女人高野・室生寺①高野山「女人結界」の真実と、龍神に守られた神仏習合の聖域
@Ricoです。
前回の二つの記事で、室生龍穴神社から吉祥龍穴、そして「而二不二」という言葉が語るものについて考察していきました。
そして、室生川のせせらぎに導かれ、いよいよ室生寺へと向かいます。
奈良県宇陀市の山深い渓谷に、一千二百年の時を刻む古刹──
室生寺。
「女人高野」の名で広く知られるこの寺は、真言宗室生寺派の大本山であり、山号を宀一山(べんいちさん)と号します。

ご本尊は如意輪観音菩薩。
国宝の金堂、本堂(灌頂堂)、そして屋外に立つ五重塔としては日本最小にして法隆寺に次ぐ古塔である五重塔を擁する、まさに仏教美術の宝庫です。
しかし、この寺の本当の偉大さは、建造物や仏像の美しさだけにはとどまりません。
これまで見てきたように、室生寺が立つこの土地そのものが、古代から龍神が棲むと信じられた祈雨の霊地であり、室生龍穴神社という古社と切り離すことのできない深い関係で結ばれているのです。
朱塗りの太鼓橋の前には、あの朱色と青色の龍神さまの提灯が懐かしい表情で迎えてくださいます。

今回の室生寺シリーズ第一回では、「女人高野」とは何か、その歴史的背景を正確に辿りながら、室生寺の創建縁起、そして室生龍穴神社との「不即不離」の関係に迫ります。
実際に2019年と2024年に参拝した体験を交えながら、この聖地の深層を読み解いていこうと思います。
1. 「女人高野」とは何か──高野山の女人禁制と四つの聖地
高野山はなぜ女人禁制だったのか
「女人高野」という言葉を理解するには、まず高野山の歴史を知る必要があります。
弘仁7年(816年)、弘法大師・空海は嵯峨天皇から高野山を下賜され、真言密教の根本道場として開創しました。高野山には開創当初から「女人結界」が定められたと伝わります。
ここで改めて確認しておきたいのは、この「女人結界」の本来の趣旨です。
日本遺産ポータルサイトの公式解説によれば、当初は修行者の堕落を防ぐための「不邪淫戒」という戒めであり、修行者自身を律するものでした。
後世に広まった「女性を穢れと結びつけて聖域への立ち入りを禁じる」という女人禁制の思想とは、本来異なるものだったのです。
しかし実際には、高野山は近代に至るまで女性の参拝を許しませんでした。明治5年(1872年)、太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」が発布されますが、高野山が実際に女人結界を解いたのはさらに遅れて明治後半のことです。
つまり、開創から千年以上にわたり、女性たちは高野山の山内に入ることができなかったのです。
女人堂と女人道──結界の外から祈り続けた女性たち
高野山への参詣道は七つあり、それぞれの道を登りきった女人結界の地点には「女人堂」と呼ばれる籠り堂が建てられました。山内に入れない女性たちは、ここで手を合わせて祈り、夜を明かしたのです。
この七つの女人堂は一本の道で結ばれており、「女人道」と呼ばれました。金剛峯寺を中心に、蓮の花びらにたとえられた八葉蓮華の峰々の尾根伝いを行く、その名からは想像を覆す険しい道です。
女性たちは女人堂だけでなく、この厳しい道を歩きながら、樹間から垣間見える壇上伽藍や奥之院に向かって手を合わせていました。

現存する唯一の女人堂が、不動坂口女人堂です。

ここには延享2年(1745年)、江戸の元飯田町の「横山たけ」という女性が、亡夫の供養のために参籠した際に夢に地蔵菩薩が現れたことから造立した、通称「お竹地蔵尊」が今も立っています。
ひとりの女性の、夫への想い。それが石となって、今もそこに在る。
祈りとはそういうものなのだと、この逸話は静かに教えてくれます。

