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長谷寺【前編】|結縁の紐と西国発願の地──長谷の観音と三輪の大神の深層

@Ricoです。

本日は旧暦の元旦。
そんな区切りの日に「西国三十三所巡礼」のはじまりを誓った「奈良・長谷寺」の話をお伝えしていこうと思います。
(日食の影響は、半年ほどとも言われていますので、大きな流れですね)

今回の巡礼記事の舞台は、奈良県桜井市初瀬。
真言宗豊山派の総本山にして、西国三十三所第八番札所──長谷寺です。

「花の御寺」として知られるこの古刹は、万葉の時代から「こもりくの泊瀬」と詠われた聖なる山懐に抱かれています。 しかし今回最も伝えたいのは、花の美しさだけではありません。

長谷寺のご本尊・十一面観世音菩薩は、他の十一面観音とは明らかに異なるお姿をしています。
右手に地蔵菩薩の持物である錫杖を執り、蓮華座ではなく方形の大磐石の上にお立ちになる。そしてその両脇に侍すのは、天照大神の化身とされる雨宝童子と、雷神・武御雷に重ねられる難陀龍王。

この三尊の構成を紐解くと、長谷の観音信仰の奥に、大神神社(三輪明神)を核とした日本古来の神仏習合の深層が見えてきます。

なぜ、この地で西国巡礼を発願することになったのか。
長谷の観音と三輪の大神は、どのような関係で結ばれているのか。

今回は前編として、長谷寺参拝の実際の流れに沿いながら、その深層に迫ります。

長谷寺の御由緒──二つの起点と「初瀬」という霊地

まず、長谷寺の成り立ちを押さえておきましょう。

長谷寺の歴史には、二つの起点があります。

一つ目は、朱鳥元年(686年)。道明上人が天武天皇のおんために銅板法華説相図(千仏多宝仏塔、現・国宝)を初瀬山の西の岡に安置したこと。
これが長谷寺創建の原点とされています。

二つ目は、神亀四年(727年)。徳道上人が聖武天皇の勅を奉じて、東の岡(現在の本堂の位置)に十一面観世音菩薩を祀ったこと。
ここから長谷寺は観音信仰の道場としての歩みを始めます。

この徳道上人こそが、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖です。長谷寺が「西国三十三所の根本霊場」と呼ばれるゆえんは、まさにここにあります。

そして、初瀬(泊瀬)という地名そのものが、古代においては深い霊性を湛えていました。

万葉集には「こもりくの泊瀬の山」と詠まれ、三方を山に囲まれたこの谷あいは、古くから霊力の籠もる場所として畏怖と崇敬の対象でした。

海柘榴市(つばいち)は大和川を通じて難波と結ばれる水運の要衝であり、六世紀半ばには大陸からの仏教がこの地に伝来したとされます。東へは初瀬谷を抜けて伊勢に通じ、まさに大和の東の入口として、神仏の交錯する要の地であったのです。

『源氏物語』にも「仏の御中には初瀬なむ 日本の中にはあらたなる験あらはしたまふと 唐土にだに聞こえあむなり」と記され、長谷の観音の霊験は中国にまで聞こえていた、と語られています。

この霊地・初瀬に立つ観音──その存在の奥に何が秘められているのかを、これから実際に参拝した流れに沿って見ていきましょう。

長谷寺駅から歩いて向かいます。
その途中で、不思議な出会いから、なぜか長谷寺から駅までの近道を教えていただくことに・・・
これが、後編の有り難さへも繋がっていきます。

長谷寺への道──偶然の出会いと門前の神々

近鉄長谷寺駅に降り立ち、まず長谷寺への道を確認します。

実はこの日、駅前でたまたま出会った方に近道を教えていただくという、ありがたい出来事がありました。旅先での偶然の出会いが道を拓いてくれる。巡礼とはそういうものかもしれません。見知らぬ土地で差し出される親切は、その場所に参拝する前に「ご縁」という安心感を与えてくれます。

