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ブライアン・W・オールディス『Barefoot in the Head』はポスト・モダンだ(1.4万文字)

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ブライアン・W・オールディス『Barefoot in the Head』はポスト・モダンだ

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【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野について、専門家としての資格や実務的立場を持っていません。筆者は本稿執筆時点で、ブライアン・W・オールディス『Barefoot in the Head』の原著本文を通読していません。本稿の内容は、公開されている資料、作品紹介、書誌情報、解説文、AIを用いた検索結果の整理とファクトチェックをもとに構成しています。それらは理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証できません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは、読者に思考の材料を提供するためのものであり、特定の立場や結論の押しつけを目的としていません。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、ブライアン・W・オールディス『Barefoot in the Head』について、その核心的な内容に深く触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく享受されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。

1. 名前から始まる読書

ブライアン・W・オールディスの名前を、私は長いあいだ「オールディズ」だと思っていた。英語の綴りは Brian W. Aldiss で、末尾の ss を見れば日本語表記としては「オールディス」とするのが一般的なのだが、目で覚えた外国作家の名前は、声に出す機会が少ないまま脳内で勝手に定着する。いったん定着すると、訂正される機会も遠のく。

この手の誤読は、海外SFを読んできた人間には妙に身に覚えがある。ロバート・シルヴァーバーグを「シルヴァーグ」と思っていたことがある。カート・ヴォネガットは「ヴォガネット」と覚えていた。ロジャー・ゼラズニイを「ゼラニズイ」と読んでいたこともある。どれも単純な間違いと言えばそれまでだが、こういう名前の覚え違いには、読書歴の化石のような味わいがある。最初に出会ったときの距離感、外国文学を自分の舌に載せきれていなかった感じ、書名や作家名だけを先に知って中身にたどり着いていなかった時間が、誤読の形で残る。

その中で「オールディズ」は、私の中ではかなり長く居座った誤読だった。長年連れ添った間違いを訂正するのは、少しだけ寂しい。

2. 発端となった関心

この記事の発端は、『Barefoot in the Head』そのものを読む前に、ブライアン・W・オールディス、G・I・グルジェフ(ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフ)、コリン・ウィルソンの三者がどこかで接続しているのかという疑問を持ったことだった。この接続は、直接の影響関係として断定するより、戦後イギリスの文学、SF、神秘思想、意識変容への関心が重なった場所に置いて読むほうが自然に見える。

まず、オールディスの『Barefoot in the Head』にはグルジェフへの言及がある。筆者は原著本文でその箇所を確認していないが、The Encyclopedia of Science Fiction の「Gurdjieff, G」項目は、ブライアン・オールディス『Barefoot in the Head: A European Fantasia』においてグルジェフが複数回言及されると記している。また、The Modern Novel の同作紹介でも、チャータリスが英国へ戻った後、性、芸術、ウスペンスキー、グルジェフが焦点になると説明されている。

もう一つの線が、コリン・ウィルソンである。コリン・ウィルソンについては、『The Outsider』にグルジェフが含まれている。さらに、オールディスとウィルソンについては、公開映像資料 “Brian Aldiss - Colin Wilson in London” があり、二人の名前は同時代のロンドン文学圏の記憶の中で並んで現れる。

本稿が提示したいのは、戦後イギリスの文学、SF、神秘思想、意識変容の関心が重なり合う場所に、オールディス、グルジェフ、コリン・ウィルソンの三者の名前が置かれているという読みである。

3. 邦訳の位置

オールディスの邦訳作品には『地球の長い午後』『寄港地のない船』『グレイベアド』『解放されたフランケンシュタイン』『マラキア・タペストリ』『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』などがある。そうした邦訳の並びを眺めると、『Barefoot in the Head』の位置は目につく。日本語圏に入ってきたオールディス像の中で、この作品は中心に置かれにくかった。

理由はかなり想像しやすい。まず原文が翻訳困難すぎる。ジョイス的な言葉遊び、多言語混交、駄洒落、造語、宗教的暗示、ロックやドラッグ文化、交通や戦争の語彙が入り乱れる作品であり、その文体上の問題は第10章であらためて触れる。

