【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第46話: 夏野菜の煮浸しと黒糖焼酎
内容紹介
今日の一皿は、滋味深く、肴にも常備菜にもなる「夏野菜の煮浸し」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、黒糖焼酎と心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
アスファルトの照り返しを避けるようにして、芝原慎一は細い裏路地に足を踏み入れた。夜行バスの運転を終え、仮眠時間を経て、今日は珍しく空いている。空白を与えられた身体は、なぜかまっすぐ家に向かう気にはなれなかった。かといって、飲み屋街を彷徨うほどの気力もない。ただこの静けさに、ひととき身を預けたいと思った。
酒から距離を置くようになったのは十年ほど前のことだ。同期の運転士が、乗務明けの晩酌で酒量を誤り、翌朝のシフトに穴を開けて問題を起こした。責任は大きく、彼は運転席から降りることになった。慎一自身は酒を断ってはいない。だがそれ以来、飲むという行為にどこか慎重になっていた。気の緩みが命取りになる職業だと、骨身に染みて知っているからだ。
そんな男の前に、白無地ののれんが現れた。柔らかな灯に照らされたそこは、まるでこの界隈だけが宙に浮いているかのように、別の時の流れを孕んでいた。理由もなく、その布をめくり上げた。
「いらっしゃいませ」
静かな声が迎える。カウンターの奥に立つのは、真城一献。坊主ではないが、どこかの寺の住職にも、長年一人で舟を漕いできた孤独な漁師にも見える。だがその包丁の握り方と、火を扱う所作には、何かしら別の記憶が引っかかった。
「夏野菜の煮浸しです」
供されたのは、柔らかい黒に浸った、なすやピーマンだった。ひときれの茄子に箸をつけると、じゅわりと甘辛い出汁が滲み出る。中までしっかりと味が染み、けれど油っこさはまるでない。ピーマンの鮮やかな苦さが後味を締め、大根おろしが全体を柔らかく包む。夏の疲れに、静かに沁み込んでいく味だった。
「─CBでしたね」
不意に、真城がそう呟いた。
慎一の箸が止まる。CB。あのバイクを最後に整備に出したのはいつだっただろうか。夜勤明けに立ち寄った、あの古い町工房の奥で。あの時応対したのは若い整備士だったが、奥にこの男がいたのだろうか
「ええ、CB750。─手放しました。もう乗る時間も気力もなくて」
「惜しいバイクでしたよ。音が良かった」
慎一は、少しだけ口元を緩めた。自分以外の誰かが、あのバイクの音を覚えている。たったそれだけのことで、手放した日よりも静かに、何かが報われた気がした。
「里の曙、ロックです」
グラスがそっと差し出された。
促されるままに一口含むと、黒糖由来の柔らかく深い甘みが、ゆるやかに広がる。喉を通る頃には、すっと軽やかに消えていく。重たくない。けれど芯がある。
「─飲みやすいですね。黒糖焼酎って、もっと重たいかと思ってました」
「夏野菜に合わせるなら、これぐらいがちょうどいいんです」
慎一はもう一口、焼酎を口に運び、再び茄子を頬張る。この小さな体積に信じられないほどの出汁を含みながら、それでも崩れない柔らかさが、さきほどよりも鮮明に舌に残った。飲むことで、味が立ち上がる。そんな感覚を久しぶりに思い出した。
このところ、バス会社でもようやく、乗務管理などのデジタル化が進んでいる。だが慎一は、マニュアルの記録帳を手放せずにいる。自分の言葉で記した天気、客層、道路状況。ルートそのものは同じでも、夜ごとの景色は確かに違っていた。
この味も、そうだ。どこかで食べたようでいて、決して同じではない。
「明後日からまた、夜の便なんです。今日は久しぶりに、余白のある日で」
「それなら、なおさらですね」
真城の言葉に頷きながら、慎一はグラスの氷がわずかに鳴るのを聴いた。静かな空間の中で、あのCBのエンジン音がふと耳に蘇る。あれもまた、夜を走る音だった。
もうひとつ思い出した。深夜の長距離便。休憩中に寄った山間のパーキングエリアで、客がひとり、ぽつんと空を見上げていた。話しかけることはなかったが、その姿が今も脳裏に残っている。夜を生きる者は、どこかで必ず、誰かとすれ違っているのだ。
客席には他に誰もいなかった。平日の午後五時過ぎ。真夏の日差しは容赦がなく、外を歩く者もまばらだ。ふと気づくと、壁際に古い時計が掛けられている。秒針の音はせず、ただ静かに、時だけが過ぎていく。
慎一は、グラスの氷が少しずつ溶けていくのを見ていた。普段、バスの運転席から見る風景は、すべてが目的地に向かって流れていくものだった。だが、ここでは違う。流れない時間が、確かに存在していた。
「このお酒。甘すぎず、でも芯がある。そんなふうに思いました」
「ええ。黒糖は、余韻が人に近いんです。苦味や渋みじゃなくて、記憶のような甘さを残す」
「─記憶、ですか」
ふと、慎一は自分のポケットに入れていた紙片を思い出した。先日、車庫のロッカーを整理していたときに出てきた、昔の走行記録。そこには、手書きでこう書かれていた。
─冷やし中華が食べたくなる日。帰りの便、乗客の子どもが寝落ち。起こさず抱いて降りた母親が礼を言ってくれた。
日付は何年も前の夏。名前も顔も思い出せないが、たしかに、そんな夜があった。
「この煮浸し、なんだか懐かしいです」
「そう言われると、うれしいですね。誰かの記憶に少しでも残るなら」
慎一はもう一度、ピーマンに箸を伸ばした。さきほどよりもほんの少しだけ、味が増していた。
氷の溶けた焼酎は、味わいがまろやかになっていた。飲み干した頃には、空も少しだけ色を変えていた。
このあと、風呂にでも入ってから、仮眠をとろうか。そんなゆるやかな思考が、心を満たしていた。いつものように、きっちり詰まったスケジュールではなく。走らなくてもいい夜も、たまには悪くない。
もう少しだけ、この空白に甘えてもいいだろう。そう思える夜は、そう多くない。慎一は軽く背伸びをし、背中に残る焼酎の余韻を確かめるように、静かに立ち上がった。
慎一は再びのれんをくぐった。二回目は、束の間の余白を纏わせて。
真城一献は、慎一の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
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第47話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』
おまけレシピ

なすを切って皮に切れ込みを入れ、皮面からサラダ油で炒める。
なすを返して残りを焼きながら、そこにピーマンなどお好きな野菜を追加する。
だし汁、300cc、醤油大さじ2、みりん大さじ3、砂糖小さじ1を入れて4、5分煮詰める。
大根おろしを添える。
材料紹介
黒糖焼酎里の曙 : 夏野菜の煮浸しと。