参道へ向かう道を歩きながら門前町へ向かうと、初瀬川沿いに旧伊勢本街道の面影が残る古い町並みが続きます。そしてこの道すがら、長谷寺に到着する前に出会った二つの聖地が、後に深い意味を持つことになります。

白鬚神社──初瀬の古き守り神

門前町の手前で、まず白鬚神社に出会いました。

白鬚神社は全国各地に鎮座する猿田彦命系の古社であり、「道ひらき」の神として知られています。初瀬という交通の要衝に白鬚の神がお座りになっていること自体が、この地が古来より人と神が行き交う「道」の交差点であったことを物語っています。

長谷寺参拝の前に道ひらきの神にご挨拶できたこと。これもまた、偶然の出会いが導いてくれた「ご縁」でした。

中之橋天満神社と中之橋詰御旅所──道真公が初めて神として顕現された地

白鬚神社の先、門前町の参道沿いに、中之橋天満神社と中之橋詰御旅所があります。

この場所の由緒を記した案内板を読み、思わず足が止まりました。

天慶九年(946年)九月二十日、菅原道真公が初めて神として顕現され、初瀬川(この社の下を流れる川)で禊をされた後、腰をかけてお休みになられた場所──それがこの御旅所なのです。

道真公はその後、與喜山中腹の黒松の大木のところに鎮座され、與喜天満神社の御祭神となりました。
「良き地」──瀧蔵権現が道真公の神霊にそう告げたことから「與喜」の名が生まれたと伝えられています。

ここで注目したいのは、中之橋天満神社が與喜天満神社の御分社であり、その御祭神もまた菅原道真公であるということです。案内板にはさらに驚くべき記述がありました。

與喜山は天照大神が日本で初めて降臨された地であるとされ、神奈備(かんなび)として国の天然記念物に指定されています。
そしてこの地には十一面観音が彫られた三燈籠があり、天満神社は長谷寺の鎮守聖廟でもある、と。

天照大神の降臨地。
十一面観音。
長谷寺の鎮守。

これらのキーワードが一つの場所に凝縮されているのです。
長谷寺の本堂に祀られる三尊──十一面観音の脇侍として天照大神の化身・雨宝童子が侍す理由が、まさにこの地の由緒に根ざしていることがわかります。

つまり、長谷寺に到着する前から、すでに「初瀬の信仰世界」は始まっているのです。門前を歩く道そのものが、神と仏が交わる聖域への参入の道として。
白鬚神社で道をひらき、中之橋で天神さま禊の地をお参りし、そして長谷寺へ──。この流れを知って歩くと、長谷寺参拝の奥行きがまったく変わってきます。

菅原道真公と初瀬の関係については、後編の與喜天満神社参拝の記事でさらに深掘りします。道真公の先祖・野見宿禰がこの初瀬の出雲の出身であること、そして道真公が「怨霊」から「天神さま」へと昇華した物語と、初瀬の地が持つ「鎮魂」の力との響き合いについて──。

参拝の始まり──門前の塔頭と普門院不動明王

近鉄長谷寺駅から門前町を歩いて長谷寺へ向かうと、初瀬川沿いに旧伊勢本街道の面影が残る古い町並みが続きます。

境内に入る手前、右手に秋葉山三尺坊大権現がお祀りされています。火伏せの守護神として知られる秋葉権現がこの地にもいらっしゃることに、長谷寺と修験道の深い繋がりを感じます。

さらに進むと、長谷寺塔頭の普門院。こちらには不動明王が安置されています。
この不動明王には注目すべきエピソードがあります。

興教大師覚鑁(かくばん)上人が信貴山毘沙門天の霊告を受けて御衣木を感得し、一刀三礼して彫られた御尊像と伝わります。
覚鑁上人は真言宗中興の祖とも称される高僧であり、豊山派の法脈を考える上で欠かせない存在です。

