映画『おんどりが鳴く前に』感想:おんどりが鳴く前に、俺が泣いた
Amazonプライムでルーマニア映画『おんどりが鳴く前に』を観ました。
サムネの雰囲気から「田舎ホラーかな」と身構えて観はじめたのですが、出てきたのはまったく別物でした。
これは、世もすねたオッサン泣かせ映画です。
おんどりが鳴く前に、俺が泣いた。そんな作品について書いてみたいと思います。
■SNSが支配しない世界の息苦しさ
田舎で警官が事件に巻き込まれる映画と言えば、最近観たハリウッド映画『エディントンへようこそ』がありました。SNSの情報に人生を狂わされた人間ばかりが登場する悪夢のような映画でしたが、同じく田舎を舞台にした警官物、『おんどりが鳴く前に』には、SNSがほとんど関わってきません。情報が回る経路は、対面と噂と、共同体の力関係です。
そのぶん、この映画には「牧歌的な時代の味わい」があります。
ただし、それは懐かしさだけではなく、ネットの外へ逃げられない息苦しさでもあります。
誰が何を見たか、誰がどちら側に付いたか――村の空気がすべてを決める。そういう世界です。
(※設定年代は明示されませんが、体感としては「スマホとSNSが生活インフラになる前」、少なくとも物語の駆動力としてネットが機能しない時代感で描かれています。)
■制度よりも人間関係が支配する社会
『おんどりが鳴く前に』は、一見すると地方で起きた殺人事件を描く社会派サスペンスに見えます。
しかし本作の核心は事件そのものではなく、なぜ罪が覆い隠されるのか、そしてなぜそれを暴くことがこれほど困難なのかという点にあります。
ルーマニアは1989年に共産主義体制が崩壊し、その後EUに加盟した国です。形式上は民主主義国家で、法制度も整っている。
けれど地方社会では、制度よりも顔の見える人間関係が力を持ち続けてきました。
警察、役場、教会、政治。
これらが狭い共同体の中で結びつくと、法は「守るもの」ではなく、「都合よく解釈されるもの」へと変質します。
そこでは正義より秩序、真実より沈黙が優先される。
しかもこの沈黙は、必ずしも悪意から生まれるものではありません。
生活を人質に取られた人間にとって、告発や抵抗は英雄的行為ではなく、むしろ自滅行為に近いのです。
だから人々は見て見ぬふりをし、空気を読み、関わらないという選択をします。
この映画は、そうしたルーマニアの地方社会に根づいた沈黙と共犯の構造の上に成り立っています。
■腐った村で夢を見る警官
主人公イリエは、やる気のない中年警官です。
駐在所での仕事も、シーツ泥棒を訴えて交番に来た主婦を「風のせいだ」と一蹴して追い返すほどの、いい加減なダメ警官。正義感とはほど遠い。
彼の夢は果樹園を持つこと。
警官の仕事は生活のために仕方なく続けている感がアリアリ。
この時点で、観客も「こいつはただのダメなおっさんだ」と思うでしょう。
ところが――村で殺人事件が起きたことで、この男が置かれている現実が見えてきます。
■二人の警官、二つの正義
殺人事件が発生し、正義感に燃える新人警官ヴァリが登場します。
彼はイリエの命令を無視し、独自で調査を続ける。若くて真っ直ぐで、正義を疑っていません。
すると、真相が明らかになるのを恐れた村長と、その取り巻きである神父がイリエの家を訪ねます。
ここが恐ろしい。彼らは意外にもすんなりと罪を自白し、言外にこう持ちかけるのです。
「この罪を見逃すなら、あんたの欲しがっている果樹園をやろう」
なぜ、彼らにそんなことができるのか。
それは彼らが圧倒的な権力――つまり生活を支配する暴力を握っているからです。
この時点でイリエは詰みかけています。
隠蔽を断れば果樹園は手に入らず、最悪「消される」。
保身に走って犯罪を隠すか、それとも命を懸けて良心に従うか。
イリエは葛藤します。
■神父と果樹園――偽物の楽園
この映画で最も皮肉なのは、神の名を語る神父が、最も卑劣な悪として描かれている点です。
本来、神父は道徳の代理人であり、共同体の良心であるはずの存在です。しかし本作では、彼は権力側に付き、暴力を正当化する役割を担っています。
そして、イリエが夢見る果樹園です。
これは単なる老後の夢ではなく、「楽園」や「救済」を連想させる象徴として置かれているように見えます。
けれども、イリエに差し出される果樹園は、正義を捨て、沈黙を受け入れ、罪を見逃すことで初めて手に入るものです。
