ベルゼバブはポスト・モダンの饗宴だ(4.7万文字)


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v8.2
【注釈】本記事/本稿はフィクションであり、実在の人物・団体・権利とは一切関係がありません。たとえ、記述の中に実在のものと同じ名前が出てくることがあっても、それらはすべて作者のインナースペース的投影、あるいは別の世界線の出来事、あるいはこの世界線であったとしても作者専属の守護霊の発言として表現されたものです。つまり、すべての文章には(と作者専属の守護霊が言っている)が省略されているものとします。したがって、断じて、現実の人物・団体・権利を侵害するものではなく、断じて、誹謗中傷や名誉毀損を意図するものでもなく、断じて、読者の心の平穏を乱すものでもなく、断じて、宇宙の調和を揺るがすものでもありません。よって、本コンテンツの無断複製・転載は固くお断りするとともに、そして当然に、作者は自由に内容を変更できるものとします。
1. 42万部の午後
電話が鳴ったのは、42万部という数字をディスプレイで確認した直後だった。着信表示を見て、古田割徹(こだわりとおる)は3秒間、動かなかった。そこに表示されていたのは、自分の名前と、自分の番号だった。古田割が受話器を取った理由は、恐怖よりも、ずっと待っていたような感覚に近かった。古田割は震える指で受話器を取った。
「古田割くん、そろそろグルジェフ・ワークについて話し合うときが来たのではないか」と声は言った。
声紋で言えば、自分のものだ。だがその声には、古田割が30年かけて積み上げてきた疲労も、後悔も、妥協も、何ひとつ混じっていなかった。声そのものは同じなのに、まるで別の存在が古田割という楽器を借りて演奏しているような、そういう奇妙な印象だった。
「君は誰だ」
「君が一番よく知っている」
沈黙が落ちた。古田割は窓の外を見た。三田の春の夕暮れが、光の膜のように街を覆っていた。
「用件を言え」
「広告を打つのか」と声は言った。責めるトーンではなかった。ただ、問うていた。「ベルゼバブを、広告で売るのか」
古田割の喉の奥で、何かが動いた。20代の頃から彼が知っていたことだ。グルジェフ・ワークにおいて、宣伝と広告は最もハスナムス的な行為のひとつとされている。人の睡眠を利用し、機械的な欲求を刺激し、自らの虚栄と組織の利益のために他者の本質を消費する。それが広告の本質だと、彼はずっと知っていた。知りながら、30年間、広告を打ち続けてきた。
「分かっている」と古田割は言った。
「では、なぜやる」
「分からない」と彼は言った。それは正直な答えだった。「分からないから、やろうとしている」
電話の向こうで、かすかな気配がした。受容とも、失望とも取れる沈黙だ。
「63歳になっても、まだ言語化できていないのか」
「できていない」
また沈黙。今度は長かった。古田割は、自分の内部で何かが静止しているのを感じた。反論も、弁明も、出てこない。彼の三中枢は、珍しく一致して、ただ黙っていた。
「では、話し合う必要がある」と声は言った。「この矛盾について。禁じられていることをすることが使命になりうるのか、という問いについて」
「いつ」
「君がベルゼバブを手に取るたびに」
「最後に一つだけ聞かせてくれ」と古田割は言った。「君は、今どこにいる」
電話の向こうで、かすかな環境音がした。人の声。それから、何か、棚のような、本のような、紙の匂いがしそうな音。
「伊丹だよ」と声は言った。「イオンの中の、小さな書店だ。君もいつか来ることになる」
通話が切れた。古田割は受話器を置き、3秒間、壁を見つめた。それからディスプレイに戻ると、42万部という数字が光っていた。さっきと同じ数字だ。しかし、その重さが、少し変わっていた。彼はキーボードに向かった。仕事をしなければならなかった。
電話の正体について、古田割はその夜も、翌朝も、考え続けた。心理的な自己分裂か。ヘプタパラパルシノクの滑落点に差し掛かった意識が、宇宙の構造に接続した瞬間の副産物か。あるいは、そのどちらでもない何かか。どれも説明になっていない。古田割はそれで構わないと思った。グルジェフの宇宙において、説明できないことは敗北ではない。説明できないまま動き続けることが、パークトクドルグ義務の実践なのだ。
2. 古田割徹の身の上
西暦2026年6月、東京都港区三田3-4-8。ある世界線における株式会社平河出版社の宣伝課長デスクにおいて、古田割徹は自らの三中枢が不協和音を奏でるのを感じていた。彼は20代半ばの頃、G.I.グルジェフの著作に出会い、それが世界の真実であると100パーセント受容してしまった人間だ。それは、魂の深淵を焼き尽くすような衝撃であった。
その衝撃は、すぐ行動へ変わらなかった。彼は長い間、現実のグループにコンタクトを取る勇気を持てなかった。グルジェフの書籍に描かれるメンバーは超エリートばかりであり、何のウリもない自分がその門を叩いても、門前払いを食らうに違いないという劣等感に苛まれていたからだ。妻が亡くなった数年後、自らの人生の終わりを自覚し始めた彼は、アラビア語やヘブライ語、サンスクリット語を学び、聖典を原典で読む準備を始めていた。思想の箱舟たちの伝播ルートを辿るうちに、現代人が、世界遺産や観光名所に対して、それらの思想の箱舟に蓋を閉じたまま、観光物産的な食文化や建造物だけを外面的な鑑賞物として楽しんでいる現状に、強い違和感を抱いていた。そんな折、広告の気配が全くないグルジェフ・グループのウェブサイトに、本物の予感を得ていたのである。
妻が死んで5年後の2006年の冬、古田割は初めてグループに接触した。長年の劣等感が、喪失という衝撃によって砕かれたのだ。水が堰を越えるのではなく、堰そのものが崩れるような感覚だった。近隣のメンバーとの対面ミーティング、メールによるリモートセッション、および年に一度のリトリート合宿。ロンドンのブランチに連なるその場所で、古田割は初めて「同じ問いを持つ者たち」の中に座った。それは本物だった。少なくとも、彼にとってはそう感じられた。
グルジェフ・ワークにおけるグループは、日常生活の只中で自己を観察し、他者の目によって自分の機械性を照らし出すための乗り物である。そこでは、読むこと、語ること、沈黙すること、生活の中で反応を観察することが、一つの実践として結びついている。古田割は、その必要性を疑っていなかった。進化のためにグループは必要だ。その確信は、幻滅のあとにも残った。
2022年、長年グループを支えてきた中心的な人物が衰え、逝去に近づきつつあった頃、古田割はグループの膠着を感じ始めた。批判的な感情は抑えようがなかった。同時に、その批判の多くが自分自身の未熟さを映す鏡でもあることを、彼は知っていた。知っていながら、外部に変化を求めた。環境を変えれば何かが動くのではないかと考えた。
自ら判断して、別の回路を探した。その選択の結果として辿り着いた別の系統のグルジェフ・グループとのZoomセッションも、20回ほどを経て、古田割は2023年11月、自分の意志でフェードアウトした。紹介の経緯を持つ人々への不義理を、彼は今も引きずっている。その体験を誰かに語ることを、ずっと避けてきた。語ることで、まだそこに残っている誰かの何かを損なう気がしたからだ。それは忖度であり、同時に、古田割なりの礼儀だった。
グループは必要だ。乗り物には寿命がある。目的を持つ生きた器なのか、形骸化しながらも橋渡しとして機能している器なのか、あるいはそのどちらでもない何かなのか。古田割はその疑問を、20代から持ち続けていた。知っていながら、それを自分の体で確かめるまでに、2001年から2023年まで、22年かかった。
その個人史をここで長く語る必要はない。必要なのは、その長い迂回の果てに、古田割がなおグループへの不義理と未完了感を抱えていたことだった。彼が抱えていたのは、グループへの拒絶でも、ワークへの否定でもなかった。グループに届かなかった者、グループから離れた者、グループの前で立ち尽くした者に、この本を届ける回路が必要なのではないか。その問いが、彼の中で育ち始めていた。
そして今、彼の目の前に、あの本がある。古田割はかつて、深夜に声に出してこの本を読んだことがある。ヘプタパラパルシノク。トリアマジカムノ。トロゴオートエゴクラト。宇宙の法則、三力の交差、相互養育の原理。言葉の意味を完全に理解するより先に、音そのものが体に入り込んできた。彼の三中枢は珍しく一致して静止した。意味よりも先に、何かが動いた。
その未解決の傷が、いま宣伝課長の机の上で、ベルゼバブを100万人に届けるという矛盾した使命へと変形しつつあった。広告はハスナムス的行為かもしれない。だが、届かなかった者へ届けることもまた、避け続けてきたパークトクドルグ義務なのかもしれない。古田割には分からなかった。分からないまま、仕事を始めるしかなかった。
3. ベルゼバブの巨塔
古田割徹は宣伝課長として、ポール・トーマス・アンダーソン監督の最新作「ワン・バトル・アフター・アナザー」が、2026年3月開催の第98回アカデミー賞において作品賞、監督賞、脚色賞を含む主要賞を受賞したというニュースを冷徹に眺めていた。世界が、トマス・ピンチョンの「バインランド」をゆるく下敷きにした不条理劇に酔いしれる中、彼はこの閉塞を終わらせるための最終兵器として、この途方もない宇宙的散文「ベルゼバブの孫への話」を再起動させる指令を遂行することになった。
英語原題は『Beelzebub’s Tales to His Grandson: An Objectively Impartial Criticism of the Life of Man』である。人間の生に対する公正無私なる批判。人間生活への客観的かつ公正無私な批判。ここに、この本の読み替えの鍵がある。原題は、宇宙の階層や法則だけでなく、人間の生活そのものを批判対象として明示している。食事、排泄、衣服、虚栄、劇場、観光、科学、宗教、読書、教育、身体の使い方。人類の営み全体が、宇宙船の窓から監査される。だから、この本は「難解な精神世界の本」という棚ラベルだけでは読めない。文明批判であり、喜劇であり、宇宙論の顔をした生活診断でもある。
グルジェフはこの本の冒頭部で、読者への警告から始める。まず「三度読め」と命じ、さらに気に入らなければ金を返してもらえという趣旨の仕掛けを用意している。ジェイムズ・ジョイスもトマス・ピンチョンも言っていない。彼らは読者を試すが、逃げ道は教えない。グルジェフはわざわざ逃げ道を用意した上で「だが覚悟して読め」と言う。
この冒頭部の一部には、ソクラテスが『弁明』の冒頭で用いた仕掛けに近い反転がある。ソクラテスは、自分は法廷の語り方を知らない、飾り言葉は使えない、と語りながら、その謙遜の身振り自体を、きわめて強力な弁論へ変えてしまう。グルジェフもまた、文章作法を知らないと宣言しながら、その宣言を含む冒頭部を、読者の構えを揺さぶる仕掛けとして精巧に配置している。ソクラテスは死刑判決を受けながらあの弁明をした。グルジェフはこの本を、戦争と亡命と交通事故による瀕死の後に書いた。どちらも「普通の生き残り戦略」を捨てた場所からの言葉だ。ベルゼバブ研究者とプラトン研究者が同じ部屋にいたことが一度もなかった。カノンの分断が、接続されるべき線を見えなくしている。
ボルヘスが「伝奇集」で守ろうとしたのは、アッタールの尊重すべき「鳥の会話」を、批評家の浅薄な賞賛から解放することだった。30羽の鳥が神を求めて旅をした果てに、自分たちが神であったと気づく、この円環構造は、批評の消費に耐えた後も燃え続ける。そしてこれこそ、ベルゼバブが持つ宇宙的な文法と同じ種類の円環である。ボルヘスは「伝奇集」で、ジョイスとホメーロスの「意味のない一致」を賞賛する批評家たちを冷笑した。そして同様に、尊重すべきアッタールの「鳥の会話」を、バハドゥールの小説との表層的な一致でもてはやす批評家たちも、ロンドンでも、アラハバッドでも、カルカッタでも同じ軽率さで賞賛を博していると皮肉った。
さらにグルジェフは、言語の毒気についても鋭い。ロシア語は冗談と悪口言いに向いており、英語は暖炉のそばでオーストラリアの冷凍肉の話をするのに向いているという比喩。そして「mentation by thought」対「mentation by form」という概念を投げ込む。同じ言葉でも育った地理や条件によって「form」が違うから伝わらない、だから自分はこの書き方をするのだという宣言だ。これらすべてが、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」やトマス・ピンチョンの「重力の虹」、フランツ・カフカや安部公房、そしてウィリアム・バロウズやJ・G・バラードによる姦淫の洗礼を受けて発達してきた不条理小説の系譜を、一冊の宇宙的SFへと収束させる。
語り手はベルゼバブだ。地球の三脳生物たちが「悪魔」と呼ぶ存在だが、グルジェフの宇宙においてその呼称は誤謬の産物に過ぎない。ベルゼバブはむしろ、長い流刑と省察の果てに深い慈悲と客観的理性を獲得した、宇宙的な賢者だ。彼はかつて若気の至りで反乱を起こし、太陽系内の火星、オルスへ流刑に処された。のちに創造主から恩赦を受け、故郷カラタス星へ帰還したベルゼバブは、レヴォズヴラデンドル星で開かれる会議へ向かう宇宙船カルナック号の船上で、孫のハッシーンに過去の地球での出来事を語り聞かせる。それが、この一大叙事詩の基本構図だ。従者はアフーン。三者の対話が、宇宙論の核心をじわじわと明かしていく。
ベルゼバブが語る宇宙には、固有の登場人物がいる。アシアタ・シエマシュ、地球に遣わされた聖者。クンダバッファーという呪いの器官の影響によって、潜在意識の奥に残る客観的良心を日常の意識で働かせられなくなった三脳生物(人類)を救うために、「良心(Conscience)による覚醒」という使命を帯びた。彼は成功しかけた。しかし、レントロハムサニンという存在が現れた。レントロハムサニン、人類史上最も危険なハスナムスの一人。ハスナムスとは、自らの本質(essence)の発達よりも偽りの人格(personality)を肥大させ、他者の生命エネルギーを一方的に消費する存在のことだ。レントロハムサニンは、アシアタ・シエマシュが潜在意識の奥に残る客観的良心のデータを目覚めた意識へ参加させようとした働きを、巧みな理論で根絶した。「個人の自由」と「幸福の権利」という言葉によって。