四つの「女人高野」
峠を越え、山を登る厳しい参詣が叶わなかった女性たちは、高野山の麓や街道沿いの寺院で弘法大師との縁を結びました。
こうして「女人高野」と呼ばれるようになった四つの聖地があります。
令和2年(2020年)、文化庁はこれらを「女性とともに今に息づく女人高野 ~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~」として日本遺産に認定しました。
<四つの女人高野>
✔️ 宀一山 室生寺(奈良県宇陀市)は、江戸時代に五代将軍・徳川綱吉の母である桂昌院の寄進によって堂塔を修復したことから、「女人高野」と称されるようになりました。伊勢本街道に近いこの山寺は、お伊勢参りと兼ねて女性たちが足を運ぶ道場でもあったのです。
✔️ 天野山 金剛寺(大阪府河内長野市)は、後白河院の妹・八条女院の祈願所となり、八条女院に仕えていた二人の姉妹が出家して寺主となったことから、女人高野と呼ばれました。
✔️ 万年山 慈尊院(和歌山県九度山町)は、空海の母・玉依御前が滞在し、没後に本尊の弥勒菩薩に化身したという信仰から、女人高野の名を得ています。
✔️ 不動坂口 女人堂(和歌山県高野町)は、高野七口に建てられた七つの女人堂のうち現存する唯一のお堂です。
この四つの聖地には、それぞれ異なる物語があります。しかし共通しているのは、いずれも「女性の祈りを受け止めた場所」であるということです。
女人高野とは、単に「女性が参拝できた寺」という意味ではなく、千年にわたって閉ざされた結界の外で、それでもなお祈り続けた女性たちの声を聴き続けた場所、それが女人高野なのです。

2. 室生寺の創建縁起──龍穴の祈りから始まった寺
室生の地の原始的な霊力
室生寺の創建を理解するには、まず「室生」という土地そのものを知らなければなりません。
奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の一帯は、太古の火山活動によって形成された幽邃な場所です。
「室生」は「室」「牟漏」とも書き、いずれも「ムロ」と読ませます。
「ムロ」とは「ミムロ」、すなわち神の坐ます山のことで、大和で最も知られたミムロ(三諸・みもろ)の山に美しい円錐形の三輪山があります。
室生山もまた三輪山よりやや切り立った円錐形の神山であり、火山性地形のために奇岩や洞穴が多く存在します。その中でも最も神聖視されたのが、室生川上流に位置する洞穴、すなわち「龍穴」でした。
ここは龍神の住み家として古代から信仰を集め、祈雨や止雨の霊地とみなされ、朝廷による奉幣も行われたとされています。
つまり、室生寺よりも先に、龍穴への信仰があった。寺はその霊地に後から建てられたものなのです。

根本史料『宀一山年分度者奏状』が伝える創建
室生寺の創建にかかわる根本史料として、『宀一山年分度者奏状(べんいちさん ねんぶんどしゃ そうじょう)』という文書が現存しています。承平7年(937年)の作成ですが、南北朝時代の写本が神奈川県立金沢文庫に所蔵されています。
この文書によれば、以下のような創建を確認することができます。
奈良時代末期の宝亀年間(770年~781年)、時の皇太子であった山部親王(のちの桓武天皇)が病を得た際、浄行僧(行いの正しい僧)5名を室生山に派遣して延寿法を修させたところ、効験があったとされます。
その後、興福寺の高僧・賢璟(けんきょう、714年~793年)が皇太子(あるいは即位後の桓武天皇)の命を受け、室生山に寺を建立しました。
なお、宝亀年間に賢璟はすでに60代であり、彼の在世中にどこまで伽藍が整っていたかは定かではないですが、室生寺の実質的な創建者は次代の修円(771年~835年)であろうと考えられています。修円は興福寺別当を務めるとともに、日本天台宗の宗祖・最澄とも交流がありました。
ここで重要なのは、皇太子の病気平癒のために僧が派遣された先が「室生山」であったという事実です。この地がもともと龍穴の霊地として朝廷にまで知られた祈りの場所であったからこそ、延寿法の修行地として選ばれたのでしょう。
室生寺は「法相宗の別院」から「真言宗の大本山」へ
一般には「室生寺は空海が開いた真言宗の寺」と理解されがちですが、これは正確ではありません。

