感想『エディントンへようこそ』SNSに歪められた現実を描く不快な傑作
2020年、
マスクをしているかどうかで、相手が「敵か味方か」に見えてしまった時期がありました。
SNSを開けば、誰かが誰かを叩いていて、
正しさは拡散される速度によって価値が決まるように見えました。
家にこもり、スマホを見る時間だけが増えていく中で、
「世界が少しずつおかしくなっている」という感覚を、多くの人が抱えていたはずです。
アリ・アスター監督の新作『エディントンへようこそ(原題:Eddington)』は、そんな2020年の空気そのもの”を閉じ込めた映画でした。
本作は一見すると、西部劇のフォーマットを借りながら、
コロナ禍における地方選挙のドタバタ劇を描いた社会派映画のようにも見えます。しかし物語が進むにつれて、その世界は徐々に歪み、
『ボーはおそれている』(2023年)や
ラース・フォン・トリアー監督の『ハウス・ジャック・ビルト』(2018年)を思わせる、不安と被害意識に満ちた悪夢のような風景へと変貌していきます。
本作は、多面的な考察が可能な、奥行きのある映画です。
多くの映画ファンが、さまざまな切り口で本作を語ることになるでしょう。
ただ、私がまず強く感じたのは、
この映画が
「スマホとSNSは、私たちの社会と感情を確実に歪めてしまった」
という、強い苛立ちと焦燥感に貫かれた作品である、という点でした。
「もしスマホやSNSがなかったら、
ここまで事態は悪化しなかったのではないか」
そう感じずにはいられない場面が、
この映画にはあまりにも多く存在します。
本稿では、映画を振り返りながら、スマホ/SNSがどのように人間関係を壊し、私的な感情を政治や暴力へと変換していったのかを考えてみたいと思います。
1.“不安定な保安官”という出発点
舞台は2020年、コロナのパンデミックによってシャットダウンされたニューメキシコ州の小さな町、エディントンです。
主人公はこの町の保安官ジョー(ホアキン・フェニックス)。しかし彼は、頼れる保安官とはいいがたい、精神的に不安定な人物として登場します。
この「不安定さ」は、『ジョーカー』や『ボーはおそれている』でホアキンが演じてきた人物像と地続きに見えます。
彼は常に、「自分は軽んじられている」「正しいことをしているのに評価されない」という感覚を抱えています。
そして、この感覚を静かに、しかし確実に増幅させているのが、彼の手元にあるスマートフォンなのです。
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2.私的な鬱屈が政治へ変換される瞬間
物語は、きわめて私的な不満から始まります。
ジョーは妻ルイーズ(エマ・ストーン)からセックスを拒まれており、夫婦の間には明確な溝が生じています。ベッドの中で、ジョーは何度も言葉を選びながら話しかけようとしますが、最後まで踏み込むことができません。
印象的なのは、ジョーが「直接ルイーズの意思を確かめる」ことを、終始避け続けている点です。疑問を抱えたまま、夫婦間の対話そのものを放棄しています。
そこへ義母が語る、真偽不明の
「ルイーズは10代の頃、市長(ペドロ・パスカル)と付き合っていて、妊娠して中絶した」という話が加わり、それはジョーの中で被害意識として膨張していきます。
やがてジョーは、市長が推進するマスク着用義務に露骨な反感を示し、ノーマスクのままスーパーに入ろうとして、市長本人と衝突します。
この場面は、2020年当時のアメリカ社会をそのまま凝縮したような光景です。マスクが単なる衛生対策ではなく、政治的立場や価値観を可視化する「記号」となっていた――そんな当時のSNS上の空気感が、強く想起されます。
3.善良さと被害意識が同居する人物像
本作が優れているのは、ジョーを単なる「悪人」として描いていない点です。彼は町のバーからホームレスを追い出す行為に不快感を示し、呼吸困難でマスクをつけられない老人がスーパーから追い出される場面では、店員に強く抗議します。
その後、ジョーが自腹で老人に食料を渡す場面は、彼がまだ人間的な共感を失っていないことを端的に示しています。
ジョーは本来、「ルールよりも人間を見ろ」と訴えたい側の人間なのです。
だからこそ、市長選挙への立候補も、単なる権力欲から生じたものではなかったと考えられます。
彼の内側には、「ルールが人を傷つけるなら、それはおかしい」という、素朴でありながら正当な義憤が確かに存在していました。
しかし、ここで浮かび上がるのは痛烈な皮肉です。
リベラル側がルールと正しさを盾に排他的になり、保守側が「人間を見ろ」「多様性を認めろ」と主張する――その価値観のねじれが、作中でははっきりと可視化されています。
このねじれこそが、現代アメリカ社会の混乱を象徴していると言えるでしょう。
4.BLM運動という“正しさの茶番劇”
作中では、BLM(ブラック・ライブス・マター)運動(※)も描かれます。
しかし、エディントンという町に住む黒人は、保安官助手のマイケル(マイケル・ワード)ただ一人です。にもかかわらず、白人の女子高校生サラはBLMデモを率い、デモを沈静化しようとするマイケルに対して、
