鈴木貫太郎は最後の「元老」だった
― 明治国家を最後に救った、77歳の調停者 ―
1945年8月、日本は国家として意思決定不能に陥っていた。
広島には原子爆弾が投下され、ソ連は対日参戦し、長崎にも原爆が落とされた。それでも政府内部では、ポツダム宣言をどの条件で受諾するかについて意見を統一できなかった。
外相の東郷茂徳らは、国体護持を条件として受諾すべきだと主張した。一方、陸相の阿南惟幾ら軍部は、占領や武装解除、戦犯処罰などについても条件を付けるべきだと考えた。だから、最高戦争指導会議は割れた。閣議も割れた。誰にも決められない。
この時の首相だったのが、江戸時代生まれの77歳の鈴木貫太郎だった。
鈴木について調べていると、私は彼を単なる「終戦時の首相」として見るだけでは不十分だ。
鈴木貫太郎は、事実上最後の「元老」のような役割を果たした人物だったのではないか?
◼️明治国家には、憲法に書かれていない「元老」がいた
1868年以降の明治国家は、一見すると近代的な制度国家だった。帝国議会があり、内閣があり、陸海軍があり、大日本帝国憲法があった。ところが、その最上層には奇妙な存在がいた。
「元老」である。
明治維新の立役者である薩長の侍や公家の人間達である。伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、西郷従道、大山厳、井上馨、松方正義、西園寺公望らだ。
重要なのは、元老という役職やその役割が大日本帝国憲法に規定されていた訳では無いことだ。
それでも彼らは首相選定について天皇に助言し、政党、官僚、軍、宮中の間を調整し、国家が行き詰まった時には事実上の最終調停者として機能した。なぜそんなことが可能だったのか?
理由は単純である。
彼ら自身が明治国家を作った創業者達だったからだ。
「山縣なら陸軍が分かる」
「伊藤なら憲法も外交も分かる」
「西園寺なら政党と宮中をつなげられる」
制度ではなく、その人物が積み重ねてきた経歴、人脈、信用によって国家を動かしていた。現代的な組織論から見れば、かなり属人的なガバナンスである。
◼️西園寺公望は1940年まで生きていた
私が改めて驚いたのは、最後の元老である西園寺公望が亡くなったのが1940年11月だったことである。西園寺は1849年生まれ。戊辰戦争にも参加した、文字通り明治維新世代の人物だ。
その人が、戊辰戦争を経験し、明治政府の成立を見て、日清・日露戦争を経験し、第1次世界大戦を経験し、政党政治を経験し、満州事変を見て、2・26事件を見て、日中戦争を見て、日独伊三国同盟成立まで見届けて、1940年に亡くなった。
そして、その約1年後に日本はアメリカとの戦争を始める。この時間的な近さには驚かされる。明治維新を知る人物が、太平洋戦争直前まで日本政治の最終調停者だったのである。逆に言えば、それほど明治国家は「創業者」に依存していたとも言える。
◼️創業者が死んだ後、誰が全体最適を決めるのか?
伊藤博文は1909年に暗殺された。井上馨は1915年、山縣有朋は1922年、松方正義は1924年に亡くなった。最後に西園寺だけが残った。
本来なら、「元老が全員死んだ後、彼らが担ってきた調整機能を誰が担うの?」を考えなければならなかったはずだ。
ところが、それを十分に制度化できなかった。そして1930年代になると、その問題が表面化していく。軍は統帥権の独立を主張する。内閣は軍を完全にはコントロールできない。陸軍と海軍は別々に動く。外務省にも独自の論理がある。宮中も存在する。それぞれには権限がある。
しかし、「では国家全体として何をするのか?」を最終的に統合する制度が、大日本帝国憲法下の日本では弱かったのだ。太平洋戦争末期になると、この欠陥は致命的になる。
◼️そこで鈴木貫太郎が出てくる
1945年4月、小磯国昭内閣が倒れた。後継首相として選ばれたのが鈴木貫太郎だった。鈴木は1868年生まれ。つまり、江戸時代生まれの最後の日本の首相だ。海軍大将。連合艦隊司令長官。海軍軍令部長。侍従長。枢密院議長。そして、昭和天皇から個人的に深く信頼されていた。
この経歴を見ると、鈴木がなぜ1945年という異常事態で選ばれたのかが分かる。彼は単なる政治家ではなかった。海軍が分かる。軍人の論理が分かる。宮中が分かる。天皇を知っている。
