【三十二歩目】空海と荘子。
三十二歩目。今日もちょっと長いです。
1.『三教指帰(さんごうしいき)』。
ちょっと前に、孔子とお釈迦様と老子がお酢を嘗めることで儒教・仏教・道教の関係を説明するという「三聖吸酸図」のお話をしました。
この三つの教えを比較するという書物は大陸には結構あるんですが、日本で最初に書いたのはこの人。

真言宗の開祖、弘法大師・空海です。三つの教えを比較しているのは『三教指帰(さんごうしいき)』という書物で、空海が24歳の時に執筆したものだそうです。

お話としては、亀毛先生、虚亡隠士、仮名乞児という人物の対話を中心に、儒教、道教、仏教の順でその教えを比較し、最終的には仏教の優位性を説くという構成になっています。
2.『三教指帰』を書いた動機。
空海はもともとは四国の地方豪族、佐伯氏の生まれです。空海の父親は自分が中央に行くためにも息子には出世してもらいたいと思っていました。ちょうど空海の母方の叔父さんが学者さんだったので、この叔父さんから儒学の基礎を学び、空海は大学寮明経科に入ることになりました。

この大学寮というのは、律令制を支える官僚を育成する当時の高等教育機関です。空海は、言ってみれば高級官僚になるために東大法学部に入ったようなもんです。父親からすれば、息子が官僚になれば、自分の出世にも目が出て願ったりかなったりです。

この大学寮での学問の内容の中心は、明経道(みょうぎょうどう)、すなわち孔子の教え、儒教です。空海は儒教の学問に熱心に学んではみたものの、水が合わなかったし、彼の関心はずっと前から仏教へとシフトしてました。
しかし、自分を支援してくれた家族は官僚になるもんだと思っているし、儒教には親孝行をするのが子の務めであるとする「孝」の徳目があります。そこで空海は家族に「儒教の教えよりも仏教が優れている」「私は仏教を学びたいのだ」と説得する必要がありました。そのために書かれたのが『三教指帰』です。
3.『三教指帰』の中の荘子。
『三教指帰』は、儒教、仏教、道教の三つの教えを対比するもので、主たる目的は、儒教に対する仏教の優位性を説くことです。最初から道教はおまけです。当時は奈良時代、道教は思想としては入ってきていますが、書物はあっても宗教者がいません。『老子』や『荘子』も一部の限られた知識人が読んでいる程度のものでした。しかし、そうした状況下で、『三教指帰』における空海の『荘子』の理解度の高さは目を見張るものがあります。

❝「夫れ、鰭(ひれ)を濫觴に挙ぐるものは、曾て千里の鯤を見るに由なく、翮を籬に翥つものは、何んぞ能く九万の鵬あることを知らん。是の故に、海上の頑人は魚の如くなる木あらんかと疑い、山頭の愚士は木の如くなる魚あらんかと怪しむ。 ❞
➙「考えて見ると、觴(ひれ)を濫べるほどのせまい小川におよぐ小魚たちには、北海に住むという千里の鯤(大魚の名)を見ることはできませんし、また、生垣の間で羽をばたつかせている小鳥たちには、一度に九万里も飛ぶという鵬の存在を理解することはできません。また、海上で暮す漁師には、大魚ほどもある大きな樹木が山にはあるといっても信じられませんし、逆に山に生活する樵夫には、樹木のように大きな魚が海にはいるのだといわれても信じられないのです。」
このマクロとミクロで見る『荘子』の特徴をちゃんととらえています。
話し出すと長くなるので簡単に言うと、『三教指帰』で空海は、世俗を離れることの必要性を唱える点、人間社会だけでなく精神世界や自然までも対象にする点において道教は儒教よりも優れているとしています。しかし、仙人になって長寿になるのは自分一人の救済だけを目的としている点で仏教よりも劣っていると説きます。実は、これは『荘子』も最初の逍遥游篇で指摘しているんです。「宗教としての道教」には空海の言うような傾向があってそのような指摘も真っ当だとは思うんですが、『三教指帰』の批判では『荘子』はほぼ無傷です。
4.我の習ふ所は古人の糟粕なり。
空海は、『三教指帰』以外にも何度か『荘子』の言葉を使用しています。例えば、『空海僧都伝( くうかいそうずでん)』という伝記において、空海は大学寮で学んだことについて「我の習ふ所は古人の糟粕(こじんのそうはく)なり」と言っていたそうです。もちろんこれは、『荘子』の「古人の糟粕」です。

