一日置きの彼女 第5章「声」前編
「殺したのは、私ではない私。」
「声」①
白い蛍光灯が天井で微かに唸っていた。
朝の精神科棟は、いつも以上に静かだった。無音ではない。ナースステーションの奥からかすかに書類をめくる音、どこかの部屋で薬瓶がぶつかる音、廊下に残る消毒液の匂い──だがそれらのすべてが、ただの残響のように思えた。
高山は、足音を抑えるように歩いた。
長い廊下の先に見えるドアが、今日もそこにあることに、ほんの少し安堵し、同時に息苦しさを覚える。壁に埋め込まれた時計の針が、音もなく進んでいくのがやけに気になった。ふと、手元のスマートフォンが震えた。
──【カフェ閉店のお知らせ】
病院内のカフェからの一斉メールだった。
いつも昼食を取る小さなガラス張りのカフェ。そのカウンター越しに見える木々の緑が、少しだけ救いだった。けれど、今日から閉店だという。タイミングが悪すぎる。
エレベーターを待つ間、ポケットラジオを取り出してみる。病院内ではスマートフォンの電波が弱いのだ。ラジオのダイヤルを回すと、ぶつぶつとしたノイズが混じる。
「……国道沿いで発生した交通事故により、一時通行止めの措置が──」
ざっ、と音が乱れる。そのまま音がフェードアウトしていった。
高山は無意識に眉をひそめた。
ニュースの途中だった。だが、それが何か引っかかる内容だったのか、自分でも判断がつかない。頭がぼんやりしている。眠気ではない。まるで霧の中を歩いているような感覚。
ふいに、耳の奥で笑い声がした。
小さな、甲高い──女の子の声。
「こっちきてー、みてー」
瞬間、身体がびくりと震えた。振り返る。だが、そこには誰もいない。ただ、誰かが残したかのように揺れるゴミ箱の蓋。
錯覚だ。
そう思いたかった。けれど、空耳にしてはあまりにも生々しい。
のぞみの声──に似ていた。
いつからだろう、あの声が時折、聞こえるようになったのは。
病室の窓から、夜の交差点を見下ろしていたときも。
風が揺れる草のなかに影を見たときも。
誰かに「あなたのせいじゃない」と言われた帰り道にも。
エレベーターが静かに到着する音がした。
高山は深呼吸をし、ゆっくりと乗り込んだ。閉じるドアの向こう、職員のひとりが笑いかけてきた。
「最近、よく来られますね」
その言葉が、妙に胸をざわつかせた。
──最近?
「先週も来てましたよね」
その職員は特に意味もなく、軽口のように言ったのだろう。
だが高山は、記憶を辿る。
先週、来たのは──火曜日。
その前は? 金曜日だったか。
しかし、間が空いている。決して「最近、頻繁に来ている」わけではない。
なのに、なぜ職員はそう言ったのか。
自分が来ていない間に、誰かが自分になりすまして訪れていた──
そう考えた瞬間、思考の奥底に冷たいものが染みこんでくる。
のぞみの声。
夢に出てきたという冴子。
そして、誰かがこの病棟に「高山」として訪れていた可能性。
足元がふらつく。
目を閉じた。視界に白が広がる。
光でもなく、闇でもない、ただの白。
扉が再び開く。
そこには、面会室への細長い廊下が、またしても無音の世界をたたえて待っていた。

「声」②
面会室のドアを開けた瞬間、空気が変わるのを感じた。
低く冷たい空気が、高山の足元を這い上がってくる。空調の音は聞こえない。まるで外気を遮断された密室。壁は薄いグレー、机と椅子が向かい合い、ただそれだけ。そこに冴子がいた。
彼女は、まっすぐに天井を見ていた。
目が合う気配はない。ただ、誰かと話していた後のような、静けさの余韻だけがあった。高山が「こんにちは」と声をかけると、ようやく冴子が顔を向ける。無表情──ではない。けれど、何かが抜け落ちている。
「……お久しぶり、ですか?」
声はかすかに震えていた。
挨拶としては不自然だった。どれほどの時間が空いたか、冴子自身が分かっていないのかもしれない。
高山は椅子に腰を下ろし、真正面から冴子の顔を見る。
髪が乱れていた。元々きれいに結っていたはずの髪が、いくつかの束となって肩に流れている。服は、前回と同じ――白に近いピンクのニット。しかし、襟が少しよれていて、袖口には微かにほつれが見えた。細部だけが、異様な変化を示している。
「どうぞ」
冴子は、膝の上から小さなノートを差し出した。
日記だった。紙の端が、やや黄ばんでいる。持ち歩いていたのか、それとも昨晩、何度も読み返したのか。
差し出す手が震えていた。震えているのに、それを抑えようとする意思はなかった。むしろ、震えたままでよいと受け入れているように見えた。
高山は黙って受け取った。中を開くと、見覚えのない文字が並んでいた。
《……昨日、のぞみが夢に出てきたの。
私の手を引いて、どこかに連れていこうとしていた。
目が覚めたとき、手のひらに冷たさが残っていた……》
「夢だったのよね、もちろん」
冴子は自分に言い聞かせるように、少し笑った。
その笑顔は、壊れかけた人形が見せるような、かすれた仕草だった。
高山はゆっくりと目を閉じた。
そして、ページに書かれた文字のひとつひとつを、冴子の声と重ね合わせるように、静かに“読む”。
読みながら“聴く”。
聴きながら“視る”。
目の裏側に、音と意味が交差する。
