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長谷寺【後編】鎮魂と再生の谷・初瀬を歩く──法起院と與喜天満神社|「西国三十三所の原点」と「日本最古の天神信仰〜天照大神降臨の地」

@Ricoです。

前編では、長谷寺参拝の流れに沿いながら、ご本尊・十一面観世音菩薩の三尊構成の深層──大神神社(三輪明神)との信仰的繋がりに迫りました。

続いての後編は、長谷寺参拝の後に訪れた二つの聖地をご紹介いたします。

一つは法起院
西国三十三所観音霊場巡拝の開祖・徳道上人が晩年を過ごし、法起菩薩と化して入寂された場所です。

もう一つは與喜天満神社
日本最古の天神信仰を伝え、天照大神が初めて天上から降臨された聖地とされ、長谷寺の鎮守社として千年以上にわたり初瀬の信仰世界を守り続けてきた神社です。

前編で触れた中之橋天満神社・中之橋詰御旅所──あの門前で出会った道真公顕現の物語の「本質」が、まさにこの與喜天満神社にあります。

長谷寺だけでは見えなかった初瀬の信仰世界の全体像が、この二つの聖地によって完成していくのを感じるでしょう。

長谷寺駅に降り立ち最初に出会った「與喜天満神社 切石御旅所」
惹きつけられる感じがしたのです。

法起院──西国三十三所巡礼「ここからすべてが始まった」

当日長谷寺の参拝を終え、かなり時間が押していました。しかしながら、西国発願したからには必ず参拝しておきたい場所があります。
下山しつつ門前町の参道を戻ると、左手に小さな寺院が見えてきます。

法起院(ほうきいん)。

真言宗豊山派の寺院で、総本山長谷寺の塔頭。
西国三十三所の番外札所です。

「番外」という言葉に、つい見過ごしてしまいそうになりますが、この小さなお寺こそが、西国三十三所巡礼という日本最大の観音霊場巡拝の「原点」と言える場所なのです。

徳道上人とは誰か──巡礼を開いた僧の生涯

法起院の案内板には、徳道上人の生涯が記されています。

徳道上人は、斉明天皇二年(656年)、播磨国揖保郡天田部郷(現在の兵庫県たつの市付近)に生まれました。二十三歳で初瀬の道明上人に師事して仏道を修め、やがて道明上人の跡を継いで長谷寺の開基となります。

前編で述べた通り、長谷寺の歴史には「二つの起点」があります。
道明上人による銅板法華説相図の安置(686年)と、徳道上人による十一面観音の造立(727年)。
長谷寺を「観音の聖地」として確立した方が、この徳道上人です。

そしてその徳道上人に、ある日突然、使命が降りてきます。

閻魔大王からの託宣──西国巡礼誕生の物語

養老二年(718年)の春、徳道上人は病により仮死状態に陥りました。

その冥途の入口で出会ったのが、閻魔大王です。

閻魔大王は上人に告げました。
「世の中の人々は、日々の罪業によって地獄へ送られる者が多すぎる。観音菩薩に有縁の三十三の霊場を巡拝すれば、その功徳によって罪は滅せられる。お前はこの三十三所の巡礼を人々に広めよ」と。

そして閻魔大王は起請文と三十三の宝印を上人に授け、上人は仮死状態から蘇りました。死後七日を経て元の身に蘇るという、観音菩薩の霊験そのものともいえる体験です。

蘇った上人は、託宣の通り三十三所の霊場を定め、人々に観音巡礼を勧めました。しかし、当時の人々はこの話を信じませんでした。

上人は「今はまだ機が熟していない」と悟り、閻魔大王から授かった三十三の宝印を摂津国・中山寺の石棺に納めます。

それから約二百七十年後の永延二年(988年)。
花山法皇がこの宝印を発見し、西国三十三所巡礼を復興させました。現在の西国三十三所は、この花山法皇の中興によって広まったものです。

つまり、西国巡礼には二人の「父」がいるといえます。
種を蒔いた開祖・徳道上人と、その種を花開かせた中興の祖・花山法皇。
法起院は、その「種を蒔いた人」が晩年を過ごした場所です。

法起院の境内──小さな寺に宿る巡礼の原点

境内はコンパクトながら、多くの見どころに満ちています。そして、その小さな境内を参拝すると、巡礼の原点がいかに「個人の祈り」から始まったかを物語っていると感じることでしょう。