政府を知っている。そして何より、各方面から一定の信用がある。これは、かつて元老が持っていた性質に非常によく似ている。
◼️鈴木は「命令する人」ではなく「着地させる人」だった
ここが東條英機との決定的な違いだと思う。東條は執行型のリーダーだった。首相になり、陸相を兼任し、最後には参謀総長まで兼任した。国家が上手く動かないなら、自分に権限を集中させて動かそうとする。しかし、それでも彼は戦争を統合的に指導することは出来なかった。
鈴木は正反対だった。自分が全部を支配しようとはしない。むしろ、陸軍には陸軍の立場を言わせる。海軍には海軍の立場を言わせる。外務省にも言わせる。重臣とも話す。宮中とも調整する。そして最後に、「どこなら着地できるか」を探す。鈴木のリーダーシップは、強力なCEOというより、巨大組織が崩壊しかけた時の最後の調停者に近かった。
◼️そして「聖断」という最後のカードを切った
1945年8月9日から10日にかけて、日本政府はポツダム宣言受諾をめぐって完全に割れた。通常の意思決定では結論が出ない。
そこで鈴木は、昭和天皇に判断を求めた。いわゆる「聖断」である。
これは見方を変えれば、異常な意思決定でもある。本来なら政治家が政治的責任を負って決めなければならない。それを、政府が決められないため天皇に最終判断を求めている。
しかし1945年8月には、天皇以外にステークホルダー全員を従わせられる権威がもう殆ど残っていなかったのだ。
そして、鈴木は侍従長として長年昭和天皇の近くにいた。だからこそ、「普段は天皇を政治的意思決定に使わない。しかし、国家が本当に決められなくなった最後の瞬間に、その権威を使う」という非常に微妙な判断ができたのではないか?
これは制度を知っているだけでは難しい。天皇という人間を知り、宮中の作法を知り、軍の心理を知る鈴木だからできた政治的テクニックだった。
◼️2・26事件で鈴木が死んでいたら?
そして鈴木の人生には、恐ろしい偶然がある。
1936年2月26日。
鈴木は侍従長として青年将校らに襲撃され、銃弾を受けた。瀕死の重傷だった。あと少し条件が違えば、そこで死んでいてもおかしくなかった。ところが鈴木は生き残った。
そして9年後。
自分を殺そうとしたのと同じ陸軍内部の急進的な思想を抱える人々を抑えながら、日本を終戦へ導くことになる。
もし1936年に鈴木が死亡していたらどうなったのか?
もちろん歴史の反実仮想に答えはない。日本はいずれ降伏しただろう。しかし、
誰が1945年4月に首相になったのか?
誰が阿南惟幾を政府内部につなぎ止めたのか?
誰が昭和天皇との信頼関係を使えたのか?
誰が最後に「聖断」を求めたのか?
を考えると、私はゾッとする。
終戦が数週間、あるいは数か月遅れただけでも、犠牲者はさらに増えていた可能性がある。ソ連軍が日本本土にどこまで侵攻していたかわから。3発目以上の原爆投下も十分にあり得た。
◼️明治国家は最後まで「人」で動いていた
ここまで考えると、鈴木貫太郎という人物の存在には1つの皮肉がある。
明治国家は近代国家を目指して作られた。憲法を作った。議会を作った。官僚制を作った。近代的な陸海軍を作った。それでも最後の最後、国家存亡の意思決定を可能にしたのは、精巧に設計された危機管理制度ではなかった。昭和天皇が昔からよく知っている、77歳の元侍従長・海軍大将への個人的な信頼だったのだ。
そして鈴木自身も江戸時代の生まれだった。
西園寺公望という最後の正式な元老が1940年に亡くなり、その5年後、明治国家が崩壊寸前になったところで、もう1人の江戸時代生まれが現れて国家を着地させた。
だから私は、鈴木貫太郎を単に「終戦時の首相」と呼ぶより、最後の「元老」と呼びたくなる。
もちろん、彼は元老ではない。しかし、元老が消滅した後の日本で、かつて元老が担っていた「制度と制度の間を、人間の信用によってつなぐ」という役割を最後に果たしたのだ。
そして、それは同時に明治国家の強さと弱さを象徴している。最後に国家を救ったのが「制度」ではなく「鈴木貫太郎という人間」だったこと自体が、明治国家が最後まで克服できなかった問題を物語っているのかもしれない。
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