一日置きの彼女 第1章「面会」
「殺したのは、私ではない私。」
あらすじ
精神鑑定医・高山棟悟の前に現れたのは、四歳の娘を殺したとして拘束された母・葉山冴子。
冴子は「私はやっていない」と語り、自らが“一日置きに人格が入れ替わる”二重人格者だと主張する。
殺害当日、表に出ていたのは“何も話さない方の私”だった──と。
高山は提出された日記と記録をもとに、分析を開始する。
果たして冴子の語る“もう一人の私”とは何者なのか。
書かれた言葉、語られる記憶、そして失われた命。
その隙間から、ひとつの“真実”が立ち上がっていく──。
■第1章「面会」 ①
精神鑑定という仕事に、正義も慰めも存在しない。
あるのは、「この人間は責任能力があったかどうか」という、法的評価だけだ。
だからこそ私は冷静でいなければならない。感情を差し挟む余地はない──はずだった。
ファイルの写真を見つめる私の指先が、ほんのわずかに震えた。
白黒で印刷された顔写真。無表情の女がこちらを見ている。
葉山冴子、三十三歳。被害者は、彼女の娘──四歳ののぞみちゃん。
「一日置きに人格が変わるんです」
そう証言したのは、逮捕時の供述調書だ。
さらに言えば「話せるのは、今日じゃない日」と冴子は語ったという。
つまり彼女は、偶数日には黙り込み、奇数日だけ語る。
その“話さない人格”が、娘を殺したというのだ。
私はペンを閉じ、ファイルを閉じた。
嘘か真か、それを見極めるのが私の仕事だ。
被疑者の精神鑑定。医師としてではなく、証人としての診断。
そして今日、私はその本人──葉山冴子と、面会する。
◇
鉄の扉が開く。
精神病棟の面会室は、質素な四角い部屋だった。白い壁、時計の音だけが響く。
冴子はすでに椅子に座っていた。手錠はなく、代わりに拘束ベルトが椅子の脚と背もたれにかけられている。
初めて会うというのに、どこかで会ったことがあるような気がした。
それは顔立ちではなく、目の奥にある“なにか”の既視感。
私はファイルを脇に置き、名前を告げる。
「高山棟悟です。あなたの鑑定を担当します」
冴子はゆっくりと顔を上げた。やつれた頬に浮かぶ無表情な瞳が、こちらをじっと見つめる。髪は乱れ、化粧の痕跡もない。その視線には、何か底知れぬものが宿っている。
だが、そこに浮かぶ表情は──驚くほど整っていた。
まるで、何かを演じているかのように。
「……今日の私は、話せる方です」
それが、彼女の第一声だった。
■第1章「面会」 ②
「今日の私は、話せる方です」
静かな声だった。高音でも低音でもない、響かない声。
だがその言葉は、部屋の空気をすっと変えた。
「そうですか」と私は応じた。「話せる“方”とは、どういう意味ですか?」
冴子は、微かに目を伏せたあと、首をゆっくりと傾けた。
「一日置きに、私は変わるんです。昨日の私は、黙ってました。何を聞かれても返事はできません。……でも、今日の私は話せます」
「あなたの中に、別の人格がいると?」
「……います」
彼女の返答は即答ではなかった。
言葉を探しているようでも、噓をついているようでもない。
ただ、慎重だった。演技か本心かは、まだわからない。
「その人格は、名前で呼び分けたりしていますか?」
冴子は目を細めた。
「わかりません。でも、“話せない方の私”は、私を見てます。遠くから、ずっと」
「あなたの娘さん、のぞみちゃんを殺したのは、その話せない人格だと?」
静寂。
冴子はゆっくりと首を縦に振った。
「私には……記憶がありません。でも、たぶん……そうなんです」
「“たぶん”?」
「私の手が……血で汚れていた。あの日、家に帰ってきたときには、もう……」
言葉の途中で、冴子は口を閉じた。
そのまま、椅子に深く背を預ける。顔の向きがわずかに斜めになり、私から視線を外した。
「先生は、私が……嘘をついてると思ってるんでしょ?」
「まだ判断はしません」と私は答えた。「判断するために、あなたに会いに来ました」
冴子は小さくうなずいた。口元だけが笑ったようにも見えたが、すぐに消えた。
時計の音が、どこか壁の向こうから響いている気がした。
カチ、カチ、カチ──そのたびに、胸の奥がざわつく。
「あなたは、今の自分が“本当の自分”だと思いますか?」
問いかけると、冴子は天井を見つめたまま、小さく「わかりません」とだけ呟いた。
その答えに、なぜか私は安堵に似たものを覚えた。
わからないという正直さ。あるいは、迷いを抱えたまま生きている姿。
演技ではなく、本音が混ざっているように思えた。
だが、演技と本音が区別できないこと自体が、“仕掛けられている”という可能性もある。
私は慎重に、質問を切り替えた。
「今日は、あなたから何か話したいことがありますか?」
冴子は、視線だけをこちらに戻した。
そして、手元のバッグから一冊のノートを取り出した。
「これ、見てください。私の日記です。毎日書いてます。一日も欠かしてません」
ノートの表紙には、薄く擦れた跡があった。繰り返し開かれた証。
私はノートを受け取り、目を通し始めた。
日付は、ほぼ整然と並んでいた。
が、そこに何か、妙な違和感があった。
■第1章「面会」 ③
ノートは、B6サイズのリング式。表紙はくたびれていて、角が擦り切れている。
日付のないページは一枚もなかった。文字はみっしりと書かれていて、余白が少ない。