室生寺は平安時代を通じて興福寺の別院としての性格が強く、俗世を離れた山林修行の場であり、諸宗の学問道場でもありました。修円の在世中には空海の高弟である真泰が入山し、天台宗の学僧・円修や空海の弟子とされる堅慧も入っています。つまり初期の室生寺は、法相・天台・真言など、特定の一宗に属さない複合的な性格を持っていたのです。
中世以降は密教色を強めますが、なお興福寺の末寺でした。
興福寺の傘下を離れ、真言宗の寺院となるのは江戸時代の元禄7年(1694年)、護持院隆光の拝領によってです。翌年、五代将軍・徳川綱吉の母である桂昌院が二千両を寄進し、堂塔の大修理が行われました。
記録に残る最初の女人参詣は1450年、九条家・不断光院の尼僧衆によるものですが、それ以前から女性の参詣は行われていた可能性が高いとされています。「女人高野」の名が広く知られるようになったのは、桂昌院の寄進以降のことです。
この歴史を踏まえると、室生寺は一朝一夕にできた寺ではないことがわかります。龍穴への原始的な信仰があり、皇太子の病気平癒祈願があり、興福寺の学問道場があり、密教化が進み、そして桂昌院の庇護を経て「女人高野」となった。
幾層にも重なる歴史の地層の上に、今の室生寺は立っているのです。

3. 参拝の実際──太鼓橋から金堂、バン字池へ
太鼓橋を渡り、仁王門をくぐる
2019年秋、初めて室生寺を訪れました。室生龍穴神社から室生川沿いを1キロメートルほど下った場所に、朱塗りの太鼓橋が迎えてくれます。
入り口には青龍と赤龍の提灯。見事に紅葉した木々が境内への期待を高めます。


〈参拝ポイント〉
・太鼓橋:室生川に架かる朱塗りの橋。四季折々の風景が楽しめる象徴的な場所
・表門:太鼓橋を渡った正面が本坊、右方に進むと仁王門
仁王門は近代の再建ですが、迫力ある二体の仁王像が参拝者を迎えます。ここをくぐると、左手に「バン字池」が見えてきます。
バン字池──金剛界大日如来の種字を映す池
この池は、その形が梵字の「バン(वं)」のようであることから名づけられました。「バン」は金剛界大日如来の種字(しゅじ)です。
(密教における金剛界大日如来は、智慧の光をもって一切を照らす仏)
参拝の始まりに、智慧の象徴たる種字の池が配されていることに、この伽藍設計の深い意図を感じます。

バン字池の先、向かって左手には弁財天社があります。鎧坂の脇にひっそりと建つ小さな社ですが、ここにもまた水の神の気配が漂っています。

〈参拝ポイント〉
・バン字池:金剛界大日如来の種字「バン」を象った池
・弁財天社:鎧坂の脇に位置する弁天さま
鎧坂を上り、国宝・金堂へ
仁王門から最初の急な石段を上ります。この石段は「鎧坂(よろいざか)」と呼ばれ、上がるごとに国宝・金堂の杮葺き(こけらぶき)寄棟造りの屋根が次第に姿を現します。

金堂は平安時代前期(9世紀後半)の建立で、斜面に張り出した「懸造り」の構造を持つ山岳寺院ならではの建築です。
堂内には、須弥壇上に横一列に五体の仏像が安置されています。
※2024年の参拝時には、金堂内には三体と十二神将の半数安置、二体(十一面観世音菩薩・地蔵菩薩立像)と十二神将の半数は宝物殿での拝観となっていました。