翻訳者にとっては、普通の長編の何倍も手間のかかる仕事になる。しかも、その努力に見合うほど売れる保証が薄い。批評的には重要で、SF史上も意味があるが、一般読者に広く売りやすい本とは言いがたい。出版社から見れば、かなり危険な企画である。

もうひとつ大きいのは、オールディスの中でも、この作品がかなり奥まった場所にあることだ。『地球の長い午後』や『寄港地のない船』は、十分に独特でありながら、まだ読者を物語の中へ連れていく力が分かりやすい。『Barefoot in the Head』は、読者を連れていくというより、読者の足場そのものを溶かすタイプの作品として語られている。オールディスを紹介するなら、まず別の作品が選ばれるのは自然だと思う。

さらに、発表時期の問題もある。初版は1969年、Faber & Faber から刊行された。オールディス公式サイトにも Faber & Faber, London, 1969 の初版情報が載り、Google Books でも Faber, 1969, 281ページの書誌情報が確認できる。1960年代末の英国ニューウェーブ、ヒッピー文化、LSD、宗教的カリスマ、グルジェフやウスペンスキーへの関心、戦後ヨーロッパへの幻滅、言語実験の熱気が濃く染みついた作品である。1970年代に訳すには過激で難しすぎ、1980年代に訳すには時代の匂いが強く、1990年代以降に出すには古典としての企画力と注釈が必要になる。いつ出しても難しい本だったのだろう。

4. タイトルの問題

原題の『Barefoot in the Head』は、直訳すれば「頭の中で裸足」あるいは「頭の中の裸足」に近い。「はだしの頭」とすると題名としては収まりがいいが、文法的な意味は少しずれる。barefoot は裸足でいる状態を示し、in the head は頭の中、精神の中、意識の内部を示している。だから、構造としては「頭が裸足」よりも、「頭の中で裸足でいる」ことに近い。

このタイトルには、奇語としての面白さ以上の含みがある。裸足は、無防備であることを示す。文明の履物を脱いだ状態でもある。大地に直接触れる状態でもある。宗教的に読めば、モーセやヨシュアが聖なる場所で履物を脱いだ場面も想起される。

モーセが燃える柴の前で履物を脱ぐよう命じられる箇所は、出エジプト記3章5節である。そこでは、「汝の足より履物を脱ぐべし、汝が立つところは聖き地なればなり」と語られる。ヨシュアが主の軍の将の前で履物を脱ぐよう命じられる箇所は、ヨシュア記5章15節である。そこでも、「汝の足より履物を脱げ、汝が立てる處は聖なればなり」と語られる。

「履物を脱ぐ」ことは、聖域に入るための礼儀であると同時に、自分を守るものを外し、地面に直接立つ身振りである。靴という隔たりを残したままでは、聖なる場所に立てない。足裏を地面に触れさせることで、その場所の力を身体で受ける。聖地は、眺める場所ではなく、足裏で引き受ける場所になる。

『Barefoot in the Head』では、裸足になるのは足ではなく、頭の中である。守られていた意識が履物を脱がされ、世界、幻覚、聖性、暴力、群衆の欲望に直接触れる。モーセやヨシュアの裸足が聖地への接近を意味したとすれば、オールディスの裸足は、聖地と幻覚と戦場の区別が壊れた場所へ、意識そのものがむき出しで立たされることを意味している。

『Barefoot in the Head』の裸足は、聖なる場所に立つ身振りであると同時に、意識が防御を失って世界に触れてしまう状態として読める。裸足の魂が立っているのは、聖地なのか、幻覚なのか、戦場なのか、脳内の偽の草原なのか。その判別がつかないところに、この題名の怖さがある。

日本語では便宜的に『はだしの頭』と呼ばれることがあるが、それは刊行された正式邦題というより、原題を日本語に置き換えた紹介上の呼び方に近い。『はだしの頭』は題名としての奇妙な硬さを持つが、文法的には「頭の中で裸足」のほうが原題の構造に近い。題名の時点で、この作品の翻訳困難性はすでに始まっている。

