58.ジムノソフィスト
画像は以下のサイトから転載。
グレコ仏教
ジムノソフィストについては、前回軽く触れました。
ジムノソフィストは、古代インドで裸で暮らしていた哲学者、修道者たちを指す言葉です。
アレクサンドロス大王が北西インドを征服した際に出会い、同行していたギリシャの哲学者たちに影響を与えた、とされています。
意外に思われるかもしれませんが、キリスト教以前、ギリシャとローマでは仏教も信仰されていました。
初期のキリスト教徒の中には、そのことを知っている人もいたそうです。
アレクサンドロス大王のアジア統一から、ギリシャ語(コイネー)を共通語とするコスモポリタンなヘレニズム時代がはじまりました。
アレクサンドロス大王の帝国には北西インドも含まれますので、ヘレニズム時代に至る経緯を理解すると、仏教の伝播についてもすんなり納得できます。
また、アレクサンドリアで行われていた神秘主義者、エッセネ派、テラペウタイ派などの人たちの実践には、明らかにアジア的、仏教的な要素がうかがえます。
もちろんイエスの思想にも仏教的な影響が見られます。
古代ギリシャ文化と仏教の融合は、紀元前四世紀から紀元後五世紀にかけ、バクトリアとインド亜大陸で発展しました。
ここでいうインド亜大陸は、現在のタジキスタン、アフガニスタン、インド、パキスタンに相当します。

融合の結果生まれた「仏教」を、仏教のギリシャ風味、グレコ仏教と呼びます。
バクトリアの都市(アイ・ハヌム、バグラムなど)は、セレウコス朝シリアの時代からのちに独立してグレコ・バクトリア王国になったあとも、二世紀以上に渡ってインドと接触していました。
その後紀元後一世紀から三世紀にかけて、イラン系の王朝クシャーナ朝が栄えます。クシャーナ朝は北インドと中央アジアを領土とし、バクトリアも含まれます。
ということで、クシャーナ朝もギリシャの影響を受けていました。

チャンドラグプタ(紀元前三四〇年ごろ~)は、紀元前四世紀末、ナンダ朝を滅ぼし、マウリヤ朝を創建しました。

ガンジス川流域を支配したチャンドラグプタは、西のインダス川流域の征服に乗り出しました。当時のインダス川流域はアレクサンドロス大王によって支配されていました。
アレクサンドロス大王の死後はマケドニアのサトラップ(総督)たちがあとを継いだのですが、サトラップたちはチャンドラグプタに敗れ、追放されてしまいました。
その後マウリヤ朝のアショーカ帝(紀元前二六八年~)はグレコ仏教に改宗し、勅令を出して領地全体に仏教哲学を広めました。
グレコ仏教はマウリヤ朝の崩壊後も、グレコ・バクトリア王国、インド・グリーク朝、クシャーナ朝で繁栄をつづけました。
グレコ・バクトリア人は、マウリヤ朝が支配をつづけるなかでも、強力なヘレニズム文化を維持していました。
アフガニスタン北部で発見されたアイ・ハヌムの遺跡では、ペルシャ風味の神殿や、戦車に乗ったキュベレーのプレート、ヴェーダの神々を描いた硬貨などが見つかっています。

紀元前一八〇年ごろ、マウリヤ朝はシュンガ朝に滅ぼされました。
その後グレコ・バクトリア人はインドに進出し、インド・グリーク朝を築きました。グレコ仏教はインド・グリーク朝で栄えました。
インド・グリーク朝の王メナンドロス一世ソテル(在位:紀元前一六五年ごろ~紀元前一三〇年ごろ)は、首都サガラからインド亜大陸の北西部の広大な領土を統治しました。

メナンドロス一世は、インド・グリーク朝で最も偉大な王として知られています。
またメナンドロス一世は、グレコ仏教の庇護者で、重要な仏典『ミリンダ・パンハ』(ミリンダ王の問い)の題材となったと考えられています。
マウリヤ朝のアショーカ帝は、紀元前二五〇年ごろから、シリア、エジプト、ギリシャに仏教の宣教師を派遣しました。
アレクサンドリアのフィロン(紀元前二十年?~)は、著書『観想生活』で、アショーカ帝の宣教師について報告しています。
テラペウタイ派は禁欲的なライフスタイルを実践する神秘主義者の集団ですが、報告によると、テラペウタイ派そのものが宣教師の子孫だった、という可能性さえあるとのことです。
また、パーリ語の 「Theravada」がテラペウタイに変形した、という説もあります。
仏教の影響を受けた神秘主義者たちがのちのキリスト教の修道士につながっていくと考えると、たいへん興味深いものがあります。
ちなみに有名なクリュニー修道院は、ユダヤ人が創建しました。
いずれにせよ、ヘレニズム時代のエジプトには仏教徒が住んでいたようです。
プトレマイオス朝時代のアレクサンドリアでは、法輪が描かれた仏教の墓石が発見されています。
インドとグノーシス
アレクサンドリアのオカルトたちは、インドの禁欲的な修道者たちをジムノソフィストと呼びました。
グノーシス福音書の一つ、『トマスの福音書』は、使徒トマスにちなんで名づけられました。
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使徒トマスは、インド南西部のマラバル海岸に船で上陸し、インドの人たちを改宗したとされています。