ゴルナフール・ハルハルク、土星の天才科学者。ゴルナフールとは、土星の三脳生物たちが敬意を表すために名の前へ置く称号でもある。オキダノク(Okidanokh)、全宇宙に遍在するエネルギー。その三分割の実験によって、物質と意識の関係を証明した。ベルゼバブの親友にして、客観科学の体現者だ。エンジェル・ルーイソス(Angel Looisos)、クンダバッファーの器官を人類に埋め込んだ張本人。悪意からではない。月と地球のバランスを保つために、人類が現実を「逆さまに」認識するよう設計したのだ。その器官はのちに除去されたが、その結果が残った。アクルダン人(Akhldanns)、アトランティス大陸に実在した知的探求者の集団。ベルクルタッシという人物が設立した「自己認識」のための学会だ。彼らは自分たちの惑星に迫る大異変を予期し、その性質を突き止め、観測するために各地へ散らばった。その後まもなく、第二の地殻変動、すなわちアトランティス沈没が起こる。探求が失われたのではない。探求は、惑星全土へ分散したのだ。これらは比喩ではない。少なくともグルジェフにとっては。そしてこれらすべてを「SF」として読めるのが、ベルゼバブの最大の武器だ。
4. 18時8分、兵庫県伊丹市
フィネガンズ・ウェイク読破自慢をする人間が世界中にいる。ユリシーズ注釈書が山積みになっている。ピンチョン読者がひそかに仲間を確認し合うサイン言語を持っている。なのに、ベルゼバブ読者は集まってパーティをしていない。その状況は明らかにおかしい。むしろベルゼバブの方がパーティに向いている。三部作全部を読んだ者同士が集まれば、クンダバッファーの話、ルーシファーとサターンの役割分担の話、ハスナムスの類型の話、オクターブの法則がどこで滑落するかの話。話題が尽きない。
クンダバッファーという器官はなぜ埋め込まれ、なぜ除去されたのか。除去された後もなぜその結果だけが残ったのか。アシアタ・シエマシュの「良心による覚醒」計画はなぜレントロハムサニンの「個人の自由」論に敗北したのか。ゴルナフール・ハルハルクのオキダノク実験が示した「意識と物質の関係」は現代物理学とどう接続されるのか。ベルクルタッシとアクルダン人がアトランティス沈没の前に、迫り来る大異変を観測するため各地へ散った理由は何か。ヒーロパス(時間)はなぜ「容赦なき主人」なのか。ソリオネンシウスは今この瞬間も作動しているのか。レゴモニズムとして現代に残存している芸術作品は何か。ケスジャン体は本当に死後も存続するのか。パークトクドルグ義務を果たさずに死んだ魂は、本当に月の養分になるのか。ユリシーズ読書会で、これほどの話題が出るだろうか。古田割徹の使命は、その集合点を作ることだ。
2026年2月21日、土曜日。古田割徹は兵庫県伊丹市にいた。なぜここにいるのか、と問われれば、答えるのは難しい。誰かに命じられたわけではない。出張の予定もなかった。ただ、あの電話から数週間が経過し、気づけば新幹線の座席に座り、気づけばイオンモールの自動ドアをくぐっていた。18時8分。宗教・精神世界の棚の前に立ち、スマートフォンで写真を撮った。シャッターを切った瞬間、古田割の背中で何かが完成した。あの電話口の環境音は、これだったのだ。
写真には、未来屋書店伊丹(兵庫県伊丹市藤ノ木1-1-1-2041、イオンモール伊丹内)の宗教、精神世界の棚に「ベルゼバブの孫への話」が置かれている様子が写っていた。少なくとも、その時点で本書がこの棚に並んでいたことは確認できる。広角レンズが捉えたその画像は、宗教や精神世界の棚において、鈍い緑色の光を放つ平河出版社版ベルゼバブを鮮明に記録していた。それは在庫の一冊でありながら、配置そのものが意味を帯びているかのように見えた。古田割は、その写真を拡大し、記録されたメタデータを凝視しながら、これが宇宙のオクターブの滑落を防ぐための特異点であることを確信した。

隣には「フィンドホーンの魔法」や「サマディ」、上段にはルドルフ・シュタイナーやクリシュナムルティが並ぶそのカオスな棚のど真ん中に、この緑色の怪物が鎮座しているのである。この場所こそが、宇宙船カルナック号の地球における秘密の着陸地点であり、不条理の砂漠を泳ぐ読者たちのための唯一の希望のデリバリーセンターなのだ。写真の背後に、この棚の配置を選んだ誰かの判断を想像したくなる。だが、未来屋書店伊丹店に、秘密結社のにおいはしなかった。暗号化された合図も、棚の奥に潜む連絡係も、グルジェフ・ソサエティの黒い封筒も、少なくともその時点では見つからなかった。ただ、生活音の中に置かれた一冊の本だけが、あまりにも平然と、そこにあった。
その後、古田割は伊丹の地図を見直した。未来屋書店伊丹店の棚、有岡城跡、そして荒村寺。荒村寺は荒木村重ゆかりの寺として知られ、江戸時代に城山庵から荒村庵へ改名された経緯も、荒木村重の古城跡の由緒に関わるものとして伝えられている。有岡城の記憶は、城跡だけに閉じ込められているわけではなかった。駅前の整備で風景が変わり、寺が場所を移し、書店が3Fから2Fへ移り、映画の告知が街の情報として流れ込んでも、村重の影だけは、町の別々の面に薄く残っていた。
米澤穂信は岐阜県出身の作家である。『黒牢城』は、伊丹出身者の郷土小説としてではなく、有岡城の戦いという、逃げ場のない閉鎖空間をミステリーの舞台装置として選び取った作品として生まれた。その作品が直木賞を経て映画化され、今度は伊丹市と結びつき直す。原因と結果の向きが、どこかで反転しているようにも見える。土地が作品を呼んだのか。作品が土地を呼び戻したのか。それとも、観測者である古田割が、ただ勝手に線を引いているだけなのか。
「場所が、増えていますね」と有卦瓜は言った。
「増えているのか、見えるようになっただけなのか分からない」と古田割は答えた。
有岡城は、閉鎖された城だった。『黒牢城』は、その閉鎖をミステリーに変えた。荒村寺は、村重の名を寺号に残した。未来屋書店伊丹店には、宗教・精神世界の棚に『ベルゼバブの孫への話』が置かれていた。閉じた城、残った寺、置かれた本。3つの点は、説明を求めるには近すぎ、証拠と呼ぶには遠すぎた。
荒村寺にも、有岡城跡にも、映画のポスターにも、決定的な証拠はなかった。ただ、伊丹という地名だけが、すべての線を黙って引き受けていた。
5. ジョイスとピンチョン
ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」は、言語という素材を極限まで酷使した、人類の知的冒険の頂点のひとつだ。トマス・ピンチョンの「重力の虹」は、戦後世界のパラノイアと官僚制の暴力を、前代未聞の密度で地図化した。フランツ・カフカの不条理は、現代人が感じている理由のわからない恐怖に、初めて正確な輪郭を与えた。安部公房は、アイデンティティの消失という体験を、日本語で初めて宇宙論的なスケールで書いた。ウィリアム・バロウズは言語そのものをハックし、J・G・バラードは人間の欲望の深部に潜む奇妙な美しさを解剖した。これらの作家たちは、最高に面白い。読者の脳を、かつてない方向へ引き伸ばす。
ただ、一つだけ、足りないものがある。
彼らは世界を解体することに天才的だ。しかし、解体した後の設計図を持っていない。ジョイスは神話の構造を借り、ピンチョンはエントロピーに身を委ね、カフカは不条理を提示したまま幕を閉じる。それは誠実さの表れでもある。「答えを知らないのに答えを語るな」という、知的誠実さだ。
だから古田割は、彼らをリスペクトしながら、もう一冊の本を手渡したい。
フィネガンズ・ウェイクの難解さを笑いながら愛せる者が、ベルゼバブの造語の洪水を前に怯むはずがない。重力の虹のパラノイアの迷宮を最後まで泳ぎ切った者が、レントロハムサニンの悪意の構造を退屈と感じるはずがない。カフカの城の前で立ち尽くしながらもページをめくり続けた者が、ケスジャン体の宇宙論を前に降参するはずがない。ポスト・モダンを楽しめた君に、ベルゼバブが楽しめないわけがないのだ。
ここに、もう一つの回路を足しておきたい。ベルゼバブの造語群は、ジョイスやピンチョンの難解文学だけでなく、ナンセンスSFの命名感覚とも接続している。筒井康隆『馬の首風雲録』には、馬頭型暗黒星雲、サチャ・ビ族、コウンビ族、ビシュバリク、ブシュバリク、トンビナイ、ズンドローといった、長い固有名や脱力する造語が次々に出てくる。戦争SFの骨格を持ちながら、それらの命名が作品をナンセンスな異星軍記へと変えていく。カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』や『スローターハウス5』には、トラルファマドール、トラルファマドール星人、さらに『タイタンの妖女』の chrono-synclastic infundibulum のように、疑似科学と冗談が結びついた長い名称が登場する。ダグラス・アダムズ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の Infinite Improbability Drive、Zaphod Beeblebrox、Prostetnic Vogon Jeltz も、意味があるようで徹底してふざけた命名だ。スタニスワフ・レム『サイベリアード』では、トルル、クラパウチウス、長大な章題や疑似科学的な機械名が、ナンセンスSFの造語感覚を支えている。
さらにトマス・ピンチョン『重力の虹』には “More Ouspenskian nonsense” という趣旨の表現があり、ウスペンスキー的な神秘思想や四次元思想を、作中で茶化すように扱っている。ただし、これをピンチョン本人がグルジェフ全体をたわごと扱いしていると断定してはならない。むしろピンチョンは、グルジェフ周辺の思想に接近しながら、同時にそれを信用しきらない距離感も持っている。ベルゼバブの造語群は、ジョイスやピンチョンの迷宮だけでなく、筒井康隆、ヴォネガット、アダムズ、レムが開いた、笑いと疑似科学と宇宙的ナンセンスの系譜からも読めるのである。
違いはただひとつ。787ページのベルゼバブは、解体の後に設計図を差し出す。その設計図の詳細を聞いてほしい。ヒーロパス、時間の流れそのもの。グルジェフはこれを「容赦なき主人」と呼んだ。時間は何も待たない。ソリオネンシウス、特定の宇宙的サイクルにおいて惑星全体の生命体に「相互破壊への衝動」が高まる現象。人類の戦争の多くはこれで説明できるとベルゼバブは言う。テオメルトマロゴス、最高太陽絶対体(ゴッド)の放射。宇宙の根源的エネルギーの名前だ。メガロコスモス、宇宙全体の体系。プロトコスモス、その核心。
心理的な造語はさらに深い。ハンブレドゾイン(hanbledzoin)、三脳生物の第二の体であるケスジャン体を養う「血」に相当するもの。肉体の血液とは別の独立した実体であり、太陽や他の惑星の要素が変換されて得られる。このハンブレドゾインの働きによって、人が人を「催眠」するような特殊な影響関係も説明される。マルトフォタイ、最高次の思考そのものではなく、自己の個性(self-individuality)に関わる段階を指す語。必要な客観的理性の段階として語られるイシュメチとは、ここで混同してはならない。ケスジャン体、魂の中間的な体。物質的身体が死んだ後も存続しうる、精妙な構造体。パークトクドルグ義務(Being-Partkdolg-Duty)、意識的労苦と意図的苦悩。三脳生物が自らの本質を発達させるために課せられた、宇宙的な義務。これを怠った者は、死後ケスジャン体が維持できず、月の「養分」となるとグルジェフは言った。
レゴモニズム、芸術の本来の機能。かつての人類は、重要な知識を世代を超えて伝えるために、音楽、建築、舞踊の中に「客観的な情報」を埋め込んでいた。ストーンヘンジも、エジプトのピラミッドも、グレゴリオ聖歌も、レゴモニズムだとベルゼバブは言う。現代の芸術はその機能を失った。イラニラナマンジュ、宇宙的な物質交換の原理。あらゆる存在は、食われることで別の存在の栄養になる。死は終わりではなく、宇宙的な循環への参加だ。アヌリオス、地球の衛星のうち、人類が「月」と呼ぶ方の兄弟。現在は見えなくなったもう一つの衛星の名前。ティクリアミシュ、マラルプレイシー、真珠の地、アトランティス沈没後に人類が集まった三つの文明圏。現代の中東、インド、中央アジアに対応する。
ポスト・モダン文学が誠実に留保した「希望」を、グルジェフはこれだけの解像度で差し出してくる。純粋文学の不文律である「役に立ってはならない」という教条を、古田割は粉砕するのではなく、そっと脇に置く。ジョイスやピンチョンが掘った穴の底に、ベルゼバブという梯子が立てかけてある。そこにあるのは、目的の違いだ。
なぜベルゼバブが巨塔リストに入らないのか。古田割は三つの層で考えてきた。第一層はジャンル汚染だ。フィネガンズ・ウェイクが難解でも小説と呼ばれる限り、批評は土俵に上げる義務を感じる。ベルゼバブは、テクストに向き合う前に「グルジェフの教え」というラベルを貼られ、宗教や自己啓発、カルトの棚に分類される。ジョイスは教会から逃げたから文学になり、グルジェフは宇宙論を持ち込んだから霊性になる。この非対称性は、知的怠惰に等しい。第二層はテクストの実用性への嫌悪だ。ポスト・モダン文学の不文律である「役に立ってはならない」という意識。ベルゼバブが宇宙の善き設計への確信を与え、健康法のヒントまで提供するという事実は、文壇的には傷として機能する。第三層は造語の政治学だ。ジョイスにはエズラ・パウンドという保証人がいた。グルジェフの保証人は誰だったか。グルジェフの保証人は、確かに少ない。しかし、いないわけではなかった。
