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岡寺(龍蓋寺)|飛鳥に眠る「やくよけ」の原点──龍を封じた義淵僧正と日本最大の塑像・如意輪観音

@Ricoです。

奈良巡礼の旅、室生龍穴神社から室生寺を経て、今回はいよいよ飛鳥の地へ足を踏み入れます。
(ここまでの流れは以下を参照ください)

▪️室生龍穴神社シリーズ①
▪️室生龍穴神社シリーズ②
▪️室生寺シリーズ①
▪️室生寺シリーズ②

午前中に室生寺の灌頂堂で六臂の如意輪観音菩薩さまと向き合い、午後には岡寺で二臂の如意輪観音菩薩さまと対面する。
振り返れば、まさに「如意輪さまづくし」の一日でしたね。

今回の記事では、西国三十三所第七番札所・岡寺(龍蓋寺)の参拝を、創建の歴史から御本尊の仏教史的位置づけ、そして「日本三大仏」の意味まで、深く追っていこうと思います。

龍蓋寺の由来となった義淵僧正
龍を改心させる(龍蓋池付近)


1. 飛鳥の地を歩く──岡本寺と飛鳥宮跡を経て

岡寺へ向かうには、バスを乗り継いで飛鳥の集落を歩きます。

車窓から見える田園風景の中に、ふと目に留まったのが「雷(いかずち)」という交差点名。調べてみると、岡寺が位置する一帯は古くから「雷丘(いかずちのおか)」と呼ばれた場所であり、『日本書紀』にも雄略天皇の時代にこの丘で雷神が捕らえられたという説話が記されています。
飛鳥という土地が、いかに神話的な磁力を帯びた場所であるかを感じさせる地名です。

バスを降りて参道へ向かう途中、飛鳥寺を通り過ぎ、岡寺の参道へ到着します。

参道を進んでいき、気になって立ち寄ったのが岡本寺でした。

岡本寺は真言宗豊山派に属する祈願寺で、本尊は平安末期の木彫座像「如意輪観世音菩薩」。「子安観音」として安産・求子・良縁の御利益で知られています。
境内には「天智天皇 岡本宮 御遺跡」とあり、すぐ近くには飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)が広がっています。

飛鳥宮跡は、大化の改新(乙巳の変)の舞台となった場所であり、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇・斉明天皇の板蓋宮、天武・持統両天皇の飛鳥浄御原宮など、複数の宮が継続的に置かれていた日本古代政治の中枢です。

今回の奈良巡礼初日に参拝した談山神社が、中大兄皇子と中臣鎌足が大化の改新の密談を行った場所であったことを思い返すと、この飛鳥の地で再び歴史が繋がっていく。巡礼とは、こうした「点と点が結ばれる」体験の連続でもあるのです。

談山神社の記事は次回に!

さて、岡本宮から岡寺参道をさらに上っていくと、いよいよ目的地が見えてきます。

石柱に刻まれた「日本最初厄除観音」の文字。
ここが、龍の眠る寺・岡寺です。

2. 岡寺の御由緒──東光山 真珠院 龍蓋寺

岡寺は、奈良県高市郡明日香村岡にある真言宗豊山派の寺院です。

広く親しまれている「岡寺」という呼称は、「飛鳥の岡にある寺」という地名に由来するもので、正式な名称は以下の通りです。

山号:東光山(とうこうさん)
院号:真珠院(しんじゅいん)
寺名:龍蓋寺(りゅうがいじ)

すなわち「東光山 真珠院 龍蓋寺」が正式名称となります。
現在は宗教法人としても「岡寺」で登録されており、西国三十三所観音霊場の第七番札所として、また日本最初のやくよけ霊場として広く信仰を集めています。

岡寺公式HPによれば、創建はおよそ1300年前、天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立したとされます。義淵僧正が草壁皇子とともに育った「岡宮」の地を与えられ、そこに寺院を建立したのが始まりです。

宗派の変遷も興味深いものがあります。
創建当初から江戸時代までは、開山の義淵僧正が法相宗の祖であったことから、法相宗・興福寺の末寺でした。室町時代には興福寺別当が岡寺別当を兼務していた時期もあります。
しかし江戸時代に入り、長谷寺第32代化主(住職)法住が岡寺に入山して中興第一世となったことで、以後は長谷寺の末寺となり、真言宗豊山派に属して今日に至っています。