この聖書的連想は、作品が題名で直接指示しているものというより、裸足、聖域、メシア化、磔刑という要素が重なるところから筆者が引き寄せる読解である。

5. 作品の前提

『Barefoot in the Head』の舞台は、Acid Head War と呼ばれる戦争の後のヨーロッパである。この戦争では、核兵器の代わりに幻覚性の精神化学兵器が主要な兵器として使われたとされる。Hachette の版元紹介は、Acid Head War 後の世界で、人々が現実と想像の区別を失っていると説明している。The Modern Novel も、通常兵器や核爆弾ではなく psychochemical aerosols が用いられたという趣旨で紹介している。

この設定だけを取り出すと、いかにもSF的である。オールディスはこの設定を、一般的な終末SFの手順から大きくずらして処理しているらしい。都市には瓦礫だけがあるわけではない。道路はあり、車は走り、ホテルもあり、音楽もあり、政治もあり、恋愛もあり、宗教もある。社会は完全に消滅したというより、意味を失ったまま動き続けている。壊れた機械が、まだ自分を機械だと思って回っているような世界である。

主人公はコリン・チャータリスという若者である。SFE は、彼をセルビア人の英雄あるいは反英雄として説明している。彼は大陸側から英国へ向かう移動者として登場し、赤い車 Banshee に乗ってヨーロッパを移動する。この車の存在は重要である。チャータリスは旅人であり、同時に運転者として登場する。車は自由の象徴であり、文明の残骸であり、巡礼の乗り物であり、事故を呼び込む装置でもある。

彼が最初に通るフランスは、戦争で中立だったため比較的ましな状態にあるとされる。しかし、そこでも人々の意識には影響が及んでいる。道路は拡張され、運転者は幻覚に襲われ、コンクリートと交通と精神の混乱が結びついている。やがて彼は英国へ渡り、より濃い汚染の中へ入っていく。英国はもはや、伝統や秩序の国として立っていない。薬物化された意識、音楽、性、宗教的熱狂、メディア、カリスマ願望が渦巻く場所になっている。

なお、以下の人物関係や細部については、筆者が原著本文を通読して確認したものではなく、公開されている作品紹介や要約資料に基づく整理である。そのため、本稿では細かな筋の確定よりも、チャータリスがいかにメシア的な像へ押し上げられていくかという流れを中心に扱う。

6. コリン・チャータリス

コリン・チャータリスは、英雄であり、反英雄であり、偽メシアであり、迷子の青年でもある。彼は最初から救世主として登場する人物ではない。むしろ、混乱した世界を理解しようとして移動しているだけの若者に見える。だが、その移動がいつのまにか巡礼になり、彼の言葉や振る舞いが周囲に読み替えられ、彼自身もその読み替えに巻き込まれていく。

チャータリスは完全な詐欺師として造形されている人物ではないようだ。彼は意図的に人々を騙しているだけの男ではない。世界のほうが彼をメシアとして読んでしまう。そして彼自身も、自分に押しつけられた像を信じかける。

チャータリスの物語は、若者が神になる話というより、若者が神にされそうになる話である。1960年代末のメシア願望への批判が、この筋の中に含まれている。ロックのスター、ヒッピーの指導者、新宗教の教師、政治的カリスマ、ドラッグによる覚醒者。そうしたものが、互いに混ざり合い、ひとりの若者の上に投影されていく。

彼は「Man the Driver」というヴィジョンに取り憑かれ、運転者として人々を導く存在になっていく。車を運転する者が、人類を運転する者へ変わる。そこには言葉遊びもあるし、文明批評もある。自動車文明は自由を与えるが、同時に事故と渋滞と死を与える。チャータリスのカリスマは、霊的なものに加えて、道路とエンジンとスピードにも支えられている。

7. 周囲の人物たち

フィル・ブラッシャーは、チャータリスに先行するカリスマ的存在として説明される。彼は Escalation band を通じて、新しい時代のメッセージを広めようとする人物とされる。音楽はこの作品の中で、娯楽の領域からはみ出す。群衆を動かし、意識を変え、宗教的熱狂を作り出す装置である。紹介資料の筋をたどると、フィルは最初、チャータリスを弟子のように受け入れるが、やがてチャータリスのほうが大衆の想像力をつかんでいく。先行するカリスマが、新しいカリスマに食われるのである。

アンジェリン周辺の人物関係は、筆者が参照した紹介資料の範囲では細部を確定しにくい。ただし重要なのは、彼女たちがチャータリスの旅に恋愛や欲望や依存の線を持ち込み、彼のカリスマ化を個人的な関係の中にも浸透させていく点である。メシアは群衆の前だけで作られるのではない。近くにいる人間の期待、愛着、誤解、救済願望の中でも作られていく。