松岡正剛は編集工学というフレームで接続を試みた。ただ、そのフレームがむしろベルゼバブを文学カノンから別の棚へと移送してしまった側面がある。笠井叡は天使論という回路からグルジェフを照射し、身体と宇宙の接続を舞踏の言語で語った。松村潔は『人間は宇宙船だ』において、グルジェフの宇宙論を占星術的・霊的な地平から読み直した。そしてYouTubeという予想外の媒体において、「グルジェフの言う複数のわたしは、おなじ時系列に属さない」という命題を真剣に考察する声が、今この瞬間も増殖している。文学カノンへの接続は失敗し続けているが、別の回路からの接近は止まっていない。問題は、それらがいまだに点在したままで、百万人のパーティに結集していないことだ。
そしてベルゼバブ自身もまた、観察者の席にとどまり続けるわけではない。物語の終盤で、彼の位階そのものが揺らぐ。悪魔の名を持つ者が、長い流刑と観察と苦悩を経て、聖者たちの列に接近してしまう。その危険な問いは、いまは棚の奥に置いておく。伊丹の写真の中で、もう一度戻ってくるからだ。
6. 陰謀論フェスの宇宙監査官
ポストモダンといえば、陰謀論と文明批判である。世界を裏から牛耳っている謎の古代組織があり、主人公を邪魔したり、干渉したりする。主人公は翻弄される。しかし最後まで、その秘密結社が本当に存在するのかどうか分からない。いるのか、いないのか分からない。この感覚こそ、ピンチョン的な不条理と陰謀論の快楽である。
『重力の虹』のロケットはどこから飛んできて、誰の欲望を通過し、誰の官僚制に吸い込まれ、誰の身体に落ちるのか。読者は何度も地図を広げる。地図は増える。線も増える。矢印も増える。やがて矢印そのものが疑わしくなる。陰謀は見える。見えすぎる。見えすぎるせいで、かえって本当にそこにあるのか分からなくなる。これがポストモダンの祭りだ。悪の黒幕、秘密結社、見えない支配者という仮面舞踏会を、人間はときどき必要とする。不条理な世界を処理するために、誰かが裏で糸を引いているという物語を欲しがる。
ところが『ベルゼバブの孫への話』では、その快楽が一段階ひっくり返る。陰謀論でいうところの秘密結社は、実は存在する。ただし、それは悪の秘密結社ではない。意識覚醒者たち、人類や宇宙の守護者たちである。至高絶対太陽という神のごとき絶対者から遣わされた使者たち、あるいは元使者ベルゼバブが、世界の裏側で人類史を観察し、介入し、守護している。
つまり、ベルゼバブは「秘密結社もの」でもある。だが、その秘密結社は悪ではない。守護団である。意識覚醒者の集団である。宇宙的なコンサルティング集団である。ベルゼバブ自身も、守護団から召喚されたコンサルタント、あるいは宇宙監査官のような立場として読める。地球の三脳生物たちは、勝手に眠り、勝手に戦争をし、勝手に缶詰をありがたがり、勝手に白パンを高級品だと思い、勝手に劇場へ行き、勝手に観光地で思想の箱舟に蓋をする。その現場へ、宇宙の監査役が派遣される。
このコンサルティング集団は、地球の三脳生物たちに対して、甘い励ましだけを投げるわけではない。彼らは記録する。診断する。怒る。笑う。呆れる。文明の穴を指差す。悪臭を嗅ぐ。缶詰を疑う。白パンを笑う。劇場や観光やスポーツや学者の虚栄を、宇宙船の窓から見下ろす。
ここから、「悪の陰謀論は真相としては成立しえない」という読みが出てくる。少なくとも、ベルゼバブ的な宇宙においてはそうだ。意識的覚醒者は、悪の陰謀を企てる存在ではない。意識=善であり、真に意識的な存在は、宇宙の調和を破壊する黒幕にはならない。悪はむしろ、眠りであり、機械性であり、反応であり、虚栄であり、自己正当化であり、他者の生命エネルギーを吸うハスナムス的な鈍さである。そこに高度な意識はない。
ただし、悪の陰謀論という「祭り」は存在してよい。人間は、不条理な世界を処理するために、悪の黒幕、秘密結社、見えない支配者という仮面舞踏会を必要とすることがある。陰謀論は真理ではないが、祭りとして、仮面として、物語の舞台装置としては機能する。問題は、それを真相として固定することではなく、自分がなぜその祭りを欲しがるのかを観察することにある。
悪の陰謀論は祭りである。ポストモダンはその祭りを踊る。ベルゼバブは、その祭りを破壊するのではなく、その上空から監査する。人類の食事、排泄、身体、悪臭、観光、演劇、科学、虚栄、読書、信仰、缶詰、白パンまで診断している。つまり、ベルゼバブは陰謀論フェスの救護班であり、仮面舞踏会に現れた宇宙監査官である。
ここで、グルジェフ自身の第一章が戻ってくる。原典第一章には、酔ったロシア商人が本屋で送料込みの値段に戸惑った末に口にする言葉がある。英語では “If you go on a spree, then go the whole hog, including the postage.” 日本語にすれば、「バカ騒ぎをするなら、送料も含めてとことんやれ」程度の意味になる。グルジェフはこの商人の言葉を、自分が本を書く際の全宇宙的な原則にまで引き上げている。どうせ書くなら、地球の小さな尺度ではなく、全宇宙の尺度で書く。どうせ騒ぐなら、送料まで含めて騒ぐ。
ベルゼバブ・パーティとは、グルジェフ自身が第一章で開いている全宇宙規模のバカ騒ぎの延長である。祭りをやるなら、きれいな信者だけを集めて終わらせない。アンチも、誤読者も、偽物も、剽窃者も、性格診断に変えた者も、守る者も、怒る者も、疑う者も、送料として含める。だが、送料に含めることと、加害を許すことは別である。祭りは混乱を引き受ける。誤読、仮装、市場化、ユダ的な流出を引き受ける。人を傷つける支配と搾取には、宇宙監査官が退場を命じる。
古田割はこの言葉を思いついたとき、しばらく笑った。陰謀論フェスの救護班。仮面舞踏会に現れた宇宙監査官。軽すぎる。だが、軽さの底に正確さがある。ベルゼバブは、秘密結社的な配置そのものを、悪の黒幕から守護団へ反転させる。ピンチョンが提示する「いるのか、いないのか分からない」快楽を、グルジェフは「いる。ただし君が思うような悪ではない」という宇宙的冗談に変える。
その冗談は、怖い。悪よりも怖い。悪の秘密結社なら、責任を外へ押しつけられる。守護団が存在するなら、自分の眠りが見られている。自分の食べ方、座り方、排泄の仕方、笑い方、観光の仕方、信仰の仕方、読んでいない本を読んだふりにする態度まで、全部見られている。ポストモダンの陰謀論は「誰かが世界を支配している」と囁く。ベルゼバブは「君は自分の胃袋さえ支配していない」と言う。
ここに、ベルゼバブの喜劇性がある。ベルゼバブの宇宙論は、文明批判をすべて飲み込んだ、喜劇的な現代文明批判の書として立ち上がる。しかも、裁きだけで終わらない。聖書風に言えば、ベルゼバブには「裁き」と「救い」、あるいは「恵み」がセットで存在する。人類を痛烈に批判するだけでなく、身体、食、排泄、生活習慣、文明のあり方について、どこかに回復のヒントが添えられている。笑いながら、殴る。殴りながら、手当てする。陰謀論フェスの救護班とは、そういう意味でもある。
ベルゼバブはマキャベリストでもある。冷酷な策士という意味ではない。人類の眠りを相手に、嘘、寓話、誇張、戯画、反転、挑発を使う存在という意味である。それは悪意ある操作ではなく、人類を守るための方便である。嘘も方便という福音書。宗教的な断定ではなく、物語の機能としてそう読める。ベルゼバブの地球来訪エピソードの多くは、人類を守るためのウソ、あるいはウソの形式を帯びた真実として読める。正面から真実を言っても眠っている者には届かない。だから物語が必要になる。誇張が必要になる。笑いが必要になる。ひどい悪口に見える文明批判が必要になる。
カント的な「嘘をつくな」という倫理だけでは、この領域は測れない。マハーバーラタのアシュヴァタマンの場面のように、形式上は嘘ではないが、相手の認識を動かすために言葉が使われる領域がある。ベルゼバブはその領域にいる。彼は人類を騙すのではない。眠っている人類の認識を、嘘の形を借りた真実で揺さぶる。裁きと救い。悪口と診療。戯画と処方箋。それらが同じ皿に盛られている。
だから古田割は、この本をポストモダン文学の読者に届けたいと思った。陰謀論を笑い、陰謀論に酔い、陰謀論を疑いながら、なお陰謀論の形を必要とする読者たちに。ベルゼバブは、その祭りの中央に降りてくる。そして言う。踊ってもよい。だが、自分がなぜ踊りたいのかを観察せよ。
7. 文化人類学的預言としてのベルゼバブ
古田割がベルゼバブを「小難しい宇宙論の本」として売り出す気になれなかったのは、そこに文化人類学的預言の爆発があるからだった。ベルゼバブは宇宙の法則を語る。だが、それと同じ熱量で、人間の風呂、便所、食べ物、缶詰、パン、ガム、果物、劇場、スポーツ、医者、薬剤師、香水、服装、髪型、ヒゲ剃りまで語る。宇宙論と文明批判が分離していない。宇宙論があるからこそ、文明批判がただの愚痴ではなく、宇宙監査になる。
ベルゼバブは、喜劇的な現代文明批判である。しかし、そこには批判だけではなく、文化人類学的預言の書としての、正解も載っている。身体が忘れた知恵、食が失った保存の技術、排泄が捨てた姿勢、注意が眠りに変わる瞬間。ベルゼバブはそれらを笑い、呆れ、裁く。裁きながら、戻る道も置いている。
まず風呂である。ベルゼバブは、ヨーロッパ人がハマムのように毛穴の奥の油脂や老廃物を熱で溶かして洗う習慣を失ったため、特有の悪臭を放つようになったと皮肉る。その悪臭をごまかすために香水が発達した。ところが犬たちにとっては、悪臭と香水が混ざった匂いの方がさらに不快である。ここで笑って終わると、ただの悪口になる。だがベルゼバブの批判は、衣服、毛穴、洗浄習慣、虚栄心、身体知の喪失をめぐる文明批判として読める。
衣服を着ることで、皮膚の毛穴から排出されるべき老廃物や油脂が滞留する。普通に湯で洗うだけでは落ちない。ゆっくり温めることで毛穴の奥の油脂を溶かし出す。そのための仕組みがハマムである。現代のサウナ、スチームサウナ、温熱療法、身体メンテナンスの流行は、ベルゼバブの宇宙船から見ると、失われた身体知の回帰に見える。悪臭への裁きと、ハマムという救いがセットになっている。
次に排泄である。現代の快適な便座、椅子型トイレは、排便に必要な自然な姿勢を奪い、便秘や身体機能の衰えにつながるとベルゼバブは見る。ここで扱われているのは、特定の国のトイレ形式の優劣ではない。昔の人間が本能的にとっていた排便姿勢を、快適さが奪うという話だ。便利さが身体の知恵を弱らせる。文明は人間を助けながら、人間から身体を取り上げる。
さらに古代ティクリアミッシュ文明の寝たきり安楽トイレ、安楽ベッドの話がある。富裕層が、横たわったまま排泄できるような安楽装置を発明する。あまりに楽だ。楽すぎる。身体は働かなくなる。病が生まれる。社会的な反発も生まれる。最後には奴隷や民衆による暴動と皆殺しにつながる。これはブラックユーモアであり、同時に現代の介護ベッド、過剰な快適化、身体を使わずに済む装置への預言のようにも読める。ベルゼバブは笑っている。だが、その笑いの奥には「身体を使え」「自然な姿勢を失うな」という処方がある。
レストランも逃れられない。何百というメニューを掲げるレストランの厨房は、さぞ巨大な調理器具の神殿のような場所だろうと思いきや、実際にはフライパンが数個あるだけで、缶詰をあぶるだけで料理を出している。ベルゼバブはそこを突く。メニューの多さは豊かさの証明ではなく、虚栄と即席の演劇になりうる。さらに缶詰食品について、肝心の栄養素が缶の中で変質し、開けた途端に失われるという戯画的批判もある。現代栄養学の主張として読むより、保存と加工への過剰な信仰を笑う文明批判として読むべきだろう。
そしてここでも、裁きだけで終わらない。缶詰への批判には、マラルプレイシー、あるいは古代アジアの保存食の知恵が接続される。保存食そのものが悪いのではない。自然の理にかなった保存方法、身体に必要なものをできるだけ失わずに保つ技術がある。ベルゼバブは、文明化された保存食を笑いながら、別の保存の知恵を示す。裁きと救い。缶詰と古代アジアの保存食。文明批判と文化人類学的預言。
白いパンも同じだ。人間は穀物の一番重要な胚芽や麦芽、殻の近くにある栄養豊かな部分を捨てて、白くなった残りかすのようなパンや穀物をありがたがって食べている。これは、現代の精製食品批判、全粒穀物の価値、見た目の白さへの虚栄心に対する批判として読める。白いものを高級と感じ、精製されたものを清潔と感じ、生命を支える部分を捨てる。ベルゼバブはそこに、文明の奇妙な美意識を嗅ぎつける。
ガムも出てくる。現代のチューインガムのような習慣について、古代アジアのケヴァの話が重なる。ただ噛むだけの嗜好ではなく、唾液や体内物質の分泌を促し、消化を助け、歯や口内を清潔に保つという合理的な意味があった。ところが現代人は、その意味を忘れ、表面的な習慣だけを真似ている。ここにも、批判とソリューションのセットがある。噛むこと自体に意味があった。唾液には意味があった。口内には身体全体へ通じる門があった。現代人は門を忘れ、ミント味の包装紙だけを残した。
果物、ジャム、オレンジエードも、ベルゼバブの監査対象になる。見た目だけを重視して品種改良された果物。化学染料で色づけされたジャム。胃腸の粘膜を荒らすオレンジエード。ここで問題にされるのは、食そのものよりも、食にまとわりつく虚栄心である。色が美しい。形がよい。甘い。派手だ。売れる。だが、身体は何を受け取っているのか。胃腸は何を言っているのか。ベルゼバブは、舌と胃腸のあいだにある断絶を笑う。
医師と薬剤師も登場する。拝金主義、偽薬、X線治療への皮肉。ここは現代医学を全面否定する場所ではない。グルジェフの語りは、科学そのものより、科学を信仰化し、金と虚栄と機械性に従属させる人間の態度を批判している。治療が商売になり、商売が権威になり、権威が考える力を奪う。その瞬間、科学は科学でありながら迷信になる。
ダーウィン進化論への戯画的批判も同じだ。現代科学としての進化論を否定する主張として読む必要はない。ベルゼバブの語りは、学者の虚栄、流行理論への盲信、思考の機械性を笑うものとして読める。人間は新しい理論を手に入れると、それを考える道具としてではなく、他者を見下す椅子として使い始める。ベルゼバブは、その椅子の脚を蹴る。