「あなたもこっち側に立って!」
「目を覚まして!」
と叱咤します。この場面は、観ていて非常に居心地の悪いものです。
なぜなら、町で唯一の黒人であるマイケルの「個人としての判断」が、
正義の名のもとに、あまりにも軽々しく否定されているからです。
さらに、サラに片思いする白人男子高校生ブライアンが、
彼女の気を引くためだけにデモへ参加する描写が重なります。
ここでBLMは、理念に基づく運動というよりも、
承認欲求を満たすための舞台装置として機能してしまいます。
SNSで「正しい側」に立つこと――それ自体が目的化した運動の空虚さが、痛烈に描かれています。
そしてその帰結として、ブライアンのSNS上での言動をきっかけに、
マイケルやエリックらは命を落とし、
一方でブライアンは、極右の象徴的存在へと祭り上げられていきます。
ペテン師が得をする、あまりにも暗澹たる世界です。
しかし、それは決して誇張ではなく、現実社会をきわめて正確に映し出した姿だと言えるでしょう。
5.家庭から侵食する陰謀論
一方で、ジョーの家庭は別のかたちで崩壊していきます。
ルイーズと義母は、パンデミックによる引きこもり生活の中で、次第にスマホとSNSへ没入していきます。そして、イケメン教祖ヴァーノン(オースティン・バトラー)が語る陰謀論に惹かれていくのです。
ピザゲート(※)をはじめとする荒唐無稽な陰謀論は、彼女たちにとって「世界を理解するための物語」として機能していきます。
ここで重要なのは、彼女たちが愚かだから騙されるのではなく、
不安と孤立の中で意味を求めた結果として、その物語を受け入れてしまったという点です。
陰謀論は、現実の不安を「誰かのせい」に変換してくれます。
SNSは、その種の物語を即座に、しかも大量に供給してしまいます。
その結果、カルトのリーダーであるヴァーノンはさらに支持を集め、
ルイーズがジョーのもとへ戻ることは、ついにありません。
ここで提示されるのは、
「虚偽や不正を告発すること」そのものが、もはや十分な意味を持たなくなった現代社会の姿です。
人々は見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じる。
「真実」が驚くほど軽く扱われる世界が、本作ではありのままに描かれています。
6.SNSが生み出す不可逆な悲劇
物語の中で、ジョーは徐々に追い詰められていく姿を見せていきます。
テッドが彼を思いとどまらせようと訪ねてくる場面で、ジョーは会話の途中からスマホで録画を始めます。
この瞬間、対話は終わります。
そこから先にあるのは、「公開されること」を前提としたカメラに向かっての演技の時間です。
やがてジョーは、テッドを失墜させるために、根拠のないレイプ疑惑を拡散します。証拠はありません。しかしSNS上では、それは「敵を叩く燃料」として、あまりにも強い力を持ってしまいます。
日本でも、河合ゆうすけやへずまりゅうを引き合いに出すまでもなく、
現代の選挙は「真実」よりも、「敵を叩くための燃料」があれば、十分に政治的武器として成立してしまいます。
この構造そのものを、本作は核心的な恐怖として描いています。
また、騒音を止めるためにパーティーへ向かった場面で、ジョーは何度も頬を叩かれながらも反撃しません。殴り返せば「動画に撮られる」ことを、彼は無意識のうちに計算しているのです。このとき飲み込まれた怒りと屈辱が、後に取り返しのつかない悲劇へとつながっていきます。
ラストで、ジョーはルイーズをヴァーノンに奪われ、彼女が妊娠したことを知ります。SNSがあるからこそ、彼は「見なくてもよかった現実」を見てしまい、より深く傷つくことになります。
そして映画は、
陰謀に溺れた女性が街を支配し、先住民の土地や資源が搾取されていくという、笑えない、悪い冗談のような終幕を迎えます。
7.結語:薄っぺらな社会の鏡としての映画
アリ・アスター監督は、現代の劇映画が「スマホ以降に変貌した社会」と正面から向き合うことを避け、不快な現実から目をそらしてノスタルジアや寓話的な過去・未来へ逃避している状況を批判しています。
そうした意味で、『エディントンへようこそ』は、最も誠実に“いま”の社会と向き合った映画だと言えるでしょう。
そして、この映画に登場する、ネットの影響に人生を翻弄される人々が、ひどく薄っぺらく、愚かに見えるのは、今を生きる私たち自身が、同じように薄っぺらで愚かにも見える日常を生きているからなのだと思います。
『エディントンへようこそ』は、「SNSは危険だ」と説教する映画ではありません。むしろ、SNSと共に生きる私たちが、どれほど簡単に壊れてしまうのかを、身も蓋もなく突きつけてくる映画です。
現代社会をこれほど有り体に描いた映画も、そう多くはありません。
そのため、映画鑑賞に現実からの逃避や純粋なエンターテインメントを求める層からは、敬遠されてしまう作品かもしれません。
それでもなお本作は、2025年のいまだからこそ観るべき、記録的価値を持った一本だと感じます。
今年のうちに観ておくことをおすすめしたい作品です!!