アメリカの宗教史家エレイン・ペイゲルズによると、イギリスの仏教研究者エドワード・コンゼは、「仏教徒は南インドのトマス派(トマスの福音書を知り、使用していたキリスト教徒)と接触していた」と指摘しています。
グレコ・ローマ世界と極東を結ぶ貿易ルートは、グノーシス主義が栄えた時代(紀元後八〇~二〇〇年)に開かれていた。仏教の宣教師は何世代にも渡り、アレクサンドリアで布教を行っていた。ローマでギリシャ語を話すキリスト教徒だったヒッポリュトス(一七〇年ごろ)は、インドのバラモンについて知っており、その伝統を異端の源に含めている。
貿易ルートといえばユダヤ人です。
ヒッポリュトスの著書『全異端反駁論』にはこうあります。
インドにはまた、バラモンに哲学者の一派があり、かれらは自分たちに独立した生活を提案し、生命を持ったすべてのものと火で調理された肉を断つ。かれらは果物で満足するが、それさえも採らず、大地に落ちたものを食べて生き、タガベナ川の水を飲む。かれらは裸で一生を過ごし、肉体は魂の衣として神によって造られたのだという。神は光であり、人が見るような光ではなく、太陽や火のようなものでもなく、かれらにとっては神の言葉であり、明瞭なものではなく、知識(グノーシス)から来るものであり、それによって自然の隠された神秘が賢者によって見られるのだという。
グノーシスたちは肉体を穢れたものとして嫌い、魂の浄化を求めていました。
テュアナのアポロニオス(一世紀ごろ)は、一部でイエスと同一視されている新ピュタゴラス主義者の哲学者&魔術師&奇術師です。これまでもちょくちょく出てきました。
フィロストラトス(一七〇年ごろ~)の『テュアナのアポロニオス伝』によると、アポロニオスはインドに旅行していました。
そこで王たちに歓迎され、連れのダミスとともに四ヶ月間バラモン教徒の客人として滞在したそうです。
そしてアポロニオスは、インドでジムノソフィストと会っていました。
ジムノソフィストたちはギリシャ語を話し、家も財産も持たず、裸で生活していました。
そして自分たちをオリンピックの選手になぞらえました。
グノーシスたちとインド人の接触もありました。
新プラトン主義者でベジタリアンで反キリストのポルピュリオス(二三四年~)は、著書『節制論』でこう記しています。
かれらの中には、ギリシャ人が習慣的にジムノソフィストと呼ぶ、神聖な賢者からなる部族がある。……バビロニアのバルデサネスは、われわれの先祖の時代に生きており、ダマダミスとともにカエサル(皇帝)の元に派遣されたインド人と親交があった。
バルデサネスはシリアのグノーシス主義者で、バルダイサンとも呼ばれます。
そんなわけで、グノーシス主義とインドの伝統、仏教の伝統のあいだには類似性が見られます。仏教の「真空妙有」などです。
真空は、真に「空」、あらゆる妄想から逃れた状態です。
妙有は、相対的なありなしの対立を超えてはじめて存在の真の姿があらわれる、といった意味です。もちろんプラトンにも通じます。
エドワード・コンゼは、「グノーシス主義と大乗仏教のあいだの八つの基本的な類似点」を挙げています。
どちらも内面を重視しますし、グノーシスのソフィア(知恵)は般若に対応します。どちらも女性、女神です。
大乗仏典にはこうあります。
そのとき、世尊は再びスブーティ長老に話しかけられた。
……スブーティよ、このように供養されるべき、完全なさとりを得た如来たちは、この智慧の完成(般若波羅蜜)を世話し、大事にし、まもるのである。それはなぜか。というのは、この(智慧の完成)は供養されるべき、完成なさとりを得た如来たちの母であり、生みの親であるからである。
ここにもセミラミスとタンムズが出てきました。
パンタイノス
カエサリアの司教で歴史家のエウセビオス(二六三年ごろ~)は、著書『教会史』でこのように報告しています。
使徒たちにならって、……みことばの伝道者は、実にまだ大勢いた。パンタイノスもその一人で、インドに行ったといわれている。そこでキリストのことを知っていた人々から……マタイの福音書を見つけたと伝えられている。使徒の一人であるバルトロマイがかれらに説教し、ヘブライ語で書かれたマタイの福音書を残していったからである。
パンタイノスはストア派の哲学者で、アレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスの家庭教師でした。クレメンスもオリゲネスも初期キリスト教を代表する神学者です。
キリスト教神学の発展に大きな影響を与えたかなりの重要人物なのですが、なぜか日本語のウィキペディアにはパンタイノスのページが存在しません。
パンタイノスはマルクス・アウレリウス治世の直後に旅をしたので、一八一年ごろにはインドにいたことになります。
聖ヒエロニムス(三四七年ごろ~)は、「処女の脇から生まれた」というブッダの誕生に言及しています。この仏教の処女懐胎伝説がキリスト教に影響を与えたといわれています。
アレクサンドリアのクレメンスも、ブッダのことを知っていました。著書『ストロマテイス』にこのように記しています。
インドのジムノソフィストや、その他の蛮族の哲学者たちもその数(ギリシャに伝わった哲学)に含まれる。その中にはサルマナエと呼ばれる者とバラモンと呼ばれる者がいる。サルマナエのうちハイロビと呼ばれる者たちは、都市に住まず、屋根もなく、木の皮をかぶり、木の実を食べ、手で水を飲む。
コーチン・ユダヤ人
インドにはムンバイ(西インド)のベネ・イスラエルのほか、インド南西部に住むユダヤ人もいました。