女性のショートヘア、アトロピン、ヒゲ剃り、衣服への批判もある。現代の読者はそこに、性差別的・身体規範的な断定を感じるかもしれない。だが、ベルゼバブの過剰な戯画として読むなら、焦点は美容、ファッション、身体機能、虚栄心の絡み合いにある。髪型そのものを裁くのではなく、人間が身体を記号に変え、記号を流行に変え、流行を自分の意思だと錯覚する、その機械性が笑われている。
お上品教育、演劇、劇場、観光、スポーツ、フォックストロット。これらもまとめて監査される。現代文化の自己鎮静、虚栄心、見せびらかし、機械的娯楽への批判だ。劇場へ行く。観光名所へ行く。スポーツを観る。踊る。お上品にふるまう。そこには楽しみがある。だが、楽しみが眠りの延長になることもある。自己観察を失った娯楽は、眠りの模様替えになる。ベルゼバブは、注意を失った娯楽を、宇宙船の窓から見ている。
こうして見ると、ベルゼバブは、現代文明を笑っている。笑いながら正解も置いている。白パンには全粒の知恵がある。缶詰にはマラルプレイシー、あるいは古代アジアの保存食の知恵がある。便座には自然な排便姿勢の知恵がある。悪臭と香水にはハマムの知恵がある。ガムにはケヴァと唾液の知恵がある。劇場や観光やスポーツへの批判には、自己鎮静ではなく意識的な注意を取り戻す道がある。
聖書風に言えば、裁きと救い、あるいは裁きと恵みがセットになっている。だから、これは説教ではなく、文化人類学的預言である。文明の奇妙な習慣を戯画化しながら、どこで人間が身体、自然、注意、良心、理性から離れたのかを記録している。そして、離れたなら戻る道もある、と示している。ベルゼバブは裁く。裁きながら、恵みを隠す。いや、隠してはいない。人間の方が、缶詰を開けた瞬間に大事なものを逃がすように、恵みを見逃しているだけなのだ。
8. 福音書をまねた男
古田割がベルゼバブを広告するうえで避けて通れないエピソードがある。福音書をまねた男の話だ。このエピソードには、ベルゼバブ版のマキャベリズム、群集心理批判、読まずに崇拝する文化への冷酷な喜劇が詰まっている。
ある平凡な作家が、マタイやルカなどの福音書を読む。そこで彼は、自分も福音書を書いてみようと思いつく。動機は崇高ではない。古代の野蛮人たちより自分の方が教養があるから、もっとよい福音書を書けるはずだという思い上がりがある。さらに、イギリス人やアメリカ人はこの手の本が好きだから金になるという俗物的な計算もある。信仰と市場が、同じ机の上で握手している。ベルゼバブはその握手を見逃さない。
その作家の本は、権力者たちから危険視される。破門。アナテマ。禁止。糾弾。だが、その騒ぎが逆に宣伝となる。民衆はその作家に飛びつく。本人の新しい福音書だけでなく、過去の著作まで売れ、大ベストセラー作家になる。権力の禁止が広告になる。スキャンダルが販売促進になる。裁きが販促になる。ここには、出版社の宣伝課長である古田割が顔を覆いたくなるほど正確な、ベルゼバブ版マキャベリズムがある。
さらに残酷なのは、その後である。後世に残ったのは中身ではない。多くの人はその本を読んでいない。名前だけを知っている。読んでもいないのに、彼を偉大な作家、驚異的な人間心理の理解者として崇拝する。つまり、読者は本を読まずに、騒ぎとラベルを読む。中身ではなく、名前を崇拝する。
誰かの実名に還元するよりも、このエピソードは、名前だけが崇拝され、読まれない本が権威になる寓話として扱うべきだ。特定の作家に押し込めると、ベルゼバブの刃が鈍る。ここで刺されているのは、個人ではなく、文化の習慣だ。読んでいないのに知ったつもりになる。中身ではなく、騒ぎとラベルを崇拝する。これは現代の「名前だけ知っている名著」文化そのものだ。
たとえば『重力の虹』。名前は知っている。難解な名作であることも知っている。ピンチョンが重要らしいことも知っている。読んだかどうかは、別の問題になる。あるいは『ノストラダムスの大予言』のように、原典そのものより、解説書、都合のよい抜粋、恐怖を煽る翻案だけが流通する現象もある。構造は似ている。人間は、原典ではなく、原典の周囲に発生した霧を吸う。
そしてこのエピソードは、『ベルゼバブ』そのものにも跳ね返る。『ベルゼバブの孫への話』もまた、読まれないまま「難解な神秘思想書」として棚に戻される危険がある。名前だけが流通する。厚いらしい。難しいらしい。グルジェフらしい。宗教っぽいらしい。危ないらしい。そう言われながら、本体は読まれない。ベルゼバブが福音書をまねた男を笑った刃は、ベルゼバブ自身の背表紙にも刺さっている。
人間は、自分自身の論理的思考によって信念を形成する義務を放棄し、他人の意見、世間の評判、権威、流行に依存して生きている。読んでいないのに知ったつもりになる。中身ではなく、騒ぎとラベルを崇拝する。古田割はこの構造に、出版社の人間として震えた。広告はこの構造を利用する。利用しながら、破らなければならない。だからこそ、この広告小説は、その誤解を破る必要がある。
ベルゼバブはマキャベリストである。だがそれは、群衆を支配する冷酷な策略家という意味に収まらない。彼は、人類が騒ぎによってしか目を向けないことを知っている。だから騒ぎを使う。人類が寓話によってしか自分の姿を見られないことを知っている。だから寓話を使う。人類が誇張や戯画や反転にだけ反応することを知っている。だから過剰に言う。嘘も方便という福音書。嘘の形式を帯びた真実。人類を守るための物語。
古田割は、有卦瓜に言った。
「広告は、騒ぎを作ります」
「はい」
「ベルゼバブは、騒ぎを疑います」
「はい」
「では、ベルゼバブを広告するとは何ですか」
有卦瓜はしばらく黙った。
「騒ぎを作って、騒ぎそのものを観察させることです」
古田割はうなずいた。福音書をまねた男は、ベルゼバブの中にいる。古田割の中にもいる。読者の中にもいる。名前だけ知っている名著の山の中に、まだ読まれていない緑色の巨冊がある。その本を手に取らせるためには、マキャベリズムが必要だった。だが、そのマキャベリズムが眠りを深くしてはならない。嘘も方便であり、方便は救いに向かわなければならない。
9. アンチ使徒と偽物たちの送料
グルジェフは、祭りをすでに知っていた。第一章のロシア商人は、送料込みの値段に戸惑い、酔った口であの原則を吐き出す。バカ騒ぎをするなら、送料も含めてとことんやれ。この一言が、古田割の中で、ベルゼバブ・パーティの憲法になった。どうせ騒ぐなら、清潔な信奉者だけを呼ぶな。どうせ読むなら、棚の奥の正統派だけで閉じるな。アンチも、偽物も、誤読も、流用も、剽窃も、性格診断も、守る者も、怒る者も、疑う者も、送料として観測しろ。送料込みでなければ、全宇宙規模の本にはならない。
その送料の中に、小森健太朗『グルジェフの残影』がある。小森健太朗は、グルジェフを神秘思想の聖者としてではなく、危険な精神的支配者、あるいは歴史ミステリの怪人物として読む。スピリチュアル支持者の中にも、グルジェフを強く嫌う人たちがいる。小森健太朗は、その代表に見える。古田割は、その位置を消すべきだとは思わなかった。むしろ、それでなくては祭りは盛り上がらない。ベルゼバブ・パーティには、信奉者だけではなく、アンチ使徒も必要である。
アンチ使徒は、教祖化されたグルジェフ像を揺さぶる。信者のぬるい陶酔を壊す。祭りに陰影を与える。グルジェフを極悪人として読む視線も、ベルゼバブ的宇宙の中では観測対象になる。もちろん、それを原典理解そのものと混同してはならない。小森健太朗作品におけるグルジェフ像、文学的・ミステリ的なグルジェフ像として扱う必要がある。だが、アンチ使徒の祭りには、祭りの役目がある。光だけで組んだ祭壇は、すぐ安物になる。影が入って、ようやく立体になる。
一方で、守る者もいる。ウィリアム・パトリック・パターソン『グルジェフを求めて:〈第四の道〉をめぐる狂騒』は、第四の道をめぐる商業化、歪曲、盗用、偽の継承者たちを問題にしている。パターソンは、偽物たちの祭りを記録し、会場から排除すべきものを見分けようとする守る者の側にいる。怒っている監視員。門番。記録係。ベルゼバブ・パーティの入口で、チケットを確認する男である。
送料として含めるものと、会場から退場させるものを見分けなければならない。
第一に、栞の人々。ロバート・アール・バートンとフェローシップ・オブ・フレンズ。古田割は、ここを完全なる偽物として断罪する。グルジェフ関連書籍に栞や広告を挟み込み、あたかも正統な第四の道と接続しているように見せる手法は、悪質な擬態である。棚の中のベルゼバブに寄生し、読者の探求心に釣り針をかける。まさに栞の人々だ。しかも、ロバート・アール・バートンは「グルジェフは身体のリーダー、ウスペンスキーは感情のリーダー、自分は知性のリーダー」という、ワークのどこにも書かれていない教義を騙ったとされる。これは最もたちの悪い偽教義の一つである。グルジェフとウスペンスキーの名を踏み台にし、自分を三番目の頂点へ置く。偽物の王冠は、いつも盗んだ名前でできている。
さらにバートンについては、若い男性メンバーへの性的加害、グルーミング、支配、搾取をめぐる重大な告発、報道、訴訟で問題化した事柄がある。ここで古田割の声は冷える。仮装、誤読、狂騒として処理できる領域を越えている。人を傷つける支配と搾取を、ベルゼバブ・パーティに含めてはならない。祭りは混乱を引き受ける。だが、加害を祝わない。搾取を踊らせない。宇宙監査官は、ここで退場を命じる。栞の人々は、送料の箱に紛れ込んだ毒物である。会場から排除されるべき偽物である。
第二に、エニアグラム性格タイプ。古田割はこれを犯罪の棚ではなく、巨大な祭りの棚へ置く。グルジェフ由来の象徴が、心理学、自己啓発、ビジネス研修、性格診断へ変形し、大衆化され、市場化され、現代的な仮装行列になった。原典のワークそのものではない。グルジェフのエニアグラムが、性格タイプ論として流通する現象は、誤読であり、市場化であり、同時に巨大な社会的イベントでもある。企業研修の会議室で、9つのタイプが踊る。自己理解のシートに、人間が自分の機械性ではなく、自分のキャラクターを記入する。ベルゼバブなら、たぶん笑う。古田割も笑う。だが、笑いながら観測する。これは送料に含まれる騒ぎだ。ベルゼバブ・パーティの外周で回っている、巨大な性格診断のメリーゴーラウンドである。
第三に、Oshoの剽窃、流用、取り込み。Oshoは正統な継承者の列から外れ、偽物の側に置かれる。しかし、この祭りは単純な盗用だけで終わらない。Oshoへ情報が流出した背景には、J・G・ベネットの意図的関与が疑われる、という仮説がある。それはユダの道なのかもしれない。ユダの祭りなのかもしれない。ユダの祭りは、気持ち悪いものとして切り捨てるには情報量が多すぎる。裏切り、流出、剽窃、拡散、翻案、誤読、救済の可能性が絡み合う。もっともポスト・モダン的な混乱と不条理の世界である。スピリチュアル系のアンチ使徒よりも、こちらの方が情報量が充実している。アンチ使徒は外から石を投げる。ユダの祭りは、内側から鍵を開ける。情報は外へ漏れ、漏れた情報は汚れ、増殖し、別の市場へ流れ込む。そこにポスト・モダン的な不条理がある。
守る者。アンチ使徒。祭りとして含める偽物。祭りから排除する偽物。古田割は、この4分類を、道徳の表としてではなく、宇宙監査の配置図として見た。パターソンは守る者。小森健太朗『グルジェフの残影』はアンチ使徒の祭り。エニアグラム性格タイプとOshoの剽窃・流用は、正統から外れながらも現代の狂騒として観測される送料。ロバート・アール・バートンとフェローシップ・オブ・フレンズは、支配と搾取と偽教義を伴う退場対象。祭りには、許すもの、観測するもの、退場させるものを選り分ける力がいる。送料として含めるものと、会場から排除するものを見分けることまで含めて、祭りである。
「バカ騒ぎをするなら、送料も含めてとことんやれ」
古田割は、その言葉をもう一度メモした。送料には、アンチ使徒の本も入る。性格診断の山も入る。Oshoの市場も入る。J・G・ベネットの怪しい影も入る。搾取と加害は、送料の箱に入り込んだ毒物である。ベルゼバブ・パーティを開くなら、その区別をつけなければならない。踊らせるもの。観測するもの。笑うもの。怒るもの。退場させるもの。古田割は、その分類が完璧ではないことを知っていた。それでも、完璧でない分類を持たずに祭りを開けば、祭りはすぐにハスナムスの屋台村になる。
有卦瓜は、そのメモを見て言った。
「祭りの設計図ですね」
「避難経路図でもあります」と古田割は言った。
「宇宙監査官の?」
「ベルゼバブ・パーティの」
有卦瓜はうなずいた。踊るためには、出口がいる。読むためには、退場させるべき偽物を知る必要がある。送料込みで騒ぐためには、送料に紛れた搾取を取り除かなければならない。古田割は、ようやく少しだけ分かった気がした。祭りとは、無秩序を引き受けるための、もっとも危険な秩序の名前なのだ。
10. 設計ミスとしての宇宙
古田割はかつて、カート・ヴォネガットは悲観的ボードビリアンだが、グルジェフは批判的ボーディサットヴァ(菩薩)であると定式化した。トラウトを想起させるヴォネガット作品群としての「タイタンの妖女」、「スローターハウス5」、「ローズウォーターさん、あなたに神の恵みを」、「タイムクエイク」。ヴォネガットが描き出した「設計ミスとしての宇宙」を笑って許すだけの時代は終わった。グルジェフが提示したのは、この宇宙はすべて正しく設計されているという確信であり、問題は人間に埋め込まれたバグ、すなわちクンダバッファーの器官に過ぎないという救済である。
この差は絶望的に大きい。ヴォネガットが宇宙を設計ミスか無設計だと考え、笑って許すしかないとしたのに対し、グルジェフは宇宙が正しく設計されていると断じ、笑いつつ目覚めることを説いた。この批判的ボーディサットヴァの視点を、100万部という衝撃と共に現代にデリバリーすることが古田割の使命である。
