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大変だった過去の経験はあなたへの大切な贈り物

一度丸ごと私の人生を振り返って、一つの物語に再構築してみよう、という試みの第一弾です。今日の記事は、わたしが独立直前まで勤めていた、2社目のこと。会社員は大学卒業後から全部で丸3年経験して、2年間、卸売商社でバイヤー、その後1年縫製アトリエにて縫製士をしました。これは、2社目の縫製士時代、社会人3年目の24〜25歳の時期の記録です。人生の中でもトップクラスの暗黒期ですが、この1年がなかったら、私は起業ができなかったし、そしてその後10年もブランドを継続させることなんてできなかった。そのくらい、私の人生において、大事な、欠かすことのできない1年の記録です。

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「約1年間、本当にお世話になりました。本当にたくさんのことを学ばせていただいた1年でした。感謝しています。みなさん、本当にありがとうございました!」

この空間で、この1年で一番大きい声で叫んだ。文字通り、叫び、と言えるくらい声を張り上げた。でも私の発言に返事をする人はいない。聞いているのか聞いていないのか、むしろ私は声を発してなかったのか。ミシンの音だけがけたたましく鳴り響き、私はこの空間にいないのかもしれない、という錯覚すら覚える。

気を抜けば崩れ落ちそうになる足元にぐっと力を入れて、最後の力を振り絞ってその返答のない空間にお辞儀をし、くるりと出口に向き直った。もう、涙がすぐそこまで込み上げてきていた。喉が苦しい。速く外に出ないと、涙が溢れてしまいそうだ。急いで外にでよう。でなきゃ。震える手で扉を開けようとしたら、今日まで一緒に働いていた後輩が走ってきて「あの、ひとみさん」と呼び止めた。

「これ、作ったんです。よかったら。ひとみさんと出会えてよかったです。本当に、いろいろありがとうございました。応援しています」

そういって、彼女は手作りのイヤホンジャックをくれた。不意打ちの出来事に面食らう。たった1ヶ月ほどしか一緒に過ごしていない後輩。彼女の優しさが苦しかった。彼女も私と同じ、転職組だった。後輩にも同期にも、誰に対してもずっと敬語を使っていた私は「ありがとうございます」と絞り出すように声を出し、よろよろと外に出た。声は震えていた。


会社のドアを締めた瞬間、膝から崩れ落ちて号泣した。

止めようと思っても、涙は次から次へと溢れて止まらなかった。


この地獄から、やっと、解放される。

やっと、自由だ──


──



私は1年1ヶ月働いた縫製の会社を、半ば逃げるようにして辞めた。「オーストラリアに留学することにしました」という意味不明な理由をでっちあげて。26歳になったばかりの、5月のこと。不思議な会社だった。今はもうその会社はなくなっているらしい。

私はここにいた1年とちょっとの間に、完全に精神をやってしまった。完全なる鬱だったと思う。目の前で悪口を言われながら働いたのは初めての経験だった。陰で言うものが悪口だと思っていた。

前の会社でも入社直後に微妙に先輩に嫌われかけて、それを察知して「私の気に入らないところがあれば直接言ってください。直しますから」と直接言いにいったらすぐにおさまった。学生時代のバイトでも、先輩に目をつけられ、悪口を言われ始めていると知った時に「私何しちゃいました?直接言ってください」と言いにいって、「別になんもないよ」と言われおさまった。

なのに、この会社ではそれができなかった。

なぜか。理由は単純だ。私はその会社でとてつもなく無能だったからだ。自分が自分に自信があるときには、面と向かって立ち向かえる。でも、自信がない時には、それが途方もなく難しいことになる。

単純作業の繰り返しで、速さと正確さが求められる職場。そして絶対に話してはいけない、という異常なまでの私語禁止空間。さらに、作業の中に、自分の思考を入れたり、工夫を入れることはNG。"正しいやり方"が全て決まっていて、それ以外は全部アウト。とにかく全てに気が滅入っていた。私はとんでもなくポンコツだった。だから言われている悪口が、悪口というより、もはや正論で、何も言い返せなかった。

