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一日置きの彼女 第3章「境界」前編

「殺したのは、私ではない私。」


「境界」①


朝、目が覚めると、窓の外は曇天だった。梅雨の気配にはまだ早いはずだが、空気は湿り気を含んで重く、カーテン越しの光もどこか鈍い。

高山はベッドに腰かけ、腕時計を確認した。時刻は午前7時12分。習慣としていたラジオは、昨日から調子が悪く、今日もノイズ混じりにしか音が流れてこない。AMのニュース番組が微かに語る「関東近郊での連続通り魔事件」の件も、どこか現実味を欠いて聞こえた。

キッチンで湯を沸かし、サンドイッチ用のパンを軽くトースターに放り込む。冷蔵庫にあったレタスとチーズ、茹でておいた卵。無言で手を動かしながらも、頭の片隅では昨日の冴子の表情が何度もよみがえる。

「殺したのは、冴子さん。あなただ」

そう言い切ったときの自分の声は、冷たく、まるで他人のようだった。だが、彼女の反応──わずかに動いた眉、膝の上で震えた指先──は、演技には見えなかった。むしろ、何かに追い詰められているような、不確かな崖の縁に立つ人間のそれだった。

サンドイッチを皿に盛りつけ、深煎りのコーヒーを淹れる。マグカップに立ちのぼる湯気の匂いだけが、今の高山を現実へと引き戻していた。

だが、その現実すら、今日はどこか薄い膜を隔てて存在しているような気がしてならなかった。

ラジオは突然、ザーッという音と共に沈黙した。高山は眉をひそめ、つまみをいじってみたが、音は戻らなかった。代わりに静寂が室内を支配した。

「……こんな日は、よくない」

独り言のように呟き、着替えを済ませると、鞄の中に数冊の資料と、冴子の日記帳を忍ばせた。読み込むうちにページの端が微かに丸まり、赤い表紙の手触りも心なしか柔らかくなってきた気がする。

そろそろ返却の時期だろう。そう思いつつも、未練のような感情が湧いてくるのを、高山は否定できなかった。

部屋を出る直前、スマートフォンの通知が一つ届いた。

《ご指定のカフェ「モカリブロ」が本日臨時休業となりました》

予定していた道順が、一つ消えた。なんてことはない通知に、どこか胸の奥でざわつくものを感じる。

小さな綻びが、静かに、しかし確かに日常に入り込んできている。

高山は一度、玄関のドアノブに手をかけてから、足を止めた。ポケットの中で指が鍵をまさぐる感触が、不自然に冷たい。

──娘の死をきっかけに精神を病んだ母親が殺人を──。

昨日、ネットで拾った記事の一節を、なぜか今思い出していた。

自分が見ているのは、冴子という“個人”なのか。それとも、似たような悲劇を重ねた“象徴”なのか。

高山は一瞬、胸の奥が痛むのを感じながら、ゆっくりと外へ出た。

空は、ますますどんよりとしていた。

「境界」②

高山は仕方なく、駅前の別の喫茶店に入った。カフェ「モカリブロ」が休業しているのは予想外だった。小さなチェーン系の喫茶店は、どこか落ち着かず、流れるBGMもどこか軽薄に感じる。

角の席に腰を下ろすと、バッグから日記帳を取り出した。赤いカバーに指を這わせる。擦り傷のような跡が一つ、表紙に増えていることに気づいたが、きっと自分がつけたのだろう。

カップに口をつけ、ぬるめのコーヒーを一口含む。

――ページを開くと、前夜読んだ箇所に付けた付箋の下から、手書きの文字が姿を現した。

《六月五日 くもり》

《のぞみがまだ帰ってこない。時計は七時を過ぎている。雨が降りそう。わたしはこの家で、彼女の帰りを待つばかり。高山先生は、今日も無表情だった》

高山は眉を寄せた。――その日、自分は冴子と会っていない。精神鑑定の面談は週明けだったはずだ。

ページを繰っていくと、次第に冴子の記述は曖昧になっていった。記憶をなぞるような文体、場所や時間が混濁した描写。だが、それらの文のなかには、見過ごせないフレーズが混ざっていた。

《カーテンの外の人影。何度閉めても、のぞみが戻ってこない気がする》

《先生の目が鋭い。刺さる。わたしを見透かしている。だからわたしは、やっていない、と言わなきゃ》

《でも、わたしじゃない“わたし”が……》

高山はページを閉じた。まるで、見てはいけないものを覗いたような気分だった。

日記の記述は、確かに冴子のものだ。字も筆跡も一貫している。だが、まるで“二人の冴子”が交互に記しているような感覚がある。内容が連続せず、文体が変わる箇所も散見された。

