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感想『ブルース・スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』創作とは孤独のハイウェイを歩くということ

『ブルース・スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』を観ました。
私はブルース・スプリングスティーンについて、昔アルバム『Born in the U.S.A.』を繰り返し聴いていた記憶がある程度で、それほど詳しいわけではありません。

ーーーーここからネタバレーーーーーー











――ですので、この映画が“すでにスターとして成功を収めたブルース”の姿から物語が始まった時、少し入りにくさを感じました。多くのミュージシャン伝記映画では、少年期の原風景や音楽との出会いといった「誕生の神話」が描かれます。
しかし本作は、そうした初期衝動の物語をあえて省き、名声を手にした後のブルースが、新しいアルバム制作に苦悩し、自分自身の影と向き合う姿を物語の中心に据えていました。その思い切った構成が、ほかの伝記映画にはない独自性を形づくっていたように思います。

また、定番の「ライブシーンによるカタルシス」が映画の結末に置かれない点も特徴的でした。映画のラスト、観客の熱狂やスポットライトの眩しさ、逆境を跳ね返して成功をつかむ高揚感――そうした華やかなクライマックスは、本作にはありません。 代わりに映し出されるのは、湖のほとりの静かな家、薄暗い部屋でギターを抱え、言葉を探し続けるブルースの姿です。喝采ではなく、“創作の苦しみと孤独”を真正面から描く本作の姿勢に、私は心揺さぶられました、以下にそのことを綴ってゆこうかと思います。

■ 創作の地獄を生きるブルース

特に心に残ったのは、ブルースがツアーを終え、湖の見える家にこもって新しいアルバム作りに取り組む場面です。偶然テレビで観た映画『バッドランズ』が創作の火を点け、彼は図書館で映画の元ネタとなった事件の資料を読み漁り、フラナリー・オコナーの小説にも影響を受けたのでしょう、事件を起こした若い男女の心に、かつての自分を重ね合わせるように歌詞を紡いでいきます。

それは即興のひらめきではなく、孤独で、報われない時間を積み重ねるような作業でした。しかし、まさにその“自分の内面と向き合う時間”こそが創作の本質なのだと感じさせられます。本作はその”生みの苦しみ"を丁寧に映し出します。(ミュージシャンの伝記映画ではインスピレーションを受けた後はサラサラっと曲が簡単にできてしまったかのように描写されがちですよね。)

中でも印象的だったのは、歌詞の語り手が変わっていく瞬間、ブルースは当初、“彼(he)と彼女(she)の逃避行”として歌詞を書いていました。しかし創作の過程で、歌詞はいつしか“俺(I)と彼女”の物語へと変わっていきます。他者の物語として書いていたはずの言葉が、内面で熟成され、自分自身の物語として語られるようになる。この“語りの転位”は、創作に携わる人なら誰もが共感する瞬間だと思います。外から得た素材と、内側に眠っていた痛みや記憶がふと結びつき、作品へと昇華されていく。その過程をここまで誠実に描いた映画は、決して多くありません。

同種の作品として『8 1/2』『カポーティ』などが思い出されます、どちらも創作者の苦悩を描いた名作映画ですよね!

■ 父という「影」と創作の宿命

私はこの映画で、私は名曲「Born in the U.S.A.」という曲の奥に潜んでいた痛みに、初めて気づけました。この曲はしばしば力強いアメリカ賛歌のように誤解されますが、本来は戦争に行き、傷つき、帰還しても祖国に受け入れられなかった男の苦悩を歌うシリアスな作品です。そこに重なって見えてきたのは、息子であるブルースの眼に映っていた父親の姿でした。

ブルースの父は低賃金労働を繰り返しながら家庭を支えていたものの、心に深い闇を抱えていたと言われています。愛情をうまく表現できず、怒りや沈黙でもって家族に接してしまう――そのような父の存在が、幼いブルースにとってどれほど大きな影を落としたことでしょう。

映画では、ブルースがレストランで父親と同世代の老人を思わず見つめてしまう場面が何度も描かれます。その表情が、彼が大人になってもなお“幼少期の痛み”から逃れられなかったことを物語っていました。

しかしその痛みがあったからこそ、ブルースは帰還兵や労働者、報われないブルーカラー人々の声を歌うことができたのだとも思います。痛みを破壊に向けず、音楽へと昇華し、その歌が聴く人の心を救う。
誰かの苦しみが、別の誰かを癒す。ブルースの音楽は、そうした“芸術の連鎖”で人々の心を救っていたのだと思います。

■ 創作が生み出す「連鎖」と「継承」

さらに興味深く感じたのは、ブルースも決して“ゼロから”作品を生み出していたわけではないということが描かれていたことです。映画、文学、社会の出来事、そして自分自身の過去――それらの断片を拾い集め、自らの痛みや記憶を重ね合わせ、作品へと醸造していく。そのプロセスそのものが、創作の本質なのだとあらためて気づかされました。

そしてブルースの音楽は、海を越えて日本のアーティストにも受け継がれています。浜田省吾、佐野元春、尾崎豊――彼らが歌う孤独や怒り、青春の葛藤の背景には、ブルース・スプリングスティーンの精神が息づいています。ブルースが歩いた“孤独のハイウェイ”は、創作に向き合う人々の魂に火を点け、「自分の言葉」を作品にする力を与えてくれたのだと思います。

本気で創作に取り組んだことのある人なら、この映画が描くブルースの苦しみに深く共感するはずです。愛する女性や、支えてくれる親友が傍にいてくれたとしても、癒されることの無い、創作者としての絶対的な孤独――それでも作品を作り続けなければ生きてゆけない――その姿は、まさに"クリエイターの業"だと感じました。

■ 孤独のハイウェイの果てに見えた光

映画の終盤、ブルースが「どうして僕はこうなってしまったのか」と泣き崩れるシーンがあります。 スターであっても、成功者であっても、彼は父親との関係で負った深い傷を抱えたまま生きて、愛した女性とも関係を深く結ぶこともできない…。その姿はあまりに痛ましく、胸が締め付けられます。

しかしラストで、父が自分を誇りに思っていたことを知る場面が訪れます。その事実は、ブルースの心に遅ればせながらも救済をもたらしたのでしょう。人は誰しも、親との関係によって形作られ、その影から逃れるのは容易ではありません。ですが、たとえ遅かったとしても、心に光が差し込むことがある。そのことを映画は優しく教えてくれていたように思います。

その親子関係が最後まで回復されない悲劇を描いた作品に『アイアンクロー』があります。 同作では、毒親の支配の中で苦しむ息子たちの一人を演じたのが、本作でブルースを演じるジェレミー・アレン・ホワイトでした。彼がまた別の作品で“父という影に押しつぶされる息子”を演じているのは興味深いですね…、俳優としての彼が持つ繊細さが、"息子たち"の抱えていた痛みに深く寄り添い、役に説得力を持たているのでしょう。

そして映画のタイトル『孤独のハイウェイ』は、まさにブルースが歩んできた人生そのものを象徴していると感じました。たとえ孤独でも、自分の信じる道を歩き続けるしかない。どれほど暗く、苦しく、悲しみに満ちていても、歩みを止めなかった者だけが、遠くの地平にかすかな光を見いだせる。

『孤独のハイウェイ』は、音楽映画という枠を超えた創作に生きる者の映画であり、親子の映画であり、そして“人がどう傷とともに生きるか”を描いた作品だったように思います。

ブルース・スプリングスティーンというアーティストが、なぜこれほど多くの人々の心を揺さぶり続けるのか――その理由に、私はこの映画を通して触れられた気がします。 

創作に携わるすべての人に観て欲しい一作です!


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