そして、不思議な感覚に陥った。目の前で言われている悪口を、絶対に私のことなのに、「私のことじゃない。私のことじゃない」と言い聞かせ、聞こえないふりをする。きっと、そうすることで私は私の心をなんとか守ろうとしていたんだろう。あの感覚は独特だ。しかしその守備も虚しく、私は次第に心折れていった。


終電を逃しても帰れるように、と、会社から指定された徒歩3分の社宅に住み、正社員にも関わらず社宅代3万5000円を抜いた手取りは9万円。休日は週に1回、日曜日のみ。定時が朝8時から21時。パリコレ前はもっと遅くなることもある。毎日13時間労働、土曜日だけは18時に退社できて、それが一週間の唯一の楽しみだった。日曜日は休日だったが、21時までには家に帰らないと、翌日からの激務に体力が持たないので迂闊に遊びにも出られない。それでも私はその1年、1日も休まなかった。遅刻もしなかった。ただ、ゆっくりと心が死んでいった。


──



服を作る仕事をするのは、学生時代からの夢だった。

いや、正しくは「できそうなもの」に修正された夢だった。本当は自分でブランドがやってみたかったし、デザイナーになりたかった。学生時代はそう言っていた。でも普通の四年制大学を出て、服飾の専門を出ているわけでもないわたしは、そんなコネもお金も技術も知識もなかった。

24歳、まだ1社目の会社に勤めていたころ。

当時付き合っていた彼が、装苑賞で賞を取るくらいの実力のあるデザイナーで、私が"本当の夢"を諦めるきっかけになった。私もデザイナーになりたい、と何気なくつぶやいたとき、彼は「ひとちゃんには無理だよ」と笑いながらいった。笑顔でまっすぐに夢を否定されたのはきっとあれが人生で初めてだったと思う。残酷。鮮明に覚えている。え、と時間が止まる様な感覚があった。でも、何も言い返せなかった。少し遅れて、「そうだよね」と笑うしかなかった。今思えば、彼に悪気はなく、それが彼に見えていた現実だったのかもしれない。それに異議はない。なぜなら私に、突出したデザインセンスは、今も昔もないからだ。だから彼は正しい。わかる。

でも、彼の作った服が装苑に1ページ丸々載った時、私は強烈な敗北を感じた。彼に言われた「ひとちゃんには無理だよ」の裏側にある彼の感覚は、世間の判断と感覚に重なるんだ、と痛烈に感じたからだった。私にはデザインの才能がない。確かにそうだ。彼みたいにしっかりした賞もとったことはないし、雑誌に掲載されたこともない。服飾の専門学校も出ていない。わかっていた。でも、ショックだった。


言葉は時に、暴力よりも、痛い。

本当はブランドをやりたかったし、デザイナーになりたかった。でも、世が認めるとてつもない才能がある人に「無理だ」と言われた私は、その夢を言えなくなった。でも、どうしてもファッションの世界で生きることは諦められなかった。なぜなら、ファッションの世界が、初めて自分の存在を認めてくれた場所だったから。

それで捻り出したわたしのせめてもの夢が、「服を"作る側"になること」だった。服を届ける側の人、じゃなくて、作る側になること。これくらいなら、私にだって語っていいはず。パタンナーも、デザイナーも、スタイリストも無理。でも、「縫う人になりたい」それくらいなら言ってもいいんじゃないか。彼は「いいね」と応援してくれた。そして私はそれを夢として語り始めた。つまり、縫製士。

今振り返ると、人は周りにいる人で作られる、ということをとてつもなく感じ、心底恐ろしくなる。


当時の私には、"自分"というものが全くなかった。特に10代20代、異常な恋愛体質だった私は、その時に付き合っている人の言葉と意見が「絶対正義」だった。それに従順になることが彼から大切にされることと同義、だと捉えていたからだ。

今とは全く違う、超他人軸な生き方。でも当時の私には、自分の本当の願いなんて、言ったところで叶わないし、それを言って好きな人から嫌われるくらいなら、自分の夢を押し殺す方が合理的だった。嫌われたくなかった。

