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感想『ブルータリスト』感動が「無防備な同意」に変わる境界線

「今年の映画は、今年のうちに。」

そんな気分で、年末は配信サービスを使い、劇場で観逃した作品をまとめて観ています。
今回観たのは、2025年2月21日に日本公開された映画『ブルータリスト』。この作品、以前からAmazonプライムの見放題にあったのは知っていたのですが、215分という上映時間の長さから、ずっとウォッチリストに入れたままになっており、年末にようやく観ることができました。

作品の印象は非常に重厚で、時代考証、美術、音楽も完成度が高く、社会批判に満ちた志の高い映画に感じました。しかし同時に、手放しでは褒められない問題も抱えた作品だとも思いました。

私がとくに気になったのは、本作が「反ユダヤ差別」という政治的メッセージを強く帯びているにもかかわらず、実在の人物を扱った伝記映画ではない点です。


■実在人物の伝記映画が持つ「検証可能性」という重み

たとえば『シンドラーのリスト』『ハンナ・アーレント』『アンネの日記』のような実在人物の伝記映画では、その人物が実際に何をしたのか、どの時代のどの場所で何が起きたのか、どこまでが史実で、どこからが作者の創作だったのか――観客も批評家も、描写が妥当かどうかを検証できます。

一方で『ブルータリスト』は、伝記映画の形式を徹底しながら中心人物が架空の登場人物です。ここに本作独特の政治的な危うさがあると感じました。ただし、架空人物で伝記風の映画を作る手法そのものは珍しくありません。映画史を振り返ると、そこには系譜と制作意図が存在します。

私はまずその前提を確認したうえで、『ブルータリスト』がどの位置に立つ作品なのかを考えてみたいと思います。


■架空伝記映画の系譜

架空人物による「伝記風映画」には大きく三つの系譜があります。一つ目は、国民史・社会史を語るための架空伝記です。

代表例として『フォレスト・ガンプ/一期一会』が挙げられます。

この映画は、ベトナム戦争、公民権運動、冷戦、ウォーターゲート事件といったアメリカ現代史の断片を、一人の無垢な男の人生に通過させることで描き出しました。

ここで重要なのは、主人公が「歴史を動かす主体」ではなく「歴史に遭遇する存在」として配置されている点です。実在人物を主人公にすると避けられない政治的評価や責任の所在を、あえて架空人物に担わせることで、善悪判断を棚上げし、歴史を国民的ノスタルジーとして回収する。

こうした作品では、「架空であること」は最初から観客に共有されており、強い政治的主張を押し通すことは目的ではありません。

二つ目は、伝記という形式そのものを解体・戯画化する系譜です。
代表例が、『スパイナル・タップ』に代表されるモキュメンタリー作品群です。これらは、ロック・ミュージシャンの伝記映画やドキュメンタリーの様式そのものを“信じさせる”のではなく、“楽しむ”ための映画だと言えるでしょう。

このタイプの作品では、観客は最初から「これはフィクションである」と理解しています。架空人物であることが前提となっているため、伝記の信憑性や歴史的真実性を利用することが目的ではありません。むしろ、伝記映画が持つ語り口や演出の型を誇張し、解体し、笑い飛ばすことそのものが主眼に置かれています。

言い換えればこれは、「という設定でお送りします」という想像力を、最初からフィクションとして共有する“遊戯的伝記”です。観客は感動や歴史理解を求めるのではなく、伝記という形式そのものを楽しむ。ここでは、伝記が政治的主張や歴史的正当性を担うことは、最初から想定されていません。

三つ目が、権力や歴史の「危険な領域」に踏み込むための架空伝記です。
代表例として『市民ケーン』が挙げられます。モデルが明確に存在しながら、直接描くことを避けるために架空人物を用いる。

ここで初めて「架空=免責装置」という構造が露わになります。この系譜に属する作品は、権力や成功神話、メディアといった現実の構造を鋭く告発しながら、「これは特定の誰かの伝記ではない」と言い逃れできる余地を残します。架空人物は批評の自由を確保する盾として機能するのです。

では『ブルータリスト』はどの系譜に属するのでしょうか。
本作は『フォレスト・ガンプ』型の無垢な寓話でもなく、『スパイナル・タップ』型のジャンル解体でもありません。形式的には、私は『市民ケーン』型の「免責付き政治映画」に最も近いと考えます。

