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【三十歩目】本は死んだ人の残りかす - 古人の糟魄 -

三十歩目も『荘子』です。


1.本は死んだ人の残りかす。

❝桓公讀書於堂上、輪扁斲輪於堂下、釋椎鑿而上、問桓公曰。「敢問公之所讀者何言邪。」公曰「聖人之言也。」曰「聖人在乎。」公曰「已死矣。」曰「然則君之所讀者、古人之糟魄已夫。」桓公曰「寡人讀書、輪人安得議乎。有説則可、無説則死。」輪扁曰「臣也、以臣之事觀之。断輪、徐則甘而不固、疾則苦而不入。不徐不疾、得之於手而應於心、口不能言、有數存焉於其間。臣不能以?臣之子、臣之子亦不能受之於臣、是以行年七十而老断輪。古之人與其不可傳也死矣、然則君之所讀者、古人之糟魄已矣。」
→桓公が書物を読んでいると、輪扁という車輪を作る職人が質問をしに来た。「お殿様は何を読んでおいでですか?」
桓公は「聖人の言葉だよ」と答えた。
さらに職人は「その聖人様は生きているんですか?」と尋ねた。
桓公は「いや、亡くなっておられる。」と答えた。
すると職人は「なんだ、あなたさまは死んだ人の残りかすみたいなものを読んでいるだけじゃないですか。」と言うと、
桓公は「お前なんぞの身分でわしの学問をバカにするのか、答え次第によっては命はないぞ!」と激怒した。
職人はこう答えた。「車輪を作るときに、軸をぴたりとはめるためには、ゆるすぎても、きつすぎてもいけません。この技は自分で何度も何度も試して手で憶えていくことでしかできないのです。言葉でいくら言ってもダメでして、ついに私は自分の息子に伝えることすらかないませんでした。自分の経験と勘を継がせる事ができませんし、私の代わりになる者もおらず、七十の今になっても私は車輪を作る仕事をしています。さて、今でも働いて報酬をもらっている私に言わせてもらえば、お殿様の読んでいる本は、今を生きていない死んだ人の書いたもの。いわば、古人の糟魄ではありませんか?」

『荘子』天道 第十三
山東省嘉祥県洪山村出土《造車と醸酒図》

 『荘子』という書物にはさまざまな職人が登場します。養生主篇に登場した料理人「庖丁」の話と同じように、今回の車輪づくりの職人「輪扁(りんぺん)」の話は、『荘子』の中でも大変特徴的なものです。「糟魄(そうはく)」は、「糟粕」とも書きます。いわゆる酒粕(さけかす)のことです。「古人の糟魄」とは、書物とは死んだ昔の人のエッセンスを搾り取ったあとの残りかすみたいなものだというわけです。


しかし、「本なんてものは死んだ人の残りかすである」などと書いてある本が2300年以上も残るというのもおかしな話ですな。

2.マニュアルと職人の勘。

車輪を作る職人

 この「古人の糟魄」のお話で、職人が軸をはめるうんぬんと言っています。古代の車輪は木製で、車輪のスポークは、くぎを使わずに凸凹をはめる、ほぞ継ぎ(卯榫)の技法を使っていました。写真を見ると分かりますが、これは一朝一夕にできるようなシロモノではないですね。輪扁(りんぺん)は、自分自身の職人としての勘を言葉で伝えることができなかった経験をもとに、周公が読む本もまた「死んだ人の残りかす」にすぎないと主張しています。

 この場合の「古人の糟魄」は「マニュアル」と読み替えることもできます。つまり、ある一定レベルの仕事ならば言語化してマニュアルにすることは可能ですが、「職人の経験」や「職人の勘」を言語化するのは難しくなります。つまり本物の仕事はマニュアル化できない。最高峰の技術はどのようなものであれ、マニュアルにはなく、職人にしか属していない。

3.得手応心(手に得て心に応ず)。

 ここで紀元前の車輪作り職人・輪扁は、「自分で何度も何度も試して手で憶えていくことでしかできないのです。」と言っています。これは「得手応心」と言いまして、本物の技術は何度も何度も自分の手で試行錯誤を繰り返して、自分で獲得するしかないとしています。一定水準以上の技術になると、一つや二つのコツだとか、学校で習ったノウハウなどでは太刀打ちできなくなりますからね。
 昔は「技は盗むもの」とよく言われていたものですが、本物の技術は受動的に教わるのではなく、自発的に修練を積むことによって、はじめて「自分のものになる」という感覚になるのだろうと思います。技術を「体得(たいとく)する」などと言ったりもしますが、長い間の修養で、理屈ではなく体で覚える。職人の技術のことを「腕」というのと同じように、頭ではなく腕で仕事をする域に到達する、ということでしょう。 
 ちなみに、この得手応心は江崎グリコの創始者、江崎利一社長のお気に入りで、グリコの工場などにも飾っているそうです。

江崎利一語録

4.先人の劣化コピーで終わるな。

 「古人の糟魄」のお話は、本というものは作者のエッセンスを搾り取った残りかすであって、エッセンスそのものは本には書かれない、本質ではなく形式にばかり気を取られると、先人の形式のモノマネでおわることへの警句でもあります。形だけ真似てもそれは先人の劣化コピーにしかなりません。「古人の糟魄」は、知識やテクニックの理屈を学習するよりも、本質を体得することの重要性を説いています。

今日は眠いのでここまで。続きは第31歩目でお会いしましょう。それではпобачимось pobachymosʹ!



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