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はじめての連載ライター #短編小説

「え、会社辞めちゃうんですか!」

 思わず大きな声が出て、すぐに口をつぐむ。目の前にいるイトウさんはそんな自分を見て、クスっと微笑んだ。駅地下のレトロ喫茶店。客がほとんどいなかったのが救いだった。
「ま、人生ちょっと冒険してみようかなと」
 悪戯っぽく微笑んで紅茶を美味しそうに飲む彼女を見ながら、『冒険』って何だろうと考えていた。

 業界雑誌の編集記者に転職して一年。それなりに取材も執筆も量をこなすようになり「自分の書いた記事です」とようやく胸を張って言えるようになったころ、デスク(副編集長)から新しい連載の担当を言い渡された。といっても自分が書くわけじゃない。外部のライターによる寄稿の連載だ。自分はそのライターの担当編集者になる。

 ライターは、イトウさんという女性。本業は外資系ITベンダーのSEで、副業としてうちの雑誌にたまに寄稿している。最初は取材先だったのが、「書いてみません?」という先輩の軽い誘いで特集記事に寄稿してもらったのがデビューらしい。

 ただ、自分は一度も会ったことがなかった。写真だけ。連載を担当するということで、メールと電話でコミュニケーションは取っていたけれど、実際に会うのはその日がはじめてだった。

 デスクいわく「彼女は、社会人として真っ当なやり取りができるところがいい」。先輩も「イトウさんなら安心だよ。こっちも勉強になるし」という。

 実際に会ってみると、写真通りのとても落ち着いた女性だった。シンプルな紺のジャケットにロングスカート。長い髪。きれいな革のトートバッグを肩にかけている。正確な年齢は聞けないけれど、たしか自分より少し年上の30代後半のはず。

「イトウです。これからよろしくお願いします」
 声も低いトーンで聞きやすい。頭を下げる姿も背筋がピンと伸びていて品がある。要するにザ・大人の女性だ。連載を担当するのはもちろん、女性ライターを担当するのもはじめてだったから、少し緊張する。

 けれど、「理学部出身なんですよ」という彼女のひとことですぐに打ち解けた。自分が工学部ということもあり、リケジョに同じ匂いをかぎ取ったのかもしれない。
 しばらく連載の方向性や締め切りの確認など、具体的な打ち合わせが進んだ後、雑談になった。

「〇〇さんは、エンジニアから記者に転職したって聞きました」
 事前にそんな情報は伝えてないから、たぶん先輩が教えたのだろう。
「ええ。まだ一年ちょっとです」
「ずいぶん思い切りましたね。冒険じゃないですか」
 『冒険』と言われたのは初めてだった。たしかにそうかもしれない。
「まあ、大変なことばかりで……」
「転職して良かったですか?」
「……自分で決めた道ですからね」
 そう答えると、イトウさんは深くうなずいた。そして紅茶に口をつけてから、さらっと言った。
「私も、夏には転職します」
 
 アールグレイ独特のさわやかな香りが漂って、一瞬、何を言われたのかわからなかった。思わず大きな声が出た。
「え、会社辞めちゃうんですか!」
 イトウさんがクスっと微笑んでうなずく。
「次はどこの会社に行くんですか?」
「いえ、独立しようかなって」
「独立?……」
「ご存じかもしれませんが、来月、xxx社から書籍を出すんです。はじめてのコンピュータ技術解説本」
 xxx社は大手の技術系出版社だ。書籍を出す件は先輩から聞いて知っていた。狭い業界だし、うちの常連ライターには、競合他社からもいろんな誘いが来る。
「じゃあ……フリーのライターに?」
「……まあ、当面は書くことが中心ですね。でも、せっかくだから、いろいろやってみるつもり」
 いろいろが何を意味しているのかさっぱりわからなかったけれど、こんなに落ち着いた雰囲気を醸し出していて、けっこうアグレッシブな人かもしれない、そう思った。
「今の会社、給料いいですよね……それなのに辞めちゃうんですか」
「転職の先輩として、いろいろ教えてくださいね」
「先輩はやめてください」
「……私も人生ちょっと冒険してみようかなと」
 そう言ってイトウさんは、残りの紅茶を美味しそうに飲んだ――