さらに興味深いのは、この不動明王がかつて三輪山坐大神神社の社僧寺である平等寺にお祀りされてきた、という経緯があることです。

大神神社と長谷寺。
参拝の冒頭から、この二つの聖地の結びつきが示されています。これは偶然ではなく、初瀬の地が三輪山の信仰圏と深く重なっていることの証と言えるでしょう。

仁王門から登廊へ──三九九段の石段が示す「行」の道

入山料を納め、いよいよ仁王門をくぐります。

現在の仁王門は明治十八年(1885年)の再建ですが、平安時代の一条天皇の頃に創建された長谷寺の総門です。入母屋造、本瓦葺の三間一戸の楼門で、掲げられた「長谷寺」の勅額は後陽成天皇の宸筆によるものです。

仁王門の奥に、圧倒的な眺めが広がります。

登廊(のぼりろう)──全長約二百メートル、三九九段の屋根付き石段。長暦三年(1039年)に春日大社の社司・中臣信清が子の病気平癒の御礼として寄進したものが原型とされ、現存するものは近世以降の再建です。上・中・下の三廊に分かれ、天井からは長谷型灯籠が下がります。

この三九九段を一歩一歩登っていくという行為そのものが、すでに参拝の「行」となります。
急ぐのではなく、ひとつひとつの石段を踏み締めて観音さまの元へ向かう。登廊は重要文化財に指定されていますが、その文化財としての価値以上に、参拝者の心身を整えるものとして、見事に機能しているのでしょう。

登廊の左右には塔頭寺院が並び、途中には蔵王堂があります。蔵王堂は慶安三年(1650年)建立の重要文化財。修験道の本尊・蔵王権現をお祀りしており、ここにも長谷寺と山岳信仰の接点が見られます。

さらに登ると、紀貫之の歌碑が目に入ります。

「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」

百人一首にも収められた名歌です。貫之が長谷寺参詣の常宿で詠んだとされるこの歌は、初瀬詣でが平安貴族にとっていかに身近な信仰であったかを物語っています。

登廊の御社──日吉宮・八幡宮・馬頭夫人宮と三百余社

登廊の途中には三つの御社が並びます。

右から、住吉宮、八幡宮、馬頭夫人宮。

この三社の組み合わせに、長谷寺の信仰世界が凝縮されていると感じます。

住吉大神は、伊弉諾尊が黄泉国から帰還して禊を行ったときに生まれた神。底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱は、穢れを祓い清める力そのものを神格化した存在です。航海守護としても知られますが、その本質は「禊」──水による浄化と再生の神です。
初瀬川が流れるこの谷あいの霊地に住吉宮がお祀りされていることは、参拝者がこの聖域に入る前に心身を清める、初瀬川の恵みに手を合わせる、そのような役割を担っているとも読み取れます。

八幡宮は八幡大菩薩──すなわち応神天皇を本地仏・阿弥陀如来の垂迹として祀る、日本を代表する神仏習合の神です。

そして馬頭夫人宮。馬頭夫人(めずぶにん)とは、唐の皇后で、容貌の衰えを嘆いて長谷観音に祈願したところ美しさを取り戻し、その御礼として牡丹の種子を献じたと伝えられる方です。
長谷寺が「花の御寺」として知られる所以──あの境内を彩る牡丹の花の由来が、まさにこの馬頭夫人の伝説にあります。異国の皇后さえも救った観音の霊験が、花となってこの山に根付いている。馬頭夫人宮は、長谷寺独自の護法善神をお祀りする、ここにしかない御社です。

そしてその向かいには三百余社。日本全国の神々をお祀りするこの小さな社は、長谷寺が仏教寺院でありながら、神仏習合の総合的な信仰空間であることを如実に表しています。三百余社もまた慶安三年(1650年)建立の重要文化財です。

本堂と御足まいり──結縁の五色線に導かれて

登廊を上りきり、いよいよ本堂に到着します。

現存の本堂は慶安三年(1650年)、徳川家光の寄進により再建されたもので、国宝に指定されています。正堂(内陣)は間口九間、奥行き五間。その前に礼堂を設け、表は広々とした舞台造り。木造建築物としては東大寺大仏殿、吉野山蔵王堂に次ぐ規模を誇ります。

