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映画『ボディビルダー』脱・無敵の人映画という視点

ジョナサン・メジャース主演の映画『ボディビルダー』を観てきました。

あらすじ

アメリカの田舎町で、病気の祖父を介護しながら暮らす青年キリアン・マドックス。低収入で友人も恋人もおらず孤独な毎日を過ごす彼には、一流ボディビルダーとなり雑誌の表紙を飾るという揺るぎない夢があった。過酷なトレーニングと食事制限に打ち込むキリアンだったが、身体は悲鳴をあげ、社会の不条理と孤立が彼の精神を蝕んでいく。そしてある事件をきっかけに、キリアンは狂気の世界へと突き進んでいく。
監督 : イライジャ・バイナム
2023年製作/123分/PG12/アメリカ
原題または英題:Magazine Dreams
配給:トランスフォーマー

『映画.com』より引用


観る前は、『タクシードライバー』『ジョーカー』のように、孤独を拗らせた男が狂気へと傾いていく物語なのだろう、そんなイメージを抱いていました。

ところが実際に観てみると、その印象は少し違っていました。
それは、現代社会の中で孤独を抱えながら生きる男性の、「生きづらさ」に、誠実に寄り添うような物語だったのです。

本稿では、『タクシードライバー』や『ジョーカー』が描いてきた狂気の物語とは異なる、『ボディビルダー』が示した、より切実で、私たちの足元に近い論点について考えてみたいと思います。


ーーーーここからネタバレーーーー












■ カタルシスの欠如が残すもの

『ボディビルダー』は、観終わったあとに強いカタルシスを与える作品ではありません。むしろ、何も解決されない感覚、どこにも出口が見えない閉塞感が、胸に残り続けます。

しかし、そのやりきれなさこそが、
この映画が「今の時代」に生まれた意味なのだと思います。

確かに本作は、『タクシードライバー』や『ジョーカー』と同様に、孤独を抱えた男が社会から疎外され、内面の歪みを深めていく構図を持っています。

けれども、実際に観てみると、『ボディビルダー』はそれらの作品とは、決定的に異なる立場に立っていることがわかります。


■ 一発逆転がまだ存在していた世界線

『タクシードライバー』や『ジョーカー』のストーリーは、どれほど歪んだ形であれ、行動によって世界を変えてしまえる可能性を示していました。

暴力に踏み出すことで社会が反応し、
彼らは「何者か」になってしまう。
それは肯定(ヒーロー)であれ、否定(ヴィラン)であれ、何者でもなかった存在に、物語的な意味が与えられる瞬間でした。

つまり、狂気は物語化され、意味を与えられてしまうのです。

この回路こそが、彼らを「無敵の人」へと変質させ、観客に一種のリベンジ映画としてのカタルシスを与えていました。

『ボディビルダー』が異様なのは、この軸を引き受けながら、意味付けを最後まで拒否する点にあります。

――そんな物語は、コミックの中にしか存在しない。

本作は、そう言わんばかりです


■ 「無敵の人」にもなれない存在の可視化

『ボディビルダー』の主人公キリアンには、
不可逆的に「狂気を爆発させる物語」が存在しません。

現実社会において、多くの人は怒りや不満を抱えながらも、破壊に踏み出すことも、成功物語に乗ることもできず、ただ只、不遇な日常を耐え続けています。

しかし、そうした人々は、ほとんど物語にされてきませんでした。

『ボディビルダー』は、
まさにその「物語にならない人」を、
正面から描いた映画だと思います。


■ マッチョ映画史の極北としての位置

本作をより深く理解するために、
ハリウッドにおけるマッチョ映画の歴史と照らし合わせたいと思います。

80年代『ランボー2』や『コマンドー』の時代、筋肉は疑いようのない正義でした。

筋肉=正義

筋肉は問題解決能力そのものであり、
国家や家族を守る象徴でもありました。

その後、マイケル・ベイ監督が描いた
『ペイン&ゲイン 史上最低の一攫千金(2013)では、筋肉は成功幻想や自己啓発の暴走として描かれ、マッチョ信仰は相対化され、嘲笑の対象になります。

さらに『フォックスキャッチャー』や『アイアンクロー』の頃には、
筋肉は「愛されるため」「認められるため」の代替物となり、承認を求める病理として描かれるようになります。