御本尊は、徳道上人が自ら刻んだと伝えられる徳道上人坐像。
開山堂である本堂に安置されています。長年の香煙にくすぶった茶褐色のお顔に、上人のお姿が偲ばれます。

この本堂には興味深い特徴があります。
本尊を祀る堂としては珍しく、北面を向いている。これは、長谷寺本堂の十一面観世音菩薩に対面するように位置づけられたためとされています。
師である道明上人が安置した仏に、弟子である徳道上人が永遠に向き合い続けている。その関係性が、建築の向きに刻まれているのです。

本堂の左手には、徳道上人御廟の十三重石塔があります。
上人が晩年、当院の松の木に登って法起菩薩と化し、遷化されたと伝えられています。院名「法起」の由来となるものです。

その松の木に登られたときの「上人沓脱ぎの石」も境内に残されています。この石に触れると願い事が叶うと伝えられ、参拝者が静かに手を添えている姿が見られます。

また、境内には「はがきの木」(タラヨウ)があります。葉の裏に先の尖ったもので文字を書くと黒く浮かび上がることから、郵便ハガキの語源になったともいわれる木です。ここでは葉の裏に願い事を書いて奉納する習わしがあり、高い枝先までびっしりと願いの葉が下がっている光景は、素朴な祈りの美しさに満ちています。

他にも、天竺招来と伝わる仏足石、弁財天堂、馬頭観音、稲荷大明神、地蔵尊、庚申堂など、小さな境内に多くの信仰の要素が凝縮されています。
西国巡礼の番外札所として、巡礼者たちがさまざまな仏菩薩に手を合わせてきた歴史の厚みを感じる空間です。

御詠歌に刻まれた「極楽はここにある」という教え

法起院の御詠歌に目を向けてみます。

極楽は よそにはあらじ わがこころ おなじ蓮の へだてやはある

「極楽はどこか遠い別の世界にあるのではない。この心そのものが蓮の花と同じであり、隔てなどないのだ」──。

この御詠歌は徳道上人自身の作と伝えられています。閻魔大王の冥途から蘇り、人々に巡礼を勧めても受け入れてもらえなかった上人が、晩年にこの小さな庵で詠んだ言葉。

巡礼とは何か。
それは遠い聖地を訪ね歩くことだけではない。自分自身の心の中にある仏性に気づくこと。その気づきの旅が巡礼なのだと、上人は最後に教えてくれています。

西国巡礼を志す方には、ぜひこの法起院を巡礼の序盤に参拝されることをお勧めします。一番札所の青岸渡寺でもなく、結願の華厳寺でもなく、すべての始まりであるこの場所に込められたものを感じていただけるはずです。

法起院から與喜天満神社へ──初瀬川を渡る

法起院を後にし、急いで門前町の参道を戻って初瀬川を渡っていきます。

前編で触れた中之橋天満神社・中之橋詰御旅所のすぐ近く、赤い天神橋を渡ると、深い緑に包まれた與喜山の入口に至ります。

急な石段を登っていくと、両部鳥居の変形(後ろ側にのみ稚児柱がある独特の形式)が迎えてくださいます。
鳥居の脇には「本朝菅廟十霊社随一 與喜天神宮」と刻まれた社号標。

ここから先は、初瀬の信仰世界のもう一つの核となる場所です。

與喜天満神社の御由緒──日本最古の天神信仰

與喜天満神社(よきてんまんじんじゃ)。

御祭神は菅原道真公。旧社格は郷社。

しかし、この神社はいわゆる「学問の神様・天神さん」として知られる一般の天満宮とは、その成り立ちが根本的に異なります。

天慶九年(946年)九月十八日の明け方、初瀬の里に住む修行者・神殿太夫武麿は、夢の中に高貴な老人を見ました。

二日後の九月二十日、夢に見た翁が武麿の自宅前の石の上に座っていました(現在の切石御旅所の地)。翁はそのまま長谷寺へ向かい、初瀬川で禊をし(現在の中之橋詰御旅所の地)、十一面観音を参り、瀧蔵権現に詣でました。