▶︎中尊 釈迦如来立像(国宝)
像高237.7センチ。カヤ材の一木造。光背に七仏薬師が描かれていることから、本来は薬師如来として造立されたものと考えられています。いわゆる「板光背(いたこうはい)」を負う点が特色で、平安時代の絵画資料としても貴重です。
▶︎十一面観音菩薩立像(国宝)
像高195.1センチ。中尊とともに「室生寺様」と称される独特の作風を示します。※現在は寳物殿に移されています。
▶︎文殊菩薩立像(重要文化財)
伝空海作。平安時代。
▶︎薬師如来立像(重要文化財)
伝空海作。平安時代。
▶︎地蔵菩薩立像(重要文化財)
平安時代。※現在は寳物殿に安置。
さらに、これら五尊の手前には鎌倉時代作の十二神将立像(重要文化財)が立ち並びます。
金堂の来迎壁(須弥壇の背後の壁)中央には、国宝「伝帝釈天曼荼羅」が描かれています。9世紀後半頃の作とされ、当該時期の数少ない絵画作品の現存例として極めて貴重なものです。
※現在は、金堂から宝物館での拝観へと変更されています。
また、蔵王権現が客物としてもお祀りされているのも見逃せません。
蔵王権現は日本独自の神仏習合神。釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三者が習合した権現(=仮の姿)として役小角が感得したとされます。
室生寺が「宀一山縁起」において役小角創建とも伝わることと、この蔵王権現の存在は深く連動しており、まさに、吉野・金峯山寺の蔵王権現信仰との繋がりを感じさせるものでもあります。
〈参拝ポイント〉
・鎧坂:金堂へ至る急な石段
・金堂(国宝):平安前期の懸造り建築。五尊と十二神将を安置
※現在は宝物殿にて拝観できるもの
・伝帝釈天曼荼羅(国宝):来迎壁に描かれた9世紀の壁画
・十一面観音菩薩立像
・地蔵菩薩立像

(地蔵菩薩さまの後背と一緒に写真を撮ることができました)
弥勒堂──釈迦如来坐像の翻波式衣文
金堂前庭の左手に弥勒堂(重要文化財)があります。鎌倉時代前期の建築で、江戸時代に大幅な改造を受けています。

御本尊は弥勒菩薩立像(重要文化財)。
カヤの一木造による小像で、両手・天衣・瓔珞まですべて一材から刻まれた壇像風の作品です。
かつてこの堂には客仏として釈迦如来坐像(国宝)が安置されていました。現在は寳物殿に移されていますが、この像の最大の特徴は「翻波式衣文」です。太く丸みのある衣文と細く鋭い衣文を交互に刻む技法で、平安前期彫刻の特色ですが、本像のように全面に翻波式衣文を駆使した作品は珍しいとされます。
また弥勒堂には、文化財未指定ながら神変大菩薩(役小角)像も安置されており、室生の山岳信仰の色合いが感じられます。
〈参拝ポイント〉
・弥勒堂(重要文化財):興福寺の伝法院を移設したと伝わる
・弥勒菩薩立像(重要文化財):カヤの一木造。弥勒堂の御本尊
・釈迦如来坐像(国宝):翻波式衣文の傑作。現在は寳物殿に安置
・神変大菩薩(役小角)像:山岳信仰の証
4. 境内の奥へ──天神社の存在が示すもの
初参拝の時には気づかなかった場所、それが「天神社」です。
※正しくは、参拝はしていたけれど、現場で深く立ち止まることがなかった、ということになります。
2024年の参拝で、意味もなく惹かれてゆっくりと手を合わせ、そこに坐す石像とともに、室生での大きな意味に気づくきっかけをいただく場所となります。
金堂の脇にひっそりと立つ天神社
金堂の近くに、天神社という小さな社(やしろ)があります。

拝殿を備えた神社が仏教寺院の境内に立っている。これは神仏習合の名残で見られる景色ですが、室生寺の天神社には、一般的な鎮守社とは異なる特別な意味があります。
毎年10月に行われる室生龍穴神社の秋例祭(龍穴祭)において、御渡り(おわたり)の出発地点がこの天神社なのです。
宇陀市観光協会の記録によれば、秋例祭は以下のように執り行われます。
✔️ まず10月初旬に、龍穴神社にて勧請縄(小)を作り、室生寺内天神社にて祭典が行われます。
✔️ 次の週に勧請縄(大)を作り、川沿いにて祭典と宵宮祭。
✔️ そして例祭当日、御渡りが室生寺を出発し、龍穴神社にて祭典が行われます。
✔️ その後、室生龍穴太鼓「龍神」が奏でられ、奈良県指定無形民俗文化財である獅子舞(室生の獅子神楽)が奉納されるのです。
御幣と鈴を持った雄獅子と雌獅子の二頭が舞うこの神楽は、五穀豊穣と無病息災を祈る祭礼として、室生神楽保存会によって継承されています。

