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民主主義を憎むリベラル 選挙妨害と「ポストリベラリズム」の思想

(ヘッダー画像は、YouTube「梅村みずほ議員の煽りに参政党アンチついに暴徒化?街頭演説中止? 新宿南口8/8」そーすせんべい、より)


止まらない選挙妨害と偏向報道


ヘイトスピーチ条例の見直し等を訴え、川崎市長選に立候補表明した出版社「示現舎」代表の宮部龍彦氏。

8月7日に、川崎市内で出馬記者会見を開きましたが、心配されたとおり、神奈川新聞・石橋などの活動家記者の妨害・嫌がらせに遭っていました。

質疑の時間が始まると、石橋記者が真っ先に質問を始めますが、それは「あなたの意見は間違っている。撤回して謝罪しろ」というような、質問というより脅しでした。

そして、選挙に出馬しただけの一般人に対して、さっそく、以下のようなひどいレッテル貼りの偏向記事を書いています。


レイシストたる宮部氏の出馬には急速に拡大する排外主義の波に便乗しようという卑劣さものぞき、それこそは差別を飯の種にする恥知らずな差別者の真骨頂であろう。
(神奈川新聞 2025/8/8)


(こんな主観的な「新聞記事」は現代ではあり得ません。完全な名誉毀損であり、宮部氏は神奈川新聞と石橋記者を訴えるべきだと思います。)


8日におこなわれた新宿南口の参政党演説集会には、「しばき隊」をはじめとしたアンチが集結し、発煙筒をたくなど、大騒ぎになっていました。

その様子を撮影した多くの動画がXに上がっています。

参政党の神谷代表は、その動画の一つを引用し、以下のようにポストしました。


こうした事象は日本の民主主義を脅かす事態であり、政治活動の自由や言論の自由を侵す行為ですよね?

明日以降どれだけのメディアがこの問題を報道するかで、日本のマスメディアのレベルがわかります。
どれだけの言論人や政治家がこの問題に触れるかで、彼らのレベルがわかります。

参政党の憲法の人権カタログが抜けていると問題視していた人権派の皆さんは一斉に声をあげてくれるでしょう。

(神谷宗幣 2025/8/9 0:52)


一方、兵庫県のほうでは、選挙で再選された斉藤知事が、相変わらずオールドメディアの嫌がらせに遭っているらしい。


分断を煽り
誹謗中傷を誘引し
県民の知る権利を阻害する
兵庫県記者クラブ

何とか知事を屈服させようと
洗脳するかのように同じ質問を
繰り返していくうちに
記者のほうが「白」を「黒」だとする
催眠状態に陥っているように見える

こんな人たちが書く記事に
公益性の価値はない

(の。 2025/8/7 17:42)


なんなら、日本ペンクラブ女性作家委員会も、選挙結果が気に入らないというような「緊急声明」を5日に出しています。



日本ペンクラブは、

「異なる意見の言論人に対して、意見で反論するのではなく(中略)排外的な攻撃を呼びかける言論が横行することを懸念します」

と言いますが、

「排外的なのはどっちだ?」

と多くの人が聞きたくなるでしょう。

「異なる意見」を暴力的に排除しようとして、ナチやファシズムを連想させているのは、どう見ても左側、リベラル側です。


こうした選挙活動や選挙結果に対する妨害や、ネガティブな言説には、最近のリベラルの「民主主義」に対する憎しみが渦巻いています。

彼らには、選挙による人々の審判(民意)や、一般人がリスクをおかして選挙に出ることに対する敬意が、まったくありません。

彼らは、気に食わない選挙結果や候補者・当選者を、「ポピュリズム」「ポピュリスト」と呼んで軽蔑します。それは、「学識のない、程度の低い、社会の低層の人々(の判断)」という意味です。