そして、この使命は宇宙論の宣伝に収まらない。人間の生に対する公正無私なる批判を、ポストモダン以後の読者へ届けることだ。陰謀論フェスの救護班として。仮面舞踏会に現れた宇宙監査官として。白パンと缶詰と香水と劇場と読まれない名著のあいだに、一本の緑色の線を引くことだ。
11. 分からないから、やろうとしている
古田割が戦略書を書き始めたのは、売上のためではない。あの電話の声に、そうだ、と言ってもらうためでもあった。だがそれ以上に、彼にはどうしても確認したい問いがあった。AI時代にベルゼバブを広告することは、禁忌なのか。使命なのか。ハスナムス的行為なのか。あるいは、秘匿されてきたものが別の器へ移る瞬間なのか。
歴史の上で、情報の伝達様式は幾度か根本から塗り替えられてきた。
第二の波。輪転機と印刷機が登場し、書籍が大量に出版された。ラジオが生まれ、テレビが生まれ、マスメディアが人類の意識を均質化し始めた。情報は、選ばれた者だけのものではなくなった。グルジェフがパリ郊外のプリウレ館に弟子たちを集め、踊りと対話でワークを伝えていた頃、この波はすでに始まっていた。
第三の波。インターネットが生まれた。著作は電子データとなり、地球の裏側との意思疎通が瞬時に可能になった。60年代のSFが「テレパシー」として夢想していたおとぎ話が、eメールとSNSという形で現実に着地した。著作権は形骸化し、情報はコモディティとなった。かつての禁酒法の時代に、法律がアルコールを禁じても人々は飲み続けたように、「著作権侵害」は事実上のデファクトスタンダードへと静かに移行した。さらに情報時代はツールの時代から活用の時代へと進化し、様々なアプリケーションが人間の思考の外部化を加速させた。
そして第四の波。AIの時代が来た。自動翻訳、自動作文、自動作曲、自動作画、映像作品の自動生成。ウィリアム・ギブスンが1984年の小説『ニューロマンサー』で描いたのは、意識が肉体を離れてサイバースペースにジャックインし、情報の海を直接泳ぐ未来だった。しかし現実はその予言を別の形で超えた。ジャックインする必要すらなく、現実と非現実の境界線が判別できなくなる時代が来ようとしている。
この流れの中で、古田割には一つの問いが浮かんだ。終わりのない問いだった。
グルジェフ・ワークはかつて、秘匿されていた。師から弟子へ、口伝で、少数の選ばれた者だけに伝えられた。その秘匿性には意味があったのかもしれない。意識の変容は、テキストを読むだけで起きるものではない。身体を持った人間が、同じ場所に集まり、同じ実践を重ねることで初めて何かが動く。だからこそ、情報として拡散することには危険もあった。
しかし、情報が空気のように遍在する第四の波の時代に、その秘匿性にはどのような意味が残っているのだろうか。守ることが伝えることだった時代と、開くことが伝えることになるかもしれない時代。その境目に、古田割は立っていた。
秘匿することが守護だったのか。それとも秘匿すること自体が、ある種の組織的利益のために利用されてきたのか。第四の波の中で、この宇宙船内の対話録が百万人の手に届くとき、グルジェフが意図した「意識的な伝達」は成立するのか、それとも崩壊するのか。あるいは、波そのものが新しい伝達の器になるのか。
古田割には答えがなかった。しかし、答えのない問いを抱えたまま広告を打つことが、63歳の宣伝課長に課せられたパークトクドルグ義務なのかもしれなかった。
そしてもう一つ、古田割には観察があった。
インターネットの記事を見るにつけ、noteやYouTube、読書感想サイトなどに、かつてとは異なる質のグルジェフ評が増殖しているのを感じていた。かつては「詐欺師」「山師」「危険なカルトの創始者」という印象を吹聴する好事家が目についた。しかし今、グルジェフを真剣に読んだ者が、真剣に書いている文章の量と質が、明らかに変わっているように見えた。
その背景には、AIという物知り博士の存在もあるのかもしれない。AIは万能ではないし、偏見から完全に自由でもない。だが、グルジェフについて問えば、その宇宙論の構造と、グルジェフ自身の著作の内容と、20世紀の精神史における位置づけを、少なくとも山師か聖者かという単純な二項対立の外へ並べ直すことができる。その客観化の加速を、古田割は肌で感じていた。
さらに、共通概念の普及も一役買っている。グルジェフ・ワークの実践者が長年、内部でのみ共有してきた概念に「アテンション」がある。自分の注意を意図的に向け、それを維持し続けるという実践だ。しかし古田割が苦笑したのは、上座部仏教のヴィパッサナー瞑想における「止観」、チベット密教における観察の実践、そして近年爆発的に普及したマインドフルネスにおいて、注意を向ける技法がすでに一般語として流通していることだった。
みんなが知り得る一般的な知識を「開けてはならないパンドラの箱だ」と言い、あるいは「その話をすると規則違反の異端者だ」と排斥する態度には、古田割は長い間、形容しがたい違和感を持ち続けていた。それは、グルジェフが真剣に問い続けた「意識の目覚め」という課題とは、正反対の方向を向いているように思えたからだ。
第四の波の時代に、この緑色の宇宙を百万人に届けることは、守護の破壊ではなく、新しい伝達の形なのかもしれない。あるいはそれもまた、答えのない問いのひとつだった。
翌朝、古田割はニューロラング・コンサルティングの有卦瓜充流(うけうりあたる)に連絡を取った。有卦瓜は31歳。紺色のコートを好み、押しの強い営業ではなく、相手の会社に資料だけを置いて帰るような、奇妙に静かな訪問を重ねる男だった。彼は平河出版社の社員ではない。取引先のコンサルタントとして、広告の言葉、読者の反応、組織の沈黙、まだ事故になっていない違和感の順序を観測するために呼ばれた人物だった。古田割は、ベルゼバブを100万人に届けるという計画が、単なる広告施策ではなく、組織の知覚そのものを変える案件になりつつあることを感じていた。だからこそ、社内の部下ではなく、外部から来たこの男を呼ぶ必要があった。
有卦瓜は、製造業の工程不具合や組織内の沈黙を観測するコンサルタントだったが、文学への耐久力も持っていた。カフカの全集を読み、休憩時間にピンチョンを読む。そういう種類の人間だ。カフカとは、20世紀初頭のチェコ出身の作家フランツ・カフカのことだ。『審判』や『城』の出口のなさは、現代人が日々感じている「なぜかわからないが世界に弾かれている」という感覚と精確に一致する。ピンチョンとは、アメリカの作家トマス・ピンチョンのことだ。代表作『重力の虹』の解読不能に近い複雑さを最後まで読み切った者には、ある種の知的耐久力がある。有卦瓜はその耐久力を、営業資料ではなく、観測の道具として使う人間だった。
応接室に現れた有卦瓜に、古田割は前置きなく尋ねた。
「有卦瓜さん、ベルゼバブの孫への話という本を知っていますか」
有卦瓜は一瞬、驚いた顔をした。
「知っています。読んだことはないですが、タイトルは。グルジェフの本ですよね」
「読んでいないのですか」
「分厚すぎます。それに、なんか、宗教っぽいイメージがあって」
古田割は、その言葉を黒板に書き留めるように聞いた。「宗教っぽいイメージ」。これが第一層のジャンル汚染だ。カフカを読む人間でさえ、そう思っている。しかも、有卦瓜は一般読者ではない。組織の沈黙、工程の不具合、言葉にならない兆候を拾うことを仕事にしている外部コンサルタントだ。その男でさえ、ベルゼバブを前にすると、まず棚のラベルに足を取られる。古田割には、それがこの本の現在地を示す、最初の観測データに見えた。
G・I・グルジェフは20世紀初頭にロシアで活動を始めた神秘家にして教師だ。しかし「神秘家」という言葉だけでは足りない。『ベルゼバブの孫への話』は、宇宙の構造、人間意識の機械性、そして真の目覚めへの道筋を、ベルゼバブの語りに包んだ前代未聞の宇宙的SFだ。現実には宗教・精神世界の棚に置かれながら、その内部では、文学、神話、宇宙論、心理学、奇怪なSF的想像力が同時に作動している。
「有卦瓜さんは、フィネガンズ・ウェイクを読みましたか」
フィネガンズ・ウェイク。ジェイムズ・ジョイスが17年かけて書き上げた、人類の文学史上最も難解と言われる小説だ。英語、フランス語、ラテン語をはじめとする多数の言語的要素を混淆した造語の嵐で書かれており、通読した人間は世界に数千人しかいないとも言われる。
「途中までです。面白かったです、難解でしたが」
「重力の虹は」
「読みました。最高でした」
「ならば、ベルゼバブを読む準備はできています」と古田割は言った。「フィネガンズ・ウェイクの難解さを笑いながら愛せる者が、ベルゼバブの造語の洪水を前に怯むはずがない。今日から、この案件の観測をお願いします」
有卦瓜は表紙を見た。緑色の背表紙。平河出版社版。
「これを、広告するんですか」
「そうです」
「広告というより、認識の再設計に近いですね」
「だから、あなたを呼びました」
有卦瓜は少しだけ黙り、表紙から目を離さずに言った。
「わかりました。まず、読者がどこで拒絶するのかを観測します。宗教っぽい、分厚い、難解、棚が違う、誰に向けた本かわからない。その順序を見ます」
古田割はキーボードに向かった。
「それをこれから作ります。有卦瓜さんも書いてください。コピーではなく、観測記録として」
その日の午後、古田割と有卦瓜は向かい合って座り、二台のノートパソコンを開いた。古田割が構造を書き、有卦瓜が観測結果を言葉に変換した。有卦瓜の文章は最初、上品すぎた。知性的に過ぎた。読者をリスペクトするあまり、読者の眠りを揺さぶる衝撃が抜け落ちていた。
「もっと乱暴に書けますか」と古田割は言った。「ジョイスの読者は賢い。賢い人間を動かすには、賢い言葉より乱暴な衝撃が要る」
「乱暴な衝撃というのは」
「バンクシーです。ガニンガムです。覆面と落書きです」
バンクシーとは、正体不明の路上芸術家だ。世界中の壁面に政治的なステンシル画を描き続け、その作品は競売で数億円の値をつける。2026年3月、Reutersの調査報道がバンクシーの正体をロビン・ガニンガムである可能性が高いと報じた。覆面が剥がれる瞬間に、世界が沸いた。古田割はその熱狂を広告に転用しようとしていた。
「有卦瓜さんはピンチョンを読んで何を感じましたか」
「世界は陰謀に満ちていると感じました」
「違います」と古田割は言った。「世界はこんなに複雑で面白いのに、誰もそれに気づいていないと感じたはずです。その感覚をコピーにしてください」
有卦瓜は黙って、もう一度書き始めた。彼が書いているのは、広告文であると同時に、読者の認識がどの順序で開くかを記録する工程観測表でもあった。
12. 最終戦略書の咆哮
古田割がキーボードを叩き始めた瞬間、あの声が耳の奥で言った。
「これもワークか」
古田割は手を止めなかった。止めることが、答えだと思った。古田割徹は、デスクに広げた白紙の企画書に向かい、アルフレッド・ベスターの躍動感をその指先に召喚した。2026年3月。世界は燃えている。情報の爆発。感覚の飽和。不条理の極北。彼はキーボードを武器に変え、100万部突破のためのマニフェストを、神経を逆なでするようなリズムで刻み始めた。
【完全版:最終戦略書】PROJECT:BEELZEBUB'S HANBA-NIRU FEAST
不条理を煮込み、宇宙を食らい、希望をデリバリーする
ジェイムズ・ジョイスは「サロン」で語られる。トマス・ピンチョンは「実験室」で解剖される。グルジェフは「飯場(はんば)」で、肉体ごと巨大な鍋に放り込まれ、煮えたぎるオクターブの熱によって変容させられる。これがキャンペーンの根幹だ。
この名前の来歴を聞いてほしい。バンクシーの正体とされる「ガニンガム(Gunningham)」。その響きが日本語の「ガンニバル」を召喚する。食らう者。カニバルの変形。しかしガンニバルはまだ粗い。さらに一歩進めると「ハンニバル」になる。カルタゴの将軍にして、人類史上最も恐れられた戦略家の名前。そしてハンニバルの音をひっくり返すと「ハンバニル」になる。飯場煮る。ガニンガムからガンニバルへ、ガンニバルからハンニバルへ、ハンニバルからハンバニルへ。これは音の連鎖であり、意味の変容であり、宇宙のオクターブが一回転した証拠だ。「飯場煮る(ハンバニル)」宇宙の真理を、小ぎれいな書斎ではなく、泥臭い現場の業火で調理するという宣言である。
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║ ║
║ ジョイスを読んだ君へ。 ║
║ ピンチョンを読んだ君へ。 ║
║ バロウズを読んだ君へ。 ║
║ ║
║ 次の扉が、ここにある。 ║
║ ║
║ ======================================================== ║
║ ║
║ G.I.グルジェフ ║
║ 「ベルゼバブの孫への話」 ║
║ ║
║ 787ページ。宇宙船の中の対話。 ║
║ 解体の後に、設計図がある。 ║
║ ║
║ ======================================================== ║
║ ║
║ 「HANBA-NIRU FEAST」 ║
║ ║
║ 飯場(はんば)で煮られろ。 ║
║ 君の眠りを、宇宙の火で調理しろ。 ║
║ ║
║ 平河出版社 ║
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1. キャンペーン・アイデンティティ:正体は「君」だった
2026年3月。Reutersは、覆面アーティスト、バンクシーの正体がロビン・ガニンガムである可能性を示す調査報道を公表した。この報道をめぐっては異論も残っているが、覆面の裏側にそうした人物像が浮かび上がったという報道は広く流通した。だが! 「ベルゼバブの孫への話」の「孫(ハッシーン)」の正体は、まだ暴かれていない! 我々のキャンペーンの核心は、こうだ! 「孫の正体は、この本を手に取った君自身だ!」 究極の正体判明、アイデンティフィケーション! 君が、宇宙の設計図を読み解く。君が、目覚める。君が、ハッシーンなのだ!