(この方角に拝するということは、龍穴神社を拝していることになります)
軍荼利明王──その意味とは
拝殿の左脇には、軍荼利明王の石像が鎮座されます。
この軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)の密教的位置とはどのようなものなのでしょうか。
軍荼利明王は、宝生如来(五仏の一柱)の教令輪身として八大明王に数えられます。「甘露(アムリタ)を流す者」という意味の名を持ち、無量の寿命と福徳を与えるとされ、10本の腕(一般的な8本腕ではなく)という珍しい像容として表現されるのが特徴です。
10本の腕は、十波羅蜜(悟りへの10の修行)や、十方向(あらゆる空間)への守護を意味すると解釈されます。
さらに、その手足には「蛇」が巻き付いています。密教において蛇は、煩悩の象徴であると同時に、強大な生命エネルギー(クンダリニー)の象徴でもあります。軍荼利明王は、この荒ぶるエネルギーを制御し、清浄な「水(甘露)」へと変換する力を持っているのです。
つまりは、龍神の力を「仏の知恵」で濾過するとも考えられます。
室生龍穴神社に祀られる高龗神は、強大な水の神であり、龍神です。龍神の力は恵みの雨をもたらすと同時に、一歩間違えれば洪水や干害を引き起こす荒ぶる自然そのものです。
密教的視点では、この「荒ぶる龍の力」を「慈悲の甘露」へと変換する役割を軍荼利明王が担っているともいえるでしょう。

「御渡り」が意味すること──神と仏の千年の契り
この秋例祭の構造は、非常に重要な意味を持っています。
室生寺の境内にある天神社から御幣をかかげて出発し、室生龍穴神社まで渡御する。つまり、仏の領域(室生寺)から神の領域(龍穴神社)へと、龍神の代理(御幣)が移動するのです。
弘法大師の代理(住職)が龍王の代理(当屋)を三々九度の杯で迎えるという儀礼が、この天神社祠前で行われる。
これは「仏(空海・密教)が神(龍神・龍穴神社)を迎え入れる」という神仏習合の構造を典礼として今に伝える貴重な事例と捉えられる。
これは、明治の神仏分離令以降もなお、室生寺と龍穴神社が一体の信仰圏として機能し続けていることの証です。
多くの神社仏閣では、明治の分離令によって神と仏が明確に切り離されました。しかし室生の地では、寺の中に神社があり、神社の祭りが寺から始まるという古来の形が、今なお生き続けているのです。
また、天神社の傍にはひっそりと「龍縄(りゅうじょう)」が置かれています。これは龍が天から舞い降りる際の依り代を表したもの。室生龍穴神社にも同様の龍縄があり、両者は一対の関係として対応しています。
室生寺と龍穴神社。それは「不即不離」、すなわち一つではないが離れることもできない関係です。
龍穴の祈りが寺の創建を生み、寺の祭礼が龍穴の神社に還る。この千年の循環こそが、室生という土地の信仰の本質なのです。
本地垂迹説と室生の地
この「不即不離」背景には「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」という思想があります。日本の神々は、仏が衆生を救うために「権(かり)の姿」で現れたものであるという考え方です。
室生において、龍神(高龗神)の本地仏は「如意輪観音」や「善女龍王」と同一視されました。龍穴という自然のエネルギー体に、観音の慈悲という仏教的意味が与えられることで、この地は唯一無二の「龍華(りゅうげ)の浄土」となったのです。

5. 龍穴神社との関係を深掘りする──創建以前からの聖地
龍穴神社の概要
室生龍穴神社の概要は、既に記事にしてありますのでそちらに譲るとして、ここでは室生に残された「九穴八海・七つ井戸」の伝説についてご紹介していきます。