きっとそれが、その時の私の生存戦略だったんだろうと思う。家族の中に居場所がなく、友人にも全てを曝け出すことができなかった私は、恋愛の中に居場所を求めていた。とても、切実に。
でも、その生き方は、どんどん、ゆっくりと、でも確実に"本当の自分"を殺す生き方だった。


──


「服を作る側になる」という修正された夢を掲げた、24歳のころ。わたしはまだ、大阪に住んでいて、卸売商社でアパレルのバイヤーをしていた。かなりホワイトな会社だったし、給与も十分にあり、しかも定時の17時ぴったりに帰れる。バイヤーの仕事は面白く、向いていたのかもしれない。結果も面白いくらいに出た。

本町にあった会社から、難波の自宅までドアドアで15分。17時00分ぴったりに「お疲れ様でしたー!」と席を立ち、家に帰っても17時半前。もちろん週休2日で土日休み。

たっぷり時間があったので、平日帰宅後と土日のほぼ全てを使って、私は独学で服作りをし、作った服のポートフォリオを作り始めた。同時に、縫製のアトリエや工場へ転職活動として、募集要項を調べ始めた。しかし、どこも必須条件に「服飾学校卒業生」とある。当たり前といえば当たり前だが、ただ、その辺の服飾学生より作れている謎の自信があったし、学生時代から服は好きで作り続けていたので作品数も溜まっていた。絶対にいける、という確信めいたものがあった。今思うと恥ずかしい完成度だけれど。


この時期あたりに作った衣装


vivienne みたいなドレスが好きでよく作っていた


友人に作った襟のパターンをちょっと変形にしたメンズシャツのトワル(試作)


それで、まずは1社、試しにメールを送ってみた。私の大好きな、世界的にも有名な日本のブランドのパリコレクションサンプルを作っている会社だった。すぐに返信があった。それが、まさに転職先となる会社だ。東京の会社だった。「面接に来て欲しい」と言われ、私は新幹線に乗って、手作りのポートフォリオを持って向かった。自分で作った服を着て。

その時に言われたことを覚えている。「まず、私たちは過去何十年の歴史がある会社だけど、その間、服飾学校卒業生以外を採用したことがない。あなたを採用するのはわたしたちにとっても賭けです。でも、作ることが好きなことが伝わってきて、本気であれば一緒に働いてみたいと思っています。ただ、今すごくしっかりした会社で働いているみたいだけど、給料は相当低くなることになると思う。それは大丈夫?」私は間髪入れずに「大丈夫です」と言った。

結果、大丈夫じゃなかったんだけれど。私は採用された。あっさりと。


──


あっという間に転職が決まり、1社目のクリーンな会社を退社して、上京を決めた。元の会社ではちょうど人事異動の時期で、「まるちゃん、来期もヤングレディースバイヤー、よろしくね」と部長から背中を推されていたのに、私が「すみません」と言いながら退職届を出したので、社内はパニックに陥った。

でも、社内の別部門のバイヤーの先輩から「そらそーやんな。まるちゃん、明らかにこの会社で浮いてたもんな。もっとビッグになる人やでまるちゃんは!有名になってな!新聞載ってな!」と言っていただいたのが今でも心に残っているし、すごく嬉しかった。全然有名になれてないし、ビッグにもなれてないけど、すごく前を向けた。ソワさん。ありがとうございます。


──




東京に住むのは夢の一つだった。初めての東京一人暮らし。

facebookにうやうやしく「ご報告」というタイトルで「服作りをする、という夢がかないます!」みたいなことを書いた。今も昔もSNSで発信するのが大好きなのは変わらない部分だな、と思う。

ただ、当時書いていた心境を覚えている。これを夢って言って、夢が叶った、っていうの、どうなの、って。"本当の夢"じゃないくせに、って。50件以上コメントがきて、200いいね。複雑だった。2014年。12年前。

