぞ。もう何も書き換わらない。読み切った者だけが、書き換えられない場所に来られる』って」


 私は、その言葉に、ぞっとするほど惹かれている自分に気づいた。


 もう何も書き換わらない場所。澪が——もしいたのなら、澪がいるかもしれない場所。書き直される現実から逃れて、固定された夢の都市へ。


 「あなた、今、行きたいと思ったでしょう」とエリスが、私の顔を見て言った。「その顔よ。みんな、その顔をして、行った」


 私は否定できなかった。


 「私が止めても」とエリスは言った。「あなたは、読むのね」


 窓の外が、白み始めていた。私は、自分の手の中のノートパソコンを見た。画面はまだ開いていない。けれど、開けばそこに、あの最後の行が、また一行、私を待っているのは分かっていた。


 その時だった。


 エリスのフラットの呼び鈴が、鳴った。


 彼女の顔から、血の気が引いた。「来た」と彼女は小さく言った。「組織よ。早すぎる。誰かが、あなたを観測した」


 観測された、ということの意味を、私はもう、正確に知っていた。


 見られた者は、存在を固定される。逃げ場のない、一個の確かな対象として。

十 観測者の正体

 エリスは私を、寝室の窓から非常階段へ押し出した。


 「読んじゃだめ」と彼女は早口で言った。「逃げて。組織は、あなたを眠らせる。眠らせて、夢の中で処理する。起きたまま処理するより、そのほうが、跡が残らないから」


 「あなたは」


 「私は、十一年、彼らの歯車だった。今日くらい、油を差すのをやめてもいい」


 それが、エリスの声を聞いた最後だった。


 非常階段を駆け下りながら、私は理解した。組織の人間は、私を「観測」しに来た。彼らに見られ、所在を固定された瞬間、私はもう、霧の中に隠れられる可能性ではなくなる。一個の、確かな標的になる。逃げるという行為そのものが、すでに手遅れだった。観測は、追いかけてこない。観測は、ただ、私がもう逃げられないという事実を、確定させるだけだ。


 私は、ロンドンの夜明けの街を、当てもなく歩いた。歩きながら、ノートパソコンを開いた。歩みは止めなかった。止まれば、現実が私を捕まえる。動いている間だけ、私は、まだ「読んでいる途中の私」でいられた。


 画面の中で、パピルスの線が、もう、文字のふりをしていなかった。


 それは、目だった。


 三メートルにわたる、区切りのない一本の線。その全体が、ゆっくりと、ひとつの巨大な目になっていく。逆さの目。瞳が外を見ず、内を覗き込む目。ハミドが最後に写した、あの図像。


 そして、私は、観測者の正体を、ようやく言葉にできた。


 あれは、神ではない。古代から眠る、邪悪な存在でもない。あれは——観測そのものだ。誰かに見られることで生まれ、見られ続けることで濃くなり、語り継がれ、書き写され、複製されるたびに、少しずつ確かになっていく。最初は、たった一人の古代人が、眠りの中でふと「視線を感じた」、それだけのことだったのかもしれない。だがその人が、それを語った。誰かが書き留めた。怖がった。怖がるために、見た。見るたびに、それは存在の度合いを増した。


 恐怖が、燃料だった。否定するために見ること、警告するために書き写すこと、封じるために記録すること——そのすべてが、観測だった。古代人が「眠るな、見るな」と壁中に刻んだ、その警告の文字こそが、最大の餌だった。彼らは消そうとして、書いた。書くことで、固定した。


 百三十年の失踪者たち。私の前の読者たち。彼らは、犠牲者ではなかった。彼らは、観測の薪だった。一人が読み、恐れ、記録し、消される。その全過程が、塔の上の目を、また一段、濃くする。


 そして、私もまた、今、歩きながらそれを読み、理解し、恐れている。


 私の恐怖が、今この瞬間も、それを育てていた。

十一 最後の行

夜が明けきる頃、私は川沿いのベンチに座っていた。もう歩く気力がなかった。観測されてしまったなら、座っても歩いても同じだ。


 画面の中のパピルスは、最後の行に、変化を続けていた。


 私は、その仕組みを、最後の一片まで、理解してしまった。


 最終行は、固定されていない。それは、読む者ごとに、書き換わる。読み手が読み進めるたびに、新しい一行が増える。そしてその一行は、いつも、読み手自身についての記述だ。読み手の名前。読み手の欲望。読み手が、何のためにここまで読んでしまったのか。


 パピルスは、私を読んでいた。


 私が三メートルを読む間、向こうも、私という三メートルを読み終えようとしていた。観測は双方向だと、私はもう知っていた。だが、その意味は、こうだった。読み切るとは、相手に自分を読み切らせることだ。最後の行が増殖を止めるのは、読み手という文書が、完全に解読されたときだ。