コーチンに住んでいるのでコーチン・ユダヤ人と呼ばれます。コーチン・ユダヤ人のルーツはソロモン王の時代にまで遡るとされています。
コーチン・ユダヤ人は、その名のとおりコーチン王国に定住しました。現在のケララ州の一部です。
紀元後七十年、ローマはエルサレム第二神殿を破壊しました。いわゆる第一次ユダヤ・ローマ戦争(六六~七三年)での出来事です。
第一次ユダヤ・ローマ戦争の末期、ローマ軍はマサダを攻撃しました。マサダは切り立った崖の上にある要塞で、難攻不落でした。

マサダの要塞には、逃れてきたユダヤ人が千人ほど立てこもっていました。
ローマ軍は二年もかけ、山の西側をそっくり埋め立てました。そして陥落が目前となったとき、指導者エルアザルはみんなの前で演説をします。
当時の慣習では、降伏すれば奴隷にされ、抵抗すれば殺害されました。なので結論として、奴隷となるよりは死を、と集団自決が決定されました。
中には女々しい男もいたようです。ヨセフスは『ユダヤ戦記』でこのように記しています。
生きているあいだに自由を追い求めながら、永遠につづく自由をうらやむのは、なんとばかげたことだろう! それゆえ、自分自身の規律の中で育ってきたわれわれは、死ぬ覚悟によってほかの人々の模範となるべきである。もしこの問題でわれわれを支えてくれる外国人を必要とするのであれば、哲学の実践を公言するインド人たちに目を向けよう。これらの善良な人々は、人生の時を不本意ながら耐え忍び、それを必要な隷属とみなし、魂を肉体から解放することを急ぐ。そしてだれもかれらを妨げず、だれもがかれらを幸せな人だと思い、親しい友人たち(死んだ人たち)に運ぶように手紙を渡す。かれらは、魂が(あの世で)互いに会話することを、堅く確かに信じているのである。
かれら(ユダヤ人たち)はそのような命令を聞き終えると、自分の肉体を火に捧げた。そして魂を肉体から最も純粋に分離させるために、讃美歌の中で死ぬのである。……われわれはインド人よりも低い観念を持つことを恥ずかしく思わないのだろうか?
すでにお気づきかもしれませんが、なぜかヨセフスはエルアザルの演説の内容まで知っています。マサダでは全員が死んだはずなのにです。
ヨセフスの記述が正しいとすれば、少なくともユダヤ人指導者は、マサダ包囲前にインド人の哲学を知っていたということになります。
そしてマサダのユダヤ人たちは、仏教的、グノーシス的な「実践」を行いました。
マラバルの海岸、古代の交易の中心地クランガノールには、ユダヤ人コミュニティーがありました。ユダヤ人のラバンという指導者がヒンドゥーの王から与えられたとのことです。
キリスト教時代の紀元後一世紀、クランガノールにユダヤ人が定住していた証拠はいくつかあります。
マラバルの古代キリスト教徒の結婚式の歌では、ユダヤ人商人ハバンのことが歌われています。
ハバンは聖トマスと連れ立ち、紀元後五五年にクランガノールに到着しました。そこで聖トマスはユダヤ人の少女に歓迎されたとのことです。
聖トマスは町のユダヤ人地区に滞在し、何人かのユダヤ人はクランガノールで聖トマスから洗礼を受けたといわれています。
十二世紀には、多くのユダヤ人旅行者がインドを訪れ、ユダヤ人の生活についての著作を残しています。
最も影響力があったのは、トゥデラのベンヤミンです。この人はラビで、インド南西部のユダヤ人について広範な記述を残しています。
そして、(マラバルの海岸の)島全体(すべての町を含む)に数千人のイスラエル人が住んでいる。住民はみな黒人で、ユダヤ人もまた黒人である。後者は善良で慈悲深い。かれらはモーセの律法と預言者たち、そしてタルムードとハラハを少しは知っている。
スペインのラビで新プラトン主義者のマイモニデス(一一三五年~)は、『ミシュネ・トーラー』はインドで研究された、と著書に記しています。
また、十四世紀のスペインのラビ、ニッシムの詩には、クランガノールでユダヤ人の王を見つけた喜びが表現されています。