すると急に黒雲が湧き起こり、翁を包みました。
見る間に老人は立派な衣冠束帯姿となり、「私は右大臣正二位天満神社菅原道真」と名乗りました。

瀧蔵権現がこれに応じて「この山は良き地である」と告げ、道真公の神霊は與喜山に鎮座されました。
「良き地」──この言葉から「與喜」の社名が生まれ、天暦二年(948年)に武麿が社殿を建立したのが創祀となります。

ここで重要なのは、道真公が初めて「神として顕現」されたのがこの初瀬の地であるという点でしょう。

菅原道真公は延喜三年(903年)に大宰府で薨去されて以後、怨霊として恐れられ、やがて天神として祀られるようになりますが、その「神としての初顕現」がこの與喜天満神社であるとされています。

つまり、北野天満宮(947年創建)や太宰府天満宮よりも早く、日本最古の天神信仰がここに始まったと伝えられているのです。

道真公と初瀬──なぜこの地に顕現されたのか

では、なぜ道真公は初瀬の地を選んだのでしょうか。

ここに深い因縁があります。

菅原道真公の先祖は、野見宿禰(のみのすくね)。
古事記・日本書紀において相撲の始祖として知られるこの人物は、ここ初瀬の出雲の出身とされています。

野見宿禰はのちに土師氏(はじし)を称し、その子孫が菅原氏となりました。つまり、道真公にとって初瀬は遠祖からの故郷だったのです。

大宰府に左遷され、不遇のうちに生涯を終えた道真公。
その御霊が、「神」として初めてこの世に姿を現す場所として選んだのが、先祖ゆかりの初瀬であった──。
この物語には、怨霊が天神へと昇華していく過程における、根源への回帰という深い意味が読み取れるのではないでしょうか。

前編で述べた
✔️ 長谷寺のご本尊──十一面観音が修羅道(争いと怨念の世界)を司り、政治的敗者の魂を鎮める「鎮魂」の観音であるということ。
そして、ここ「與喜天満神社」の伝承にある
✔️ 政治的に敗れた道真公が、その鎮魂の観音を参拝し、禊を経て神へと昇華したということ。

長谷寺と與喜天満神社の信仰は、この「鎮魂と再生」という一本の糸で結ばれていると感じるのです。

天照大神降臨の聖地──與喜山のもう一つの顔

與喜天満神社が持つもう一つの重要な顔があります。

境内の掲示板および公式パンフレットには、次のように記されています。

「天照大神初降臨の地」
「初瀬総地主神」
「真言宗豊山派総本山 長谷寺鎮守聖廟」

與喜山は、天照大神が日本で初めて天上から降臨された聖地であるとされています。山中には磐座(いわくら)が鎮座し、古くから神奈備(かんなび)として信仰されてきました。
この與喜山の自然林は現在、国の天然記念物「与喜山暖帯林」として指定されています。

前編で長谷寺本堂の三尊構成──十一面観音の脇侍として天照大神の化身・雨宝童子が侍している理由について考察しました。
雨宝童子がなぜ長谷の地にいるのか。その答えのひとつが、まさにこの與喜山にあります。天照大神が最初に降臨されたとされる山を背後に戴く観音堂だからこそ、天照大神の化身が脇侍として侍すのです。

元伊勢「伊豆加志本宮」としての與喜天満神社

また、さらに注目すべき記述があります。

「祝 元伊勢 第三番目 大和国初瀬 伊豆加志本宮」

これは、天照大神が現在の伊勢神宮に鎮座されるまでの長い遍歴──
いわゆる「元伊勢」の行程において、與喜天満神社の鎮座する與喜山が第三番目の奉斎地「伊豆加志本宮(いつかしのもとのみや)」に当たるとする伝承です。

ただし、この点については正確を期しておこうと思います。

この「元伊勢」伝承の典拠は『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』です。同書は伊勢神道の経典「神道五部書」の一つであり、奈良時代の神護景雲二年(768年)に禰宜・五月麻呂の撰と伝えますが、学術的には鎌倉時代中期に伊勢外宮の神主たちによって編纂されたと考えられています。

江戸中期の神道家・吉見幸和は『五部書説辨』において、神道五部書の偽書性を徹底的に批判しました。また近代以降の歴史学においても、『倭姫命世記』に記される元伊勢の遍歴地については、そのすべてが実際の古代祭祀を反映しているとは見なされていません。

