【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第38話: 手羽元の甘酢煮とハイボール
内容紹介
今日の一皿は、味わい深いけどさっぱりしていて箸が止まらない「手羽元の甘酢煮」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、ハイボールと心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
梅雨が明けきらぬ街は、昼に生まれた熱のやり場に失いながら、夜を迎えていた。
三谷修平は、交代の打刻を終えると、夜のビルを後にした。夜間警備員になって三年目。元は新聞記者だったが、十数年前に自ら筆を折った。あのころ、世の中の正義に自分の言葉が追いつかなくなったのだ。真実を追うふりをして、誰かの声を踏みにじっているような気がしていた。
退職後、しばらくは書くことさえしなかった。言葉が喉に引っかかっていた。でもある夜、散歩の途中にふと目に入った文房具店で、いつの間にか小さな手帳を手にとっていた。それから、夜勤の合間や帰宅前の数分に、ぽつりぽつりと、言葉を書き留めるようになった。
駅前の喧騒を避けるように、裏道へ入る。ひとけの少ない路地を歩いていたそのとき、ふと鼻先をくすぐる匂いがあった。どこかの誰かが夜を優しく照らしているようだった。
気づけば、文字のない白いのれんの前に立っていた。淡い行燈が、名前も書かれていない店の輪郭を、優しく縁取っている。
修平は、のれんをくぐった。
店内は静かだった。カウンター席が数脚、奥には厨房。真城一献がひとり、包丁の背を静かに置いた。
「いらっしゃいませ」
低く、響く声。どこかで聴いたような気もする。いや、気のせいだ。いくつもの夜を彷徨っていると、声の輪郭さえも記憶の迷路で交差する。
水をひと口。喉の奥に、冷たさが染みていく。言葉はない。けれど、それがかえって居心地よかった。まるで、夜の静けさがそのまま形になったような空間だった。
しばらくして、白い小鉢が目の前に置かれた。
「手羽元の甘酢煮です」
照りのある骨付き肉が、三本。上には白髪ねぎが軽やかに添えられている。そのやさしい明るさが、闇を不完全なものにするようだった。
箸をつけると、ほろりと崩れた。口に含むと、甘みと酸味がふわりと広がり、そのあとに肉の旨みが舌を包んだ。
─ああ、こういう味だ。
どこかで食べた記憶がある。だが、それは食卓の記憶ではない。深夜、ラジオの向こうに届いた誰かの声。思い出すのは、かつて匿名で参加していた、深夜ラジオの投稿番組だった。
「ラジオネーム、タニミさん。常連ハガキ職人さんですね。今日の投稿は、手羽元の甘酢煮と白髪ねぎ。飲み物は、なんと白州ハイボール!夜の定番が粋に聞こえますね」
パーソナリティの女性が笑い声を交えながら読み上げる。その声が、毎夜の灯だった。
次に読み上げられたのは、ラジオネーム「ヒガアン」。
「今日、母が作ってくれた手羽元を台所に忘れて出かけてしまって。でも、帰ったらまだあったんです。あたため直して、お酒を注いで、少し泣きながら食べました」
まったりとした言葉遣いで綴られた日常に、なぜか心惹かれた。夜の世界で、電波の上で繋がった二つのラジオネーム。本名も、顔も知らないけれど、すぐそばにいるような気がした。
ふと、グラスが差し出された。淡い緑のラインが入ったロックグラス。その中に、炭酸が軽やかな音を立てていた。
「白州のハイボールです」
「─ありがとうございます」
琥珀色の液体が、グラスの内側で揺れている。ひと口飲む。針葉樹のような香りが鼻に抜け、すぐにキレのある余韻が広がった。肉の脂が、すっと消えていく。甘酢の酸味が、もう一度新鮮に感じられる。
─あの人も、今、どこかで飲んでいるのかもしれない。
そう思った瞬間、手帳を取り出しかけてやめた。この夜は、不完全なままの言葉を、このまま持ち帰りたい気がした。
静かに手羽元をもうひとつ食べ、白髪ねぎを挟んで口に運ぶ。酸味がまた違う顔を見せた。白州の余韻と重なると、ねぎの香りがまるでBGMのように立ち上がる。
修平は、笑った。
自分はもう記者ではない。誰かに言葉を届ける立場でもない。けれど、この夜、この料理、この酒に、あのころの気持ちが封じ込められていた。
「ごちそうさまでした。ここ、何ていうお店なんですか?」
「『酒肴録』です。酒と肴を録すお店です」
修平は真城のその一言に、今日のこの出来事の全てが整ったように感じた。
修平は再びのれんをくぐった。二回目は、未完成の言葉を纏わせて。
真城一献は、修平の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
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第39話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』
おまけレシピ

小鍋にサラダ油を熱し、手羽元に焼き色をつける。
おろしにんにく、おろししょうがを小さじ1程度、水100cc、酒50cc、醤油大さじ3、お酢大さじ6、砂糖大さじ1を入れ、蓋をして煮詰める。