マルタ・コーニンクレイクは、ベルギーで登場する女性として説明される。彼女は薬物霧と崩壊した生活の中で壊れかけている人物とされ、チャータリスの周囲に集まる信奉者の流れに関わっていく。救うことと依存させることの境界が曖昧になる場面として、この人物は重要に見える。

ニコラス・ボレアスは映画制作者として現れる人物であり、死や事故を映像化しようとする存在として説明される。彼は、暴力とメディアが結びつく場所にいる。事故は現実の出来事であると同時に、再演され、撮影され、消費されるスペクタクルになる。この連想は筆者の読みだが、このあたりは後知恵の読者としてはJ・G・バラード的にも見える。自動車事故、映像、死、欲望、再現。現実が壊れた世界では、現実の死さえもメディアの素材になる。

8. グルジェフの影

『Barefoot in the Head』に置かれたグルジェフとウスペンスキーの影は、作品の中心にある「覚醒」と「幻覚」の問題へつながっている。

グルジェフは、人間が通常は眠った状態にあり、意識的な努力によって覚醒へ向かわなければならないと説いた神秘思想家である。ウスペンスキーは、その思想を西洋に広めた重要な紹介者である。薬物によって意識が変容することは、本当に覚醒なのか。古い自我が壊れることは、より高い意識へ進むことなのか。それとも、別の妄想に落ちることなのか。作品全体は、この判別の難しさをめぐって動いているように見える。

オールディスは、高次意識や覚醒の言葉が、ドラッグ、ロック、性、群衆心理、政治、宗教的期待と混ざったときに何が起こるかを見ているように思える。霊的な言葉は、社会の中に入った瞬間、カリスマを作り、大衆を動かし、別の夢を作る。

人々は眠りから覚めたいと思う。しかし、覚醒という言葉そのものが、より深い夢を作ることがある。チャータリスは目覚めた人間なのか。それとも、薬物と群衆によって作られた夢の中心にいるだけなのか。作品は、その判別を簡単には許さない。

9. コリン・ウィルソン

コリン・ウィルソンの『The Outsider』は1956年に刊行された。24歳の著者によるこの本は、文学、哲学、芸術の中に現れる「アウトサイダー」を追い、社会からの疎外、過剰な意識、現実への不適応、精神的な飢えを論じた本である。Britannica も、ウィルソンが24歳で発表した『The Outsider』が大きな成功を収めたことを確認している。

『The Outsider』には、H・G・ウェルズ、カフカ、カミュ、サルトル、T・S・エリオット、ヘミングウェイ、ヘッセ、T・E・ロレンス、ゴッホ、ニジンスキー、ショー、ブレイク、ニーチェ、ドストエフスキーらとともに、ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフが含まれている。グルジェフは、神秘思想や秘教の棚だけに置かれているのではなく、近代人の疎外、意識の過剰、自己変革への要求と結びつけられている。ウィルソンは『The Outsider』で、グルジェフを英語圏の読者に向けて、実存的な問題の一部として提示した。

さらに、ウィルソンは後に『G.I. Gurdjieff: The War Against Sleep』も書いている。現在流通する Aeon Books 版は2005年刊行の改訂拡張版であり、同書の紹介文も、グルジェフ思想の中心に「眠りとの戦い」という考えがあると説明している。グルジェフへの関心が『The Outsider』の一項目で終わらず、その後も持続したことが分かる。

この流れを踏まえると、オールディスの『Barefoot in the Head』にグルジェフが出てくることは、孤立した奇妙な引用としてよりも、戦後イギリスの文学と思想に流れていた意識変容への関心の中で読める。ウィルソンが『The Outsider』でグルジェフをアウトサイダーの問題へ接続し、オールディスが『Barefoot in the Head』でグルジェフやウスペンスキーをサイケデリックなヨーロッパ崩壊の物語へ接続する。この二つは、別々の仕事でありながら、同じ時代の地下水脈を共有している。

