見出し画像

28歳、あの時私は、結婚がしたくてたまらなくて、でも、できなかった。


28歳になったとき。

私は、
フリーランスになる
きっかけをくれた彼と、別れた。

新宿駅南口でナンパされて、
半ば勢いで付き合いはじめた人。

代々木のワンルームでの同棲から、
武蔵小金井の1DKへ。
ブランドが乗り始めていた、あの時期。

今だから言える。
私は、彼ととても結婚したかった。

何度も何度も、「結婚したい」と口にした。
そのたびに返ってくるのは、
少し困ったような、でも優しい声だった。

──「子どもが欲しいわけじゃ
ないんだよね、ひとみも。
じゃあ、今のままで良くない?
このままで幸せなんだし」

言われてみれば、そうなのだ。
結婚したとしても、
生活はきっと大きくは変わらない。

すでに一緒に住んでいるし、
家事も分担しているし、
互いに自分の事業をやり、
互いに好きな時に休めて、
海外旅行にもいくらでも行けて。
仕事のペースも噛み合っている。

理屈ではわかる。
でも、心はぜんぜん納得していなかった。

──

一度丸ごと私の人生を振り返って、一つの物語に再構築してみよう、という試みの第15弾です

▼前回の記事はこちら

▼物語の最初の記事はこちら



──

今思えば、わたしが欲しかったのは
「結婚そのもの」ではなく、
結婚の先にある(と信じていた)
 絶対的な安心 だったのだと思う。

「結婚したら、
もう絶対に何があっても一緒にいられる」
そう思い込みたかったのだと思う。

当時のわたしは、まだぐらぐらで、自分軸なんてどこにもなかった。自分で自分を信頼できていないとき、人は誰かとの「契約」や「形」に安心を求めたくなる。籍さえ入れてしまえば、相手はもう簡単にはいなくならない。

そう信じたかった。

でも彼は、結婚に関しては「しない」と、心のどこかで決めているみたいに、動かなかった。はっきりとは言わない。だけど決して「する」とも言わない。

──「結婚しても、今と変わらないよ。今のままでいいじゃん」

そう言われると、言い返せなかった。彼の言っていることは、論理的には正しい。子どもを望んでいないなら、今のままでもいいじゃないか。
何も困っていないじゃないか。

でも、心のどこかでずっとくすぶる。
「わたしは、なぜこんなに不安なんだろう」と。

──

彼との生活は、表面的にはとても穏やかだった。

朝昼兼用のご飯は、それぞれ勝手に好きなものを用意する。夜ご飯だけ、タイミングを合わせて、忙しくない方がつくる。

レパートリーはほぼ同じで、
生姜焼き、トンテキ、鍋、パスタ、野菜炒め。
作っていないほうが食器を洗う。
掃除と洗濯は、ほぼ自動。

念願だった猫ちゃんも武蔵小金井に引っ越すタイミングで、ブリーダーさんからお迎えし、もはや子供のようだった。

──

喧嘩もない、というか、相手が怒ることが皆無。私が一方的にぎゃあぎゃあいうのみ。彼は優しくて、器が大きくて、わたしの仕事も応援してくれていた。

ブランドは絶好調で、フリーランスとしての売上もどんどん伸びていった。彼自身のビジネスも、法人を2社運営するほど、桁違いのスケールで成長していた。

外から見れば、「順風満帆なカップル」だったかもしれない。

でも、問題はいつも、私の内側にあった。

私の仕事が多忙を極めはじめた頃から、わたしはうまくメンタルがコントロールできないもどかしさと、強烈なスケジュールへのストレスと、うまく消化できない感情が、全部、彼への八つ当たりとなって噴き出し爆発した。

イライラして、きつい言葉をぶつけて、泣きわめいて。今思うと、あの状況でも根気強く向き合ってくれていた彼は、いったい人生何周目なんだろう、と思う。ほんとうに仏のようだった。

2年付き合って、「別れよう」というフレーズを、彼のほうから言われたことは一度もなかった。たったの一度も。わたしがどんなにひどい態度を取っても、感情的になっても、黙って受け止めてくれた。