同じ西国三十三所の札所である興福寺・長谷寺と深い関わりを持ち続けてきた歴史は、奈良仏教の重層的な人脈と法統の流れを映し出しています。

3. 開祖・義淵僧正──観音の申し子と日本初の僧正

岡寺を語るうえで避けて通れないのが、開祖・義淵僧正(ぎえんそうじょう)の存在です。

義淵僧正は生年不明、神亀5年(728年)入滅とされる、伝説に満ちた高僧です。岡寺公式HPには、その出生にまつわる次のような伝承が以下のように記されています。

大和国高市郡に、子供に恵まれない夫婦がおりました。彼らは日々観音さまに祈りを捧げていたところ、ある夜、突然子供の泣き声が聞こえてきます。表に出てみると、柴垣の上に白い布に包まれた赤子がおり、驚いて中に連れ入ると、馥郁たる香りがたちまち家中に満ちたといいます。
やがてその噂を聞いた天智天皇は、この子を観音さまの申し子だとして引き取り、岡宮にて草壁皇子(662〜689)とともに育てました。

この子こそが、後の義淵僧正です。
義淵僧正の業績は実に壮大なものでした。

文武3年(699年)にはその優れた学行を賞して稲一万束を賜り、
大宝3年(703年)には日本で初めて「僧正」の位に就いています。
以後、神亀5年(728年)の入滅に至るまでの25年にわたり同職を務め、日本仏教界を牽引しました。

そして特筆すべきは、義淵僧正の門下から輩出された高僧たちです。

東大寺の基を開いた良弁(ろうべん)僧正。
そして菩薩と仰がれた行基。
おおよそ奈良時代の高僧といわれる人は皆、義淵僧正の教えを受けたと伝えられています。

ここで、私自身の巡礼の記憶と重なってきます。

以前、東大寺を参拝した際は、まさに開山・良弁僧正の1250年御遠忌法要というタイミングでした。良弁僧正は相模國の出身とも伝えられ、関東三十六不動巡礼や坂東三十三観音巡礼で良弁僧正ゆかりの場所にも足を運んでいたこともあり、深いご縁を感じたものです。

また、奈良を訪れるたびに近鉄奈良駅前で迎えてくださるのが、行基菩薩の像。行基は河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)の生まれで、民衆への仏教布教が厳しく制限されていた奈良時代に、身分を問わず広く仏法を説き、橋や井戸などの社会事業にも尽力した方です。
聖武天皇から東大寺大仏造立の勧進役を任され、日本初の「大僧正」に任じられました。

良弁も行基も、その師は義淵僧正。
つまり、東大寺の大仏も、奈良の街角で出迎えてくれる行基菩薩の像も、遡ればすべてこの岡寺であり飛鳥から始まっている。
そう気づいたとき、巡礼の旅で積み重ねてきた「点」が、ひとつの「線」として結ばれていくのを感じました。

4. 龍蓋寺の由来──悪龍伝説と「やくよけ信仰」の始まり

仁王門をくぐる前に、まずこの寺の名の由来に触れておきましょう。

なぜ「龍蓋寺」なのか。

飛鳥の地を荒らし農民を苦しめていた悪龍を、義淵僧正がその法力をもって池の中に封じ込め、大きな石で「蓋」をして改心させた。
「龍に蓋をする」から「龍蓋寺」。
その後、悪龍は改心して善龍となり、今でも池に眠ると伝わっています。

岡寺公式HP

境内に現存する「龍蓋池」には、蓋となった要石が今も置かれており、この石を触ると雨が降るという言い伝えが残っています。かつてはこの池の前で請雨(雨乞い)の法要が行われたとも伝わります。

この龍を封じた伝説こそが、岡寺の「やくよけ信仰」の原点です。悪龍がもたらす「厄難」を取り除いたことが、やくよけ霊場としての所以のひとつとなっているのです。

ここでひとつ、仏教的な視点から深掘りしてみたいと思います。

「龍を封じる」という行為は、何を意味するのでしょうか。
仏教において龍(ナーガ)は、水を司り、雨を降らせる力を持つ存在であると同時に、制御されなければ災いをもたらす荒々しいエネルギーの象徴でもあります。釈迦が悟りを開いた際にナーガ王が守護したという説話があるように、龍は「調伏」されて初めて守護神となる。