2. 都市ゲリラ戦略:ロビン・ガニンガムへのオマージュ
我々は、バンクシーが2000年にニューヨークで拘束された際、警察文書に記された「Robin Gunningham」という署名を、現代の聖痕(スティグマータ)として利用する。
「GUNNINGHAM meets GANNIBAL meets HANNIBAL」作戦!
世界中の壁面に「食らう者(ガンニバル)」が出現したかのように見える、バンクシー風の架空ステンシル広告ビジュアルを展開する! ガンニバルはやがてハンニバルになる。カルタゴの戦略家は、敵の想定を超えた経路でローマに迫った。我々もまた、文壇の想定を超えた経路でベルゼバブを届ける。だが、食らうのは人間ではない! **「自らの機械性と、古びた文学的パラノイアを食らい尽くし、新しい魂を育てる」**というメタファーだ! 食らえ! 己の眠りを!
「BEELZEBUB WAS HERE」!
「KUNDABUFFER(クンダバッファー)」「HASNAMUSS(ハスナムス)」「TRIAMAZIKAMNO(トリアマジカムノ)」
これらのキーワードを、各地の権威的な建築物、銀行、議事堂の壁面に投影されたかのように見せる劇中広告ビジュアルとして展開せよ! バンクシーの正体に関する報道が過熱する今、その「匿名性のバトン」をグルジェフが受け継ぐのだ!
3. メイン・キャンペーン・マニフェスト:全弾発射!
【ヘッドライン】
ジョイス、ピンチョン、バロウズを楽しめた君に、ベルゼバブが楽しめないわけがない。ジョイス、ピンチョン、バロウズの迷宮を愛し尽くした君へ。次の扉が、ここにある。
【ボディコピー】
2026年、世界は一つの結末を迎えた。Reutersは、覆面アーティスト、バンクシーの正体がロビン・ガニンガム(Gunningham)である可能性を強く示す調査報道を公表し、人々はその響きに日本の「ガンニバル(Gannibal)」を幻視し、ネットの海を彷徨っている。だが、この「正体の露呈」という狂騒の裏で、もっと巨大な「正体」が沈黙を守り続けている。ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」や「フィネガンズ・ウェイク」。トマス・ピンチョンの「重力の虹」。フランツ・カフカの不条理、安部公房の消失。ウィリアム・バロウズの「裸のランチ」やJ・G・バラードの「クラッシュ」で「姦淫の洗礼」を受け、不条理小説の巨塔を登り続けてきた君たちよ。今年、トマス・ピンチョンの「バインランド」をゆるく下敷きにした映画「ワン・バトル・アフター・アナザー」がアカデミー賞を席巻し、ポスト・モダンの夜明けが告げられた。人々は「潜在的瑕疵」の砂漠で、かすかなハッピーエンドに安堵した。
そして! なぜ歴代の文芸リストの中に、**G.I.グルジェフの「ベルゼバブ」**が入らないのか! リヴァイアサンのごとく巨大なこの「カテドラル作品」を、ジョイスやピンチョンと同列に語る者がいないのは、知的な怠惰でしかない! グルジェフが宣言した通り、これは紛れもない「SF」であり、筒井康隆の「馬の首風雲録」を彷彿とさせる長い固有名、脱力する造語、異星軍記的な命名感覚を、さらに宇宙的規模へ拡張した比類なき芸術だ! 「カート・ヴォネガットは悲観的ボードビリアンだが、グルジェフは批判的ボーディサットヴァ(菩薩)である」 かつてmixiに刻まれたこの至言を思い出せ! 「タイタンの妖女」「スローターハウス5」「ローズウォーターさん、あなたに神の恵みを」、および「タイムクエイク」。ヴォネガットがトラウトを想起させる作品群を通じて描いた「設計ミスとしての宇宙」の悲哀を笑い飛ばすのが20世紀だったならば、21世紀の我々は、グルジェフが提示する「すべては完璧に設計されている」という確信を手にしなければならない!
ボルヘスは「伝奇集」で、ジョイスとホメーロスの「意味のない一致」を賞賛する批評家たちを冷笑した。そして同様に、尊重すべきアッタールの「鳥の会話」を、バハドゥールの小説との表層的な一致でもてはやす批評家たちも、ロンドンでも、アラハバッドでも、カルカッタでも同じ軽率さで賞賛を博していると皮肉った。アッタール自体は別格だ。30羽の鳥が神を求めて旅をし、最後に自分たちが神であったと気づく、この円環構造を、ボルヘスは批評の消費から守ろうとしていた。そしてその円環こそ、ベルゼバブが宇宙的な文法として共有しているものである。
ジェイムズ・ジョイスを愛する者は、言語が宇宙の設計図になりうることを知っている。ピンチョンを読み切った者は、世界の複雑さを笑いながら抱きしめる体力を持っている。その体力と愛情を持つ者こそが、ベルゼバブを読む準備ができている。健康法のアイデア、文明社会の危険さへの警鐘、および、この宇宙が善き意図で設計されているという「確信」。ポスト・モダンが誠実に留保したその答えを、ベルゼバブは差し出してくる。
松岡正剛が「千夜千冊」で孤独に灯した火を、今、100万人の「ベルゼバブ・パーティ」へと変えよう。ソクラテスが「弁明」の冒頭で見せた「私は無知である」という弁論の反転を継承し、読者の脳を一度解体してから真実を注ぎ込む、この「客観的文学」の衝撃! バンクシー、ガニンガムの正体に関する報道が過熱する今、次は君が、自分の中に埋め込まれた「クンダバッファーの器官」の正体を暴く番だ!
そして最後に、制作上の厳命を記す。「飯場煮る(ハンバニル)」は宣伝の核であり、このパワーワードをリズミカルに繰り返し、大衆の脳に「得体の知れない、だが美味そうな熱狂」を刷り込む。しかし。書籍を開けば、そこには一切の「飯場」も「ガンニバル」も「ガニンガム」も存在しない。あるのは、冷徹なまでに客観的で、壮大かつ緻密な、ベルゼバブの宇宙船内での対話のみだ。この落差こそが、最大のショックである。
さあ、ベルゼバブ・パーティを始めようぜ! 不条理を愛し尽くした者よ、次は宇宙の設計図を祝え!
古田割は、この計画がどこかで妨害されるのではないかと考えていた。謎の秘密結社。名前を持たない読書会。グルジェフ・ソサエティの影。あるいは、グルジェフの名を守るために、グルジェフを誰にも読ませまいとする人々。想像すれば、いくらでも筋書きは作れた。広告が出る直前に印刷所のデータが消える。イベント会場の予約が理由不明のまま取り消される。宗教・精神世界の棚から、なぜかベルゼバブだけが消える。Xのトレンドに、見たことのない批判語が同時多発的に湧き上がる。古田割はそのすべてを想定した。
しかし、何も起きなかった。
何も起きないことの方が、かえって不気味だった。妨害がないのか。妨害はすでに成功していて、古田割には気づけないのか。秘密結社など最初から存在しないのか。それとも、存在しないと思わせることこそが、最も古い秘密結社の作法なのか。有卦瓜は、観測できないものを観測対象に入れることはできないと言った。古田割は、観測できないからこそ、それはあるのではないかと思った。二人の見解は一致しなかった。そして、その不一致だけが、キャンペーンの中心に残った。
13. 100のゲリラ施策
以下は、古田割徹が構想した架空のプロモーション施策群であり、実在の計画、告知ではない。古田割は一切の省略を拒絶し、以下の項目をすべて、実行可能性を誇張して掲げた戦術としてマニフェストに叩き込んだ。現実に実行するための指示ではなく、広告脳が暴走したときに生成される、過剰な比喩、劇中企画、架空ビジュアル、幻覚的キャンペーンの羅列である。
「HANBA-NIRU」キッチンカーの世界展開! 世界中の文芸フェスの会場横に、泥だらけのキッチンカーが現れたかのように見える架空広告を制作。メニューは「クンダバッファー・シチュー」のみ。中には『ベルゼバブ』のページを模した栞が添えられている。通行人が「これはガンニバル(人食い)の鍋か?」と震える中、我々はベルゼバブの第1章を朗読し、これが「己の機械性を煮るプロセス」であることを告げる!
ROBIN GUNNINGHAM SIGNATURE キャンペーン! 書籍の帯に、バンクシーが逮捕された際の筆跡を想起させる架空の「Robin Gunningham」風サインを入れ、「この本の正体を暴くのは君だ」というメッセージを添える!
GANNIBALISTIC READING イベント! 「ガンニバル(食らう者)」をキーワードに、古い思考様式や機械性を「食らい尽くす」読書会を、架空のストリート・イベントとして展開! 参加者はバンクシー風のネズミのマスクを着用したという設定で、写真風ビジュアルを構成せよ!
松岡正剛、編集工学的ベルゼバブ論の再配布! 松岡氏がかつて提示した「グルジェフを文芸カノンに接続する」ためのロジックを、現代のSNS向けにリビルドして拡散する!
ヴォネガット読者への招待状! 「タイタンの妖女」の読者層に対し、「トラウトが最後に見たかった光景が、ベルゼバブの宇宙船の中にある」というプロモーションを展開する!
クンダバッファー・グラフィティ・プロジェクト! バンクシーの正体に関する報道が続く今、あえて「匿名」に戻るために、「KUNDABUFFER」のステンシルが各地の「機械的な場所(役所、銀行、工場)」に現れたかのように見える架空ビジュアルシリーズを制作する!
PTA『インヒアレント・ヴァイス』比較上映会! 不条理の砂漠(ピンチョン的世界)と、宇宙の設計(グルジェフ的世界)を対比させることで、ベルゼバブの「実用的な希望」を際立たせる!
アッタールの30羽デジタルアート! AR(拡張現実)を使い、都市の空に30羽の鳥がベルゼバブの宇宙船カルナック号と共に現れる仕掛けを施す!
ソクラテス『弁明』ポッドキャスト! グルジェフの「文筆家ではない」というポーズがいかに高度な弁論術であるかを、プラトン研究者とベルゼバブ読者が語り合うシリーズだ!
筒井康隆『馬の首風雲録』リスペクト企画! 日本が誇る不条理と造語の巨匠のファンを、長い固有名、脱力する造語、異星軍記的な命名感覚の先にある「さらに長い造語の宇宙」へと誘い込む!
リヴァイアサンの胃袋パーティ! 巨大なリヴァイアサン(国家システム)の中に、ベルゼバブのパーティ会場を作るというコンセプトの、一夜限りのシークレット・イベント風広告だ!
掲示板に「ベルゼバブ読んだらクンダバッファー消えてワロタ」というスレッドが100個同時に立ったかのように見える、架空ネット考古学ポスターを制作する!
株式会社平河出版社のビル全体を光の演出で巨大な宇宙船カルナック号に変形させる、プロジェクションマッピング風のビジュアル案!
タイアップ商品「ハンバニル・カレー・超激辛」を全国のコンビニエンスストアで発売するという架空商品広告! パッケージには「食べながら想起しろ」の警告文を記載する!
映画「ワン・バトル・アフター・アナザー」の舞台挨拶会場に、ベルゼバブの仮面を被った謎の一団が現れたという設定の劇中ニュース映像を制作する!
ヴォネガット「タイタンの妖女」の読者に向けて、ベルゼバブの広告が本の隙間から勝手に現れたかのように見える、架空書店風のビジュアル企画を展開する!
不条理文学の葬送ライブを敢行するという設定の映像作品! カフカ、安部公房、バロウズ、バラードの著作を飯場煮る(ハンバニル)巨大鍋で煮込んだかのように見せる、過剰なアート映像だ!
健康法「ベルゼバブ・メソッド」の定額制サービスを開始するという架空アプリ広告! 三中枢のバランスを整えるための特殊な動作を毎日定時に配信する!
Xで「#クンダバッファー抜き」ダイエットを大々的に提唱するという架空ムーブメント広告! 情報の過剰摂取を完全に遮断し、自らのエッセンスを磨き上げるキャンペーンだ!
ボルヘス「伝奇集」をベルゼバブの用語で再構築した限定冊子が大学キャンパスで幻のように噂される、という設定の文芸ポスター!
国家の重圧を物理的に体感できる「重力体験ボックス」を街中に設置したかのように見える、架空インスタレーション広告! 出口には必ずベルゼバブを置く!
筒井康隆「馬の首風雲録」の長い固有名、脱力する造語、異星軍記的な命名感覚をさらに複雑にした「ベルゼバブ賛歌命名」コンテストをネット上で開催するという架空企画!
ハスナムス診断アプリをリリースするという架空プロダクト広告! 質問に答えると自分のエゴの段階が数値化され、スコアを競わせる!
銀座の目抜き通りで「トリアマジカムノ」と連呼しながら練り歩く造語パレードが行われたかのように見える、架空都市フェス映像!
ベルゼバブ・エナジードリンク「覚醒のオクターブ」を大手企業のオフィス街で無料配布したかのように見せる、架空商品プロモーション映像!
聖書の悪役総選挙を実施するという架空討論番組! サタン、リヴァイアサン、ベルゼバブの中で誰が一番「宇宙のバランス」に貢献しているかを徹底議論する!
高度な論理を用いた対話の記録による24時間レスバイベント風配信企画! ベルゼバブの文学的地位をめぐって不毛な議論を続ける!
Xで「#今日どんなトリガミった?」キャンペーン! 宇宙の三法則、トリアマジカムノ、に則った、奇跡のような行動を称賛し合う架空SNS施策!
飯場煮る(ハンバニル)巨大鍋による炊き出しイベント風ビジュアル! 新宿駅前で1万人に特製スープとベルゼバブの第1章のコピーを配ったかのように見える、幻覚的な広告写真だ!
カフカ「審判」をベルゼバブが解決する二次創作「Kの覚醒」の新聞全面広告風ポスターを掲載する!