しかし、そこには微かな“ズレ”があった。
冴子の言葉と、ページの言葉が、ほんの少し違っている。言い回し、順序、時制、主語。どれも些細な誤差だが、それは確かに存在する。
「ここに書いたこと、どのくらい覚えてますか?」
高山は慎重に問うた。
冴子は、数秒間の沈黙のあとで答える。
「……あまり、覚えてないわ。書いたことは、本当のことだったはずなんだけど。ねえ、先生、私、嘘をついてると思う?」
高山はすぐに答えなかった。
「……それは、これから確かめることです」
その言葉に冴子はうなずいたが、目はどこか遠くを見ていた。
面会室の空気が、少し重くなる。
換気されているはずなのに、何かが滞留しているような、息を吸うたびに過去の影を吸い込むような、そんな感覚。
日記のページをめくると、日付の整合性が崩れていた。
7月12日、7月15日──その次が、6月30日。
高山は何も言わず、指を止める。
「時々、時計が止まっている気がするの」と冴子がぽつりと言った。
「私の中の、時間が……時々、戻るの」
その言葉に、高山はわずかに頷いた。
戻る時間、途切れる記憶、そして夢の中の少女。
冴子が、天井を見上げる。
「……私、のぞみが生きてる夢を、何度も見てるの。でも、だんだん声が遠くなってる気がする」
そして目を伏せた。「それが、怖いのよ」
高山は、面会室の天井を仰いだ。
そこに何もないことを知りながら、それでも天井を見た。
何かが、ずっとここを見下ろしている気がしてならなかった。
「声」③
「ねえ先生。夢って、どこまでが自分の記憶だと思う?」
冴子がぽつりと問うた。
高山は答えずに、テーブルの上にある日記を指でなぞっていた。ページの隅には小さな数字──1、2、3と、まるで下書きのように振られた数字があり、後から順番を入れ替えた痕跡のようだった。
高山は静かに語り始めた。
「冴子さん。あなたがここに収容されてから、複数の資料に目を通しました。警察の捜査記録、精神鑑定書、供述調書、そしてこの日記。」
冴子の表情に変化はなかったが、その眼差しの奥に、かすかな緊張が走ったのが見て取れた。
「これらの記録を、繰り返し読んでいくと、ある“線”が見えてきます。事実という名の線が、あなたの供述の中で少しずつ折れ曲がっている。」
高山は一呼吸置いた。
「まず、裕二さんについてです。あなたの日記には何度も彼が登場します。買い物に行った記録、のぞみの寝顔を一緒に見た記憶、弁当屋に迎えに来た日の記録。けれど、どの記録にも“裏付け”がない。彼の顔を見たという証言も、弁当屋の勤務記録にも、誰一人として裕二という人物の存在を覚えていない。」
冴子の目がわずかに揺れる。それでも口元は結ばれたままだった。
「それに、あなたの供述の中では、“のぞみが誘拐された”という事件が語られます。でも、遺体の確認は、あなた自身が『した』と書かれていたはずです。なのに──その記憶が、あなたの中には存在しない。」
高山は視線をあげ、冴子の目をじっと見つめた。
「のぞみの遺体を見たときの感情、におい、服装、痣。あなたはそれらを一切記述していない。見ていないのではないかと、思っています。」
「見たくなかったのよ」
冴子の声は、細く割れそうな糸のようだった。
高山はその言葉を、すぐに肯定も否定もしなかった。
「あるいは……“見る”という行為自体が、あなたの中で編集されていたのかもしれません。」
高山は日記のあるページを指さす。
「ここに、『のぞみと散歩した』と書かれています。日付は3月5日。でもその日は、あなたが精神科病棟に一時入院していた日です。」
「……日記を……後で書いたのかもしれないわ」
「ええ。可能性はある。ただ、その“後で”が、問題です。」
高山は穏やかな口調のまま、続きを語る。
「あなたの記憶の断片が、“夢”として再構成されているように感じるのです。都合の悪い部分、痛みを伴う記憶は曖昧にされ、優しいシーンだけが強調される。現実から遊離した“理想の母子像”が日記には詰まっている。」
沈黙。
冴子のまぶたが静かに降りる。
「先生、私……嘘をついているの?」
「あなたは“信じていた”ことを、書き続けてきた。でも、真実と信念は別物です。」
高山は手帳を閉じた。
「そして、私はこうも思うんです。のぞみちゃんは──まだ生きているのではないか、と。」
その言葉が落ちた瞬間、冴子の肩がピクリと動いた。
しかし、驚きではない。混乱だった。
高山は続けた。
「死体を確認した記録があるのに、あなたの記憶にはない。供述は揺らぎ、日記は時系列がずれ、裕二という存在も、外部の証拠が見つからない。あなたの語る“現実”は、どこかからズレている。」
「やめて」
冴子の声がかすかに割れた。
「やめて、それ以上は──」
「あなた自身が、事実を見ようとしていないように思えるんです。」
面会室の空気が変わった。
冷たい、薄い壁に囲まれた密室が、今にも崩れそうな緊張を孕み始める。
冴子の瞳に、迷いと怒り、そして哀しみが浮かぶ。
何かが押し寄せてきている。けれど、まだ口にはされていない。
それは、嵐の前の静けさだった。
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