古代の香辛料貿易では、中東と南インドが陸路と海路で結ばれていました。
有名なシルクロードは、紀元後二世紀には中国を通っていました。
これらの貿易においては、やはりユダヤ人が重要な役割を果たしていました。紀元後九世紀と十世紀のイスラム教徒の旅行者が、日記などで証言しています。
バグダッドのカリフの高官イブン・フルダーズベ(八二〇年~)は、『諸道と諸国の書』で、ラダニテ(ユダヤ人巡回商人)の商業活動について記しています。
これらの商人たちはアラビア語、ペルシャ語、ローマ語、フランク語、スペイン語、スラヴ語を話す。かれらは西から東へ、東から西へ、一部は陸路で、一部は海路で旅をする。
かれらは西から宦官、女奴隷、少年、錦織、ヒマシ、テンなどの毛皮、剣を運ぶ。かれらは西海(地中海)のフランスから船に乗り、ファラマ(エジプトのペルシウム)に向かう。そこでラクダの背に荷物を積み、陸路でアル・コルズム(スエズ)まで二五ファルサクの距離を行く。かれらは東海(紅海)で乗船し、アル・コルズムからアル・ジャール、アル・ジェッダ(すべてサウジアラビア)へと航海し、シンド(パキスタン)、インド、中国へと向かう。
中国から戻ると、麝香、アロエ、樟脳、桂皮、その他東方諸国の産物をアル・コルズムに持ち帰り、ファラマに持ち帰り、そこで再び西海に乗り出す。ある者はコンスタンティノープルへ航海し、ローマ人に商品を売り、またある者はフランク王の宮殿へ行き、商品を届ける。時には、これらのユダヤ人商人たちは、フランク人の国から西海に乗り出し、アンティオキア(オロンテス川の源流)に向かい、そこから陸路でアル・ジャビア(ユーフラテス河畔のアル・ハナヤ)に向かい、三日間の旅程ののち、そこに到着する。そこでユーフラテス川に乗り、バグダッドに到着し、そこからチグリス川を下り、アル・オボラ(イラン)まで航海する。アル・オボラからオマーン、シンド、ヒンド(インド)、中国へと航海する。
こうしたさまざまな旅は陸路でも可能だ。スペインやフランスから出発した商人たちは、スース・アル・アクサに行き、それからタンジェ(すべてモロッコ)に行き、そこからケルアン(チュニジア)やエジプトの首都まで歩く。その後、アル・ラムラ(イスラエル)に行き、ダマスカス(シリア)、アル・クーファ(メソポタミア)、バグダッド、アル・バスラ(イラク)を訪れ、アフヴァーズ、ファールス、ケルマン(すべてイラン)、シンド、ヒンドを横断して中国に到着する。
また、ローマの裏を通り、スラブ人の国を通過してハザール人の首都カムリジ(イティル)に到着することもある。かれらはカスピ海を行き、バルフ(アフガニスタン)に到着し、そこからオクサス川(アムダリヤ川)を渡り、ユルト(モンゴルの家屋)、トフズオグズ(中央アジアの北部のテュルク系遊牧民族)、そしてそこから中国へと旅をつづける。

とにかくユダヤ人はどこでにも行きます。そしてその土地に影響を与え、また影響を受けて戻ってきます。
このNoteでも、「ユダヤ人」の動向をしつこく追いかけています。ある意味では歴史の中心であり、またオカルトのルーツを探ることにつながるからです。
多くの人間がインドにまで旅行をしたのは、それだけ興味深い「ユダヤ人の歴史」「ユダヤ人の著作」が記されてきたからです。
その「歴史」は、ヨセフスの著書にも見られるように、半ば伝説だったりします。なので真実を確かめるためには現地に行くしかありません。
そして実際にユダヤ人がいたりすると、狂喜乱舞し、伝説的な歴史に真実味が加えられます。
「ユダヤ人」探求の根源的な原動力は、やはり終末論です。探求の結果加えられていくさまざまな真実味は、すべて終末論の強化につながっていきます。
この「歴史」の流れはだれにも止められません。
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