◇◇

 連載の編集者は、記者と使う筋肉が違う。

 連載全体の方向性といった長期戦略のほか、毎回の原稿の査読、赤入れも行う。連載誌面のレイアウトやデザインもデザイナーと話し合う。初校までは自分とライターでキャッチボールして進むが、そこから先はデスクがチェックするので、自分の書く記事より校了まで時間がかかる。担当者は、そういったやりとりを的確かつ効率よく進め、連載を続けていけるようにライターを毎回、叱咤激励し続けないといけない。

 自分の記事しか考えられなかった『記者』に比べて、『編集者』はプロデューサーだ。ちゃんとした記事になるよう仕上げ、人気が出るように全体を俯瞰していろいろなところに目を配る。文字通り二人三脚。

 それを考えると、編集者としてはまだ若葉マークの自分にとって、はじめての連載ライターがイトウさんというのは本当に幸運だった。

 彼女は締め切りを必ず守る。しかも原稿の出来がすこぶるいい。事実関係にも間違いはなく、文章もさらさらと読めて気持ちよく、かつわかりやすい。自分の堅苦しくて面白くない文章に比べ、イトウさんの文章は流暢でリズミカルでやや文学的。要するに上手いのだ。ああ、良い書き手ってこういう人のことを言うんだ。原稿を読むたびにそう思った。

 自分とはレベルが違う――その割り切りが良かったのか。自分とイトウさんとのコンビは思いのほかうまくいった。頻繁にメールでやりとりし、意見を交わした。自分のアイデアをイトウさんがうまく具現化して書いてくれることもあった。そういった努力が実ったのか、読者アンケートではイトウさんの連載が一番高く評価されるようになった。先輩やデスクにも褒められ、正直ちょっと鼻が高かった。

 夏になって、イトウさんは宣言通り退職してフリーランスになった。

 編集長の配慮で原稿料が少し増えることを伝えると、「〇〇さんのおかげです。もっと期待に応えるよう頑張ります」と、深々と自分に頭を下げた。そのあと、独立のお祝いで先輩と3人、飲みに繰り出した。

 期待に応える――それは本当だった。

 xxx社から発行されたイトウさんの書籍は、この手の専門書にしては想像以上に売れた。すぐに重版が決まったという。うちの出版社からも、連載の原稿が貯まったら書籍にして出そうということになった。

 さらに大手ITベンダーyyy社のイベントでは、業界の有名エンジニアを集めたパネルディスカッションで司会もやるという。同社のオウンドメディアにも、彼女を前面に出した連載コラムが始まった。

 そのどこにも、彼女は名前(本名)や経歴、写真を堂々と載せていた。

 彼女には、かつて自分が感じたような実名を出すことについての葛藤はなかった。たぶん、自分の名前で食べていくという覚悟が最初からあったのだろう。SNSや動画サイトで情報発信も積極的に始めた。

 一方で、彼女にもアンチはいた。取材先で名指しで批判する人もいたし、SNSでしつこく批判する投稿も見つけた。それでもイトウさんは、「ここで踏ん張らないとね」とあっけらかんだった。連載の打ち合わせで会いに行くと、いつもその直前まで資料を読み込んでいる。いつ休んでいるのだろうと思った。

 その年の暮れ。

 イトウさんは同業者のIT系ライターたちと小さな会社を作った。

 そこを拠点に共同で雑誌、Web、書籍、ムック、イベントの企画を各社に売り込み、手分けして執筆から編集、イベントでの講演や司会業までこなすようになった。編プロ(編集プロダクション)とマネジメント事務所が一緒になったようなものだ。その会社名義で、書籍が他社から何冊も出るようになった。

 ああ、これが『いろいろ』やりたかったことだったんだなと理解したころには、イトウさんは最初に会ったときとはずっと別の存在になっていた。もう、うちの雑誌だけのライターじゃない。ライターやフリーの編集者たちを組織化した会社の経営者だ。