義淵僧正が龍を殺すのではなく、池に封じ込めて「改心させた」という点が注目すべき点でしょう。これは密教における煩悩の調伏と重なります。
煩悩を断ち切るのではなく、煩悩を転じて菩提(悟り)となす。龍蓋池の物語は、まさにその教えの象徴的な表現と言えるのではないでしょうか。

さらに歴史的な裏付けとして、鎌倉時代初期に成立した歴史物語『水鏡』の記述を見てみましょう。
明日香村観光ポータルサイトによれば、その書き出しは以下の通りです。

「つつしむべき年にて、すぎにしきさらぎの初午の日、龍蓋寺へまうで侍り」とあり、厄年の二月初午の日に岡寺へ参拝するという習慣が、鎌倉時代にはすでに定着していたことがわかります。

このことから、日本最初の厄除け霊場という伝承には、相応の歴史的基盤があると言えるでしょう。

5. 境内を巡る──仁王門から鐘楼、そして龍蓋池へ

それでは、実際の参拝の流れに沿って、境内を歩いてまいりましょう。

〈仁王門〉(重要文化財)
慶長17年(1612年)に再建された仁王門は、埋蔵文化財の宝庫といわれる明日香村において、書院とともに建造物で重要文化財に指定されている貴重な存在です。

門の額には「龍蓋寺」の文字。ここでまず、この寺の正式名称を目にすることになります。寺紋の「下がり藤」も印象的です。

〈手水舎〉
仁王門をくぐると、すぐ左手に手水舎があります。季節によって花手水が施されることでも知られ、参拝者を華やかに迎えてくれます。

参拝させていただいた時は、色とりどりのガラス玉で彩られていました。

〈日限地蔵尊〉
手水舎の近くに佇む日限地蔵尊。日を限って祈願すると願いが叶うとされるお地蔵さまです。

〈鐘楼〉
「厄除鐘」と称される鐘楼は、やくよけ信仰の寺らしい名を持ちます。花と紅葉に彩られた鐘楼の姿は、岡寺が「花の寺」としても親しまれていることを物語っています。境内には約3000株のシャクナゲが植えられ、春には見事な景観を生み出します。

秋も華やかなお花でいっぱいです!

〈龍蓋池〉
そして、龍蓋寺の名の由来となった龍蓋池。義淵僧正が悪龍を封じ込めたという要石が、縄で囲まれた場所に静かに置かれています。池自体は想像よりも小さなものですが、この石の下に龍が今も眠っているという伝承は、1300年もの間、途切れることなく語り継がれてきました。

6. 本堂と御本尊──日本最大の塑像・如意輪観音菩薩坐像

楼門、開山堂を経て、いよいよ本堂へ進みます。

本堂は文化2年(1805年)の再建で、奈良県指定有形文化財。30年以上の歳月をかけて建立されました。堂内には西国三十三所の各札所本尊を模した33体の観音像も祀られています。

そして、内陣の奥に鎮座されるのが、御本尊・如意輪観音菩薩坐像(重要文化財)。

参拝時はちょうど「御本尊お扉特別開扉」の期間で、内内陣の扉越しにそのお姿を間近に拝することができました。手を合わせていると、あたたかさと共に、広大な慈悲の御心がじんわりと伝わってくるようで、一度拝観させていただいたものの、どうしてももう一度、と再び列に並び直したほどでした。

この如意輪観音坐像は、塑像(土で造られた仏像)としては日本最大を誇り、像高は4.85メートルに及びます。奈良時代末の制作とされ、如意輪観音の最古の遺例としても仏教美術史上、極めて重要な存在です。

寺伝によれば、弘法大師・空海が日本・中国・インドの三国の土を以って造立し、それまで本尊とされていた金銅如意輪観世音菩薩半跏思惟像(重要文化財)を胎内に納めて本尊としたと伝わっています。
興福寺の伝えによれば、弘法大師は法相学を義淵僧正→道慈→慶俊・勤操→空海という系統で学ばれたとされ、義淵僧正の高徳を偲び菩提を祈る意味で、岡寺に如意輪観音の塑像大仏を造立安置されたと考えられています。

