【十二歩目】キノコの時間、セミの時間、ヒトの時間、大樹の時間。
第十二歩目、本日は、前回の続きです。
1.空間の次は時間のお話。

❝小知不及大知、小年不及大年。奚以知其然也。朝菌不知晦朔、蟪蛄不知春秋、此小年也。楚之南有冥靈者、以五百歳為春、五百歳為秋。上古有大椿者、以八千歳為春、八千歳為秋。而彭祖乃今以久特聞、衆人匹之、不亦悲乎。❞
→ 小知は大知に及ばず、小年は大年に及ばない。何を以ってそのありさまを知るのだろうか?昼の間しか生えないキノコは、一か月という存在を知らず、夏の間に命を落とす蝉は、春と秋の存在を知らない。これが小さな歳月だ。楚の国の南に霊木があり、この木は五百年を春とし、五百年を秋とするという。太古の昔には、大椿という木があって、八千年を春とし、八千年を秋としたという。世の中では伝説の中にある八百歳の長寿を保った彭祖(ほうそ)にあやかって長生きしたいという人がいるが、悲しむべきことではないか。

前回は、鯤(こん)と鵬(ほう)という途方もなく巨大な魚と巨大な鳥のと、ヒグラシやハトのお話だったんですが、今回は、キノコ、セミ、樹木を対比しています。
よく読むと分かると思いますが、前回は大きさや長さといった空間のお話でしたが、今回は時間のお話です。
2.蟪蛄(けいこ)は春秋を知らず。

まず、「朝菌(ちょうきん)は晦朔(かいさく)を知らず」。「朝菌」というのは、朝に芽が出て夕方には枯れてしまうキノコのことのようです。「晦朔」というのは、月の一日目と末日のこと、つまりは一か月という意味で、その日のうちに枯れてしまうキノコに一か月という時間のスパンは分からないという意味ですね。

次が「蟪蛄(けいこ)は春秋を知らず。」この場合の蟪蛄はニイニイゼミのことのようです。蝉の成虫は夏の間の一週間ほどしか地上で生活しませんので、春秋を知らないとしたのでしょう(厳密には蝉の幼虫は土中で何度も年を越しますが。)
3.大椿(だいちん)の寿。

キノコ、セミと続いて大椿(だいちん)という樹が出てきます。椿(つばき)という漢字が出てきますが、一応伝説上の木の名前で、どのような木かは分からないですが、ツバキとは関係ないそうです。最初のキノコやセミは人間よりもはるかに短い時間で一生を終えますが、この大椿の木は八千年の歳月を生きるそうです。

ここで、800年を生きたとされる伝説上の人物、彭祖(ほうそ)を登場させて、キノコにはキノコの、セミにはセミの、大椿には大椿の時間があるのに、世の人々は、人間に与えられた自然の法則から離れた彭祖(ほうそ)のような長寿を望むのは悲しむべきことである、としています。
4.この世界は相対的なもの。

『荘子』の逍遥游篇も老子と同じような人間の認識の相対性を説くわけですが、荘子には独特のアプローチがあります。荘子の場合には人間と人間以外の存在を対比したり、ミクロとマクロ、時間と空間の視点を駆使して我々の存在とは何なのかを示そうとするわけです。

大きいだの小さいだの、広いだの狭いだの、長いだの短いだの、大鵬の羽ばたく上空から見下ろせば、みんな小っちゃな米粒みたいな存在です。イケメンかブサイクかなんてのも判別不能です。
長命だの短命だのといっても、キノコやセミに比べれば長いし、八千年を生きる大椿の樹の寿命からすれば一瞬みたいなもんです。
我々が思い悩んでいることなんて、大きな営みからすれば実にちっぽけなものかも知れません。
荘子は大変スケールの大きな話が多くて、例えば李白のような詩人の作品への影響も良く分かるのではないかと思います。この壮大なお話が『荘子』の魅力であることは間違いないんですが、『荘子』という書物は、大きいだけでなくて、さまざま「スケール(ものさし)」を使って我々に問いかけてきます。このものさしに注目するのも面白いかもしれません。
というわけで第十二歩目はここまで。続きは十三歩目でお会いしましょう。それでは、տեսնել քեզ!