一方で、『日本書紀』崇神天皇紀には、豊鍬入姫命が天照大神を「磯堅城の神籬に祀った」という記述があり、大神神社の摂社・檜原神社がその「倭笠縫邑」に比定されています。與喜山がその近隣にあり、古くから神奈備として信仰されていたことは確かです。

つまり、「與喜山=伊豆加志本宮」という比定そのものは『倭姫命世記』に基づく伝承であり、学術的に確定した史実とは言えません。しかし、與喜山が古代から聖なる山として信仰されていたという基層は揺るぎなく、天照大神降臨の伝承が生まれる土壌があったことは十分に理解できます。

神社の公式パンフレットが「元伊勢第三番・伊豆加志本宮」を掲げていること、そして奈良県の観光案内でも「『倭姫命世記』で元伊勢『伊豆加志本宮』と伝わる」と紹介されていることを理解していただければと思います。

伝承の地の候補とされる「長谷山口坐神社」(初瀬川南岸)
長谷山口坐神社も『元伊勢 磯城伊豆加志本宮伝承地域』の石碑を有し、
同じ初瀬地域内に複数の候補地が並存しています。
長谷山口坐神社は「天照大神を奉斎した際の随神(お供の神)を祀った場所」として、
與喜天満神社は「天照大神そのものが降臨した山(與喜山)」として、位置づけられている。
両社とも初瀬の同じ地域にあり、「伊豆加志本宮」の伝承地として重なり合っています。

長谷寺の鎮守社・地主神としての與喜天満神社

與喜天満神社のもう一つの重要な位置づけが、「長谷寺の鎮守社・地主神」という側面です。

公式パンフレットに明記されている通り、與喜天満神社は
「真言宗豊山派総本山 長谷寺鎮守聖廟」です。

日本の古代寺院は、その土地の地主神を鎮守として祀る習わしがありました。東大寺における手向山八幡宮、興福寺における春日大社のように、大寺院には必ずその土地の守護神がいます。

長谷寺にとっての鎮守が、初瀬川を挟んだ向かいの與喜山に鎮座する與喜天満神社なのです。

現在の社殿は文政元年(1818年)に長谷寺によって再建された建物であり、この再建の事実そのものが、長谷寺と與喜天満神社が一体の信仰圏であることを示しています。

法起院の項で述べた通り、法起院の開山堂(本堂)は北面を向いて長谷寺の観音に対面しているのですが、東側にある與喜天満神社に面する鬼瓦は隠されるような造りになっているとされます。これは、天神の力を敬い畏れる心の表れとも読み取れます。

境内の見どころ──瀧蔵権現社と八王子社

與喜天満神社の境内にも、見逃せないお社があります。

本殿の左右には境内社が並びます。
瀧蔵権現社(祭神:速玉命、伊弉諾尊、伊弉冉尊)は、道真公が神として顕現される際に「この山は良き地である」と告げた、あの瀧蔵権現をお祀りしています。

また、八王子社は天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)によって生まれた八柱の神を祀る社で、與喜山中の磐座の上に鎮座しています。磐座信仰と天照大神降臨の伝承が重なる場所です。

公式の御神徳案内によると、主な御利益は以下の通りです。

入試合格・学業成就──菅原道真公の御神徳
大吉福運将来──「吉のお宮」の名にふさわしい開運招福
女性守護・縁結び──源氏物語「玉鬘」ゆかりの信仰
音楽芸能の上達──連歌の聖地としての歴史に基づく

白太夫社では子授け・安産を、
八王子社では家内安全と発展・所願成就を祈願できます。

連歌橋と玉鬘の伝承──文学の聖地としての初瀬

與喜天満神社は、天神信仰の聖地であると同時に、日本文学史に深く刻まれた場所でもあります。

初瀬川沿いには「連歌橋」と呼ばれる朱塗りの橋があります(桜井市公式案内による)。鎌倉時代末期から与喜天満神社で盛んに行われた「天神講連歌会」のために、全国から集まった僧たちがこの橋を渡ったことからその名がつきました。連歌撰集『竹林抄』(宗祇編、1476年成立)にも「初瀬にますは與喜の神垣」という句が収められており、日本文学史に残る連歌の聖地でもあります。