その地下水脈とは、戦後イギリスにおける実存主義、神秘思想、意識変容、カウンターカルチャーの交差点である。

10. ポスト・モダン

『Barefoot in the Head』は、少なくとも筆者のいう意味では、かなりポスト・モダンだと思う。ここで言うポスト・モダンは、大きな物語が壊れた後にも、人間が別の大きな物語を作ってしまうこと、宗教や政治や芸術やメディアが互いに混線すること、言葉そのものが現実を組み替えること、そのような時代感覚を指している。本稿では、文学史上の分類名として厳密に置くより、読解のための補助線としてこの言葉を使っている。

この作品では、戦争が終わっても世界は安定しない。人々は現実と想像の区別を失い、旧来のキリスト教的な救済物語も、ヒッピー的な解放の夢も、ロックの熱狂も、神秘思想も、交通文明も、映画的スペクタクルも、同じ場所で混ざり合う。チャータリスは、その混線の中心に置かれる。彼は英雄であり、反英雄であり、メシアであり、運転者であり、群衆の投影であり、本人の妄想でもある。

ポスト・モダンという言葉を使うなら、この作品は、すべてを壊した後に自由が来るという楽観から距離を取っている。言語が壊れ、宗教が壊れ、政治が壊れ、文明が壊れた後、人間は空白の中で自由になるのではなく、手元に残った古い物語の破片から、もう一度世界を読もうとする。

『Barefoot in the Head』のポスト・モダン性は、壊れた世界が壊れた言語で語られる点に強く表れている。精神化学兵器によって現実認識が崩れた世界では、文体そのものも安定した説明の道具であり続けられない。言葉は混ざり、音は別の意味を呼び、宗教、性、交通、戦争、広告、音楽、神秘思想の語彙が互いに感染していく。世界設定の崩壊は、文体の崩壊として読者の前に現れる。

精神化学兵器によって人々の意識が壊れるという設定は、文章の運動にも反映される。言葉が混ざり、意味がずれ、音が別の語を呼び、文が通常の秩序から外れていく。読者は、作品世界の人々が経験している混乱を、文章のレベルで経験する。言葉の崩壊が、世界の崩壊を読者の中へ運び込む。

The Modern Novel は、この作品をサイケデリック薬物が社会全体と言語に及ぼす影響を描いたものとして説明し、ジェイムズ・ジョイスへの連想にも触れている。紀伊國屋書店の商品説明にも、ジェイムズ・ジョイスやウィリアム・S・バロウズを連想させる実験的作品としての紹介が見られる。ジョイス的な言葉遊びや多言語的な混線、バロウズ的な断片化や意識の攪乱は、作品の読みにくさを作ると同時に、現実を安定した物語として読ませない力を持っている。

『Barefoot in the Head』は、未来社会や戦後社会を設定として描くSFでありながら、技術、薬物、交通、宗教、音楽、メディア、言語が絡み合い、世界を読む方法そのものが崩れていく過程を中心に置いている。多くのポストアポカリプス小説では、建物、制度、人間関係の崩壊が前面に出る。『Barefoot in the Head』では、文法、語彙、比喩までが壊れていく。宗教的な言葉、政治的な言葉、性的な言葉、広告的な言葉、交通の言葉、戦争の言葉、神秘思想の言葉が、互いに混線していく。

この小説は読みやすさからかなり遠い場所にある。読みにくさは、作品の欠陥であると同時に方法でもある。読者は物語を安全な距離から眺める姿勢を保ちにくい。筋をつかもうとするたびに、言葉そのものが滑る。理解しようとする理性が、作品の文体によって揺さぶられる。

この読みにくさを日本語に移す作業は、極度に困難である。直訳だけでは、作品の核がかなり失われるはずである。意味だけを整える訳では、文体による混乱や感染の感触が薄れてしまう。日本語の中で別の壊れ方を作る必要がある。もし邦訳が出るなら、それは翻訳であると同時に、日本語による再演になる。翻訳者の名前も作品の一部になるタイプの本である。

この作品のポスト・モダン性は、言語の崩壊を中心に置くことで最もはっきり見えてくる。『Barefoot in the Head』では、言葉が壊れることによって、読者は世界の壊れ方を経験する。その読みにくさが、この小説の方法である。