 そして、解読され尽くした文書は、もう書き換わらない。


 ハミドの言葉が、正確に腑に落ちた。「読み切った者だけが、書き換えられない場所に来られる」。それは救いの言葉ではなかった。それは、こういう意味だった。読み切った者は、もう一個の確定したテキストとして、あの都市に保存される。劣化しないパピルスと同じように。永遠に、書き換わらないかわりに、永遠に、閉じられて。


 私は、最後の行の、すぐ手前まで来ていた。


 あと、一行。


 その一行が、増えるのを、私は待った。手を止めれば、増えない。読み進めなければ、最後は来ない。エリスは、十一年、そこで止まり続けた。私にも、止まることはできた。


 画面の中で、最後の一行が、ゆっくりと滲み出てきた。


 そこには、こう書かれていた。


 ——澪は、いた。お前が読んだから、いた。お前が読むのをやめれば、いなくなる。

十二 読む者になるか、閉じる者になるか

 澪は、いた。


 その一行は、二年間、私を支えてきた現実を、残酷な形で肯定した。妹は実在した。私の記憶は、捏造ではなかった。眠り続ける妹のために、私はこの仕事を選び、ロンドンに来て、墓守を続けてきた。それは、本当のことだった。


 ただし、条件付きで。


 お前が読んだから、いた。


 澪が眠ったまま目覚めないのは、病ではなかった。澪もまた、読んでしまったのだ。私より先に。三つ下の、世界の裏側を読みたがる、感受性の強すぎた妹が。そして澪は、最後の行を読まずに、途中で止まった。読み切れず、忘れられず、あの都市の手前で、眠り続けている。エリスと同じ場所で。あと数歩のところで。


 澪が「眠るな、お姉ちゃんも、読み終えるまでは」と言ったのは、警告ではなかった。


 あれは、誘いだった。あるいは、help me、だった。一人であの都市の手前に立ち続けるのは、あまりに長く、あまりに寒い。誰か、一緒に。読み切って、向こう側へ。書き換わらない場所へ。あるいは——読むのをやめて、私を、ここから消して。


 私は、二つの一行の意味を、ようやく重ねられた。


 パピルスの最終行は、私に二つの道を差し出していた。


 読み切れば、澪に会える。書き換えられない夢の都市で、永遠に。私も、一個の閉じたテキストになって。誰にも読み返されず、誰にも書き換えられず、ただ妹と、あの白い広場を、俯いて歩く。それは、救いの形をした、終わりだった。


 読むのをやめれば、澪は消える。私の記憶からも、世界からも。妹は最初からいなかったことになり、私は墓守になる理由を失い、けれど——目を覚ましたまま、書き換わり続ける現実の中を、生き続ける。澪を失った記憶すら、失って。


 会うために、閉じるか。


 生きるために、忘れるか。


 私は、画面を見つめた。最後の一行の、そのまた先に、何も書かれていない余白があった。次の一行が入る場所。私が読み進めれば、増える。私の名が刻まれ、私は解読され尽くし、そして閉じる。


 川面が、朝日で白く光っていた。観測の目は、もう、いたるところにあった。川の照り返しの中にも、向かいのビルの窓にも、私のノートパソコンの、暗くなった縁にも。逆さの瞳が、私の選択を、待っていた。見られることで、私の選択もまた、確定する。


 私は、ゆっくりと、指を画面に伸ばした。


 ——ここで、あなたに訊かなければならない。


 あなたは今、これを読んでいる。最初の頁から、ここまで。あなたは、私という文書を、読み進めてきた。あなたが読むたびに、私は確かになった。伶という女が、澪という妹が、あなたの観測によって、ここに固定された。


 あなたは、もう、途中で止まれる地点を、過ぎている。


 最後の行は、いつも、読み手自身についての記述だ。


 だから、この物語の最後の一行は、私の名前では、ない。

十三 余白

指を、伸ばしたまま、私は止まっていた。


 画面の余白は、白かった。次の一行が入る場所。私が触れれば、増える。触れなければ、増えない。世界で唯一、まだ書き換わっていない場所が、そこだった。私の指先と、その白い余白の間の、数センチ。そこにだけ、まだ、選ぶということが残っていた。


 会うために、閉じるか。生きるために、忘れるか。


 私は、長いあいだ、そうしていた。どれくらいか分からない。時計はもう、信じられなかった。川面の光が動いていたから、時間は経っていたのだと思う。あるいは、光のほうが、私に時間が経ったと思わせるために、動いていただけかもしれない。