そう読めてしまうほどに、それは偽物の楽園なのです。
その取引に神父が深く関わっていることは、宗教が救済の装置ではなく、秩序と隠蔽を維持するための装置へと堕落してしまったことを示しています。
この構図は、本作が内包するテーマの中でも、とりわけ鋭い宗教批評になっていると感じました。
■若者の死と、明かされる過去
しかし、そんな事情を知らない新人ヴァリは、イリエを無能扱いし、無断で捜査を進めてしまう。
そしてその結果、命を落とします。
ここでさらに、イリエにも過去があることが明かされます。
彼は10年前、権力に盾突いたことで干され、出世の道を閉ざされた。
正義を貫こうとして敗れた経験が、彼から熱を奪い、「何も期待しない」という生き方を選ばせていたのです。
つまり彼のダメさは、ただの怠慢ではない。
諦めの姿でもあった。
だが、そんな諦めの上にいたせいで、10年前の自分に重なる正義感を持った26歳の若者が殺されてしまった。
その悔恨が、彼が捨て去ったはずの正義に再び火をつけます。
■正義が勝たないことを知った男の決断
そうしてイリエは銃を手に、闇取引の現場である川辺へ向かいます。
村長たち一派が密輸品の取引を行っている場所へ、単身で殴り込むのです。
このシーンには、タランティーノの『レザボア・ドッグス』を彷彿とさせる諸行無常感がありました。
そこにあるのは英雄的な勝利ではなく、虚無と暴力の中で、人があっけなく、無慈悲に倒れていく光景です。
それでも、「正義が一矢は報いた」と感じさせるものがあり、
その余韻が、悲しさと同時に、かすかな希望を残すラストになっていたと思います。
■「思ったより悪くない」――オッサンの胸に刺さる言葉
致命傷を負ったイリエは、こう呟き、倒れます。
「思ったより悪くない」
これは英雄の台詞ではありません。
自分の人生を肯定する言葉ですらない。
けれど彼は最後に、逃げず、嘘をつかず、なけなしの正義で動いた。
その一点だけで、「無駄な人生ではなかった」と思える。
だから「最高の人生だった」ではなく、「思ったより悪くない」なのです。
中年以降の男の人生を描く映画として、
この言葉は情けなく、残酷、だからこそ刺さる。
オッサン泣かせ、いや、俺泣かせな名場面でした。
■おんどりは鳴かなかった
新約聖書では、おんどりは裏切りが露わになる合図であり、夜明け=真実の到来を象徴します。
しかしこの映画では、おんどりは鳴かない。
世界は自動的に真実を暴かず、神の裁きも保証されない。
それでもイリエは立った。
神が沈黙する世界で、立つという選択がどれほど重く、どれほど孤独か。
この映画は、その重さを誤魔化さずに描き切った、挫折した大人のための倫理の物語だったのではないでしょうか。
■日本社会との接続――「司法が機能しない」という感覚
私たちは本作を「遠い国の腐敗」として切り離すことができないと思います。日本社会に生きる私たちもまた、司法や制度が必ずしも正義を担保していないのではないか、という感覚を共有しつつあるからです。
日本は法治国家で、制度は整っている。
それでも現実には、権力者や組織側が不起訴で守られたり、不正やハラスメントが「証拠不十分」「個人の問題」として処理されたり、告発者が孤立して生活を失う――そうした光景を私たちは繰り返し目にしてきました。
ここで重要なのは「日本はルーマニアほど腐敗していない」と安心することではないでしょう。
制度があるのに、機能していないように見える瞬間が積み重なると、人々の行動原理は似た方向へ引き寄せられます。
関わらないほうが得だ。
正義を主張しても変わらない。
下手に声を上げると自分が叩かれる。
これは臆病さではなく、合理的な自己防衛です。日本社会はこれを理解した「おりこうさん」が回している社会に見える時があります。
『おんどりが鳴く前に』で描かれる沈黙と共犯関係は、「未成熟な社会」だけの話ではありません。
成熟したはずの社会でも、司法制度への信頼が失われれば、まったく同じ構造が生まれてしまいます。
■結語
『おんどりが鳴く前に』は、腐敗した社会を告発する映画ではありません。
正義が勝たないことを知っている大人が、それでも立つ理由を問い直す映画です。
夢に逃げることもできる。
沈黙を選ぶこともできる。
それは合理的で、安全な選択です。
それでも――
おんどりが鳴かない夜に、自らが立つという選択ができるのか。
この映画はそれを、厳しく私たちに問いかけてきています。