11. 聖なる裸足

裸足という題名を、出エジプト記3章5節のモーセ、ヨシュア記5章15節のヨシュアの場面に引き寄せて読むことは有効である。どちらの場面でも、聖なる場所に立つ者は履物を脱ぐよう命じられる。履物を脱ぐことは、聖域の前で自分を低くし、身体を守る隔たりを外し、その場所に直接触れることである。

本作では、その聖域が頭の中へ移っている。人間の精神そのものが、聖地化し、幻覚化し、戦場化している。頭の中に入るためには履物を脱ぐことになる。だが、その場所には聖性、幻覚、戦場、群衆の欲望が重なっている。

聖書の場面では、履物を脱ぐ者は神の前に立つ。『Barefoot in the Head』では、履物を脱いだ意識が、神だけでなく、薬物、戦争、メディア、宗教的熱狂、古い救済物語の残骸にも触れてしまう。

チャータリスのメシア化と磔刑の予感によって、裸足のイメージは救済と危険の両方を帯びる。裸足は魂のメタファーとして読める。同時に、保護を失った神経の比喩としても読める。靴を脱いで聖地に立つ身振りと、靴を奪われて汚染された意識の荒野を歩かされる感覚が重なっている。

この連想は、作品が明示する参照として扱うものではなく、題名と作品構造から筆者が引き寄せる読解である。だが、チャータリスのメシア化、キリスト教ヨーロッパ、磔刑の予感が作品紹介レベルでも確認できる以上、作品から離れた恣意的な連想ではない。オールディス公式サイトの説明も、チャータリスがカルト的メシアとして担ぎ上げられ、古いステレオタイプの中で磔刑へ向かう可能性に気づくという趣旨を示している。

チャータリスは、聖なる若者として群衆に読まれる。しかし、彼の聖性は本当に内側から来ているのか。それとも、崩壊したヨーロッパが、自分たちの救済願望を彼に投影しているだけなのか。裸足で立っているのは魂かもしれない。だが、その足元には聖地と幻覚と戦場が重なっている。

12. 物語の進行

物語は、チャータリスの移動から始まる。彼はフランスを通り、英国へ向かう。最初は世界を観察しているように見える。だが、彼が移動するにつれて、世界のほうが彼を物語の中心へ引き込んでいく。

英国で彼はフィル・ブラッシャーやアンジェリンと出会い、音楽や宗教や性や幻覚の混ざり合う場へ入るとされる。そこでは、言葉が通常の意味を保たない。人々は会話しているようで、連想の中を漂っている。出来事は起きているが、その意味はすぐに別の意味へ変わる。読者は筋を追おうとするが、文体そのものが読者の足元を崩してくる。

やがてチャータリスは、群衆に担ぎ上げられていく。Hachette の紹介は、彼が新たなメシアとして見られるようになり、やがて自身もそれを信じ始めると説明している。彼の発言は教義のように受け取られ、彼の移動は巡礼のように見なされる。車列は宗教的行進になり、道路は聖地へ続く道になる。近代文明の象徴である自動車が、前近代的な巡礼や十字軍のイメージと重なる。

その後、ベルギーで大きな事故が起きると説明される。チャータリスの車 Banshee は猛烈な事故を起こすが、そのとき彼自身は運転していない。普通に考えれば偶然である。しかし、彼をメシアとして見始めていた人々にとっては、それは奇跡になる。死ぬはずだった人物が死ななかったという事実は、彼の特別性の証明にされる。

作品は、カリスマ形成の仕組みをよく捉えている。奇跡は、出来事が起きた後、それを群衆が奇跡として読むことで成立する。チャータリスは、その読解から逃れられない。彼が何をしたかよりも、彼について人々が何を信じたかのほうが、現実を動かしていく。

13. クライマックス

クライマックスで前面に出るのは、チャータリスがメシア物語の完成へ押し込まれそうになる過程である。

彼は新しい時代の人物として担ぎ上げられる。古いヨーロッパは崩壊している。人々は現実と幻覚の区別を失い、宗教も政治も言語も機能不全に陥っている。その空白に、若く、移動し、語り、愛され、事故を生き延びたチャータリスが置かれる。彼は、新しい神話の中心にされる。