パンフレットよりお借り

7. 深掘り:「日本三大仏」とは何か──銅・木・塑の三尊

岡寺の御本尊は「日本三大仏」のひとつに数えられますが、ここで注意したいのは、「日本三大仏」という呼称には複数の文脈が存在するということです。

まず、一般的に広く知られる「日本三大仏」について。
✔️ Wikipediaの「日本三大仏」の項によれば、確定しているのは東大寺の奈良の大仏(盧舎那仏)と高徳院の鎌倉大仏の二尊です。
三番目については、かつて方広寺にあった京の大仏(1973年に焼失)が挙げられた江戸時代から、高岡大仏・岐阜大仏・兵庫大仏など諸説があり、定説がないのが実情です。

一方、岡寺が称する「日本三大仏」は、仏像の素材による分類という独自の視点を持ちます。

🔹銅像:東大寺・盧舎那仏(奈良の大仏)
🔹木像:長谷寺・十一面観世音菩薩
🔹塑像:岡寺・如意輪観音菩薩

このように、「銅で造られた最大の仏」「木で造られた最大の仏」「土(塑)で造られた最大の仏」という、素材ごとの日本を代表する大仏を三尊として称しているのです。
明日香村観光ポータルサイトにも、この三者を「日本三大仏」として紹介する記載が確認できます。

興味深いのは、この三寺がいずれも奈良に位置し、しかも岡寺と深い歴史的関係にあるということです。
東大寺は義淵僧正の弟子・良弁が開基し、長谷寺は江戸時代以降の岡寺の本寺にあたります。素材の異なる三尊が、すべて奈良仏教の法脈の中で結ばれているのです。

8. 深掘り:二臂の如意輪観音──なぜ六臂ではないのか

岡寺の如意輪観音が他の多くの如意輪観音像と決定的に異なるのは、「二臂(にひ)」つまり二本の腕で表されている点です。

前回の室生寺の記事(「女人高野・室生寺②」)で詳しく記したように、如意輪観音の像容は、密教の日本への本格的な伝来以後、唐の翻訳僧・金剛智訳『観自在如意輪菩薩瑜伽法要』に基づく六臂の半跏思惟像が主流となりました。六本の腕はそれぞれ思惟手・如意宝珠・念珠・光明山を按ずる手・未開敷蓮華・法輪を持ち、六道すべてに救いの手を差し伸べる慈悲の具現化とされます。

室生寺の灌頂堂に安置された如意輪観音(重要文化財、平安時代中期)も、まさにこの六臂の典型的な姿をしています。「日本三如意輪」に数えられる観心寺・神呪寺の如意輪観音もすべて六臂です。

ところが、岡寺の如意輪観音は二臂。
右手は施無畏印、左手は与願印を結び、結跏趺坐の姿をとっています。岡寺公式HPによれば、台座部の調査結果から、当初は左足を踏み下げて坐る半跏像であったとも推測されています。

この二臂の如意輪観音像は極めて少なく、西国三十三所観音霊場でも七番岡寺と十三番石山寺の御本尊にしか見られない、大変貴重な御姿です。

なぜ二臂なのか。
それは、この像が密教の本格的流入以前──つまり六臂像が主流となる9世紀以前の図像学に基づいて造られた可能性を示唆しています。奈良時代末の制作とされる岡寺本尊は、まさに密教伝来の過渡期に位置する仏像であり、如意輪観音信仰の初期の姿を今に伝える、仏教美術史上きわめて重要な存在なのです。

9. 奥の院へ──石窟弥勒菩薩と如意輪観音の同体思想

本堂での拝観を終え、奥の院方面へ足を進めます。

〈十三重石塔〉
龍蓋池のちょうど上方に位置する、大正15年(1926年)建立の石塔。ここからは龍蓋池を見下ろすことができます。

〈瑠璃井〉
さらに奥へ進むと、釣瓶のある井戸「瑠璃井」があり、お大師さまゆかりの厄除の湧水とされています。周辺にはたくさんの石仏が並び、修行大師像にも手を合わせます。

〈稲荷明神社〉
岡寺の鎮守社で、「如意稲荷社」とも呼ばれます。
寺院を護る鎮守に「如意」の名が冠されていることに、この寺全体が如意輪観音の功徳に包まれていることを改めて感じます。