今回の参拝(2022年)では、弘法大師御生誕千二百五十年記念行事含めて、御本尊大観音の特別拝観が行われていました。
(毎年、春と秋に特別拝観が行われています)

御足まいり──観音さまの御足元に直接手を触れ、ご縁を結ばせていただける特別な拝観です。

このとき、結縁の五色線を左手に結びます。
五色(青・黄・赤・白・黒)は仏教において五智如来を表し、仏の智慧と慈悲を象徴するものです。この五色の紐が観音さまの御手から参拝者の手へと繋がることで、仏と衆生が一本の線で結ばれる。これが「結縁」です。

特別拝観エリアに入ると、独特の木の香りに包まれます。薄暗い堂内を奥へ進むと、十メートルを超える巨大な観音さまの御姿が迫ってきます。

通常は遠くの礼堂から拝するご本尊を、御足まいりでは間近で仰ぎ見ることになります。その圧倒的な存在感。そして御足に手を合わせたとき、像に宿る幾重もの歳月の祈りが伝わってくるような感覚に包まれます。

お像には間違いなく魂が宿り、それは千三百年の歳月を経て、今もなお参拝者に慈悲と大きな御心を伝え続けている。そう実感する瞬間でした。

ご本尊の深層──十一面観音はなぜ錫杖を持ち、磐石に立つのか

ここからが、今回最も伝えたい考察です。

長谷寺のご本尊・十一面観世音菩薩立像は、像高十メートル十八センチ。
日本最大の木造仏像であり、重要文化財に指定されています。現在の御尊像は室町時代の天文七年(1538年)、大仏師運宗らによって造立されたものです。

このご本尊には、他の十一面観音には見られない三つの際立った特徴があります。

一つ、右手に錫杖を持つこと。
二つ、蓮華座ではなく方形の大磐石の上に立つこと。
三つ、脇侍が雨宝童子と難陀龍王であること。

錫杖は本来、地蔵菩薩の持物です。地蔵菩薩は六道輪廻の衆生を救済するため、自ら地獄の底まで下りて行かれるほとけなのです。
長谷寺の十一面観音がその錫杖を手にしているということは、この観音が地蔵菩薩の「衆生済度のために自ら降り立つ」性質を併せ持っていることを意味します。

そしてもう一つ、蓮華座に乗らず磐石に立つという姿。

長谷寺縁起によれば、神亀四年に十一面観音像が完成したとき、徳道上人の夢に神が現れ、「北の山の下の大岩を掘り出し、その上に像を安置せよ」と告げたとされます。そして「方八尺九寸、高さ一尺の自然湧出の盤石の上に立った」と記されています。

蓮華座は浄土の象徴です。蓮華座に乗る仏は、いわば此岸と彼岸の境界の向こう側──清浄な仏国土に住まう存在です。

しかし、長谷の観音は蓮華ではなく、この大地から自然に湧き出た岩の上に立つ。

これは、この観音が浄土に留まる存在ではなく、この大地に足をつけ、この現実世界に降り立った存在であることを示しているのではないでしょうか。錫杖を手に、磐石の上に立つ──それは地蔵のように衆生の苦しみの只中へ行脚する観音の姿です。

このような十一面観音は他に類例がなく、「長谷寺式十一面観音」と呼ばれて全国の長谷信仰の原型となっています。

三尊の構成が語るもの──天照・春日明神、そして三輪の大神

ご本尊の両脇に侍す二尊の存在もまた、きわめて重要です。

向かって左の雨宝童子(重要文化財、天文七年造立)。
正式名は金剛赤精善神雨宝童子。初瀬山を守護する八大童子の一人であり、天照大神が十六歳のとき日向にご降臨された折のお姿とされます。両部神道における神仏習合の象徴的存在であり、伊勢神宮内宮の奥の院・金剛證寺にも祀られています。