そこに立ち上がる新しい神話は、すぐに古い救済の型を呼び戻す。作品の核心は、この反復に集まっていく。チャータリスを取り巻く物語は、一見すると新しい意識、新しい共同体、新しい宗教、新しい人間の誕生のように見える。しかし、その枠組みはひどく古い。メシア、弟子、女、巡礼、奇跡、磔刑。人々は新しい救済を求めながら、結局は古いキリスト教的な型でしか救済を想像できない。

この読みは、オールディス公式サイトの記述によって強く支えられる。公式サイトの “Brian Says” 欄では、チャータリスがカルト的メシアとして担ぎ上げられ、その像を信じるようになり、新秩序さえ古いステレオタイプで考えられてしまうこと、結果として自分が磔刑にされるだろうことに気づき、妄想から抜けるという趣旨が示されている。

チャータリスは、自分がその型に回収されつつあることに気づく。新しい秩序を語っているつもりでも、群衆の想像力は古いステレオタイプに縛られている。彼がメシアであるなら、次に待っているのは磔刑である。新しい世界の中心に立つことは、古い物語の犠牲者になることでもある。

彼は、神にされることの危険に気づく。救済者を求める群衆は、選び出した人物を古い犠牲の型へ押し込んでいく。

14. 結末の意味

結末で、チャータリスは磔刑に向かう物語から降りる。彼はメシアとしての役割を拒み、群衆が求める像、自分に押しつけられた像、古い宗教的脚本から身を引く。

これは限定された救済に見える。彼は、他人が作った神話の犠牲者になることを拒む。自分をキリストに仕立てようとする流れから抜け出す。偽の覚醒と集団的な妄想から離れる。その意味では、彼は確かに解放される。

しかし、もう半分は寂しい。彼が到達する場所には、共同体の救済、愛の成就、政治的な革命とは異なる静けさがある。彼は「Man the Driver」を捨て、運転者として人々を導く役割から降りる。彼は歩行者になる。車列から離れ、群衆から離れ、メシアから降りる。

歩行者というイメージは、タイトルの裸足にもつながる。運転者は機械と文明に支えられた存在である。歩行者は身体で地面に触れる存在である。だが、そこには単純な自然回帰とは異なる寂しさがある。チャータリスは神の位置から離れるが、人間の共同性にも戻りきれない。

メシア物語を拒否することには、確かな正しさがある。だが、その正しさは世界を救う力とは別の場所にある。偽の役割から逃げることと、壊れたヨーロッパを直すことのあいだには、深い距離が残る。チャータリスは磔刑を回避するが、その回避には勝利よりも脱落に近い感触がある。

15. 評価と読者負荷

『Barefoot in the Head』の評価は、かなり割れる。批評家からは高く評価されてきた。英国ニューウェーブSFの重要作であり、1960年代末の意識と文化を極端な形で封じ込めた作品として読まれている。幻覚剤、性、宗教、ロック、道路、自動車、社会崩壊、ヨーロッパ文明批判、言語実験といった当時のモチーフが、異様な密度で押し込められている。

Hachette の紹介にも、The Listener、Daily Telegraph、Encyclopedia of Science Fiction、Conceptual Fiction などからの評価が掲載されている。そこでは、The Listener による “An extraordinary book”、Daily Telegraph による “An extremely urgent criticism of the present”、Encyclopedia of Science Fiction による “An extraordinary tour-de-force”、Conceptual Fiction による “The most ambitious psychedelic sci-fi novel of the era” といった評価が確認できる。批評的には、野心的な作品として扱われてきたことが分かる。

一般読者にとっては、かなり手ごわい本である。物語を楽しむつもりで読むと、相当に疲れる。登場人物に感情移入しようとしても、文体がそれを邪魔する。世界設定を整理しようとしても、言葉遊びと幻覚がそれを崩す。終末SFとして読むには実験的すぎ、宗教的寓話として読むには毒が強く、サイケデリック文学として読むにはSF的な装置が重い。

つまり、これは「傑作だが、普通の意味で面白い小説ではない」タイプの作品である。重要であり、刺激的であり、野心的である。しかし、誰にでもすすめられるわけではない。むしろ、読者を選ぶことそのものが、この作品の性格になっている。