❝博く経史を覧みて殊ことに仏経を好む。 常に謂らく、 我の習ふ所は古人の糟粕なり。 目前、 なほ益なし、 況んや身斃たおるる後をや。 この陰いんすでに朽ちなん。 如しかず真を仰がんには。❞
この場合の「古人の糟粕」の意味としては「儒家の学問は先人の業績をなぞってばかりだ」といった感じでしょう。まぁ、政治学や歴史学に相当しますので、先人の業績を学ぶのは当たり前なんですが、空海の関心が形而下の事象になく、自分の内面や世界そのものにあったと読めます。
5.「虚往実帰(虚しく往ひて實ちて帰る)」
空海は後に密教を学ぶため遣唐使船に乗って唐に渡りました。彼は長安の都にある青龍寺で恵果(えか)という師に出会います。恵果は、空海の意気と才能を十分に認めて熱心に教えを授けていたんですが、途中で病没してしまいます。その恵果の死後に空海は以下のような碑文を残しています。

❝縱使財帛接軫,田園比頃,有受無貯,不屑資生。或建大曼荼羅,或修僧伽藍處。濟貧以財,導愚以法;以不積財為心,以不吝法為性。故得若尊若卑,虛往實歸,自近自遠,尋光集會矣。訶陵辨弘,經五天而接足。❞
➙たとえ財宝を積んだ車が列をなし広い田園を所有したとしても、わが師はそれらを受け取ることはあっても蓄えることはせず、自分の生活を豊かしようとはなさいませんでした。ある時は大きな曼荼羅を建立し、ある時は寺院を修繕しました。貧しい者には財をもって救い、無知に迷う者には法をもって導いたのです。「財を蓄えないこと」を信とし、「教えを惜しみなく説くこと」を性とされました。身分の高い者も低い者も、空虚な心で訪れては満ち足りて帰り、近隣からも遠方からも、あたかも光を追い求めるかのように人々が集まってきたのです。
この「虚往実帰(きょおうじっき)」も『荘子』です。空海はここだけでなく、何度もこの言葉を使っていまして、空海のオリジナルだと勘違いする方も多いですが『荘子』です。

❝「王駘,兀者也,從之遊者,與夫子中分魯。立不教,坐不議,虛而往,實而歸。固有不言之教,無形而心成者邪。是何人也。」❞
➙ 「王駘は足のない罪人ですが、彼に従う者は先生と魯の国を二分するほどです。彼は立って何かを話してもいないし、座って何かを議論する様子でもないようです。しかし、人々は空っぽの心で(王駘のもとへ)行き、帰りには心に実を満たして帰ってきます。」本当に『言葉によらない教え』というものが存在し、無形の教えによって精神的な完成がなされるなどということがあるのでしょうか。彼はいったい何者なのでしょうか?」❞
これもあえて孔子を登場させて、孔子の教えにない部分を指摘しているところなので、空海のチョイスはその点でも一貫しているかも知れません。
ちなみに、その前の部分も荘子だと思います。

❝以德分人謂之聖,以財分人謂之賢。以賢臨人,未有得人者也;以賢下人,未有不得人者也。❞
➙困った人に「徳」を分け与える者を『聖者』と呼び、困った人に「財」を分け与える者を『賢者』と呼ぶ。自分の賢さをひけらかして、人の心を掴めた者はいない。 逆に、優れた才能を持ちながらもそれをひけらかすことのない姿勢を貫いて、人の心を掴めなかった者はいない。
空海の場合には、単純に儒教に対するアンチというだけなく、老荘思想の内容そのものについても共感する部分は多かったんだと思います。後に空海は、青龍寺の恵果和尚に出会って密教を学んだ留学時代の経験そのものを「虚往実帰(虚しく往ひて實ちて帰る)」と表現するようにもなっています。
6.高野山と姑射山(こやさん)。
ちなみに、『三教指帰』において、空海は世俗との距離をおく道教の姿勢については評価しています。実際、空海は和歌山の山奥の高野山を開山したわけで、その姿勢は貫いた形になります。
ところで、『荘子』の中で世俗との距離を置く仙人の山として「藐姑射の山(はこやのやま)」という山があり、日本でも『万葉集』に詠まれていたり、仙洞御所の別名になるなど古くから認知されていました。この「藐姑射(はこや)」の「藐(は)」の字は「遥かなる」くらいの意味なので、「藐」の字を抜いて「藐姑射(はこや)」ではなく「姑射(こや)」と呼ぶ場合があります。
実は、「姑射山(こやさん)」という山が、高野山山系に実際にあるそうです。老荘マニアとしてはとても気になるところです。
長っ!ということで今日はここまで。続きは三十二歩目でお会いしましょう。それでは、Punardarśanāya(プナルダルシャナーヤ)!