街頭での選挙妨害の映像や、記者会見で「荒ぶる」活動家記者を見ていると、それは一部のチンピラや、左翼過激派の狼藉のように見えます。

しかし、神谷代表がほのめかしているように、その背後にはメディアやアカデミズムや既成政党、そして司法や警察の「黙認」ーーと恐らく秘密裏の扇動ーーがあります。


参政党アンチが、共産党や立憲民主党などとつながっていることが取り沙汰されていますが、そのつながりは、ある意味当たり前です。驚くべきことではないでしょう。

いわゆる左派とは限らない、保守とみなされている部分までふくめて、広く「リベラル」層が、アンチを支持していると見るべきこと。こちらのほうが重要だと思います。

ひどいことがおこなわれているのに、彼らは見て見ぬふりをして、それを後押ししている。

チンピラたちの「けつ持ち」は、普段は紳士然として、この国の文化を支えているように見えている「リベラルエリート」たちなのです。


リベラリズムの終わり


リベラルは、言論や表現の自由を守り、価値の多元性を信じ、何より寛容であるはずで、選挙の公正を守る立場のはずでした。

どうして彼らは選挙を、民主主義を、憎むようになったのか。

それは、リベラル自身が、リベラリズムを裏切っているように思えます。


実は、これは今、世界的な現象になっています。

世界中で、彼らのいう「右派ポピュリズム」が選挙に勝ち始めたので、彼らは選挙と民主主義を憎み、その妨害をはじめているのです。


「ポストリベラリズム」の代表的な論者である政治哲学者、パトリック・デニーンは、今年5月に発表されたインタビューで、以下のように述べています。


10年以上前から、米国を含む西側のリベラル・デモクラシー陣営の支配階層は、リベラリズムを守るためなら、リベラリズムに反する手段も使っていいと考えてきました。「進歩主義という大義のためなのだからいい」という理屈で、言論の自由が抑え込まれ、SNSの検閲が試みられ、米国際開発庁(USAID)を使って公金を動かし、新型コロナ感染症対策としてロックダウンが断行されました。
(中略)

リベラリズムに反対する政党に対しては、権力を握れないように壁が築かれました。「内なる敵」とみなされた人物は逮捕され、ときには選挙結果が無効にされました。「民主主義」を守るという名目のもとで、リベラリズムに反する一連の措置がとられてきたのです。
(中略)

これは「民主主義」を守っているのではなく、「リベラリズム」を守ろうとしていたわけです。民主主義という仕組みは、リベラルにとって都合のいい選挙結果を出すときだけ、是認してもらえるものに格下げされてしまったのです。

逆に、世論がリベラリズムに反発すると、リベラルのエリートは、選挙結果を「ポピュリズム(大衆迎合主義)」と評して、正当だと認めようとしませんでした。

パトリック・デニーン「米国では民主党が長い冬眠期間に入る可能性がある」(クーリエ 2025/5/10)