向かって右の難陀龍王。
(重要文化財、正和五年〈1316年〉の銘がある鎌倉時代の作)
仏法を守護する龍神であり、千手観音の眷属・二十八部衆の一尊。体に龍を巻き付けたその姿は、雷神・武御雷命(たけみかづちのみこと)に重ねられ、春日明神──すなわち藤原氏の氏神としての性格を帯びます。

この三尊の構成を、あらためて整理してみましょう。

✔️ 中尊の十一面観音──三輪の大神(大物主命)の本地仏。
✔️ 左脇侍の雨宝童子──天照大神の化身。皇室を象徴。
✔️ 右脇侍の難陀龍王──武御雷命・春日明神。藤原氏を象徴。

天照大神と春日明神が、あくまで「脇に侍す」存在として配されているのです。

この構成は、きわめて意味深いものと感じられます。

天照大神は皇室の祖神であり、武御雷命は藤原氏が氏神として仰ぐ春日明神です。日本の政治の主流を成してきた皇室と藤原氏──その守護神が、中央ではなく脇に置かれている。

では、中央に立つ十一面観音は何を体現しているのでしょうか。

長谷寺と大神神社──「三輪の大神」を中心に展開した神仏習合

この問いに答えるためには、長谷寺と大神神社の関係を理解する必要があります。

大神神社(おおみわじんじゃ)は、長谷寺と同じ桜井市に鎮座する日本最古級の神社です。三輪山そのものを御神体とし、本殿を持たない原初的な信仰形態を今に伝えています。
御祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)。『古事記』によれば、大物主神は大国主神の「別の御霊」であり、出雲の国つ神の系譜に連なります。

この大神神社には、中世まで二つの神宮寺がありました。

一つは大御輪寺(だいごりんじ)。
本尊は十一面観音菩薩立像で、大直禰子命のご神像と併せ祀られていました。鎌倉時代に叡尊上人によって大規模な改修がなされ、真言密教の中心仏である大日如来が三輪山の大物主大神と同体であるとする「三輪流神道」がここで発展しました。明治の神仏分離令によりこの十一面観音像は聖林寺に移され、現在は天平仏の傑作として国宝に指定されています。

もう一つは平等寺(白水山平等寺)。
聖徳太子の祈願により建立されたと伝わり、大神神社の神宮寺として広大な伽藍を有していました。こちらのご本尊は地蔵菩薩です。明治の廃仏毀釈で一度は廃寺となりましたが、旧住職や地元有志の尽力により仏像と寺宝が守られ、昭和五十二年(1977年)に曹洞宗寺院として再興されています。

ここで注目すべきは、大神神社の本地仏の構成です。

大御輪寺の本地仏 ── 十一面観音。
平等寺の本地仏 ── 地蔵菩薩。

長谷寺のご本尊は、まさにこの「十一面観音」と「地蔵菩薩」の合体尊なのです。

右手に地蔵の錫杖を持ち、十一面観音として立つ。この御姿は、大神神社の二つの神宮寺の本地仏を一身に体現していると読み解くことができます。

つまり、長谷寺の十一面観音の本質は、三輪の大神──大物主命の仏としての顕現なのでしょう。

国つ神が中心にある──「初瀬の観音」の真の意味

三輪流神道は真言宗が唱えた御流神道(みりゅうしんとう)の一つであり、三輪大神を中心に仏教的な神道が展開していきました。天台宗もまた、山王大宮権現として同じ三輪の神を祀っています。山王神道における山王とは、実は三輪大神に他なりません。

真言も天台も、その神道説の根底に三輪の大神を据えている。

つまるところ、国つ神が中心なのです。

ここで日本神話を振り返ると、国譲り神話において大物主の一族は「敗者」でした。大物主の子・事代主神は海に身を投じ、建御名方神は諏訪の湖水に封じ込められた。天孫族(天照大神の系譜)が「勝者」として大和を治めることになります。