〈石窟 弥勒菩薩〉
稲荷明神社の右奥、階段を上った先にある石窟に安置された弥勒菩薩像。こちらでも少し列を待って、静かにお勤めさせていただきました。

この弥勒菩薩と岡寺の二臂の如意輪観音に、実は深い思想的な繋がりがあります。

弥勒菩薩は、釈迦入滅後56億7千万年後にこの世に現れる「未来仏」。
それまでの間は兜率天(とそつてん)の摩尼宝殿におられるとされます。

しかし、未来ではなく現世においてはどのようなお働きがあるのか。
そこで浮上するのが、弥勒菩薩と如意輪観音の「同体」思想です。

二臂の如意輪観音と弥勒菩薩の像容が似通っているのは、なぜでしょう。
古来より、弥勒菩薩が現世においては如意輪観音として衆生を救済するという信仰が存在しています。兜率天往生の思想と、如意輪観音による現世利益の信仰は、このようにして結ばれているのです。

このことを考えると、吉野の金峯山寺から如意輪寺へと連なる信仰の流れも想起されます。弥勒信仰と如意輪観音信仰が交差する場所に、いつも深い祈りの歴史が横たわっている。
岡寺の奥の院で石窟の弥勒菩薩に手を合わせたとき、そうした信仰の重層性が、静かにですが確かに、伝わってくるようでした。

〈開山 義淵僧正廟所〉
さらに進むと、開祖・義淵僧正の廟所に至ります。1300年前にこの地で龍を封じ、日本仏教界を牽引した僧の墓所に手を合わせる。有り難い流れを感じます。

〈三重宝塔〉
境内の南西に位置する三重宝塔は、昭和61年(1986年)の再建です。もともと旧境内(現在の治田神社境内)にあった三重塔は、文明4年(1472年)の台風で倒壊し、その部材は仁王門や楼門の再建に転用されました。
弘法大師1150年御遠忌をきっかけに再興の機運が高まり、再建に至ったものです。平成13年(2001年)には扉絵・壁画も完成し、毎年10月第三日曜日の開山忌に公開されます。軒先に荘厳として吊るされた琴は、全国的にも復元されている例のない珍しいものです。

三重宝塔のあたりからは、飛鳥の街並みを一望することができます。美しく懐かしいような風景が広がり、この地が古代日本の政治と文化の中心地であったことを、しみじみと感じさせてくれます。

10. 龍の眠る寺が問いかけるもの──厄除けの本質

岡寺の参拝を終えて、改めて思うことがあります。

「厄除け」という言葉は、現代では多くの場合、悪いことを避ける、災難を遠ざける、というやや受動的な意味合いで捉えられがちです。
しかし、岡寺の創建伝承が伝えるのは、もう少し能動的な姿勢であると感じられます。

義淵僧正は悪龍を退治したのではなく、封じ込めて「改心」させました。
龍は善龍となり、今も池の底で眠っているのです。

これは、厄を「無くす」のではなく、厄と向き合い、その本質を転じていくという行為なのではないでしょうか。

私たちの日常にも、避けたい出来事、向き合いたくない感情、手に負えないと感じるエネルギーがあります。しかし、それらを力づくで排除するのではなく、静かに受け止め、転じていくことができたとき──それこそが本当の意味での「厄除け」なのかもしれません。

現世に対峙する弥勒菩薩さま

室生寺の六臂の如意輪観音さまが、六道すべてに同時に手を差し伸べる「究極の慈悲」の姿であったとすれば、岡寺の二臂の如意輪観音さまは、密教以前のより古い、素朴な信仰の形を今に留めておられます。

施無畏印と与願印──「恐れなくてよい」「願いを叶えよう」という二つのメッセージ

その1点を、1300年もの間、静かに発し続けておられる。その簡素さの中にこそ、深い慈悲が宿っているように感じられてなりません。

そして、義淵僧正のもとで学んだ良弁は東大寺を、行基は民衆の中へと飛び込み、それぞれの場で仏教の種を蒔いていきました。岡寺は、奈良仏教の「源流」ともいうべき場所であり、ここに立つことは、その大きな流れの始まりの地点に触れることでもあるのです。

開山である義淵僧正の廟所から温かな光を感じます。
境内地図をご参照あれ!


では。

いつも、ありがとう^^

@Rico

幸せは自分のために
世界が平和であるため

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