 連載原稿の校正作業中、「忙しそうですね」とメールすると一度だけ「ほんとに大変」とひとこと返事が来たことがあった。でも、後日会ってみるといつも通り。少なくともそう見えた。

 イトウさんがだんだん成功していくことについて、彼女をデビューさせた先輩は複雑な気持ちだったようだ。正直、自分もそういう感じがなかったといえばウソになる。けれど、自分は彼女のような才能がないことを自覚していたから、うらやましいというより凄いなあという気持ちのほうが強かった。編集者として、彼女の成功に少しは貢献できたと思いたかったのかもしれない。

 ただ、彼女の会社が忙しくなってくるにつれ、以前よりメール返信のスピードが遅れてくると、少し寂しさを感じるようにはなった。連載原稿のクオリティは落ちなかったし、打ち合わせでは気さくに話せるのに、メールの書き方が杓子定規というか、フォーマット化してくるようにも感じた。彼女の会社から、彼女の後任として新しいライターの売り込みもあった。

 翌年、うちの雑誌でのイトウさんの連載は当初の予定通り終了した。

 もちろん、自分はもっと一緒に仕事を続けたかった。だけど、誌面の都合もあり、連載は継続できなかった。それでも自分は「次の機会にぜひ!」とメールした。「もちろん!」と短い返事が来た。

 こうして、ほぼ毎週のようにコミュニケーションしていた自分とイトウさんとのやりとりは自然消滅していった。うちからの書籍化の話もかなわなかった。

 盛大にやろうと計画していた連載終了の打ち上げは、互いの都合が合わず、結局できなかった――

◇◇◇

 イトウさんに再会したのは数年後だ。

 雑誌業界も、編集記者の仕事も、その数年ですっかり変わった。昔のように雑誌や書籍が売れる時代ではない。うちの会社や編集部だけでなく、後輩ができて自分の立場もいろいろ変わった。やるべきことも変わった。

 そんなときに、最初にイトウさんに会った駅地下の喫茶店で、ばったり彼女と再会した。

 たまたま休憩に入ったら、イトウさんが一人で紅茶を飲んでいたのだ。

 それまで、何度か仕事ですれ違う場面はあったけれど、互いに忙しくて頭を下げる程度だった。でも、そのときは店の入り口でお互いすぐに目が合って、どちらからともなく笑顔になり、自分はイトウさんの向かいの席に座った。ちょうど、以前と同じ席だった。

 コーヒーを注文して、お久しぶりですの挨拶を済ますと、イトウさんがあの落ち着いた低いトーンの声で切り出した。
「相変わらず忙しそうですね」
 初対面のときに見たきれいな革のトートバッグは色が落ち、角も少し擦り切れている。もちろん、それは口に出さない。
「まあ、こういう時代ですから、生き残るのに必死ですよ」
「うちも同じ……」
 『うち』というのは彼女が作った会社のことだろう。所属ライターが減りつつも、彼女の会社は続いていた。でも、あまり話題に上らなくなっている。最近は何をしているかよく知らなかった。

「〇〇さんは、もう転職はしないの?」
 ふいにイトウさんが聞いてきた。
「……まあ」
「……もう冒険はしない?」
 イトウさんが悪戯っぽく微笑んでいることに気づいた。ああ、あのときと同じだ。

「何をもって冒険というのかわかりませんが……」
 イトウさんが静かに紅茶に口をつけるのを見ながら言った。また、アールグレイの香りがほんのりする。
「……自分はいまでも冒険しているつもりですよ」

 店員がコーヒーを持ってきて、自分の前に置く。カチャリと、カップとソーサーがずれる音がした。コーヒーの苦い香りが漂う。

「良かった。私もまだ冒険中」

 イトウさんが自分の目を見ながら、少し微笑んだ。

 アールグレイの香りとコーヒーの香りが混じりあう。自分も静かにコーヒーに口をつけた――


<了>


(作者より)
下記は本作の主人公の別のお話です。併せてお読みいただけますと幸いです。緩やかにつながっていますが、それぞれ単独でお読みいただけます。

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