リベラルが、リベラリズムの教義にみずから背いて、自分たちの都合のいい民主主義を守るため、都合の悪い民主主義を妨害しているのです。

ちなみに、上のインタビューで「10年以上前から」とありますが、日本でも、10年前の安保法制騒ぎでのアベガーあたりから、これが始まったと思います。

なぜ、こうなってしまったのでしょうか。



つまり、いま眼前に展開している対立は、

右翼 VS 左翼

でも、

保守 VS リベラル

でもなく、

右派ポピュリズム VS リベラル・エリーティズム

であり、もっと単純に言えば、

民主主義(デモクラシー) VS  リベラリズム

ーーです。


もともと、リベラリズムは、民主主義と対立するもの、あるいは、それを補足するもの、という認識ではありました。

しかし、そのリベラリズムと民主主義は、これまではうまく結びついてやっていけてるように思えました。

どうして、両者の連合は、うまくいかなくなったのでしょうか。


デニーンら、「ポストリベラリズム」の思想家の意見では、リベラリズムはもともと、エリートたちの思想でした。

「少数者の人権尊重」と言えば聞こえがいいですが、実のところは、エリートたちが伝統社会の価値観に縛られることなく、自由奔放に生きたいがための思想でした。

それが、民衆(デモス)の信じる共同体の価値観とぶつかることが多くなってきました。

現在、リベラリズムは、いわゆるグローバリズムと合体しています。

とくに、リベラリズムが、その「解放」の促進で、民衆にも経済的恩恵を与えていた間はよかったのですが、移民問題は、むしろ民衆に経済的打撃と社会的不安を与えました。


かつて、貴族やエリートと、庶民、労働者との知識や情報の格差は、非常に大きなものがありました。

だから、民衆も、エリートたちを信じてついていくしかなかった、という事情があります。

民主主義の時代になっても、その事情はしばらくあまり変わらなかったのです。


しかし、現代では大卒者も増え、学歴がなくてもネットなどで情報を得られるので、その格差は小さくなりました。そうしたことも背景にあるでしょう。

「ポピュリズム」という言葉ができた19世紀末からくらべると、その差ははるかに小さい。

情報の経路も、かつてのように「上」から「下」へ、つまりエリートメディアから大衆に下げ渡されるだけでなく、双方向的で、水平的になりました。


こうしたことから、おおよそ18世紀から始まるリベラリズムの歴史的役割は終わった、と見るのが「ポストリベラリズム」の立場です。

「ポストリベラリズム」という思想は、まだはっきりした形に熟していませんが、トランプの後継者と見なされているJ・D・ヴァンスや、ルビオ国務長官がこれを表明していることで注目されています。


ともあれ、リベラルとデモクラシーの連合が破談になったのなら、日本のリベラル・デモクラチック・パーティー(自民党)が分裂しそうになっているのも、道理だということです。


ポストリベラルの政治


ポスト「トランプ」、ポストリベラルの政治は、どのようになるのでしょうか。

いま生きている人は、みなリベラリズムの前提をあまりにも当たり前のことと考えている。たとえば、われわれは理性(啓蒙)によって、常に因習から遠ざかり、人はより自由になり、世界はより「フラット」になり、人類は永遠に進歩していける、といったような。

だから、「ポストリベラル」を想像することは難しいが、思想よりも、現実が先に動いているように思われます。


日本の直近の選挙でも、「リベラル・デモクラシー」の政党は支持を落としており、伸びているのは、参政党のような「右派ポピュリズム」と、チームみらいのような「テクノ・リバタリアニズム」です。

宮部龍彦氏や浜田聡氏も、どちらかというと「テクノ・リバタリアニズム」の方向かと思います。


「右派ポピュリズム」と「テクノ・リバタリアニズム」が若い層で伸びているのは、ある程度、西欧諸国に共通の現象ではないでしょうか。

もしこの二派が結合するとすれば、「リバタリアン・デモクラシー」になるのでしょうか。

社会的・文化的価値観に関与しないテクノクラートが、民意に沿って政策を推進するような社会ーー。


私がありそうだと思うのは、経済政策ではもっと「左」を選ぶような体制です。

イギリス労働党の「ブルーレイバー」のような方向。

経済は「左」だけど、社会・文化は「右」の体制を目指す。


そこでは、リベラリズムの代わりに、社会民主主義や、労働者の自主管理社会主義のようなものが復活してくるかもしれません。

たとえば、キリスト教の立場から「ポストリベラル」を論じた論説で、以下のように述べられています。


キリスト教的ポストリベラル左派は、(中略)左派が歩まなかった様々な道、すなわちギルド社会主義、サンジカリズム、評議会共産主義、アナキズム、そしてコーポラティズム的な社会民主主義の形態も再考すべきである。これらのポスト資本主義世界の異なるビジョンを結びつけるのは、政治と経済生活の再統合への願望(例えば、ギルド社会主義者は、地域による代表制をギルドや労働組合による代表制に置き換えようとした)と、労働、技能、経営における階級区分を廃止し、労働者による生産管理という職人的な理想である。労働運動は、この歴史を学び、より野心的な政治を育むべきである。

https://www.commonwealmagazine.org/toward-christian-postliberal-left


つまり、キリスト教のような伝統的な社会・文化的価値観と、資本主義の行き過ぎを防いだ労働者中心の経済体制を志向すべきだ、ということでしょう。


欧米における「ポストリベラル」の議論では、ヴァンスもそうですが、社会倫理における「キリスト教への回帰」が唱えられることがあります。

日本は、その点、どうなのでしょう。

伝統的価値観に戻る、といった場合、どこに戻るのか。

以前、私も論じたような、「保守の原点探し」が、ここでも必要になってくるように思われます。


ともあれ、これからは、「ポストリベラル」時代の政治のあり方を、はっきり提示した政党が人気を集めるのではないでしょうか。

たとえば、れいわ新選組なんかが、参政党と「悪魔合体」して、倫理は「右」、経済は「左」という日本の将来ビジョンを示せたらおもしろい、とか思う。



<参考>


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