バロウズ「裸のランチ」風のカットアップ動画が、渋谷のスクランブル交差点にある巨大モニターをジャックしたかのように見える劇中広告映像を制作する!
安部公房「箱男」を物理的なダンボール箱から無理やり引きずり出し、宇宙の広大さを見せつける、没入型映像体験イベントの架空告知だ!
ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」におけるレオポルド・ブルームのすべての一日の行動を、ベルゼバブが「三脳生物の異常性」として赤ペン添削する、架空注釈広告!
ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」における沈黙と狡知を、ベルゼバブの客観的慈愛に満ちた発言に変えてしまう新装版という、存在しない出版企画の提案だ!
ハスナムス検定・初級編を実施するという架空試験広告! 良心があるフリをしている自分という名の壊れた機械に気づくための、極めて残酷な選択肢の連続だ!
全面広告の見出しをこうする! 「ジョイスのフィネガンズ・ウェイクに絶望した君へ。おじいちゃんが伊丹のイオンで待っている」!
宇宙船カルナック号の精密なペーパークラフトが付録の特別版「ベルゼバブ100万部記念プレミアムボックス」の予約受付を開始するという架空特装版企画!
Xで「#サターンの役割分担」討論会を主催するという架空オンライン企画! 自らの中の破壊的エネルギーを、いかにして宇宙の創造的維持に転換するかを話し合う!
ボルヘス「バベルの図書館」に存在するとされるすべての書物を、たった一冊のベルゼバブに集約するデジタルアーカイブを一般公開するという夢想!
アッタール「鳥の会話」スタンプラリー! 全国の飯場、工事現場、を泥にまみれて巡り、自らの三中枢を肉体的に鍛え上げるという架空旅企画!
ソクラテス的街頭対話を敢行したかのように見える映像企画! 「あなたは自分がただの機械ではないと、どうやって証明しますか?」と通行人に問い続ける動画配信だ!
ヴォネガット「タイムクエイク」が描いた時間の無限ループを力ずくで止めるための「ベルゼバブ・意識の修正パッチ」を配布するという架空プロダクト広告!
トマス・ピンチョン「重力の虹」におけるロケットの着弾地点を、すべて聖地として位置情報システム上でマーキングしたかのように見せる、架空地図ビジュアル!
ハンバニルの歌を制作する! 中毒性の高いリミックス版を作り、動画共有サイトでトレンド1位を狙うという架空ミュージックキャンペーン!
全社員に対し、勤務時間のうち1時間を想起のみに費やすことを義務化したという設定の、極端な企業広告パロディ!
ポスト・モダンの不具合を、ベルゼバブの知恵で物理的に修理する、日曜大工ワークショップ風の架空イベント告知をイオンモールの広場に掲出する!
パーティの招待状が都内の超高級住宅街のすべてのポストに届いたかのように見える、夢の中のダイレクトメール広告!
Xで「#今日どんな宇宙設計感じた?」大喜利大会! 日常の些細な幸運を、宇宙の巨大な計らいとして無理やり称え合う架空SNS祭りだ!
ジェイムズ・ジョイス「フィネガンズ・ウェイク」の難解な一節を、孫ハッシーンが幼稚園児の言葉で解説する動画だ!
国家という巨大な怪物を特製の大鍋でグツグツと煮込み、アクを取り除く、特撮映画風のプロモーション映像だ!
グルジェフの交通事故を最新の技術で再現するという、死と覚醒をめぐる危険な比喩映像! 死という強烈な衝撃によってのみ得られる覚醒の瞬間を、安全な演出として体験させる!
松岡正剛氏が「ベルゼバブこそは史上最高の編集工学であり、情報のオクターブである」と断言する、100分にわたる架空特別インタビュー映像だ!
ヴォネガット「ローズウォーターさん、あなたに神の恵みを」の膨大な遺産相続を、想起の実践者のみに認めるという架空キャンペーンを展開する!
ベルゼバブ読破サバイバル、マラソン! 全ページを不眠不休で絶叫しながら読み上げ、機械的な脳が機能を停止するまで追い込むという、実施不能な読書競技ポスター!
メディアに対し、「次は自分の薄汚れた良心を暴け」と宣戦布告の挑戦状を叩きつけたかのように見える、劇中新聞広告!
Xで「#クンダバッファー抜き」による脳の覚醒を報告! 情報の過剰摂取を断つ新しい形として定着させるという架空ムーブメント!
不条理文学の砂漠を爆走する「ベルゼバブ散水車」を制作! 都心のインテリたちが集まるカフェに「知恵の水」を大量に浴びせるという、過剰な映像演出です!
筒井康隆「馬の首」の造語を、さらに複雑怪奇なベルゼバブ語に置換して出力する、言語変換ツールを公開する!
ウィリアム・バロウズの遺品であるタイプライターが、勝手にベルゼバブの言葉を打ち始めるという不気味なショートフィルムの制作だ!
J・G・バラードの交通事故に対する執着を、宇宙の「衝突の法則」によって解体する、心理学セミナー風の架空講座!
安部公房「砂の女」を読みながら、実際に砂丘を24時間掘り続け、底に埋まったベルゼバブを発見するという架空ドキュメンタリーだ!
映画本編の背景に、実はベルゼバブの背表紙が映り込んでいるという都市伝説風の架空考察ページを制作する!
100万部突破祈願祭! 100万人の読者が同時に自らの呼吸と存在を意識する、世界同時「想起」ストリーミング、イベントだ!
Xで著名人の傲慢極まる投稿を題材に、「#これぞクンダバッファーの典型」という架空批評カードを生成し、公衆の面前での攻撃ではなく、広告内の比喩として覚醒を促す!
ボルヘス「伝奇集」のすべての物語の不条理な結末が、最後はカルナック号の客室に繋がっているという、壮大なアニメーションの制作だ!
アッタール「鳥の会話」の30羽の鳥が、株式会社平河出版社のロゴを掴んでホワイトハウスの上空を飛ぶ、大規模な架空演出だ!
ソクラテスがいかにベルゼバブ的な、あるいはハッシーン的な存在であったかを論じる、有名大学での緊急学術シンポジウム風の架空告知です。
ヴォネガット「タイムクエイク」が描いた時間の停止を終わらせ、新しい時間を始めるためのカウントダウン番組だ!
国家システムの深層に潜む深刻なバグを修正するための「想起のための指針」を、国際機関に公式提出したかのように見える架空白書!
100万部達成の瞬間に、今後は全社員が一切の無駄口を叩かないと公式に宣言するという、不可能な企業声明広告!
造語「ポリプロトメニオン」が、現代社会のあらゆる不合理を指す新語として、流行語大賞にノミネートされたかのように見える架空ニュース!
ポスト・モダンの残飯処理! 難解すぎて途中で挫折した過去のすべての不条理文学を回収し、ベルゼバブと無償交換するという夢想的書店フェア!
Xで「#トリアマジった」を、日常のあらゆる成功のタグとして爆発的に普及させる架空SNS企画!
トマス・ピンチョンの「バインランド」を、ベルゼバブの視点から書き直した脚本を全世界公開するという架空脚本プロジェクト!
ポール・トーマス・アンダーソン監督の全作品に底流する不条理な不安を、グルジェフが作曲した聖なるピアノ音楽で完全に浄化する音源だ!
ハンバニルの巨大な鍋から100万冊のベルゼバブが、まるで灼熱のマグマのように噴き出す、ビジュアル広告の掲出だ!
松岡正剛氏が語る、ベルゼバブのページ構成といかなる宇宙の構造の関係についての、深夜講義風映像だ!
ボルヘスの迷宮からの唯一の脱出口として、ベルゼバブの緑色の背表紙をアイコン化する過激なブランド戦略だ!
アッタールの30羽の鳥が、実は編集部員であったという衝撃的な告白動画の公開だ!
ソクラテスの毒杯の中身を、ベルゼバブが客観的な知恵の詰まったワインに変えてしまう、歴史改変アニメだ!
ヴォネガットのトラルファマドール星人とベルゼバブが、宇宙の設計図をめぐって宇宙の果てで対話するオーディオドラマだ!
ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」の最後の全肯定を「Yes, My Lord Beelzebub!」に変更して出力する、存在しない電子書籍版の広告だ!
Xで「#クンダバッファー大喜利」を連日開催するという架空企画! なぜ満員電車は絶望的なのか、という問いに法則で答える!
本社ビル屋上に、巨大な黄金のハエ、ベルゼバブの象徴、が出現したかのように見える、東京の新しい不可解なランドマーク広告!
偽のストリート・アートをオークションに出すのではなく、「偽のストリート・アートが高額落札された」という架空ニュース映像を制作し、その売上で全国の図書館にベルゼバブを寄贈するという夢を語る!
不条理文学の潜在的瑕疵を一掃するための、特殊な精神的洗剤を、購入者特典として配布するという架空ノベルティ!
安部公房「砂の女」を読み耽りながら、実際に砂漠を横断し想起の力のみで生存するサバイバル番組の制作だ!
ウィリアム・バロウズを遥かに凌駕する、完全に覚醒した意識のみで調理された客観的ランチのレシピ本発売だ!
バラード「クラッシュ」が描いた自動車衝突を、オクターブの滑落という物理学的現象として解説する架空サイトだ!
筒井康隆氏へ向けた、ベルゼバブに登場する不気味な造語のみを用いた、1万字に及ぶ解読不能な感謝状を公開するという文芸的妄想!
社会システムを長時間煮込んで抽出した、究極の滋養強壮スープのレシピを全世界へ公開する!
ソクラテスが現代のネットワークに出現し、匿名で冷笑を繰り返す者たちを客観的理性のみで論破し尽くす動画シリーズだ!
Xの全ユーザーに招待状が届いたかのように錯覚させる、巨大な架空タイムライン広告を構想する!
松岡正剛氏の「千夜千冊」の全データを、ベルゼバブという一点に無理やり収束させる編集的索引を公開するという架空データベース企画!
トマス・ピンチョン「重力の虹」におけるロケットの飛跡の数式が、実はベルゼバブの文字を描いていたという偽の新解釈を、架空批評誌の誌面として構成する!
映画DVDを再生すると、10パーセントの確率でグルジェフ本人のダンス映像が流れ始めるという都市伝説風の架空仕様!
ハンバニルの巨大な鍋から、100万部突破を祝うシャンパンが噴水の如く溢れ出す、巨大なホログラム映像だ!
ボルヘスが死の直前に夢でベルゼバブと出会い、無限の迷宮の終わりを悟ったという、存在しない日記の断片をめぐる架空文学ミステリーを制作します!
アッタール「鳥の会話」が、実は兵庫県伊丹市のイオンモールの駐車場を目指していたという、歴史的新説風の架空論文だ!
宣伝課長である古田割徹が、実は「おじいちゃんの孫、ハッシーンの生まれ変わりである」と、全世界へカミングアウトするという劇中告白映像!
ベルゼバブ100万部突破達成。全世界同時多発ハンバニル超饗宴の開催による、全人類の覚醒だ!