それでも、ただひとつ、埋められない溝があった。
結婚の話になると、いつも同じところをぐるぐる回るだけで、前に進まない。

「結婚できない人と、一緒にいる未来」を想像してみたとき、ふと、心の奥底から怖さが立ち上がってきた。

この変わり映えのしない生活が、
昨日のコピーのような今日が、
このまま一生続いてしまうのかもしれない──。

その想像に、私はぞっとしてしまったのだ。

──

その怖さがきっかけだったのか、そうではなかったのか。はっきりとした理由は、いまだによくわからない。

ただ確かなのは、
彼への愛情を保つことが、だんだんと難しくなっていった
という感覚だけだ。

彼は最後まで、私と一緒にいる選択をとり続けてくれた。私の心が戻るように、あの手この手で試みてくれた。

なんでもない日にお花を買ってきてくれたり、一緒にドラマを見ようと誘ってくれたり、私の話を根気強く聞いて向き合ってくれたり。

でも、自分でもわかってしまったのだ。「あぁもう、わたしはこの人を前のように好きではいられないんだ」と。

そして、私は最低なことに、
大阪に、好きな人ができてしまった。

ここが、美談にはならないところだ。
フリーランスになって独り立ちするまで支えてくれた彼を、どんなひどい態度にも耐えてくれた彼を、私は自分からさよならをした。

「結婚してくれない人」と、
「自分をちゃんと好きになってくれるかもしれない人」。

当時の私は、すごく安直な天秤で、その二人を比べてしまったのだと思う。
そして、東京を去ることにした。

彼の好意を。優しさを。器を。
わたしは台無しにした。

最低だ。

彼と住んだ武蔵小金井のマンション。


猫ちゃんの親権は彼にわたった。「ひとみもいなくなって、猫もいなくなったら、正直どう生きていいか、」はじめて見せる弱気な彼の姿に、私はこれ以上無茶を言えなかった。さらに、海外に頻繁に行ったり毎月POPUPで全国へ飛び回る私の仕事スタイルでは、猫ちゃんと一緒にいても、不在時間の方が長く可哀想すぎる。


お別れが悲しすぎて、猫ちゃんと離れて以降、猫を飼いたい、という気持ちが出ても決断まで至らない。あの辛さをもう一度経験しないといけないなんて。野良猫とたわむれることで、自分の気持ちを紛らわせている。

人生の中に、猫ちゃんと暮らす1年半があって、本当によかった。あらためて、一緒に過ごしてくれて本当にありがとう。

──

2年一緒に住んだ彼と別れ、
「東京にいる理由って、もうないか」と思った。

大阪に好きな人がいる。
POP UPが中心の働き方なら、拠点はどこでもいい。

「もう、どこでもいいや」

そう思いながら、半ば自暴自棄で、大阪に引っ越すことに決めた。

実家に戻る選択肢はそもそもない。

初めての、フリーランスとしての一人暮らし。

大阪・堀江のタワーマンション。
賃貸サイトで見つけたその物件は、東京と比べ物にならないくらい、家賃が異様に安かった。不審に思って理由を聞くと、「数年前に飛び降りがあった事故物件」とのこと。

だから全室、大幅な値下げされていた。

軽く交渉してみると、家賃はなんと 8万5千円まで下がった。武蔵小金井で彼と一緒に住んでいた部屋が9万4千円。霊感が全くないわたしからすると、全くもって気にならない。

8万円台。ちょっと高いけれど、これなら、私一人でも払えるかもしれない。そう思って、契約した。個人事業主の確定申告書類を出して、審査もあっさり通った。

無駄遣いするのが怖くて全部IKEAで揃えた

POP UPさえこなせば、生活は成り立つ。
東京にいる理由も、もうない。

そうしてわたしは、
人生で2回目の「一人暮らし」をはじめた。

──

引っ越しは、あっけないくらいすぐに終わった。

バタバタと荷物を搬入し、足りない家具をほぼゼロから買い揃えて、ようやくひと息ついた夜。

急に、胸の奥に冷たい穴が空いたみたいな感覚が押し寄せてきた。

……あ、わたし、
ひとりなんだ──。

自分から別れを告げたくせに、しばらくはホームシックのような状態が続いて自分で自分がいやになる。東京が恋しいなんていう感情はない。きっと、彼との生活の「気配」が、恋しかったのだと思う。

誰かの生活音のない夜は、とても静かだ。
冷蔵庫のブーンという音と、時折遠くの方で聞こえる工事の音だけが、部屋に響く。

一人暮らしって、こんなに静かなんだ。
一人暮らしって、こんなにさびしいんだ。

一人暮らしって、こんなにもひとり、なんだ。

いてもたってもいられなくなって、数少ない友人のひとりに電話をかけた。

「なあ、あかん。むっちゃ寂しい」

正直にそうこぼすと、広島出身の彼女は、何年経っても抜けないいつものイントネーションで笑った。

「まるちゃん、なにいっとるん!一人暮らし最高よ!節約ばっかりせんと、自分のためにお金使ってみたら?可愛いティーポットとマグカップ買って、紅茶いれてみ。それだけで気分落ち着くけん」

