【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第26話: 冷やし中華とビール
内容紹介
今日の一皿は、夏が彼を呼ぶのか、彼が夏を呼ぶのか、野菜もたくさん摂れる「冷やし中華」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、ビールと心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
長くじめじめとした季節を乗り越えたその日、工場の屋根を叩いていた雨音が途絶えた。蝉の声が塗り重ねられるように響きはじめ、青井慶吾は作業台に手を置いたまま、小さくため息をついた。工場の中の空気はまだ、重たい。機械油と汗と金属の匂いが滲んだ頭の中に漂うのは、昼に食べ損ねた冷やし中華のイメージだった。
定時で仕事を終えると、慶吾は町の裏路地を進んだ先にある居酒屋へと向かった。白いのれんをくぐると、カウンターの一番奥、壁際の席が空いていた。そこだけが風の通り道のようで、冷気がやわらかく流れているような気がした。
「いらっしゃいませ」
真城一献が声をかける。慶吾は小さく会釈をすると、カウンターに腰を下ろした。
「梅雨が、明けましたね」
慶吾のその一言を聞き取ると、真城は背を向けて水を張った大鍋を火にかけた。ほどなくして、細く縮れた中華麺が冷水で締められ、トマト、ハム、錦糸卵が彩る涼やかな一皿が運ばれてきた。添えられたからしの黄色が、どこか懐かしかった。
そのからしを箸の先でつまみ上げて、麺に絡めて啜る。醤油だれの向こうに、記憶の扉が開かれた。
この味を初めて覚えたのは、小学五年の夏だった。母が台所で「今日は暑いから、冷やし中華」と宣言したあの日。ハムは四枚、きゅうりは細く千切り、卵は厚く焼かれて細く裂かれた。麺はいつも、ちょっとだけ茹で過ぎていたけれど、醤油のたれにごま油がほんの少し垂らされていた。それが、慶吾の「うちの味」だった。
母が亡くなってもう八年になる。工場勤めの傍ら、ひとり暮らしの台所に立つようになって、あの味を思い出すたびに、冷やし中華だけは自炊することが多かった。けれど、自分ひとりで食べるその皿の上が雑になればなるほど、母の味から遠ざかる気がした。
「サッポロラガーです」
真城の声と、大瓶の底がカウンターにぶつかる音で、慶吾は我に返った。瓶ビールの栓が抜かれる音が、乾いた空気のなかに響く。グラスに注がれた泡がふわりと立ち上がり、慶吾はそれを見つめながら、小さく息をついた。
急に喉の奥に渇きを感じて、グラスを持ち上げた。ラガーの軽やかな苦味が喉を通っていく。そして今度は皿の上を箸でかき混ぜると、いろんな具材と麺を無心で啜り上げた。
記憶は香りに宿る。そんなことを考えていた時、不意に声をかけられた。
「お食事中、失礼します」
細身の女性が、ひとつ空けて隣の席に立っていた。白いシャツにカーキ色のパンツ。手には小さなノートとペン。どこか理知的な目元が印象に残った。
「はい、そうですが」
「あの─。わたし、如月穂香と申します。香料の開発をしている者です。『日常の香り』に関する調査をしていて。急にお声がけしてすみません」
名刺には「香料開発士」の肩書があった。
「記憶に残る香りを、記録しておきたいと思っているんです」
慶吾は、ビールのグラスを置いて彼女を見つめた。
「俺が今思い出していたのは、ただのうちの母の台所ですよ」
穂香は、少し目を見開いて、微笑んだ。
「それでもいいんです。むしろ、それを聞かせてください」
二人はしばらく沈黙したあと、もう一本瓶ビールを頼み、冷やし中華を二皿並べた。
「あなたの中で、その香りはどこにありますか?」
そう尋ねられたとき、慶吾は思わず厨房の奥を見た。真城の背中、その奥にある熱気。鉄と油の匂い、酢の酸味、からしのツンとした刺激。
「……鼻じゃなくて、たぶん、喉の奥」
「喉?」
「夏休みの、最後の週の味がする。嫌だったけど、好きだった。ビールで流すと、それが浮かび上がってくるんだ。なんでだろうね、ビールは大人になってから飲み始めたのにさ」
穂香は、ペンを止めていた。彼女もまた、遠くを見ていた。そしてその時、慶吾には、真城の背中が何かを発したような気がした。
「記憶って、ちっとも合理的じゃないですよね」
やがて夜が更けていき、外の気温は少しだけ和らいだ。蝉の声はやみ、代わりにどこか遠くから、拍子木の音が聞こえてきた。
慶吾は再びのれんをくぐった。二回目は、何度も繰り返された真夏の香りを纏わせて。
真城一献は、慶吾の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
おまけレシピ

酢に対して50%の醤油、水、砂糖、25%のごま油、そして少量のおろし生姜と鶏ガラスープの素を混ぜてたれを作る。
お好きな具材をなるべく色/種類多く、揃える。
中華麺を茹でて冷水で締める。
材料紹介
サッポロラガービール : 夏の冷蔵庫に常備しておこう。