施策が実行に移されたのは、企画書を書いてから三日後だった。最初に動いたのは有卦瓜だった。ただし、彼は平河出版社の社員として命令を受けたのではない。ニューロラング・コンサルティングの取引先コンサルタントとして、読者がどの記号に反応するかを観測するために、休日の渋谷へ向かった。彼はバンクシー風のステンシルを使い、「KUNDABUFFER」という文字を歩道橋の柱に刻んだかのように見える、合成された架空広告ビジュアルを試作した。
クンダバッファー。グルジェフが『ベルゼバブの孫への話』の中で提唱した概念だ。人類はかつて、月と地球の重力バランスを保つため、ある高次の存在によって「現実を逆さまに認識する器官」を脳の奥深くに埋め込まれた。その器官の名前がクンダバッファーだ。この器官のせいで、人間は自分が眠っていることに気づかない。自分が機械的に反応しているだけだとわからない。自分が本当に生きていないことを知らない。グルジェフはそれを「睡眠」と呼んだ。そして、その睡眠から目覚めることを「ワーク」と呼んだ。
翌朝、その画像がXに上がり、「これ何の意味?」という投稿に500件のリプライがついた。半分は嘲笑だった。しかし残りの半分が、「グルジェフ」という単語を含んでいた。
「古田割さん、反応が来ています」と有卦瓜は翌朝報告した。
「何件だ」
「Xで4,000インプレ。うちグルジェフ関連の言及が200件」
古田割はその数字を黙って見た。200件。42万部のうちの何パーセントかが、この都市のどこかにいる。眠っている。クンダバッファーの器官に埋め込まれたまま、しかし何かを感じている。壁の文字を見て、何かが揺れた人間が200人いる。
「続けろ」と古田割は言った。「今度は銀行の前だ」
その施策の一つとして、古田割は伊丹に再び向かった。今度は取材として。キャンペーンの途上、実際に今ベルゼバブを店頭に置いている書店の状況を、そのまま世界に届けることが最大の広告になると考えたからだ。
その一方で、古田割は、自分でも馬鹿げていると分かる種類の警戒を捨てきれずにいた。謎の秘密結社が、あるいはグルジェフ・ソサエティのどこかの枝が、この企画を察知して妨害に動くのではないか。駅の改札前で新聞を畳む男、フードコートの端で紙コップを回している老人、書店の通路を三度横切る買い物客。すべてが合図にも見え、すべてが偶然にも見えた。彼は何度も背後を振り返った。だが、そこにあったのはイオンモールの照明と、買い物袋と、子どもの声と、どこにも接続しない生活の断片だけだった。妨害はあったのか。なかったのか。誰かが見ていたのか。誰も見ていなかったのか。真相は、最後まで何ひとつ分からなかった。
未来屋書店伊丹店は、JR伊丹駅直結の店舗である。2018年4月20日のリニューアル時に3Fから2Fへ移転し、その際に店舗面積は約1.5倍に拡大された。駅からそのまま流れ込む人の波、イオンモールの生活感、買い物袋を提げた家族連れ、学生、会社帰りの人々。その流れの中に、宗教・精神世界の棚がある。そこに『ベルゼバブの孫への話』が置かれていた。
古田割はその事実をもう一度確認した。緑色の背表紙は、棚の中で確かにそこにあった。写真だけではない。記憶だけでもない。現前していた。彼は店員に対して、取材または確認を申し入れた。なぜこの本がこの棚に置かれているのか。誰の判断なのか。いつから置かれているのか。それを聞きたかった。
正式なインタビューは成立しなかった。
店員は「店長に伝えておきます」と形式的に対応した。連絡先は受け取られなかった。名刺を差し出す流れにもならなかった。深い話に入る扉は開かなかった。古田割はその場で、ひとまず引くしかなかった。
ただし、一つだけ得られた情報があった。書籍の配置判断は、店長が行う場合と、コーナー担当者が行う場合の両方があるということだった。つまり、この棚に『ベルゼバブの孫への話』がある理由は、一人の明確な署名に還元できない。店長の判断かもしれない。コーナー担当者の判断かもしれない。あるいは、移転時からの棚づくりの中で、そのまま引き継がれてきたものかもしれない。
2018年4月20日の移転とリニューアル。その時点から、この本が棚に置かれている可能性はある。しかし、それも確定ではない。誰の判断によって置かれたのかは不明である。現在も棚にある理由についても、売れた後に補充され続けているのか、あるいは在庫が長期にわたり残っているのかは判別できない。売れているからそこにあるのか。売れていないのにそこに残っているのか。誰かが意識して守っているのか。単に棚の論理によってそこにあるのか。そのすべては、分からない。
古田割は、この分からなさを削ろうとは思わなかった。むしろ、その分からなさの方が、出来事の核心に近いように感じた。説明されない配置。語られない判断。確認できる現前だけが残る状況。『ベルゼバブの孫への話』は、誰かの証言によって神話化されるのではなく、ただ棚にあることで、古田割の前に立っていた。
レゴモニズム、と古田割は思った。第5章で見たように、それは重要な知識を世代を超えて伝えるための容器である。この棚もまた、誰かの明示的な証言ではなく、配置そのものによって何かを運んでいるのかもしれない。誰の判断か分からない。補充なのか残存在庫なのかも分からない。取材は成立しない。説明は得られない。それでも本はそこにある。その沈黙の方が、どんな証言よりも深く、古田割の三中枢に触れていた。
14. 永続するパーティ
物語は100万部突破という巨大な金字塔を打ち立てた瞬間に終わるのではない。むしろそこから客観的現実が制御不能な速度で加速し始める。2026年2月21日の18時8分に記録された、未来屋書店のあの棚の写真は、このプロジェクトにおけるもっとも重要な着陸地点となった。
この配置が偶然ではなく、ある種の高次な選択の結果であるかのようにも感じられる。古田割徹は、2月21日に撮ったあの写真を、今も仕事机の隅に置いている。棚を選んだ誰かの判断を、彼はまだ想像し続けている。だが第13章で確認したとおり、その判断主体は分からない。店長なのか、コーナー担当者なのか、移転とリニューアルの流れの中で棚そのものが選んだ配置なのかも分からない。その不明さだけが、写真の緑色とともに残っていた。
古田割は、その不確定性を、不足としてではなく、出来事の本体として受け取った。劇的な証言は得られなかった。だが、本はそこにあった。説明されることなく、自己弁護することもなく、緑色の背表紙を見せて、宗教・精神世界の棚にあった。
それだけで十分だった。
グルジェフは「意識的労苦と意図的苦悩」という言葉を使う。パークトクドルグ義務。古田割にとって、その義務は、語られた物語を信じることではなかった。むしろ、語られなかったことを、そのまま抱えることだった。理由が分からない。判断主体が分からない。補充か残存かも分からない。そのすべての分からなさを、分からないまま持ち帰ることだった。
有卦瓜がニューロラング・コンサルティングから平河出版社を再訪し、古田割のデスクに来たのは、56万部を超えた頃だった。
「古田割さん、伊丹の件、結局どう扱うんですか」
古田割は写真を見た。未来屋書店伊丹店の棚。宗教・精神世界。鈍い緑色の背表紙。
「そのまま扱います」と古田割は言った。
「そのまま、ですか」
「証言は得られなかった。しかし本はそこにあった。それで十分だった」
有卦瓜は少し黙った。
「広告としては、弱くないですか」
「弱い」と古田割は言った。「だから本物です」
有卦瓜は何か言いかけて、やめた。古田割は続けた。
「強い物語は、すぐに消費される。誰かが置いた。誰かが守った。誰かが待っていた。そういう話は分かりやすい。だが、ベルゼバブは分かりやすい話ではない。理由が分からないまま、そこにある。その現前に耐えることが、読書の始まりだ」
有卦瓜は、伊丹についての観測メモをもう一枚だけ机に置いた。そこには、未来屋書店伊丹店、有岡城跡、荒村寺、『黒牢城』映画化、村重プロジェクト、宗教・精神世界の棚、そして『ベルゼバブの孫への話』という語が、矢印なしで並べられていた。
「矢印は引かないのですか」と古田割は聞いた。
「引いた瞬間に、嘘になります」と有卦瓜は答えた。
古田割は、その紙を見た。矢印のない関係図。つながっているようで、つながっていない。つながっていないようで、すでに一つの町の中に置かれている。ピンチョンなら、ここで郵便制度か、地下組織か、誰にも届かない伝令の話を始めるかもしれない。だが古田割には、そこまで書く勇気がなかった。秘密結社の妨害は、まだ起きていない。グルジェフ・ソサエティからの警告も届いていない。未来屋書店伊丹店はただ営業し、荒村寺はただそこにあり、有岡城跡はただ町の中に残り、映画はただ公開へ向かっている。
それでも古田割は、何かが近づいているような気配だけを消せなかった。あるいは、近づいているのは自分の方なのかもしれなかった。真相は、最後まで分からなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
「続けましょう」と有卦瓜が言った。
「そうですね」と古田割は言った。「続けます」
そのとき、写真の中の緑色が、わずかに濃くなったように見えた。古田割は最初、液晶の輝度設定か、東京の深夜の蛍光灯がつくる錯覚だと思った。しかし次の瞬間、ベルゼバブの背表紙の奥から、何か硬質なものが伸びた。角だった。すでに見えていたはずの象徴的な輪郭に、もう一本、見落としていた分岐が増える。1本目でも2本目でもない。すでに数えたはずのものが数え直しを要求し、4本で閉じたと信じていた図式の外側に、5本目の分岐が現れた。古田割は目をこすった。もちろん、写真はただの写真だ。棚は棚であり、書影は書影であり、宗教・精神世界の棚は、イオンモールの照明の下で、ただ平然と商品を並べているだけだ。それでも彼の内部では、角が増えていた。ベルゼバブが、もう一段階、別の理性に到達したように見えた。
「今、何か見えましたか」と有卦瓜が言った。
「見えた気がします」と古田割は答えた。「5本目の角です」
「分類上の問題ですか」
「たぶん、分類上の問題です。あるいは分類が壊れる問題です」
古田割の頭の中で、断片的に知られる理性の段階、存在の段階、自己の個性に関わる語群が、整理されないまま音もなくめくれ始めた。アクルダン。マルトフォタイ。聖なるポドクーラド。さらに上位にあるかもしれない何か。だが、その語群は完全な表にはならない。訳語の揺れ、伝承の欠落、読者の願望、グルジェフの意図的な攪乱、そして、そもそも人間の頭が宇宙の階級表などというものを正しく読む能力を持っているのかという、根本的な疑いがある。古田割は、それでも5本目の角を「聖なるポドクーラド」の理性として受け取った。断定ではない。到達の記録でもない。ただ、そう見えてしまった。見えてしまった以上、なかったことにはできない。
その瞬間、写真の奥に、名を記すことが許されていない存在が現れた。大天使と呼ぶしかない何かだった。名を与えれば低くなる。固有名を付ければ棚に戻る。だから古田割は、その存在をただ「名を記すことが許されていない存在」として見た。その存在はベルゼバブに新たな角を授けるために来たように見えた。だが、授与の動作が終わる前に、さらに奥から、格上の気配が通過した。光ではない。音でもない。だが、位階だけが分かる。名を記すことが許されていない存在は、その途中で動きを止め、顔を伏せ、ひれ伏した。古田割は、いったい何に対してひれ伏したのかを見ようとした。しかしそこには、見えないものの通過だけがあった。証明はない。否定もできない。ただ、角は増えていた。
「分類しようとするほど崩れますね」と有卦瓜が言った。
「崩れる?」
「ええ。表にすると壊れます。上位、下位、同一、別存在。そうやって整理しようとした瞬間に、観測対象の方がずれます。工程不具合と同じです。原因を一つに決めた瞬間、現場は別の不具合を出してくる」
古田割は、その言葉を聞きながら、ベルゼバブとイエス、ブッダ、アシアタ・シエマシュの関係を考えた。同一存在であるとは言えない。そんな断定は、あまりに粗い。だが、一致が多すぎる。慈悲、良心、覚醒、法、自己犠牲、人類への介入、眠りの診断、そして人間がその教えを制度に変え、棚に戻し、分類し、安心して忘れていくまでの速度。その一致が、多すぎる。
仮説は勝手に増殖した。彼らは同一の理性に到達しただけの別存在なのかもしれない。別の肉体、別の時代、別の言語、別の宇宙的任務を持ちながら、同じ客観的理性の階層に触れたのかもしれない。あるいは、客観的理性においては“私”というものが共有されるのかもしれない。人間の私、預言者の私、覚者の私、宇宙的流刑者の私が、ある高さでは区別を失い、別々の窓から同じ光を通すのかもしれない。あるいは、宇宙的役割がローテーションしているのかもしれない。今回はイエス、今回はブッダ、今回はアシアタ・シエマシュ、今回はベルゼバブ。名札だけが変わり、役割は循環し、担当者は交代し、地球の三脳生物たちはそのたびに新しい宗教と新しい誤解を作る。あるいは、そもそも階級表自体が誤読なのかもしれない。理性の段階など、人間の側が直線にしただけで、実際には円環であり、渦であり、棚であり、駐車場であり、イオンモールの照明であり、未来屋書店伊丹店の宗教・精神世界の棚に置かれた一冊の緑色の本なのかもしれない。
どの説も決着しなかった。むしろ決着しないことだけが、奇妙に強かった。疑念は増幅し、仮説は枝分かれし、5本目の角はさらに小さな枝を生やしそうになり、古田割は、それを止める方法を知らなかった。証明はない。否定もできない。宇宙の位階表は、読もうとするたびに、ページ番号を変える。
その不確定性の中で、名前が流れ込んできた。体系ではなかった。名簿でもなかった。格付けでもなかった。アシアタ・シエマシュ。イエス。ブッダ。モーセ。ムハンマド。クリシュナトカルナ。ベルクルタッシ。コヌジオン王。アポリス王。マカリ・クロンベルンクジオン。ピタゴラス。リオナルド・ダ・ヴィンチ。イグナチウス・ロヨラ。メスメル。ハッジ・アズヴァツ・トゥルーフ。断片的に思い出される名前の洪水だった。宗教史、神秘思想史、科学史、王権、伝説、ワーク、誤読、翻訳、陰謀論の手前にある妙な明晰さ。それらが同列に並んで見えてしまう異常さが、古田割の額の奥で光った。誰が上で、誰が下かではない。誰が正統で、誰が異端かでもない。人類覚醒の裏面史という語が、一度だけ彼の中を通過した。そしてすぐに消えた。消えたにもかかわらず、消える前より強く残った。
「これ、報告書にできますか」と古田割は言った。
「できません」と有卦瓜は即答した。「報告書にした瞬間、ただの分類になります」
「では、広告には?」
「広告にした瞬間、もっと危ないです」
「では、何にすればいい」
有卦瓜は写真を見た。緑色の背表紙。増えたように見えた角。見えなかったはずの大天使。ひれ伏した気配。通過したさらに上位の何か。名前の洪水。崩れる分類。証明のない観測。
「物語にするしかありません」と有卦瓜は言った。「物語なら、崩れたまま置けます」
古田割はうなずいた。結論は出なかった。むしろ結論が出ないことが、ようやく結論の代わりに座った。ベルゼバブとイエスとブッダとアシアタ・シエマシュは、同じなのか。違うのか。別存在なのか。同一理性なのか。ローテーションなのか。誤読なのか。すべての仮説は棚の中に戻り、棚は何も答えず、写真は写真のまま、緑色を少しだけ濃くしていた。
深夜、東京のオフィスに戻った古田割のスマートフォンが鳴った。着信表示は、古田割徹。自分の名前と、自分の番号。今度は、彼は即座に出た。
「古田割くん」と声は言った。「覚えてるか、春の朝の電話を」
「覚えている」
「あのとき、私は君に言ったね。そろそろグルジェフ・ワークについて話し合うときが来たと」
「言った」
「答えを出したか」
古田割は窓の外の夜景を見た。東京が光っている。百万の窓が光っている。眠れない人間たちが、それぞれの机の前で、それぞれの仕事をしている。そのうちの何人かは、今夜、『ベルゼバブの孫への話』を読んでいるかもしれない。
「ワークは始まっていた」と古田割は言った。「最初から、ずっと」
「そうだ」と声は言った。満足そうに。「だから私は電話した。君が気づくために」
「君は、どこにいる」
「100万部目を買った読者の隣だよ」
通話が切れた。古田割は画面を見た。着信履歴には、何も残っていなかった。窓の外、東京が光っている。彼は、キーボードに手を置いた。仕事は、まだ終わっていない。
参考出典
G.I.グルジェフ『ベルゼバブの孫への話』平河出版社
G.I. Gurdjieff, Beelzebub’s Tales to His Grandson: An Objectively Impartial Criticism of the Life of Man
G.I.グルジェフ『注目すべき人々との出会い』平河出版社
P.D.ウスペンスキー『奇蹟を求めて』平河出版社
トマス・ピンチョン『重力の虹』国書刊行会
ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』集英社文庫
ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』河出書房新社
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』岩波文庫
筒井康隆『馬の首風雲録』新潮文庫
カート・ヴォネガット『タイタンの妖女』ハヤカワ文庫
カート・ヴォネガット『スローターハウス5』ハヤカワ文庫
ダグラス・アダムズ『銀河ヒッチハイク・ガイド』河出文庫
スタニスワフ・レム『サイベリアード』ハヤカワ文庫
小森健太朗『グルジェフの残影』文春文庫
ウィリアム・パトリック・パターソン『グルジェフを求めて:〈第四の道〉をめぐる狂騒』コスモス・ライブラリー
米澤穂信『黒牢城』KADOKAWA
未来屋書店伊丹店 店舗情報
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