そして『ボディビルダー』において、筋肉はついに、

  • 社会を変えず

  • 誰にも届かず

  • 自己肯定にもならない

「何も埋められないもの」として描かれます。

ここに至ってマッチョは、
信仰でも、嘲笑でも、病理でもなく、
ただの「空虚な努力」になり果てています。

ここで言う「マッチョ」の価値変化は、
父権主義的な「男らしさ」に対する社会の変化と同期しています。


■褒め言葉ではない「面白い人」

本作は、ほぼ全編にわたってジョナサン・メジャースがスクリーンに映り続ける映画ですが、その中で数少ない「他人との会話」の場面が、非常に印象的です。

キリアンは、他者と関わるごく短い瞬間の中で、別々の人物から三度、「面白い人」と言われます。
それは彼の独特な受け答えや、微妙に噛み合わないリアクションに対して向けられた言葉です。

しかし、この場合の「面白い人」は、決して褒め言葉ではありません。
場の空気からズレていることを、やんわりと指摘するための言い換えであり、それ以上深く関わる意思はない、というサインでもあります。

いわゆる「コミュニケーションが噛み合わない人」に向けられる、あの独特の距離の取り方です。

観ていて、強い共感羞恥を覚えた方も多いのではないでしょうか。
悪意はない。けれど確実に、線を引かれている。その微妙な残酷さが、この映画では何度も繰り返されます。


■ 誰も見てくれない努力と、心象風景としてのジム

キリアンが行う筋力トレーニングは、常に孤独です。
誰もいないジムで、一人雄たけびを上げ、
自らの体を痛めつける姿は、現実というより、
彼の心象風景のように映ります。

筋肉を鍛えることが本来持っているはずの
「競い合う」「称え合う」という社会性は、
ここでは完全に剥奪されています。

このトレーニングは、成長のためではなく、
「価値のない自分を罰する行為」に見えます。

もし彼に、共に競い合い高め合う仲間がいれば――そう思わずにはいられません。

しかしそれさえもできないほど、
彼は自尊心を失っていました。

「雑誌の表紙になれない自分には価値がない」
その思い込みが、あらゆる対等な関係性の構築を不可能にしていたのです。


■ 「脱・無敵の人映画」という視点

この映画が特異なのは、無敵の人を正当化せず、しかし無敵になれなかった人を嘲笑しない点にあります。

ここで思い出されるのが、
安倍晋三氏を殺害した
山上徹也被告をめぐる言説です。

検察による山上徹也被告に対する証言、

「宗教2世が凶悪な犯罪を起こす傾向もない。世の中には同等、またはそれ以上不遇でも犯罪に及ばず生きている人もいる。生い立ちはそれ自体を考慮すべきではない」

https://www.ktv.jp/news/feature/251218-yamagami3/

という言葉には、強い違和感が残ります。

それは、ギリギリで踏みとどまっている人たちの消耗や努力を、当然の前提として使ってしまっているからです。

『ボディビルダー』は、
そんな「踏みとどまっている人」の苦難――
報われることのない地獄を、真正面から描いた映画だと思います。

現実には、安易な「一発逆転の物語」など存在しないのです。


■ 「楽しさ」が欠けていたという決定的な欠落

キリアンに最も欠けていたものは、「楽しさ」だったのではないかと、私は思います。

楽しさとは、評価されなくても、
役に立たなくても許される領域です。

しかしキリアンの世界には、無駄が一切ありません。すべてが承認と成功に直結しており、息をする余白がない。

ここで私が思い出したさのが、
漫画『路傍のフジイ』の藤井さんです。

彼は他者との比較から降り、
自分の価値観で生活を楽しんでいます。
それは悟りでも成功でもなく、
ただ人生を「楽しむ」という態度です。

キリアンには、それができなかった。
なぜなら彼は、楽しむ前に自分の価値を証明しなければならない、と信じ込んでいたからです。


■ 結語

『ボディビルダー』は、救いの物語ではありません。
しかし同時に、絶望を煽る映画でもありません。

この映画が描いているのは、何も起こさず、誰にも評価されず、それでも踏みとどまっている人の存在を、静かに肯定することです。

だからこそ本作は、「無敵の人映画」を批判する
「脱・無敵の人映画」なのだと思います。

観客が感じる、この映画のやりきれなさは、
決して無価値ではありません。

それは、今を生きる私たちに、
これまで語られてこなかった
大切な視点に気付かせてくれる作品だからです。

2025年に観るべき映画として、お薦めします。


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