「室生」の信仰圏──九穴八海の伝説
室生のエリアには「九穴八海」という伝説が残されています。
9つの穴と8つの海(池)があり、これらは龍神が住む場所とされてきました。このような龍穴信仰の広がりの中に室生寺は位置しており、寺は龍神信仰の「聖域の一部」として建立されたのだと理解することができます。
「九穴八海」:室生に伝わる名所旧跡をまとめた呼び名です。
▪️九穴は、持宝吉祥龍穴・妙吉祥龍穴・沙羅吉祥龍穴・鬼の岩屋・仙人の岩屋・護摩の岩屋・天の岩戸・世渡の岩戸・軍荼利の岩屋。
▪️八海は、爪出が渕・毒魔渕・穴の渕・悪龍が渕・袈裟の渕・龍王の御池・鏡の御池・衣の御池。
▪️七つ井戸とは、弘法大師空海が不便だった人々のために錫杖で水源を示して、村人が井戸を作ったものです。
室生寺の五重塔の相輪にも、この龍神信仰は込められています。
通常の五重塔では最上部に「水煙」という飾りが付きますが、室生寺の五重塔では水煙の代わりに「宝瓶(ほうびょう)」という壺状のものがあり、その上に八角形の「宝蓋(ほうがい)」という傘状のものが乗っています。

寺伝によれば、創建にかかわった僧・修円がこの宝瓶に室生の龍神を封じ込めたとされます。網代座主も「龍神信仰が込められているのだと思います」と語っています。(奈良県「祈りの回廊」特別講話より)
水の器と傘。それは龍神を守り、龍神と共にある塔の姿。五重塔のてっぺんに龍神が棲んでいる。この事実を知ると、見上げる五重塔の姿が全く違って見えてくるのです。
6. 深掘りの視点──「寺から始まる神社の祭り」が教えてくれること
室生寺と龍穴神社の関係は、日本の神仏関係の原型を見せてくれます。
一般的に、神仏習合は「もともと神社があった場所に仏教が入り込んだ」と理解されがちです。しかし室生の場合、龍穴への原始信仰、寺院の建立、神社の整備、秋例祭の成立という流れの中で、神と仏は最初から渾然一体だったことがわかります。
本地垂迹説では、日本の神々は仏が衆生を救うために仮に現れた姿であるとされました。しかし室生の地を歩いていると、そうした教義以前に、この山の水と岩と木々そのものが信仰の対象であり、そこに仏の名が与えられ、神の名が与えられてきたのだと感じます。

2019年、初めて室生寺を訪れた際、太鼓橋から仁王門、金堂、弥勒堂、灌頂堂を経て五重塔に至るまでの道のりの中で最も強く感じたのは、「この寺は山そのものである」ということでした。
室生川の流れ、苔むした石段、樹齢数百年の杉、そして龍穴の気配。建物も仏像も素晴らしいけれど、それらを包み込んでいる「場」の力が圧倒的なのです。
2024年の再訪では、金堂の奥深くで蔵王権現さまと対面する機会がありました。その迫力に圧倒されたのと、やはり奈良の原点の「蔵王権現さま」にお会いできたことも室生と吉野を結ぶ信仰圏を感じる瞬間となりました。
室生寺が「女人高野」として女性たちの祈りを受け止め続けることができたのは、この土地そのものが持つ包容力、龍神が守る水の聖地としての根源的な霊力があったからではないでしょうか。
女人禁制の高野山が「閉じた聖地」だったとすれば、室生寺は「開かれた聖地」でした。そしてその開かれた力の源泉は、龍穴の地に流れ続ける水にあったのだと考えています。
まとめ:室生寺シリーズ第一回を終えて
今回の記事では、室生寺の「女人高野」としての歴史的位置づけ、創建縁起、そして龍穴神社との不即不離の関係を見てきました。
室生寺は、龍穴信仰という土地の原始的な霊力の上に建てられた寺であり、千年以上にわたって神と仏が一体となった祈りの場として存在し続けています。太鼓橋を渡り、仁王門をくぐり、バン字池のほとりに立ったとき、あなたはこの山の記憶の中に入っていくことになります。
次回は本堂(灌頂堂)の如意輪観音菩薩を中心に、室生寺の仏教美術の核心と五重塔以降の話に迫っていきますね。

では。
いつも、ありがとう^^
@Rico
幸せは自分のために
世界が平和であるために