──六月一日。
──六月二日。
──六月三日。
確かに「一日置き」ではなかった。毎日、書かれている。
だが、ページをめくってすぐ、私はある違和感に気づいた。
──筆跡が日によって変化している。
六月一日と三日は、丸みを帯びた柔らかな字体。
六月二日と四日は、縦線の強い細く硬質な筆致。
まるで、異なる人格が交互に日記を綴っているかのようだ。
「これも、あなたの“人格の違い”を示すものですか?」
そう尋ねると、冴子はうっすらと微笑んだ。
「ええ。誰が見ても、わかるように書いてます。証明のために」
“わかるように”。
その言葉に、ほんのわずかな、意図の匂いを感じた。
“自然にそうなった”のではなく、“他人がそう思うようにした”。
それは、自覚のある行動だ。
私はさらに数ページめくった。
内容は、どこか淡々としていた。
のぞみちゃんと遊んだ日。お弁当屋の厨房で怒られたこと。裕二という男性客とのやり取り。
明るくはないが、陰鬱でもない。妙に感情が抑制されている。
それが逆に、引っかかった。
感情が“途切れない”のだ。筆跡が交互に違っても、書かれている感情の流れは不自然に整っていた。
喜びや怒り、迷いなどの移ろいが、人格の違いによって乱れる様子がない。
──本当に、別人格が交代しているのか?
私の脳裏に疑問が生じ始めたそのとき、冴子が静かに口を開いた。
「字が違っても、心はひとつなのかもしれませんね。そういうふうに書いてるだけ、なのかも」
「あなたは、そう思っている?」
「……わからないです。でも、そうだったらいいなと思って」
そうだったら──
まるで、何かを許されることを願うような口ぶりだった。
私がページを閉じようとしたとき、ある日付に視線が止まった。
六月五日。
そのページの文末に、こんな一文があった。
──今日は話せる日。先生に読んでもらえるなら、わたしはそれでいい。
私は目を上げた。
冴子の視線は、私の顔のすぐ先を見つめていた。
私ではなく、“その先”にいる何かを、じっと。
■第1章「面会」 ④
「今日は話せる日。先生に読んでもらえるなら、わたしはそれでいい」──
その一文を読み終えたとき、私は少し息を詰めた。
感情の余韻が、文字からじわじわと染み出してくる。
けれど、それが“どちらの人格”のものなのかは、明確にはわからなかった。
いや、それ以前に──本当に人格が“二つ”なのか?
筆跡、話し方、言葉の選び方。それらは、作り物でも再現できる。
だが“感情の流れ”は、そう簡単に分裂しない。
冴子の日記には、確かに揺らぎがある。だがそれは、別人格の対話ではなく、
ひとりの人間が“自分の中の二面性”に悩みながら記したように読めた。
私はそっとノートを閉じた。
「ありがとう。日記、預からせてもらうよ」
冴子は何も言わず、小さくうなずいた。
「最後に、ひとつ訊かせてください」
私は姿勢を正し、まっすぐに冴子を見た。
「あなたは、自分がしたことを覚えていますか?」
冴子はその問いに、すぐには答えなかった。
ただ、眉をわずかにひそめ、目線を落とした。
数秒の沈黙の後、ぽつりと──
「覚えていたら、私、生きていられなかったと思います」
その声は、どこまでも静かだった。
演技ではない。だが、真実でもない。
悲しみを“語れるように整えた”、誰かに届けるための言葉のようだった。
私は席を立ち、軽く一礼した。
「また、明日来ます」
「……先生」
不意に呼び止められた。
「はい?」
冴子は首を傾げたまま、こちらを見つめていた。
だが、その視線は、私を通り抜けている気がした。
それは面会室の奥の壁、あるいはずっと遠く──まるで別の世界を見ているようだった。
「先生は……誰かを、許したことありますか?」
その問いは、私の胸に深く突き刺さった。答えを探す間もなく、面会時間を告げるアナウンスが流れた。
面会時間を告げるアナウンスが、部屋のスピーカーから流れる。
背後で看護師がドアを開ける気配がした。
「……また、明日」
私はそれだけを残して、面会室を出た。
扉の閉まる音が背中で響いたとき、冴子の問いが、脳裏にじんわりと残っていた。
──先生は、誰かを許したこと、ありますか?
誰のために向けられた言葉だったのか。
彼女自身のためか。娘のためか。それとも──私のためか。
その夜、私は日記をもう一度読み返した。
そして初めて、冴子の書く“あなた”という言葉が、
特定の誰かに宛てられたもののように思えた。
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【第1章】https://note.com/kitaminamiya/n/n4a2231868581
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【第3章前編】https://note.com/kitaminamiya/n/nf56d749d2d04
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【第5章後編】https://note.com/kitaminamiya/n/n2ce1226e08ce
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