それでも、この作品が忘れられないのは、1960年代末の夢と危機を、時代風俗として片づけず、言語と意識の崩壊として書いているからだ。ドラッグで意識が拡張するという楽観、古い秩序が壊れれば新しい人間が生まれるという期待、そうした時代の気分を抱えながら、作品はより苦い場所へ進む。作品は、意識の変容が新しい自由と古い神話の反復を同時に生みうることを描いている。

16. オールディスの中で

オールディスの作品の中で、『Barefoot in the Head』はかなり奥に置かれた作品である。オールディスを初めて読む人には、おそらく『地球の長い午後』や『寄港地のない船』のほうが向いている。『Barefoot in the Head』は、オールディスがどれほど遠くまで行けるかを示す作品であり、同時に、彼の実験性が読者にどれほど負荷をかけるかを示す作品でもある。

『世界Aの報告書』もかなり実験的な作品だが、『Barefoot in the Head』は別の方向で過激である。『世界Aの報告書』が観察と構造の小説だとすれば、『Barefoot in the Head』は変質と感染の小説である。読む者の意識にまで薬物の影響が及ぶような書き方をしている。

オールディスは、アイデアの作家であると同時に、SFという形式を使って文学的な実験を行う作家である。『Barefoot in the Head』は、その中でも極端な地点にある。ジャンルSFとモダニズム文学、ポストアポカリプスと宗教寓話、サイケデリック文化と文明批評を、かなり無理のある形で接続しようとしている。この接続の強引さが、作品の読みにくさと批評的な刺激を同時に生んでいる。

いま読まれる価値もある。現実と妄想の境界が崩れ、メディアがカリスマを作り、宗教的な言葉と政治的な欲望が混ざり、古い神話が新しい顔で戻ってくるという問題は、1969年を越えて響いている。むしろ、現在のほうが読みやすい部分もあるかもしれない。

17. 偽の覚醒

私がこの作品に強く引かれるのは、「覚醒」という言葉の魅力と危うさが同時に描かれているからである。

人間は眠っている。だから目覚めへ向かわなければならない。この考え方は、グルジェフ的でもあり、宗教的でもあり、カウンターカルチャー的でもある。1960年代には、ドラッグ、音楽、性、東洋思想、神秘思想、共同体実験が、古い自我を壊して新しい意識へ向かう道として語られた。

意識の変化と自由への到達のあいだには距離がある。言語の破壊と真実への接近のあいだにも距離がある。古い宗教を壊したあとでも、人間は古い宗教的な型で救済を想像してしまうことがある。新しいメシアを求める心は、結局、新しい犠牲者を作るだけかもしれない。

オールディスが見ているのは、「覚醒」という語が社会化した瞬間に、古い宗教的脚本や群衆の欲望へ回収される危険である。作品世界では、目覚めへの希求が救済者を求める群衆の夢と結びつき、チャータリスをメシアの位置へ押し上げていく。

チャータリスは、最終的にメシアの役割から降りる。彼は群衆の夢を完成へ運ばず、自分を磔刑へ向かわせる物語から降りる。その意味で、彼は偽の覚醒から一歩だけ離れる。

だが、その一歩には明るい勝利とは異なる寂しさがある。彼が手に入れるのは、世界を救う力から離れる自由である。人間には、神になる道を退ける余地がある。しかし、その後にも、人間同士を結び直す困難は残る。

『Barefoot in the Head』は、1960年代の夢を内側から疑っている。意識の拡張、共同体、音楽、神秘思想、新しい愛、新しい宗教。作品はそれらの魅力を抱えたまま、それらが別の妄想や支配に変わる瞬間を見ている。

18. 裸足で残るもの

最後に残るのは、やはりタイトルである。Barefoot in the Head。

この題名は、チャータリスがメシアの役割から降りた後にも、むき出しの意識だけが残ることを示している。救済者の役割から降りること。大きな物語の完成から身を引くこと。神の位置よりも、歩く身体を選ぶこと。その撤退の感触が、裸足という言葉に残る。

『Barefoot in the Head』は、読む者に大きな負荷をかける作品である。その負荷は、難解さそのものを誇るためのものではなく、壊れた世界を壊れた言語で読むしかないという条件から来ている。頭の中で裸足になるとは、救済の物語、覚醒の言葉、文明の乗り物が届ききらない場所に立つことなのだと思う。そこに残る足裏の痛みが、この作品のいちばん不穏な手触りである。

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