しかし決定的に違うのは、扱っている主題の重さです。本作が触れているのは、ホロコースト後史、移民、反ユダヤ差別、そしてイスラエルという現在進行形の現実政治です。

しかも映画は、年代表記やニュース映像、表彰式といった演出を通じて、主人公ラースローを「歴史の証言者」であるかのように描きます。架空人物でありながら実在人物以上に「史実っぽい」。この歪みこそが、本作の最大の問題点だと思います。


■検証不能な「真実っぽさ」が成立してしまう危険

この歪みが生む第一の問題は、検証不能な「真実っぽさ」が成立してしまうことです。架空人物でも、フィクションだと分かる作りであれば問題は限定されます。

しかし本作は伝記映画の手触りを徹底しています。そのため観客の側に、「これは歴史の典型例なのだろう」「こういうユダヤ人建築家が実際にいたのだろう」という納得感が自然に生まれてしまいます。

実在人物ではないのに、実在人物以上に史実っぽく振る舞える。その結果、映画が提示した構図――被害と加害、救済と帰還、国家の正当性――が、史実の検証をすり抜けたまま「理解」として沈殿する危険が出てきます。

第二の問題は、代表性が作者によって恣意的に作られてしまうことです。
実在人物を扱った伝記映画では、その人物の人生を描く代わりに、代弁できる範囲が自ずと限定されます。シンドラーはあくまでシンドラーであり、アーレントはアーレントであり、アンネはアンネです。彼らの人生が、特定の文脈を超えて「すべてのユダヤ人」や「歴史全体」を代表することはありません。

しかし架空の伝記では事情が異なります。観客は主人公を一人の個人として見ると同時に、「迫害されたユダヤ人一般」の象徴として読んでしまいます。この形式は、作者が「ユダヤ人はこうだった」「移民はこう苦しむ」「イスラエルとはこういう意味を持つ」といった命題を、一人の架空人物に集約し、それをあたかも歴史の典型例であるかのように提示することを可能にします。

架空人物であるがゆえに、その人生が誰を代表しているのか、どこまで一般化してよいのかが最後まで明示されないまま、強い共感だけが誘導されます。私はこの構造を「代表性の暴力」と呼びたいと思います。共感を生む力が強いからこそ、その背後で行われている一般化が、観客に自覚されにくいのです。

そして第三の問題は、この形式がイスラエルやシオニズムに関する「都合の悪い具体」を曖昧化できてしまうことです。
実在人物を扱う映画でイスラエルやシオニズムに触れようとすれば、避けがたい現実が必ず立ち上がります。どの年に、どの土地で、誰が何をしたのか。現地の住民、すなわちパレスチナ人との関係性。国際政治、暴力、追放、抵抗。こうした具体は、作品の責任と不可分です。

しかし架空人物であれば、これらの具体をいくらでも迂回できます。そして観客に残るのは、「居場所のない者が帰る場所を得る」「迫害の末に到達点を得る」といった、抽象的で普遍的な物語です。本作で、ラースローがイスラエルに渡ってからの具体的な描写がほとんど示されないにもかかわらず、エピローグで突然その達成だけが語られる構成は、この問題を回避したまま、目的とする物語的効果を得ようとした結果だと考えざるを得ません。

この物語は強いです。強すぎるほど強い。なぜならそれは、そのままシオニズムの自己物語として機能し得るからです。しかも主人公が架空である以上、それに対して史実に基づく反証や異なる視点が入り込みにくい構造になっています。ここで語られているのは、歴史の具体ではなく、感情的に受け入れやすい「到達の物語」であり、そのこと自体が、この映画の最も危うい点だと私は感じました。

第四の問題は、批判も擁護もできる「免責の構造」が生まれることです。批判されたら「これはフィクションであり、特定の歴史を断定していない」と言えますし、擁護したい側には「歴史的真実を象徴的に描いている」と言えてしまいます。実在人物映画は、批判されれば史実で検証され、擁護するにも資料で支える必要があります。しかし架空の伝記は、政治性だけは強く保持したまま、検証責任を薄められてしまいます。私が本作を手放しで褒められないと感じた根本は、ここにあります。


■創作エピソードは「無垢」ではあり得ない

さらに厄介なのは、架空である以上、本作の創作エピソードが「無垢」ではあり得ないことです。物語に配置されたエピソードは、偶然の積み重ねというより、一定の意図に沿って配置されているように見えます。