メイクはまだ濃いし、尖りが残っている。着ている服は自分で作ったもの。


24歳。学生時代の友人からのイメージはこの怖い感じの私の方がリアルだと思う・・



そして、上京。

夢だった場所での仕事は。

苦行そのものだった。

でも、こんなふうにfacebookで大々的に「夢叶いました!」と言ってしまっている手前、苦しい、しんどい、なんて口が避けても言えない。みんなからは「そんな場所で仕事できて、夢が叶ってすごいね」と言われる。「かっこいい」って言われているそのイメージを、私だって貫きたい。そんなもの、虚構なのに。リアルは、実状は、悲惨だった。かっこよさなんて1mmもなかった。そんな、周りからのイメージとリアルとの狭間で爆発してしまいそうだった。


そして、この時期が人生で一番、ブランド物で全身を固めていた。自分の自信のなさをがっちりとガードするように。人生で一番、お金がなかった時期に一番ブランド物で固めていたなんて、皮肉だな、と思う。私はなんとか、自分の自信のなさと、この悲惨な現実を隠したい一心で、ブランド物を必死になって身に纏った。私は何も問題ないですよ、と誇示するかのように。めちゃくちゃダサい。

コム・デ・ギャルソン、シャネル、ディオール、イッセイ・ミヤケ、ヴィヴィアン・ウエストウッド、メゾン・マルタン・マルジェラ。トップメゾンの力を借りて。




1000円超える外食が、痛過ぎたこの時期。



時を経て、それは何年もかかったけれど。自信が少しずつ取り戻せてゆくにつれ、わたしはブランド物への執着がなくなっていった。独立する時に、(リアルにお金がなくなったのでやむなく)ほとんど全てのものを売った。学生時代、ヴィヴィアンに心酔して、アクセサリーはヴィヴィアンしか纏ってなかった私だけれど、それも今は1つも持っていない。(この時は自分がアクセサリーブランドをやるなんて、1mmも思っていなかった。)

25歳の時に全部手放した、私のヴィヴィアンコレクション。


新しい会社に入り、半年が過ぎた時点で、いや。3ヶ月が過ぎた時点で。辞めたくてしょうがなかった。でも、身動きがとれなかった。
あまりにも安い手取り9万円という金額。奨学金を払い普通に生活していたら、9万円を超える月が出てくる。1社目の時に貯金していたお金を毎月食い潰していく生活だった。

引越ししようにも引越し資金がない。かといって貯金できる状態ではなく、むしろマイナスになっていく。生活的にも、そして精神的にも、無能な私は職場にいること自体も、苦痛でしかなかった。迷惑ばかりかけている自分が苦しかった。いい加減やばい、このままじゃ無理だ。すがる思いで、当時付き合っていたデザイナーの彼に「今の仕事、辞めたい」と伝えた。


すると、彼から衝撃の一言。


「逃げるの?」

努力して掴み取った夢でしょ、服飾の世界なんてどこも甘くないよ。ということだった。彼には彼の正義があったのだろう。今ならわかる。でも、いろいろと何か言っていたと思うけれど、もう聞こえなかった。

しんどいときに、死にそうな時に、逃げちゃだめなのか。もう無理だ。もう限界だよ。2年くらいだろうか。一緒になんとかやってきたけど、もうこの人とは一緒にいられない。もう、無理だ。彼のことはとても好きだったし、嫌われたくなかった。アパレルの世界で生きていきたいなら、彼のいうように逃げたらだめなんだと思う。でも、これ以上、私は自分の苦しさや限界を、無視できなかった。

私は彼とのお別れを決めた。真っ暗な部屋で、電話越しに、別れよう、と伝えた。涙も出ずに終わった。



そして、そのわずか2週間後。
私は運命を動かすような人と出逢った。
それがこの記事で書いたエピソードだ。

そして、私はこの新しい出会いのおかげで、会社を辞めることができた。


この2社目での経験と、その中で起こったことは、冷静に振り返ると、私がブランドをやる上での基盤をつくってくれる1年だった。


まず、私は自分の名前が表に出ない仕事はとても苦しいしやりがいが感じられない、と気付いたこと。
自分が考えた通りに実行できない、全てがルールで決められた環境では、本当に無能になるということ。
無能になると、どんどん自分の自信を失っていくこと。生きる希望を見失うこと。