連歌師・真能(能阿弥)は室町将軍に仕えた総合芸術家であり、画・茶・花・香の諸芸の創始者ともされる人物ですが、この能阿弥が與喜天神を深く信仰し、当地で亡くなったと伝えられています。
「わび・さび」の文化を生んだ日本文化の父ともいうべき人が、最期にたどり着いた場所がこの與喜山だったのです。

また、この初瀬は源氏物語「玉鬘」の巻の舞台でもあります。源氏の恋人・夕顔の遺児であった玉鬘は、筑紫国で美しく成長した後、観音の霊験を頼んで長谷寺に参詣。そこで偶然にも乳母の右近と再会を果たします。
與喜天満神社の公式由緒書では、玉鬘は「縁結びと女性の幸福の神」とされ、境内近くの素盞雄神社の上にはかつて玉鬘庵があったことが、本居宣長の『菅笠日記』にも記されています。

更にいえば、能楽とも深い関わりがあります。
能楽師の金春禅竹は著書『明宿集』に、自身の祖先・秦河勝が初瀬川の河上から流れてきた壺にまつわる伝承を記し、與喜天満神社の神主が詠んだ「泊瀬山 谷の埋もれ木 朽ちずして こん春にこそ 花は咲きつげ」という神秘的な和歌を書き留めています。與喜天満神社は、能楽の発祥のひとつの聖地とも考えられているのです。

天神信仰、連歌、源氏物語、能楽──。
初瀬という小さな谷が、日本文化の重層的な交差点であったことが、この與喜天満神社を通じて見えてきます。

與喜山からの眺望──初瀬の信仰世界を一望する

境内から、あるいは與喜山の高みから眺めると、初瀬の谷あいの全景が広がります。長谷寺の本堂を正面に、門前町が細く伸び、初瀬川が流れ、山々が両側から抱くように包んでいる。

「隠国(こもりく)の泊瀬」──万葉集でそう詠まれた通り、この地は山に隠された小さな国のようです。

そしてその小さな国の中心に観音さまがおわし、向かいの山には天照大神と天神さまが鎮座する。

仏と神が、一つの谷を挟んで向かい合い、互いに守り合っている。これが初瀬の信仰世界の全体像です。

現存最古の天神像──正元元年銘の秘宝

與喜天満神社には、学術的にも極めて貴重な宝物が伝わっています。

神社が所蔵する菅公座像(天神坐像)は、像内に「正元元年」(1259年)の墨書銘を持つ、現存する国内最古の天神像の彫刻です。
寄木造の衣冠束帯姿で、「怒り天神」とも呼ばれる引き締めた表情が特徴的とされます。

さらに注目すべきは、像の頭部内に十一面観音鏡像が納入されていること。天神の内に十一面観音が宿る──まさに長谷寺と與喜天満神社の神仏習合を、一体の像の中に体現した存在です。

平成二十三年(2011年)には、奈良国立博物館で「初瀬にいますは与喜の神垣──與喜天満神社の秘宝と神像」と題した特別展が開催され、この天神坐像が初めて一般公開されました。

むすびに──「ここに来れば、すべてが結ばれる」

長谷寺、法起院、與喜天満神社。

この三つの聖地は、初瀬という小さな谷の中で、千年以上にわたり互いを支え合ってきました。

長谷寺の観音は、地蔵の錫杖を持ち、大地の岩の上に立って、この世の苦しみの中にある人々を救い続けている。

法起院の徳道上人は、その観音の功徳を日本中に広めるために巡礼の道を拓き、「極楽はよそにはあらじ、わがこころ」と詠んで入寂された。

そして與喜天満神社の天神さまは、怨霊から神へと昇華する過程で、まずこの初瀬の観音を参り、禊を経て、「良き地」に鎮座された。

すべてが結ばれている。
観音と天神と巡礼と、この土地そのものが持つ「鎮魂と再生」の力が。

初瀬を訪れる際は、長谷寺参拝に留まってしまうのではなく、この初瀬の地を感じる巡礼をしていただきたいと思います。
法起院で巡礼の原点に手を合わせ、天神橋を渡って與喜天満神社に参る。

いにしえの時を超えて、この初瀬の谷を見渡したとき、この地が持つ結びの力の全体像が、きっと見えてくるはずです。
この夕日を拝した時、ある一つの誓いのようなものが心に響いてくるのを感じる瞬間となるでしょう。


では。

いつも、ありがとう^^


@Rico

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世界が平和であるために

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