大学時代からのその親友は、私にとってお姉ちゃんのような存在だ。東京に出てきて何年も経つのに、いまだに抜けない広島弁。

「まるが選んだんじゃろ。自分が選んだことは、後悔せんから大丈夫よ」

厳しいことをいうとき、彼女は「まる」と呼ぶ。
その一言が、胸にストンと落ちた。

あぁ、そうだ。
これは、私が選んだのだ。
誰かに強制された人生ではない。
自分の足で決めて、自分の足でここに来たのだ。

そう思ったら、背筋が伸び、涙がひいた。
なつみ、ありがとう。

友達って、偉大だ。

──


親友のアドバイスに従って、翌日、近所のスーパーに行った。新町のマックスバリューの食器コーナーで、透明のティーポットと、透明のティーカップセットを見つける。安かったけれど、光が当たるときれいに反射するガラスだった。

紅茶はいつもなら、一番安い100パック入りの、どこのブランドかわからないアールグレイを買うところだけれど、その日は、ちょっと背伸びをした。棚の上の方に少しだけ陳列されていたフォションのアップルティー。かしゃかしゃと意味もなく振って、缶をカゴに入れる。

そういえば、小学生の頃、ここのアップルティーを毎朝、母が淹れてくれていたな。こんな高いの飲んでたんだ。景気いいな。ぼんやりと、そんなことを思い出す。中学に入る頃には、とてつもなく貧乏になったから、そんなことすっかり忘れていた。

スプーンで茶葉をすくい、ポットの茶漉しに入れる。沸騰したお湯をポットにコポコポと注ぐ。

湯気で、顔が少し湿る。
りんごの甘い香りが、まだ家具の少ない白い部屋にふわっと広がる。

その香りが、胸の奥をすこしだけ、ほぐしてくれた。

ひとりきりの部屋で、
透明なカップをそっと両手で包み込む。
一人だけれど音を立てないように、そっと黄金色の液体を流し込む。

不思議と、さっきまでの「世界にひとり取り残されたような感覚」が、すこしだけ薄まっていく。

──

そんなタイミングで、友人から一冊の本を勧められた。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。

そのタイトルを見た瞬間、胸がぎゅっと掴まれた。

……わたしの、ずっとやりたかったことって、なんだろう。

本を読み進めるうちに、「モーニングページ」という言葉が出てくる。毎朝ノートに、思考をそのまま垂れ流すように書く、というものだ。要は、脳の排水。

それを読んで、ふと、ある記憶がよみがえった。

──

小学校1年生のとき、はじめて日記帳を手にした日のこと。

母に買ってもらったばかりの、小さな日記帳。
嬉しくて嬉しくて、その日のうちに、習いたてのひらがなをびっしりと埋めた。学校であったこと、友達のこと、好きになったあの子のこと。うまく説明できない「もやもや」のこと。話すよりも書くほうが、うまく自分を表現できる気がして、夢中で書いた。

「自分の感情が、消えてなくならずにここに残る」
そのことが、ただただ嬉しかった。

けれど、その喜びはたった一日で終わる。

翌日。
学校から帰ると、母は、わたしの日記帳を手に持ち、私の目の前で私の日記を音読をはじめた。

「これはどういう意味なの?」
「この子って誰のこと?」

問い詰められても、うまく説明できない。
話せないから、書いたのに──

恥ずかしくて、悔しくて、ショックで、わたしはただ、泣くことしかできなかった。涙が止められなかった。止めようとしても無理だった。今でも鮮明に覚えている。見られたことがいやだったのか。それもある。でも、「もう書けない」、という事実が、たまらなく悲しかった。

もちろん、母の側の意図も、今ならわかる。
あまり学校のことを話さない娘との会話のきっかけにしたかったのかもしれないし、心配してくれていたのかもしれない。

でも当時の小1のわたしには、「誰にも見られないからこそ書けた世界」が侵入された、という事実だけが残った。

その出来事を境に、
私は日記を書けなくなった。

──

本当は、ずっと、すごく書きたかった。
でも「また読まれたらどうしよう」と思うと、手が止まってしまう。

その後、ネットを使い出すようになり、私は小学生の頃からHPを自分で作り、ブログを書き始めた。中学、高校、大学と、その時その時にハマった場所で、とにかくネットに文章を書き続けた。そして、今はここで。