 ひとつだけ、確かなことがあった。


 私が選ぶ前から、観測の目は、私を見ていた。川にも、窓にも、画面の縁にも。見られた選択は、確定する。だとしたら、私がどちらに指を動かそうと、その瞬間に、結果は固定される。逃げ場は、選ぶ前にも、もうなかった。


 ——けれど、と私は思った。


 ひとつだけ、向こうが計算に入れていない道が、あるかもしれない。


 読み切れば、閉じる。読むのをやめれば、忘れる。そのどちらも、私という文書を「完結」させる道だ。会って閉じるか、忘れて続くか。観測者は、私がそのどちらかを選ぶことを、待っている。なぜなら、どちらを選んでも、観測者は薪を得る。読み切れば私が薪になり、忘れれば私の恐怖が薪になる。


 では。


 選ばなければ、どうなる。


 指を伸ばしたまま、触れず、引きもせず。読み終えず、忘れもせず。澪と同じ、エリスと同じ、あと数歩の手前。けれど彼らは「拒む」ことで止まっていた。すり減らしながら、毎晩、引き戻していた。


 私は、拒むのではなく。


 ただ、宙づりのまま、この一行を、永遠に「読んでいる途中」にしておくことは、できないだろうか。


 完結しない文書は、解読され尽くさない。解読され尽くさなければ、閉じない。閉じなければ、薪にならない。観測者は、終わらない一行の前で、永遠に、私を読み終えられないまま、待ち続ける。


 それは勝利ではなかった。救いでも、なかった。澪には会えない。現実にも戻れない。私は、開いたノートパソコンの前で、川沿いのベンチに座ったまま、読んでいる途中の女として、固定される。けれど——その宙づりの中でだけ、澪は、消えずにいられる。読んでいる途中だから、まだ、いる。私が読み終えない限り、妹は、消えない。


 会うことはできない。けれど、いなくならせない。


 それが、私に残された、たったひとつの、選ばないという選択だった。


 私は、指を、画面のすぐ手前で、止めた。


 止めたまま、でいることにした。


 どれくらい、そうしているのか、私には分からない。これを書いている今も、私は、ベンチにいる。川は光っている。最後の一行は、まだ増えていない。私が読み終えないからだ。


 澪は、いる。私が読み終えないからだ。


 あなたが、ここまで読んでくれたからだ。

十四 最後の行

 ここまで読んだあなたに、ひとつ、打ち明けなければならないことがある。


 あなたが今読んでいるこの記録そのものが、あの最終行の、続きだ。


 私は、ベンチで止まったまま、これを書いている。読み終えないために、書いている。書いている間は、読み終わらない。文書は完結しない。観測者は、私を読み終えられない。だから私は、書き続ける。あなたに、読ませ続ける。


 あなたが読んでいる間、私の一行は、終わらない。あなたが次の頁をめくるたびに、私は、もう少しだけ、宙づりでいられる。あなたは、私を、終わらせずにいてくれる読み手だ。


 けれど。


 最後の行は、いつも、読み手自身についての記述だと、私は書いた。


 あなたは、ここまで読んだ。最初の頁から、未登録の箱から、逆さの目から、澪の眠りから、ここまで。あなたが読むたびに、伶は確かになった。澪は固定された。この白い都市は、あなたの観測によって、また一段、濃くなった。


 あなたは、もう、途中で止まれる地点を、過ぎている。


 私が、ベンチで止まったように、あなたも、止まれただろうか。読み始める前なら、止まれた。けれど、あなたは読んでしまった。意味が、流れ込んでしまった。読めないのに、分かってしまった。


 それが、接続だ。


 だから、この物語の最後の一行は、私の名前では、ない。


 ここに、あなたの名前が、入る。




 ——眠るな。読み終えるまでは。

エピローグ 未登録の箱



 大英博物館、地下三層。空調が常に十八度に保たれた収蔵庫の、棚の最奥に、ひとつの箱がある。


 番号はない。すべての所蔵品が登録番号という首輪をつけられているこの建物で、それだけが裸だ。アクリルのケースに収められた木箱。蓋に、墨ともインクともつかない黒で、一行だけ何かが書かれている。


 状態は、異様に良い。百数十年どころか、昨日巻かれたかのようだ。


 それは、保存されているのではない。待っている。ふさわしい読み手を。劣化したら困るから、自分で自分を、新しく保ち続けている。


 来歴は不明だ。内容も、解読されていない。最後にこの箱に触れた研究者の名前は、記録の上では、一本ののたうつ線になっている。その前の研究者も。さらにその前の、保存修復官も。


 箱は、待っている。


 次に、この一行から、意味を汲んでしまう者を。


 あなたのような。



ご感想やコメントをいただけると、私の創作活動の大きな励みとなりますので、どうぞお気軽にお寄せください。これからも、皆様の心に響くような物語をお届けできるよう、精進してまいります。







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