いい面もあった。
そして、生産する上で、どうしたら早く仕上げられるか、単純作業を効率的に進める方法とノウハウを学べたこと。これがなかったら、私はブランド初期に、数百個を一人で毎月生産する、という異常な忙しさを乗り越えることはできなかったと思う。

そしてシンプルに、ここでの経験で長時間労働をする基礎体力がついたので、自営業として走り出した時に休日なしでフル回転で20代を駆け抜けられた。量をこなすことが質に転化するからこそ、これは本当に財産となった。



そして何より。誰かが悲しむものづくりはしない、と心に誓うことができたこと。

服を作る側になった経験があるからこそわかる。トップス500円、ワンピースが1000円。そんなで売られているのは、泣いている誰かがいるということ。10万円で売られているような服を縫っていた私がギリギリの、いやほぼアウトな生活をしていた。構造としてファッション業界の異質な部分に気づかざるをえなかった。知識としてではなく、体感としてその危うさを感じた。だから、自分がブランドをやる時には、正当な対価を支払う、と決めることができた。そのために、私自身に力をつけたい、と思った。「おかしい」ということを声を大にして言えて、私が作った、と声を大にして言える様になること。


人生には、本当にいろいろなことが起こる。でも、起きること全て、わたしのために、自分のベストのために起こっている、と捉えるだけで、見え方が変わってくる。

デザイナーになれないよ、と言われた彼をちょっと悪者に書いてしまったけれど、彼にももちろん感謝している。デザインとファッション業界の厳しさを教えてくれた。そして、あるいはこの言葉があったから、私は「作る側」に回る経験ができた。デザイナーできるよ、と背中を推されていたら、私は作る側に回る経験をせず、ファッション業界の中で私だって誰かを苦しめるブランドをもしかしたらしていたかもしれない。

今だって、全員を苦しめてないのかなんて、わからない。あくまで自己満だし、経営は永年勉強中。でも、できる限りのことを尽くしたい。誠実にありたい。そう学ばせていただいた1年だった。


教訓は、いくつもある。その一つは、あなたは、あなたの周りにいる人、特に、とても近い人で作られる、ということ。あなたが私ほど影響を受けやすいタイプでないにしろ、人は周りに一緒にいる人でつくられる。思考、行動まで似てくるというわれている。太っている友人がいると、自分も太る可能性がとても高くなる、という研究データまである。それくらい、思考は伝播し、行動も伝播する。


一緒にいる人があなたの人生を変えてしまうのだ。

自分を変えたいと思ったら、自分を変える努力をする前に、一緒にいる人を変えてみる。
すると、あなたもびっくりするような変化が、起こるかもしれない。




執筆後記

まずは1本目、書いてみました。正直、どうなんだろう、という気持ちです。
読み返すと、とても自己防衛的な文章で、わたしにだって非はたくさんあるのに悲劇のヒロイン感があって、読後感の後味が悪い。わたしの人間的未熟さとありありと表現する形になっていて、とても悔しい。でも、今現状、わたしはこう捉えてしまっていて、この言葉でしか現せず、もっと時間をかければいいものが書ける、なんて言い訳をしたがっていて。本当はもっとしっかり書き直したい。完成度100%で出したい。でも、時間内にできたものが、実力。締め切りが作品を作る。つべこべ言ったって、これが私の実力であり、まだまだ自己防衛的な部分があり、さらけ出せる部分が少ないんだと反省しています。

ひとまず、他の年代と、他の出来事も綴っていってみようと思います。その過程で少しずつ自己開示していけたら。これは、本当、私にとっても大きな挑戦なんだと改めて思わされます。自己開示って、めちゃくちゃ苦手なんです。弱さを見せることに対する拒否感がとても強い。それはきっと、なめられてはいけない、という私の強いブロックがある。これを緩やかに溶かしていきたい。そして、みなさんは気づいてないかもしれませんが、みなさんがこうして読んでくださること自体が、私にとっての癒しになっているんです。先週からきちんと書きはじめたnote、たくさんの方がみてくださり、いいねをくださり、フォローしてくださり、私がどれほど、救われているか。
お読みくださり、本当にありがとうございます。




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