しかし、長谷寺の三尊構成においては、その関係が逆転しています。

勝者であるはずの天照大神(雨宝童子)と武御雷(難陀龍王)が脇に置かれ、敗者であるはずの国つ神系の大物主──その本地仏たる十一面観音が中央に座する。

皇室の祖神さえ脇に置く「初瀬の観音」とは、いったい何ものなのでしょうか。

それは、日本の政治の主流であった皇室や藤原氏ではなく、国つ神系──日本の土着の人々の魂を鎮めるための仏ではないかと考えます。

国譲りで敗れ、荒ぶる無念の魂となった者たちを鎮めるには、神ではなく仏でなくてはならない。しかも、修羅道の衆生を救う十一面観音こそが、その役割を担うにふさわしい。

十一面観音が六道のうち修羅道を担当するとされるのは、仏教の伝統的な教理に基づきます。修羅道とは、争い・闘争・恨みの世界。国譲りという古代最大の政治的敗北によって無念のうちに滅びた一族の魂を救済するには、まさに修羅道の観音である十一面観音こそがふさわしい。

そして、蓮華座に乗らない岩座の観音は、浄土の彼方ではなく、この大地に足をつけた存在です。大地そのものである三輪山を御神体とする大物主の「地の神」としての性格と、見事に響き合っています。

初瀬の観音は、先住民の鎮魂のほとけである──。 そう読み解いたとき、長谷寺という聖地の持つ意味が、まったく新しい光のもとに浮かび上がってきます。

西国巡礼の発願──なぜ、ここで「思い立つ」のか

さて、今回の参拝では、西国三十三所巡礼の発願をいたしました。

長谷寺は西国第八番札所ですから、順番通りであれば八番目に訪れる寺院です。にもかかわらず、ここで発願したのには理由があります。

前述のとおり、長谷寺の開山・徳道上人こそが西国三十三所巡礼の創始者です。徳道上人が病にて仮死状態となった際、冥土で閻魔大王に出会い、「生前の悪い行いによって地獄へ送られるものが多い。観音の霊場を参ることにより功徳が得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受けたと伝えられています。

閻魔大王より起請文と三十三の宝印を授かって現世に戻された徳道上人は、その証を持って人々に観音霊場巡拝を勧めました。上人が極楽往生の通行証となる宝印を配った霊験所や寺院が、後の西国三十三所巡礼地となったのです。

長谷寺は単なる一札所ではなく、西国巡礼そのものの「源泉」です。

参拝時にはこの縁起を詳しくは知りませんでした。しかし、御足まいりで観音さまの御足に触れ、結縁の五色線を左手に結んだとき、自然と「西国を歩こう」という想いが湧き上がってきたのです。

後から御由緒を知り、発願すべくしてこの長谷寺だったのだ、と深く有難い想いになりました。

御詠歌にこうあります。

「いくたびも まいるこころは はつせでら やまもちかいも ふかきたにがわ」

何度お参りしても、初めて訪れたような新鮮な感動がある初瀬寺。
衆生済度のお誓いは、周囲を取り巻く山や谷川のようにとても深いものです──。

この御詠歌の「初めて訪れたような」という感覚こそ、発願の心ではないでしょうか。巡礼とは常に「初心」に立ち返ることであり、長谷寺はその初心が自然と呼び起こされる場なのだと感じます。

三社権現から諸堂参拝へ──本堂裏の聖域を歩く

本堂での参拝と御足まいりを終え、境内の諸堂を巡ります。

まず本堂裏手から山を登ると、三社権現があります。聖武天皇の勅令により徳道上人が創建したとされるこの社には、三つの権現が祀られています。

東社 石蔵権現(本地仏:地蔵菩薩)
中社 瀧蔵権現(本地仏:虚空蔵菩薩)
西社 新宮権現(本地仏:薬師如来)

権現とは「仏が仮の姿(権)で神として現れた(現)」という神仏習合の概念です。
三社権現にはそれぞれ本地仏が定められており、ここでも仏教と神道が渾然一体となった長谷寺の信仰世界が表れています。