――演技ではない。そう感じたのは、高山の直感ではなかったのか。

その直感を裏切るように、文章のなかには“第三者の視点”が潜んでいた。

《高山先生があの部屋に入ってきた。光の中で、何かを確かめるようにわたしを見る》

《あの子の目が開いていたら、どうなっていたのかな。いや、もう目は閉じていたかもしれない》

「目が、閉じていた」――この一文に、高山の背筋が僅かに粟立った。

“あの子”とは、のぞみのことか。それとも、別の誰か? 目を閉じていた、とは……。

だが、確かなのは、この日記がただの“心理的記録”ではないということだった。あるいは、もっと計算された“語り”なのかもしれない。

高山は、もう一度日記帳を閉じた。指が汗ばんで、表紙の赤に滲んだような痕が一つ、増えた気がした。

周囲の喧騒が不意に遠くなる。

――カフェの入り口で、誰かが入ってくる音がした。

一瞬、冴子の顔が脳裏をかすめた。

もちろん、彼女がここに来られるはずはない。だが、どこかで見ている。そんな錯覚が、確かに高山の胸に巣食い始めていた。


「境界」③


帰宅した高山は、ジャケットを脱ぎながら無意識にテレビをつけた。ニュース番組では、児童虐待に関する統計の増加が取り上げられていた。

「……昨年度、全国で確認された児童虐待の件数は過去最多を更新しました。厚労省によると――」

画面のテロップが、のぞみの名前を想起させた。“虐待”という言葉が、耳の奥でくぐもって響く。

静かにリモコンを押してテレビを消し、ソファに身を沈めた。再び日記帳を開く。冴子の記述が、彼を呼び戻す。

《六月六日 雨のち晴れ》

《のぞみの部屋から、あのぬいぐるみがいなくなっていた。きっと私が片付けたのだろうけれど、記憶が曖昧。私は疲れていた。高山先生には会っていない。今日は病院の人が来て、何か話していった》

《でも、あの子がいなくなってから、時間がねじれているような気がする。昨日が今日で、今日が明日になる》

高山は、そのねじれた記述に眉をひそめた。だが、さらにページを進めた瞬間、手が止まった。

《六月七日 晴れ》

《ごめんね、のぞみ。ママ、もう大丈夫。泣かない。もう、あなたの声も聞こえない。あなたの指も、あたたかくない》

《だからこれは、終わりの始まり。》

《あの日、窓を開けたのは、私じゃなかったと思う。でも、私の手が冷たくなっていた。あの子の身体も、同じように冷たかった》

《私は、私じゃなかった。》

高山は喉の奥が乾いたように感じた。のぞみの死に関する明確な描写――しかし、そこには主語が欠け、動作主が曖昧に処理されていた。

あくまで“誰か”が“冷たくなった身体”に触れていた。けれど、記述全体から漂う“自白にも似た沈黙”が、読む者に罪を想像させる。

罪悪感と解離、そして語りの選択。

「自分じゃない“自分”がやった」と、日記はそう主張しているようでもあり、演技とも、錯乱とも、意図的な物語操作とも解釈できた。

この曖昧さは、高山がこれまで数多く見てきた精神疾患の患者たちとも異質だった。

まるで、“誰かに読まれること”を前提とした物語。

高山はその瞬間、ふと気づいた。

日記における「先生」という言葉が、数日前から急に頻出していることに。しかも、“診察を受けた記録”よりも、“先生が見ていた”といった描写が増えている。

まるで……冴子は、日記を通じて高山に語りかけているようだった。

――これは、独白ではない。通信だ。

だとすれば、この語りは誰に宛てられたものなのか?

そのとき、部屋の奥で小さく物音がした。風で書類が一枚、床に落ちたのだった。

何もない。

そう自分に言い聞かせながらも、高山はそっと日記帳を閉じ、テーブルの上に置いた。

視線を下ろしたまま、しばし無言が続いた。

今、この部屋にいるのは、本当に自分だけなのだろうか。

「境界」④



冴子のカルテに目を通していた高山は、記録の一部に違和感を覚えた。

「小学校での集団面接にて、娘との関係に異常なしと判断……?」

のぞみが通っていた幼稚園、そして小学校の入学前面接。保健師による所見では、冴子は“穏やかでやや神経質だが、育児には熱心な母親”と評価されていた。虐待の兆候はなかったという。

高山は首をひねった。
冴子が日記で綴っている自己像は、それとは正反対だった。

《のぞみの笑い声が、私を攻撃する。私はいい母親じゃない。ずっとそう思っていた》

《育ててはいけない。生まれてこなければよかった。そう、私が口に出したとき、あの子は泣いた》

日記の中の冴子は、むしろ自らを“破綻した母”として描いていた。

だが、外部の証言はすべて「普通の母親」だった。
この落差はいったい何なのか。

「演技……? いや、そう簡単な話じゃない」

高山は独り言のように呟き、ネットで冴子のSNSを検索した。すでにアカウントは削除されていたが、掲示板に一部の投稿が引用されていた。

《子どもが寝たあと、今日の反省会。あの子の涙の理由がわからなかった日。》

《子どもはわかってる。私が苛立ってることも、イライラの理由が家事じゃないことも。》

そこには“共感される母親像”があった。
育児に悩む母たちが、冴子の投稿に励まされた、というコメントもいくつか見つかった。

だが、それは「表向きの冴子」だったのだろうか。

高山の思考が巡っていると、ふと部屋の隅に置かれた日記帳が視界に入った。

──あれほど強い印象を残した、あの赤い表紙。
けれど、光の加減のせいか、今は深くくすんだ色に見えた。

近づいて手に取ろうとしたとき、一枚のメモが差し挟まれていることに気づいた。

細い紙片に、鉛筆の文字。

《あの子の声は、今も響いている。でも、先生が信じてくれるなら、私は黙っていられる》

高山はその文字を見つめ、言葉を失った。

「これは……いつ書かれた?」

日記の最後のページでもなければ、日付も書かれていない。まるで“誰か”が、読者を想定して差し込んだような──。

彼はその紙片を持ったまま、立ち上がった。部屋がふいに、ほんのわずか冷えた気がした。

サッと風が抜けたような気配。だが窓は閉まっている。

風ではない。

誰かがここにいたような、不確かな感覚だけが残された。


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