たとえばラースローがアメリカに希望を抱いて渡った直後、「いとこに家を追い出される」という挫折に直面する場面です。いとこは名前を変え、店の名前をアメリカ人好みにし、流行の服を着こなし、さらには宗教まで変えることでアメリカ社会に受け入れられているように描かれます。

対して、信仰を捨てないラースロー(何度も教会に通うシーンが描写されます)は、同じユダヤ人の身内からすら排除されます。この対比が語っているのは単なる親族の不和ではありません。「受け入れられるために自己を変えた者」と「変えない者」の分断であり、後者が理不尽な差別を受ける構図です。物語はここで「同化しないユダヤ人が排除される理不尽な世界」を強調しているように見えます。

また、パーティーの場面で大富豪ビューレンに「なぜ建築をするのか」と問われ、ラースローが建築への信念を語るシーンは、本作の白眉として感動的に描かれます。

災禍の記憶や、怒りと恐怖が再び社会を覆う可能性に触れつつ、それに耐える建築を作りたいという理想を語る。その場面自体は創作者が持つ普遍的な理想に見えますが、問題はその理想が物語全体の文脈の中でどこへ接続されていくかです。

映画は「ヨーロッパ=迫害」「アメリカ=潜在的差別と偽りの寛容」という流れを積み重ねたうえで、最終的にラースローをイスラエルへ向かわせます。すると、この高尚な建築思想が「どこにも居場所がない者が、最終的に辿り着く正当な到達点」としてのイスラエルと切り離せない形で提示されてしまいます。私はこの接続のされ方に強い違和感を覚えました。


■アメリカでの批評の問題

この点は、アメリカ批評において本作の曖昧さが「成熟」や「複雑さ」として評価されやすい理由とも深く関わっています。アメリカの批評文化では、作品が明確な結論や政治的判断を提示しないことが、「観客に考えさせる余地を残す」「単純な善悪に回収しない姿勢」として、肯定的に受け取られる場合があります。

とりわけホロコースト後史やイスラエルをめぐる問題は、アメリカ社会において国内政治や文化と強く結びついた「内部の問題」です。そのため多くの観客や批評家は、映画が語らない部分を、自身の前提知識や共有された文脈によって補完できてしまいます。

その結果、本来であれば検討されるべき欠落や偏りが、「意図的な余白」や「慎重な語り」として読み替えられやすくなります。しかしこの曖昧さは、同時にプロパガンダと紙一重の関係にあります。

映画が直接「イスラエル建国は正しい」と断言しなくとも、「居場所なき者の救済」という個人史の感動の中に、国家や到達点の肯定を溶け込ませてしまえば、観客はそれを政治的主張として自覚しないまま、感情的に受け入れてしまう可能性があるからです。それは露骨なプロパガンダよりも、むしろ巧妙な作用の仕方だと言えるでしょう。

実際、イスラエルによるガザでの深刻な人道危機が現在進行形で国際的な批判の対象となっている状況の中で、本作がアカデミー賞にノミネートされ、複数の主要な映画賞で高く評価されているという事実は、この構造がいかに批評的に不可視化されやすいかを示す、一つの傍証になっているように私には思えます。


■感動が「無防備な同意」に変わる、その境界線で

以上を踏まえると、『ブルータリスト』は明確に二重の顔を持つ映画だと言えると思います。

現代欧米社会の虚飾に満ちた二面性を暴き、差別がいかに構造的に再生産されているかを告発するという点において、本作は価値を持っています。その批評性は鋭く、誠実だからこそ観客の共感を呼んだのでしょう。

しかし同時に本作は、架空伝記という形式を用いることで検証責任を希薄化し、「到達点」としてのイスラエルを、批判や対抗的視点を欠いたまま、感情的に肯定し得る構造も内包しています。

それはフィクションの自由であると同時に、政治的免責でもあります。語られなかったもの、描かれなかったものが、あたかも問題ではないかのように処理されてしまう。その点に、私は強い違和感を覚えました。

私はこの映画を、優れた批評性と、看過できない政治的危うさが同居した、非常にいびつな作品として受け取りました。完成度の高い映画であることは疑いようがありません。ただし、作品の完成度が高いからこそ、私たちはこの作品の「形式」そのものが持つ政治性を、より慎重に読み取る必要があるとも思います。

フィクションが歴史の代替物として振る舞い始める瞬間、感動はしばしば無防備な同意へと変わります。その境界線の危うさを、『ブルータリスト』は、私たちの前に突きつけているのではないでしょうか。


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