特に東社の石蔵権現の本地仏が地蔵菩薩であることは、ご本尊の十一面観音が地蔵の錫杖を持つこととも呼応しており、長谷の信仰における地蔵菩薩と観音菩薩の一体性を補強する重要なものです。

三社権現からさらに登ると、稲荷社があります。そして愛染堂では、愛染明王にご挨拶。

本堂方向に戻ると、地蔵堂が見えてきます。
こちらには曽我地蔵が祀られています。真言宗豊山派の派祖である専誉(せんにょ)上人が、曽我兄弟の弟・五郎時宗の生まれ変わりであるという伝承に基づく名称です。
手前には如意宝珠──地蔵菩薩の持仏で、すべての人々に利益を与える珠が安置されており、参拝者が触れられるようになっています。

道向かいには大黒堂。福寿円満の大黒天をお祀りし、こちらでもナデナデさせていただきます。

弘法大師御影堂と本長谷寺──二つの長谷寺

大黒堂からさらに西へ進むと、弘法大師御影堂があります。
真言宗豊山派の総本山として、弘法大師空海への信仰は長谷寺の根幹を成すものです。

そしてその先に、本長谷寺(もとはせでら)があります。

ここは、天武天皇の勅願により道明上人が精舎を造営した場所──すなわち長谷寺の「最初の場所」です。
ご本尊として安置されているのが、あの銅板法華説相図(国宝)。天武天皇の病気平癒のために鋳造されたものであり、方形の銅板の中央に多宝塔、周囲に三尊仏、千仏などが浮き彫りにされた、飛鳥時代の貴重な遺物です。

長谷寺には「西の岡」の本長谷寺と「東の岡」の現本堂という二つの核があり、それぞれ道明上人と徳道上人という二人の僧によって開かれました。
この二つの岡に挟まれた初瀬山全体が、一つの巨大な信仰空間を形成しているのです。

本長谷寺の近くには五重塔。戦後日本に初めて建てられた五重塔として「昭和の名塔」と呼ばれています。

下山の道で出会うもの──日限地蔵尊と能満院

時間に追われながらの下山でしたが、行きには気づかなかったお堂が目に入ります。

日限(ひぎり)地蔵尊。
日を限って祈願すると願いが叶うとされるお地蔵さまです。壁面に描かれた絵がなんとも美しく、思わず足が止まります。

お隣には不動明王。そしてその奥に能満院。 こちらでもありがたく手を合わせ、登廊を駆け下りて仁王門へ。

最後に仁王門で一礼。

長谷寺は「花の御寺」として四季折々の花々で知られますが、花の美しさの奥に、千三百年の信仰の深みが息づいています。
三輪の大神と長谷の観音、国つ神と仏の結びつき──それを肌で感じることのできる、唯一無二の霊場です。

まとめ──長谷寺が教えてくれること

長谷寺参拝を通じて、あらためて感じたことがあります。

長谷寺のご本尊は、十一面観音でありながら地蔵の性質を持ち、蓮華座ではなく大地の岩の上に立つ。その両脇には皇室と藤原氏の象徴が控えながら、中央には国つ神の本地仏が聳え立つ。

これは、日本の信仰の最も深い層──勝者と敗者、天つ神と国つ神、仏教と神道のすべてを包み込み、鎮め、結ぶ場所として、長谷寺が存在してきたことを示していると感じます。

西国巡礼の発願が自然と湧き上がったのも、この場所の持つ「結びの力」によるものだったのかもしれません。徳道上人が閻魔大王から託された「衆生済度」の願い。
それは千三百年の時を超えて、今もなお参拝者の背中を押し続けています。

御足まいりで触れた観音さまの温もり。
結縁の五色線の重み。
それらは、この大地に根ざした祈りの記憶を、わたしたちの身体に直接刻み込んでくれるものでした。

後編では、長谷寺の門前にある法起院(徳道上人の御廟所)と與喜天満神社を訪ねます。



では。

いつも、ありがとう^^

@Rico

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