でも、20年近く、物理的な「書くこと」からは遠ざかっていた。

──

大阪のマンションで、ノスタルジーを含んだりんごの香りの紅茶をすすりながら、その記憶が鮮明によみがえったとき、心の中で、かすかな反抗心が芽生えた。

──もう一回、書いてみたい。

誰にも見られない、安心安全なこの場所で。
今度こそ、わたしの内側を好きなだけ書き散らかせるノートを、作りたい。

そう思って、心斎橋に向かい、モレスキンのノートと、ジェットストリームの4色ボールペンを買った。

──

最初の一行を書き出したら、あとはもう、ダムが決壊したみたいに言葉が溢れた。

わたし、こんなにいろんなこと考えてたんだ──

ペンが止まらない。
彼と別れたことの本音も、仕事の不安も、ブランドのことも、将来のことも。ひとつずつ言葉にしていくたびに、ぐちゃぐちゃだった頭の中が少しずつ整っていく感覚があった。びっくりした。こんなに考えてるの、って。

28歳。

私は「書くこと」を、20年ぶりに取り戻した。

──

書きはじめてみて気づいたのは、わたしにとって「書くこと」は、単なる趣味ではなく、思考を整理し、戦略を組み立てるためのツール だということだった。

なんとなく頭でモヤモヤ考えていたことが、文章に落としてみると、意外なほどシンプルな構造をしている。

「なぜわたしは、結婚にこだわっていたのか」
「なぜ、東京から離れたくなったのか」
「ブランドは今、どこに向かっているのか」

それを徹底的に言葉を当てはめていくうちに、

どんなお客様に届けたいのか
どんな世界観をブランドとして描きたいのか
そのために、今やるべきこと/やめるべきこと

が、少しずつ明確になっていった。

そこから私は、ビジネス書や自己啓発本、マーケティングの本をむさぼるように読みはじめる。勉強会やセミナーにも積極的に足を運んだ。

そして、そこで得た知識を、一度「書くこと」で自分の言葉にしてから、ブランドに投入する、というサイクルを回しはじめた。

学び、
書き、
戦略に落とし、
試し、
結果を踏まえ、また書く。

この循環が、とにかくおもしろかった。そして、実際に売上や反響という形で結果が出てくることが、何よりもワクワクした。

大阪での一人暮らしの部屋から、小さなノートのページから、静かに、でも確実に、ブランドは成長を続けていた。

孤独を埋めるように仕事に没頭し、数字が積み上がっていくにつれ、私の心にはある「勘違い」が芽生え始めていた。

私はすごいのかもしれない──

そして私は、ある一冊の本に出会う。この本に書かれていた「ファンとの共創」という言葉。私は浅はかにも、その言葉をそのまま実行に移そうとした。 それが、ブランド始まって以来の最大の炎上と、私を再起不能にさせる出来事の引き金になるとも知らずに。

<つづく>

──

執筆後記

28歳の私は、「結婚」と「書くこと」という、一見まったく別のものを、同時に追いかけていたのだと思います。

当時はとにかく、「絶対的な安心」が欲しかった。

それを、わたしは「結婚」という形に投影していました。あの人と結婚さえできれば未来が保証される気がしたし、この不安定なフリーランス人生も、どこかで守られるような気がした。

でも、それは今思えば、自分の足で立つことへの怖さからくる依存でもあったのだと思います。というか、そうだった。

一方で、「書くこと」を取り戻したことは、わたしにとって 自分軸を取り戻すための、小さな革命 でした。

誰かとの契約や、肩書きや、外側のラベルではなく、
自分の心の中を、丁寧に言語化していくこと。

そのプロセスを通じて、
「本当は何を望んでいたのか」
「なぜそんなに不安だったのか」
少しずつ、自分で自分を理解できるようになっていったのだと、今ならわかります。

ブランド運営においても、
「書くこと」は最強の武器になりました。

すべての起点が、「書くこと」だったと言っても過言ではありません。

あのとき、大阪のマンションの一室で、
ガラスのティーポットとモレスキンを前に座っていた28歳の自分に、
今のわたしは、心からありがとうと言いたい。

一人でいることを怖がりながらも、
それでも自分の選んだ道を信じて、
ペンを取ってくれてありがとう。




続きはこちら


▼今日の記事に出てきた彼との出会いの物語はこちら

▼この連載はこちら

この連載の人気回はこちら


今日の文章が「よかった」とか「次も読みたい」、と思っていただけたら「スキ」を押していただけますと、執筆の励みになります。いつもありがとうございます。




▼記事を書いた人について興味を持ってくださった方へ、自己紹介はこちら


▼Instagramは毎日更新中



一番私の思考の深いところをお話ししているのがstand.fmのメンバーシップ配信。120名近い方にご参加いただいています。もしご興味あれば。

Threadsは毎日更新中


いいなと思ったら応援しよう!